72
朝の光は、別邸の窓から静かに差し込んでいた。
森の家とは違う、整えられた静寂。埃一つ立たない床と、必要以上に広い机。
ここは休むための場所でありながら、同時に「公の顔」を求められる場所でもある。
その机の上に――
分厚い本が、二冊。
革装丁。背表紙には金文字で、やたらと長い題名が刻まれている。
青司は、椅子に深く腰掛けたまま、その一冊を開いていた。
紙は厚く、文字は細かい。
行間の少ない文章が、延々と続いている。
「……」
数行読んで、青司は静かにページを戻した。
理解できないわけではない。
だが、理解した瞬間に、頭の中で別の疑問が生まれる。
(これ、どこまで覚えろって話なんだ……)
隣では、リオナがもう一冊を前に、眉をひそめていた。
彼女は姿勢こそきれいに保っているが、視線は文字の上をさまよっている。
「……言葉が、全部回りくどい」
ぽつりと漏れた声は、朝の静けさに溶けた。
「“恐れ入りますが”と“差し支えなければ”と“僭越ながら”が、同じ段落に三回も出てくる……」
「削ったら失礼になる、ってやつだろうね」
青司は苦笑する。
だが、ページを閉じることはしなかった。
少し前――
クライヴとクレスから、ほとんど同時に伝えられた言葉が、頭をよぎる。
――「フィオレル様からのご指示です」
――「今後、貴族との折衝の場に同席する可能性があります」
――「最低限の立ち居振る舞いと、言葉遣いは覚えておいてください」
最低限、という言葉が、ここまで重いとは思わなかった。
リオナは、指先でページの端を押さえながら、小さく息を吐く。
「……私たち、いつの間にこんなところまで来たんだろう」
問いかけというより、確認に近い独り言だった。
青司は、少しだけ視線を上げる。
窓の向こうには、街の屋根が整然と並んでいる。
森の木々とは、まるで違う景色。
「肌着、だったはずなんだけどね」
最初は、暑さをしのぐための工夫だった。
使う人の負担を、少しでも減らしたかっただけだ。
それが――
衛兵隊に渡り、清掃局に渡り、行政府に話が上がり、
ついには領主が王都で折衝する話にまでつながった。
そして今、自分たちはこの机の前に座っている。
「逃げ場、ないね」
リオナが苦笑する。
どこか他人事のようでいて、ちゃんと現実を受け止めた声だった。
「森に戻れば、今まで通り……ってわけには、いかないか」
「うん」
青司は頷いた。
「でも、無理に背伸びする必要はない、ってフィオレル様は言ってた」
思い出す。
別邸に移る前、短く交わした言葉。
――「覚えるべきは、形です」
――「中身まで変える必要はありません」
リオナは、その言葉を思い出したのか、少し肩の力を抜いた。
「形、か……」
本に視線を落とし、もう一度ページをめくる。
「……なら、せめて」
「相手を不快にさせない程度には、覚えないとね」
「そうだね」
二人の間に、静かな時間が流れる。
紙をめくる音。
遠くで聞こえる、街の目覚めの気配。
朝の光は、机の上の文字をはっきりと照らしている。
青司は思う。
(また、一段上がったんだな)
望んだわけではない。
だが、避けても通れない段だ。
なら――
足を止めるより、踏みしめていくしかない。
隣で同じ本を読み、同じように頭を抱えている存在がいる。
それだけで、少し心が軽くなる。
青司は、静かにページをめくった。
森に戻るのは、もう少し先。
今はこの場所で、この段階を越える。
そう決めるには、十分すぎるほどの朝だった。
◆
午前の読書会――という名の格闘がひと段落した頃、別邸の空気は少しだけ様変わりした。
執事が静かに扉を開き、女官とメイドが数名、控えめな足取りで入ってくる。
その後ろには、護衛騎士のビリーの姿もあった。
「それでは」
執事が、柔らかい声で切り出す。
「本日は、最低限の立ち居振る舞いと応対について、ご説明を」
青司とリオナは、揃って背筋を伸ばした。
――そこから先は、想像以上に“情報量”が多かった。
歩き方。
立ち止まる位置。
視線を向ける角度。
返答までの間。
相手の身分によって変わる、声の高さと語尾。
「その場合は、一拍置いてから」
「ここでは、即答しない方が無難です」
「沈黙は失礼ではありません。判断を委ねる意思表示になります」
女官の説明は丁寧だが容赦がない。
メイドが実演し、執事が補足し、ビリーが騎士視点での注意点を添える。
「武官相手なら、過度な遠回しは逆効果になることもあります」
「ですが、真正面から断るのも避けるべきですね」
青司は、頷きながらも内心で呻いていた。
(話すより、黙ってる方が難しい……)
リオナの方も似たようなものだった。
表情は崩していないが、指先がわずかにこわばっている。
昼食の時間になり、ようやく椅子に座ることを許される。
テーブルに並んだのは、軽めの食事と――
小さな器に盛られた、透明感のあるゼリー。
「あ……」
リオナの目が、ほんの少しだけ和らぐ。
「気分転換に、とのことです」
執事が微笑んだ。
スプーンを入れると、ぷるりと揺れる。
口に含めば、ひんやりとした甘さが広がった。
「……おいしい」
思わず漏れた声に、青司も頷く。
「頭、使った後には助かるね」
だが、休憩は長く続かない。
午後は、おやつを挟みつつ、再び講義。
今度は想定問答だ。
「もし、この場で条件を曖昧にされた場合」
「即答せず、どう返しますか?」
「……」
二人揃って、言葉に詰まる。
執事は責めない。
ただ、淡々と正解例を示す。
それを聞きながら、青司は思う。
(フィオレル様たちは、これを全部、日常でやってるのか……)
夕方になる頃には、二人とも明らかに疲弊していた。
リオナは椅子の背に、ほんの少しだけ体重を預けている。
青司は、無意識にこめかみを押さえていた。
「……頭、ぱんぱん」
リオナが、小さく呟く。
「同感」
青司は、素直に認めた。
窓の外では、街が夕暮れに染まり始めている。
別邸の中は、相変わらず整然としているが――
二人にとっては、少し息苦しい静けさになりつつあった。
青司は、リオナの方を見る。
「……今日は、ここまでにしようか」
「一回、森に戻って」
リオナは、すぐに頷いた。
「うん」
「このまま覚えようとしても、たぶん入らない」
女官たちも、無理には引き留めなかった。
執事は、穏やかに頭を下げる。
「よろしい判断かと」
「休むことも、準備のうちです」
別邸を出る頃には、空はすっかり夜の色を帯びていた。
街灯の下を並んで歩きながら、二人は自然と肩を並べる。
「……森、静かだよね」
リオナが言う。
「うん」
「たぶん、今はそれが一番必要だ」
学ぶことは、まだ山ほどある。
けれど、全部を一度に抱える必要はない。
今夜は――
森の家で、深く息をする。
そうやって、また一歩ずつ進めばいい。
二人は、同じ歩幅で街を離れた。
◆
森の家に戻ると、昼間の熱を含んでいた空気が、ゆっくりと外へ逃げていった。
扉を閉める音が、思ったよりも柔らかく響く。
青司は、荷を置き、炉に火を入れた。
手順は、もう身体が覚えている。
乾いた枝を組み、火打ち石を鳴らし、炎が安定するまで待つ。
リオナはその間、棚から薬草を選び、小鍋に水を張る。
言葉は、交わさない。
それで困ることは、もうなかった。
湯が温まり、薬草茶の香りが立ちのぼる。
別邸で浴び続けた言葉と視線と気配が、少しずつ剥がれていくのを、青司は感じていた。
卓の前に並んで腰を下ろすと、自然と距離が近くなる。
意識して詰めたわけではない。
ただ、空いた場所に座っただけだ。
茶をひと口飲む。
舌に残るほのかな苦味と、遅れてくる甘み。
青司は、小さく息を吐いた。
(……戻ってきたな)
頭の奥で鳴り続けていた、貴族の言い回しや礼の角度、声の抑え方が、静かになっていく。
ふと、肩に重さを感じた。
リオナだった。
意識せずに寄りかかったらしい。
視線は湯気の向こうに向いたまま、瞼が半分ほど落ちている。
青司は、動かなかった。
動けば、離れてしまう。
そう思ったからではない。
ただ、このままが一番、自然だった。
外では、鳥の声が減り、代わりに虫の音が増えていく。
昼と夜の境目。
森が、ゆっくりと呼吸を変える時間だ。
ランプの灯りが、二人の影を壁に映している。
重なり合って、境目が曖昧だった。
青司は、視線だけでランプを見る。
灯芯を少し下げれば、部屋は暗くなる。
だが、まだ消さない。
リオナの呼吸が、少しだけ深くなった。
完全に眠ってはいない。
けれど、起きているとも言えない。
その曖昧さが、今は心地よかった。
青司は、そっと声を落とす。
「……もう、遅いね」
返事はない。
だが、否定もない。
彼は、片手を伸ばし、ランプの灯りを弱めた。
部屋は、すぐに夜の色に溶け込む。
暗闇の中でも、肩に伝わる温もりは消えない。
考えるべきことは、山ほどある。
街のこと。
商会のこと。
これからのこと。
けれど今は――
青司は、その重さを受け止めたまま、目を閉じた。
ただ、森の夜が深まっていくのを、二人で感じていれば、それでよかった。
**************
会議が終わった後の軍部庁舎は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
石造りの回廊には、外の熱気を遮るひんやりとした空気が溜まり、重い扉の向こうからは、紙をめくる音と低い話し声だけが漏れてくる。
執務室の一角。
正式な会議室ではない、小さな詰所だった。
机の上には街道図と巡回表、被害報告をまとめた束。
そこに、数人の将校が立ったまま集まっている。
「……で、どう見る」
最初に口を開いたのは、年嵩の男だった。
鎧は脱いでいるが、肩口の癖で、それが板金鎧だったことが分かる。
「巡回時間を延ばす、という案自体は珍しくありませんな」
別の男が言う。
「だが、暑さの盛りにやれば、体力の消耗が増す。そこが我々の一番の懸念点です」
「それを承知の上で、だろう」
年嵩の男は地図を指で叩いた。
「「低リスク区画の回数を落とす代わりに、重点区画を厚くする。
理屈としては筋が通っている。よく考えたものだ。
だが――数字を眺めた机上の上では、な。
現場側では、どうだ?」
しばし、沈黙。
若い将校が、報告書を一枚めくった。
「被害件数の推移を見る限り、巡回があるから“起きていない”場所と、もともと“起きにくい”場所は、確かに分かれています」
「補修が進んでいる街道沿いは、盗賊も魔物も出にくい」
「だから、補修予算を前倒しで、か」
別の男が低く笑う。
「外交派側の言い分としては、悪くない。
だが――街道整備は、本来、内政派閥の領域でもありましょうに」
その時、窓際に立っていた男が口を開いた。
「それより――」
声は静かだった。
「気になったのは、装備の話だ」
数人の視線が、そちらに向く。
「名は出なかったが、炎天下で動く者の負担を軽くする装備と言っていなかったか?」
「試験導入済みで、運用上の支障は出ていない、と」
「……ああ」
年嵩の男が頷く。
「衛兵の話だな。最近、あの街の話題をよく耳にするな」
「俺の母と姉が連れ立ってあの街に出かけてたな」
若い将校が続ける。
「驚くほど警備の行き届いた、きれいな街だったとか。愛想のいい警備隊と清掃員だったとか。
しかし、我々ほどの負荷ではない。だが――
それでなお、隊の動きが整って見えた、というのは無視できん」
言葉を切り、少し考える。
「巡回時間が延びれば、話は別になります」
机の上に、巡回表が広げられる。
「今の行程でも、真夏はぎりぎりだ」
「これ以上延ばすなら、休憩の取り方だけでは足りない」
「水だけではな。水や美味いものがあればと思ってたが……」
誰かが呟いた。
一瞬、空気が重くなる。
「……装備で解決できる部分があるなら」
窓際の男が言った。
「検討しない理由はない」
「だが、国軍装備となれば話は違う」
年嵩の男は慎重だった。
「予算、規格、供給。街の試みを、そのまま持ち込むわけにはいかん」
「承知しています」
若い将校が即答する。
「だからこそ、“名を出さない”話として受け取る価値があるのではないでしょうか。街の試みの方向性だけを参考にすれば、軍としても動きやすいはずです」
視線が交差する。
「効果だけを見る」
「誰が作ったかは、後だ」
年嵩の男は、ゆっくりと腕を組んだ。
「巡回の質を上げる」
「それが街道補修と両立できるなら――」
小さく息を吐く。
「検討の余地はあるな」
誰も反論しなかった。
若い将校が、控えめに言う。
「まずは、限定的に」
「夏季の長時間巡回を想定した部隊で、装備面の検証を」
「正式な命令にはするな」
年嵩の男が釘を刺す。
「現場判断の範囲だ」
「了解しました」
地図が畳まれ、報告書が束ねられる。
会話は、それ以上深まらなかった。
だが、十分だった。
誰かが決断したわけではない。
命令も、指示も、まだない。
それでも――
巡回の時間は、延びるかもしれない。
装備の在り方は、変わるかもしれない。
その可能性が、静かに共有された。
詰所を出るとき、年嵩の男がぽつりと呟いた。
「……動く時間が延びるなら、備えるのは当然だな」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
軍は、騒がずに動く。
必要と判断すれば、確実に。
その歯車が、今――
音もなく、噛み合い始めていた。




