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ホヅミ商会の扉を押し開けた瞬間、青司は一歩、足を止めた。
「……あ」
いつもより、空気が騒がしい。
紙の擦れる音。早足で行き交う人影。奥の執務机では、羽根ペンが休みなく走っている。
「いらっしゃ――」
顔を上げたクライヴは、青司とリオナを認めると、言葉の途中で息を呑んだ。
「……セイジさん。ちょうどいいところに」
そう言いながらも、手は止まらない。
机の上には、束ねきれないほどの書類と、開いたままの帳簿。
その脇で、伝令用の札が二つ、三つと積み上がっていた。
「商業ギルドからの照会が増えています」
クライヴは帳簿に目を落とし、短く息を整える。
「衛兵隊と清掃員向けの追加分と、それから――」
言葉を区切り、クライヴは一枚の紙を指で弾く。
「街の行政府です。正式に、肌着の試験導入の数量確認が入りました」
「――事務方向けで、まずは下着のみ、とのことです」
リオナが、小さく目を見開いた。
「そんなに……?」
「ええ」
クライヴは苦笑する。
「帽子と手袋の内側用、靴下、ズボン下――
“同じ糸を使えるなら”という話が、一気に来まして。
正直、整理が追いついていません」
その様子を横目に、店舗側からクレスの慌ただしい声が飛んできた。
「ミレーネさん! その仕様だと納期が――」
「分かってるわ! だから今、工房と詰めてるの!
シャンプーとバスソルト、日焼け止めまであるし、
こっちは、洗剤に染め薬だって回してるのよ」
カウンター奥では、ミレーネが袖をまくり、伝票を片手に工房との連絡に追われていた。
布見本を広げ、指で弾き、即座に指示を出す。
「リオネ向けは、まず肌着と靴下」
「色味は抑えめ。夏物でも落ち着いた方が売れるのよ」
彼女の足元には、すでに発注待ちの札が積み上がっている。
「……落ち着いて選んでる余裕、なさそうね」
リオナが小さく呟く。
「うん。でも――」
青司は、少しだけ笑った。
「ちゃんと“商会”にしてもらってるんだな」
そして、その言葉を裏付けるように。
「……あ、数字が合わない」
低く、切羽詰まった声。
帳簿の山に埋もれるようにして、エリンが唸っていた。
左右に会計帳、正面に試算紙。
指先で数をなぞり、額に皺を寄せる。
「商会分と店舗分、それから工房への前金……」
「待って、これ、売掛が先に増えすぎてる……」
青司が近づくと、エリンは顔を上げ、半ば泣きそうな笑みを浮かべた。
「セイジさん……」
「今月、帳簿が“増える方向”で忙しいです」
「それは……」
青司は言葉を選び、
「悪くない、かな」
「ええ」
エリンは深く頷いた。
「ただし、整理が追いつくまでは、地獄です」
その様子を、リオナは少し離れたところから見ていた。
忙しなく動く人たち。
紙と薬と布と数字が、同時に行き交う空間。
「……すごいね」
ぽつりと、言う。
青司は、その言葉に静かに頷いた。
気づけば、肌着はもう「試しの品」ではない。
街の中で、役割を持ち始めている。
ホヅミ商会は今――
静かだが確かに、回り始めていた。
*******
執務室の窓から差し込む光は、すでに夏の色を帯びていた。
フィオレルは、机に置かれた報告書から視線を上げ、向かいに立つ二人を見た。
街の安全を担う衛兵隊、その隊長。
そして清掃局長――街路と水路を預かる男だ。
「では、聞こう」
フィオレルは静かに言った。
「試験導入の結果だったな」
衛兵隊長が一歩前に出る。
「は」
「まず、結論から申し上げます」
背筋を伸ばしたまま、はっきりと。
「隊員の負担は、確実に軽減されました」
フィオレルは頷き、先を促す。
「炎天下での巡回でも、集中力の低下が少ない」
「不快感による判断の鈍りが減っています」
「何より――」
衛兵隊長は一瞬、言葉を選んだ。
「隊員たちが、装備について不満を口にしなくなりました」
その一言に、清掃局長が小さく息を吐く。
「清掃の現場も同じです」
彼が続けた。
「作業自体が楽になったわけではありません」
「ですが、汗で服が重くならない」
「肌が擦れない」
「それだけで、作業後の疲労が違う」
フィオレルは、指先で机を軽く叩いた。
「数字は?」
「休憩回数が減りました」
衛兵隊長が即答する。
「無理をさせているわけではない」
「自発的に、動ける時間が伸びています」
短い沈黙。
それを破ったのは、清掃局長だった。
「そこで――」
彼は一度、フィオレルを見た。
「要望があります」
フィオレルの眉が、わずかに上がる。
「聞こう」
「肌着そのものは、十分です」
「ただ……」
清掃局長は正直に言った。
「使ってみて分かりました」
「頭と足元の不快感が、相対的に強く感じられます」
衛兵隊長が、自然に言葉を継ぐ。
「兜の下に被る布」
「手袋の内側」
「ズボン下と靴下」
「できるなら、靴の中敷も」
それは、要求というより、報告に近かった。
「いずれも、同じ糸で展開できると聞いています」
清掃局長は付け加える。
「段階的で構いません」
フィオレルは、すぐには答えなかった。
椅子にもたれ、二人の顔を順に見る。
現場の人間が、慎重な言葉を選んでいる。
その事実だけで、軽い話ではないと分かる。
「……分かった」
そう言ってから、フィオレルは視線を落とした。
「導入は、装備の刷新に等しい」
「予算の調整も必要だ」
二人は黙って頷く。
「だが」
フィオレルは、顔を上げた。
「街を守り、街を回す者の装備だ」
「効果が実証されている以上、無視する理由もない」
そこで、少しだけ言葉を緩める。
「まずは、現行の肌着を継続」
「次いで、頭部と足回りから拡張する」
「順序を踏もう」
二人の表情が、わずかに和らいだ。
だが、フィオレルは続ける。
「それと――」
執務室に、もう一度静けさが落ちる。
「行政府の事務方にも、肌着を回す。
屋内とはいえ、暑さの中での業務は同じだ。
集中力の低下は、街の判断そのものに影響する」
衛兵隊長が、驚いたように瞬きをする。
「よろしいのですか?」
「同じ街の仕事だ」
フィオレルは淡々と言った。
「現場だけが苦労しているわけではない」
そして、静かに締めくくる。
「これは、贅沢ではない」
「街の機能を保つための、装備だ」
二人は、深く頭を下げた。
報告は、ここで終わった。
だが――
肌着はもう、単なる試作品ではない。
街の中で、正式に“役割”を与えられた。
その決断を下したフィオレルは、机に残された報告書に、もう一度だけ目を通す。
そこに記された文字は、どれも静かだった。
だが、その積み重ねが、街を少しずつ変えていく。
確かに、そう感じさせるだけの重みがあった。
**************
王都の会議室は、重かった。
石造りの建物は外気を遮るが、夏の熱まで消してくれるわけではない。高い天井に吊るされた照明具の下、長い卓を囲んで並ぶ席には、すでに人が揃っていた。
隣国との通商路再編。
関税と通行権、治安協定の再確認。
どれも、短時間で結論が出る類の話ではない。
外交派閥の中堅として、フィオレルは定位置に腰を下ろしていた。中央よりやや外れ。だが、発言を求められれば即応できる距離だ。
向かいの席では、年嵩の官僚が額の汗を拭っている。
資料をめくる音が、いつもより鈍い。
「――次に、境界沿いの街道整備について」
議長の声に、視線が集まる。
幾人かが、椅子に座り直した。
話は細かく、数字は多い。
気を抜けば、判断を誤る。
フィオレルは、卓上の書類に視線を落としたまま、静かに耳を傾けていた。息は乱れず、背筋も崩れていない。
「……フィオレル卿、意見は?」
名を呼ばれ、顔を上げる。
「街道維持の費用配分については、現行案で妥当と考えます」
「ただし、巡回頻度を下げる代わりに、補修予算を前倒しで確保すべきでしょう」
短く、要点だけ。
説明を重ねない。
それでいて、反論の余地を残さない言い方だった。
隣席の男が、小さく息を吐く。
「……なるほど。それには軍部との調整も必要になるな」
「では、その折衝は、私が地ならしをしておきましょう」
一拍、間があった。
「軍部との地ならしは、何かと骨が折れるが……卿に一任する」
「お任せください」
会議は、なおも続いた。
時間は、容赦なく過ぎていく。
誰かが水を求め、誰かが袖で汗を拭う。
集中力が削がれていくのが、はっきりと分かる。
それでも、フィオレルの表情は変わらなかった。
発言は必要なときだけ。
だが、そのたびに議論は整理され、進んでいく。
やがて、議長が槌を置いた。
「本日の議題は、以上とする」
安堵の気配が、室内に広がる。
席を立つ者たちの中で、誰かが小声で言った。
「……今日は、やけに疲れたな」
別の誰かが、視線を横に向ける。
「フィオレル卿は、平然としているが」
本人は、その言葉に気づかないふりをして、書類をまとめていた。
評価を求めるつもりはない。
ただ、役目を果たしただけだ。
会議室を出ると、廊下の空気はさらにこもっていた。
それでも、歩調は変わらない。
(判断を誤らずに済んだ)
それだけで、十分だった。
街で始まった小さな工夫が、
今は、自分の思考を静かに支えている。
だが、そのことを、ここで語る必要はない。
フィオレルは、次の予定を確認しながら、王都の回廊を進んでいった。
◆
「おい、フィオレル卿」
回廊で呼び止められ、足を止める。
「最近、リルトに行く者が増えているそうだな。
うちの妻も、あそこのリオネという店で
シャンプーを買ってきたが……ずいぶん評判がいい」
「帽子もだ」
別の男が笑う。
「ココとかいう仕立屋だったか。
軽くて蒸れないだけでなく、
意匠が他にないと、えらく気に入っている」
「タマラの靴も、娘が喜んでたぞ」
「……それに、ティエリのバッグもな。
皮の色が豊富で、選ぶのにずいぶん妻と娘で時間をかけてた」
次々に出てくる名前に、
フィオレルは小さく息を吐いた。
(もう、王都まで来ているか)
次の予定を、頭の中で一つだけ繰り上げる。
◆
王国軍部庁舎の石造りの回廊は、王城とは違う重さを持っていた。
装飾は最小限。壁に掲げられたのは紋章ではなく、部隊番号と巡回区画の図。
フィオレルは足を止めず、静かな足取りで進む。
緊張を見せる必要はない。ここに来た理由は、明確だった。
通された部屋には、巡回計画を司る将校が数名。
机の上には地図と報告書が広げられている。
「リルト領主、フィオレル卿」
年嵩の将校が、形式通りに名を呼んだ。
「街道補修の件での折衝と聞いています」
「ええ」
フィオレルは穏やかに頷いた。
「その前提として、巡回の在り方について、一案を持ってきました」
地図の上に、一枚の薄い紙を重ねる。
被害件数と、被害規模を色分けした一覧だった。
「過去三年分です」
「魔物、盗賊、双方を含めています」
将校の一人が眉を上げる。
「……よく調べていますな」
「折衝に必要な範囲だけで申し訳ありませんが」
フィオレルは、淡々と答えた。
「巡回を行ってくださっているからこそ、被害が抑えられている」
「それは、疑いようのない事実でしょう」
そこで、言葉を切る。
「ですが――」
「被害が“出ていない”場所と、“起きにくい”場所は、同じではないように感じられます」
指先で、被害の少ない区画をなぞる。
「ここは、巡回が多い」
「しかし、定着型の被害は出ていない」
次に、赤く示された区画。
「一方、こちらは回数は少ないが、一件ごとの被害が重い」
室内が、静まる。
「私の提案は、巡回を減らすことではありません」
フィオレルは、声を荒らげない。
「“回数”ではなく、“中身”を変えることです」
将校が腕を組む。
「具体的には?」
「御負担をおかけするとは承知しておりますが、
一回の巡回時間を延ばす」
「代わりに、低リスク区画の回数を調整する」
地図の線が、ゆっくりと整理されていく。
「長く留まり、深く見る巡回です」
「見せる抑止ではなく、止める抑止」
誰かが、低く唸った。
「……巡回兵の負担は?」
その問いを、フィオレルは待っていた。
「そこは、装備と補給で支えるべきだと考えています」
「暑さは、集中力を削ぐ」
「長時間行動になるなら、なおさらです」
将校たちの視線が、集まる。
「我が街では、すでに試験導入が始まっています。
炎天下で動く者の負担を軽くする装備です。
現場の条件は異なりますが、
少なくとも、運用上の支障は出ていません」
名は出さない。ただ、事実だけを置く。
「結果は、報告として上がってくるでしょう」
一瞬の沈黙。
やがて、年嵩の将校が、ゆっくりと頷いた。
「……巡回の質を上げる、か」
「街道補修予算の前倒しと引き換えなら、検討の余地はある」
フィオレルは、深く頭を下げない。
ただ、穏やかに礼を取った。
「軍の判断を尊重します」
「街道が整えば、巡回もより意味を持つことでしょう」
それだけを言って、引く。
強く押さない。
だが、道は示した。
部屋を出たフィオレルは、回廊の光の中で小さく息を整えた。
(……歩く時間が延びるなら、備えるのは当然だ)
誰かを説得した、という手応えではない。
だが――同じ方向を見た感触は、確かにあった。
軍は、動く。
必要とあらば――静かに、確実に。




