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 朝の光は、別邸の窓から静かに差し込んでいた。

 森の家とは違う、整えられた静寂。埃一つ立たない床と、必要以上に広い机。

 ここは休むための場所でありながら、同時に「公の顔」を求められる場所でもある。


 その机の上に――

 分厚い本が、二冊。


 革装丁。背表紙には金文字で、やたらと長い題名が刻まれている。


 青司は、椅子に深く腰掛けたまま、その一冊を開いていた。

 紙は厚く、文字は細かい。

 行間の少ない文章が、延々と続いている。


「……」


 数行読んで、青司は静かにページを戻した。

 理解できないわけではない。

 だが、理解した瞬間に、頭の中で別の疑問が生まれる。


(これ、どこまで覚えろって話なんだ……)


 隣では、リオナがもう一冊を前に、眉をひそめていた。

 彼女は姿勢こそきれいに保っているが、視線は文字の上をさまよっている。


「……言葉が、全部回りくどい」


 ぽつりと漏れた声は、朝の静けさに溶けた。


「“恐れ入りますが”と“差し支えなければ”と“僭越ながら”が、同じ段落に三回も出てくる……」


「削ったら失礼になる、ってやつだろうね」


 青司は苦笑する。

 だが、ページを閉じることはしなかった。


 少し前――

 クライヴとクレスから、ほとんど同時に伝えられた言葉が、頭をよぎる。


――「フィオレル様からのご指示です」

――「今後、貴族との折衝の場に同席する可能性があります」

――「最低限の立ち居振る舞いと、言葉遣いは覚えておいてください」


 最低限、という言葉が、ここまで重いとは思わなかった。


 リオナは、指先でページの端を押さえながら、小さく息を吐く。


「……私たち、いつの間にこんなところまで来たんだろう」


 問いかけというより、確認に近い独り言だった。


 青司は、少しだけ視線を上げる。

 窓の向こうには、街の屋根が整然と並んでいる。

 森の木々とは、まるで違う景色。


「肌着、だったはずなんだけどね」


 最初は、暑さをしのぐための工夫だった。

 使う人の負担を、少しでも減らしたかっただけだ。


 それが――

 衛兵隊に渡り、清掃局に渡り、行政府に話が上がり、

 ついには領主が王都で折衝する話にまでつながった。


 そして今、自分たちはこの机の前に座っている。


「逃げ場、ないね」


 リオナが苦笑する。

 どこか他人事のようでいて、ちゃんと現実を受け止めた声だった。


「森に戻れば、今まで通り……ってわけには、いかないか」


「うん」


 青司は頷いた。


「でも、無理に背伸びする必要はない、ってフィオレル様は言ってた」


 思い出す。

 別邸に移る前、短く交わした言葉。


――「覚えるべきは、形です」

――「中身まで変える必要はありません」


 リオナは、その言葉を思い出したのか、少し肩の力を抜いた。


「形、か……」


 本に視線を落とし、もう一度ページをめくる。


「……なら、せめて」

「相手を不快にさせない程度には、覚えないとね」


「そうだね」


 二人の間に、静かな時間が流れる。


 紙をめくる音。

 遠くで聞こえる、街の目覚めの気配。

 朝の光は、机の上の文字をはっきりと照らしている。


 青司は思う。


(また、一段上がったんだな)


 望んだわけではない。

 だが、避けても通れない段だ。


 なら――

 足を止めるより、踏みしめていくしかない。


 隣で同じ本を読み、同じように頭を抱えている存在がいる。

 それだけで、少し心が軽くなる。


 青司は、静かにページをめくった。


 森に戻るのは、もう少し先。

 今はこの場所で、この段階を越える。


 そう決めるには、十分すぎるほどの朝だった。



 午前の読書会――という名の格闘がひと段落した頃、別邸の空気は少しだけ様変わりした。


 執事が静かに扉を開き、女官とメイドが数名、控えめな足取りで入ってくる。

 その後ろには、護衛騎士のビリーの姿もあった。


「それでは」

 執事が、柔らかい声で切り出す。

「本日は、最低限の立ち居振る舞いと応対について、ご説明を」


 青司とリオナは、揃って背筋を伸ばした。


 ――そこから先は、想像以上に“情報量”が多かった。


 歩き方。

 立ち止まる位置。

 視線を向ける角度。

 返答までの間。

 相手の身分によって変わる、声の高さと語尾。


「その場合は、一拍置いてから」

「ここでは、即答しない方が無難です」

「沈黙は失礼ではありません。判断を委ねる意思表示になります」


 女官の説明は丁寧だが容赦がない。

 メイドが実演し、執事が補足し、ビリーが騎士視点での注意点を添える。


「武官相手なら、過度な遠回しは逆効果になることもあります」

「ですが、真正面から断るのも避けるべきですね」


 青司は、頷きながらも内心で呻いていた。


(話すより、黙ってる方が難しい……)


 リオナの方も似たようなものだった。

 表情は崩していないが、指先がわずかにこわばっている。


 昼食の時間になり、ようやく椅子に座ることを許される。


 テーブルに並んだのは、軽めの食事と――

 小さな器に盛られた、透明感のあるゼリー。


「あ……」

 リオナの目が、ほんの少しだけ和らぐ。


「気分転換に、とのことです」

 執事が微笑んだ。


 スプーンを入れると、ぷるりと揺れる。

 口に含めば、ひんやりとした甘さが広がった。


「……おいしい」

 思わず漏れた声に、青司も頷く。


「頭、使った後には助かるね」


 だが、休憩は長く続かない。


 午後は、おやつを挟みつつ、再び講義。

 今度は想定問答だ。


「もし、この場で条件を曖昧にされた場合」

「即答せず、どう返しますか?」


「……」

 二人揃って、言葉に詰まる。


 執事は責めない。

 ただ、淡々と正解例を示す。


 それを聞きながら、青司は思う。


(フィオレル様たちは、これを全部、日常でやってるのか……)


 夕方になる頃には、二人とも明らかに疲弊していた。


 リオナは椅子の背に、ほんの少しだけ体重を預けている。

 青司は、無意識にこめかみを押さえていた。


「……頭、ぱんぱん」

 リオナが、小さく呟く。


「同感」

 青司は、素直に認めた。


 窓の外では、街が夕暮れに染まり始めている。

 別邸の中は、相変わらず整然としているが――

 二人にとっては、少し息苦しい静けさになりつつあった。


 青司は、リオナの方を見る。


「……今日は、ここまでにしようか」

「一回、森に戻って」


 リオナは、すぐに頷いた。


「うん」

「このまま覚えようとしても、たぶん入らない」


 女官たちも、無理には引き留めなかった。

 執事は、穏やかに頭を下げる。


「よろしい判断かと」

「休むことも、準備のうちです」


 別邸を出る頃には、空はすっかり夜の色を帯びていた。


 街灯の下を並んで歩きながら、二人は自然と肩を並べる。


「……森、静かだよね」

 リオナが言う。


「うん」

「たぶん、今はそれが一番必要だ」


 学ぶことは、まだ山ほどある。

 けれど、全部を一度に抱える必要はない。


 今夜は――

 森の家で、深く息をする。


 そうやって、また一歩ずつ進めばいい。


 二人は、同じ歩幅で街を離れた。



 森の家に戻ると、昼間の熱を含んでいた空気が、ゆっくりと外へ逃げていった。

 扉を閉める音が、思ったよりも柔らかく響く。


 青司は、荷を置き、炉に火を入れた。

 手順は、もう身体が覚えている。

 乾いた枝を組み、火打ち石を鳴らし、炎が安定するまで待つ。


 リオナはその間、棚から薬草を選び、小鍋に水を張る。

 言葉は、交わさない。

 それで困ることは、もうなかった。


 湯が温まり、薬草茶の香りが立ちのぼる。

 別邸で浴び続けた言葉と視線と気配が、少しずつ剥がれていくのを、青司は感じていた。


 卓の前に並んで腰を下ろすと、自然と距離が近くなる。

 意識して詰めたわけではない。

 ただ、空いた場所に座っただけだ。


 茶をひと口飲む。

 舌に残るほのかな苦味と、遅れてくる甘み。


 青司は、小さく息を吐いた。


(……戻ってきたな)


 頭の奥で鳴り続けていた、貴族の言い回しや礼の角度、声の抑え方が、静かになっていく。


 ふと、肩に重さを感じた。


 リオナだった。

 意識せずに寄りかかったらしい。

 視線は湯気の向こうに向いたまま、瞼が半分ほど落ちている。


 青司は、動かなかった。


 動けば、離れてしまう。

 そう思ったからではない。

 ただ、このままが一番、自然だった。


 外では、鳥の声が減り、代わりに虫の音が増えていく。

 昼と夜の境目。

 森が、ゆっくりと呼吸を変える時間だ。


 ランプの灯りが、二人の影を壁に映している。

 重なり合って、境目が曖昧だった。


 青司は、視線だけでランプを見る。

 灯芯を少し下げれば、部屋は暗くなる。


 だが、まだ消さない。


 リオナの呼吸が、少しだけ深くなった。

 完全に眠ってはいない。

 けれど、起きているとも言えない。


 その曖昧さが、今は心地よかった。


 青司は、そっと声を落とす。


「……もう、遅いね」


 返事はない。

 だが、否定もない。


 彼は、片手を伸ばし、ランプの灯りを弱めた。

 部屋は、すぐに夜の色に溶け込む。


 暗闇の中でも、肩に伝わる温もりは消えない。


 考えるべきことは、山ほどある。

 街のこと。

 商会のこと。

 これからのこと。


 けれど今は――


 青司は、その重さを受け止めたまま、目を閉じた。


 ただ、森の夜が深まっていくのを、二人で感じていれば、それでよかった。




**************




 会議が終わった後の軍部庁舎は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 石造りの回廊には、外の熱気を遮るひんやりとした空気が溜まり、重い扉の向こうからは、紙をめくる音と低い話し声だけが漏れてくる。


 執務室の一角。

 正式な会議室ではない、小さな詰所だった。


 机の上には街道図と巡回表、被害報告をまとめた束。

 そこに、数人の将校が立ったまま集まっている。


「……で、どう見る」


 最初に口を開いたのは、年嵩の男だった。

 鎧は脱いでいるが、肩口の癖で、それが板金鎧だったことが分かる。


「巡回時間を延ばす、という案自体は珍しくありませんな」

 別の男が言う。

「だが、暑さの盛りにやれば、体力の消耗が増す。そこが我々の一番の懸念点です」


「それを承知の上で、だろう」

 年嵩の男は地図を指で叩いた。

「「低リスク区画の回数を落とす代わりに、重点区画を厚くする。

理屈としては筋が通っている。よく考えたものだ。

だが――数字を眺めた机上の上では、な。

現場側では、どうだ?」

 しばし、沈黙。


 若い将校が、報告書を一枚めくった。


「被害件数の推移を見る限り、巡回があるから“起きていない”場所と、もともと“起きにくい”場所は、確かに分かれています」

「補修が進んでいる街道沿いは、盗賊も魔物も出にくい」


「だから、補修予算を前倒しで、か」

 別の男が低く笑う。

「外交派側の言い分としては、悪くない。

だが――街道整備は、本来、内政派閥の領域でもありましょうに」


 その時、窓際に立っていた男が口を開いた。


「それより――」

 声は静かだった。

「気になったのは、装備の話だ」


 数人の視線が、そちらに向く。


「名は出なかったが、炎天下で動く者の負担を軽くする装備と言っていなかったか?」

「試験導入済みで、運用上の支障は出ていない、と」


「……ああ」

 年嵩の男が頷く。

「衛兵の話だな。最近、あの街の話題をよく耳にするな」


「俺の母と姉が連れ立ってあの街に出かけてたな」

 若い将校が続ける。

「驚くほど警備の行き届いた、きれいな街だったとか。愛想のいい警備隊と清掃員だったとか。

 しかし、我々ほどの負荷ではない。だが――

それでなお、隊の動きが整って見えた、というのは無視できん」


 言葉を切り、少し考える。


「巡回時間が延びれば、話は別になります」


 机の上に、巡回表が広げられる。


「今の行程でも、真夏はぎりぎりだ」

「これ以上延ばすなら、休憩の取り方だけでは足りない」


「水だけではな。水や美味いものがあればと思ってたが……」

 誰かが呟いた。


 一瞬、空気が重くなる。


「……装備で解決できる部分があるなら」

 窓際の男が言った。

「検討しない理由はない」


「だが、国軍装備となれば話は違う」

 年嵩の男は慎重だった。

「予算、規格、供給。街の試みを、そのまま持ち込むわけにはいかん」


「承知しています」

 若い将校が即答する。

「だからこそ、“名を出さない”話として受け取る価値があるのではないでしょうか。街の試みの方向性だけを参考にすれば、軍としても動きやすいはずです」

 視線が交差する。


「効果だけを見る」

「誰が作ったかは、後だ」


 年嵩の男は、ゆっくりと腕を組んだ。


「巡回の質を上げる」

「それが街道補修と両立できるなら――」


 小さく息を吐く。


「検討の余地はあるな」


 誰も反論しなかった。


 若い将校が、控えめに言う。


「まずは、限定的に」

「夏季の長時間巡回を想定した部隊で、装備面の検証を」


「正式な命令にはするな」

 年嵩の男が釘を刺す。

「現場判断の範囲だ」


「了解しました」


 地図が畳まれ、報告書が束ねられる。


 会話は、それ以上深まらなかった。

 だが、十分だった。


 誰かが決断したわけではない。

 命令も、指示も、まだない。


 それでも――


 巡回の時間は、延びるかもしれない。

 装備の在り方は、変わるかもしれない。


 その可能性が、静かに共有された。


 詰所を出るとき、年嵩の男がぽつりと呟いた。


「……動く時間が延びるなら、備えるのは当然だな」


 その言葉に、誰も異を唱えなかった。


 軍は、騒がずに動く。

 必要と判断すれば、確実に。


 その歯車が、今――

 音もなく、噛み合い始めていた。

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