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 昼過ぎの街路は、容赦なく、真夏の陽射しを照り返していた。


 石畳の熱が靴底から伝わり、空気は重い。

 夏の巡回は、慣れているとはいえ楽な仕事ではない。


 衛兵隊の詰所前。

 持ち場の交代で、数人の衛兵が日陰に集まっていた。


「……今日は、妙に楽だな」

 誰かが、独り言のように言った。


 言われてみれば、と別の衛兵が自分の胸元を引っ張る。


「汗はかいてるはずなんだが」

「張り付く感じがしねえ」


 鎧の下の肌着。

 いつもなら、巡回が半分を過ぎる頃には、背中に重さを感じ始める。


 濡れて、冷えて、乾かず、また汗を吸う。

 不快さが積み重なって、集中力を削っていく。


 だが今日は違った。


 肌に触れる感触が軽い。

 湿っているはずなのに、息苦しくならない。


「……匂いも、な」

 若い衛兵が言って、少し照れたように鼻先を指で擦る。


「いつもなら、昼過ぎは自分でわかるくらいなんだが」


「わかる」

 年嵩の衛兵が苦笑する。

「鎧脱ぐの、正直ちょっと気が重かった」


 誰かが、笑った。


 大声ではない。

 仕事の合間に、ふっと零れた程度の笑いだ。


 そこへ、衛兵隊長が戻ってくる。

「休憩は終わりだ。次は西門――」


 言いかけて、隊長は足を止めた。


 隊員たちの様子が、いつもと違う。


 疲れてはいる。

 だが、だらけていない。


 むしろ、動きが軽い。


「……どうだ?」

 隊長が、短く尋ねる。


「問題ありません」

 即座に返事が返る。


 それから、少し間を置いて。


「……正直に言っていいなら」

 一人が続けた。

「今日は、楽です」


 隊長は眉を上げた。


「楽?」


「はい」

「暑いのは暑いです。でも――」

 言葉を探す。

「いつもより、集中できてます」


 隊長は、黙って頷いた。


 彼自身も、同じ肌着を着ている。

 違いには、気づいていた。


 だが、それを口にするのは、少し先でもいいと思っていた。


「巡回を終えたら、報告をまとめる」

 隊長は言った。

「着用感、問題点、全部だ。遠慮はいらん」


「了解しました!」


 隊員たちは、いつもより張りのある声で応じ、持ち場へ散っていく。


 その背中を見送りながら、隊長は一度、胸元に手を当てた。


 汗は、確かにかいている。

 だが、重くない。


(……これは)


 導入前、正直なところ、半信半疑だった。


 新しい支給品。

 話だけ立派で、現場では役に立たないものも、いくらでも見てきた。


 だが――


(文句が、出ない)


 それが、何よりだった。


 苦情は、現場が一番早い。

 良くないものほど、すぐに声が上がる。


 それが、ない。


 詰所に戻った隊長は、簡単なメモを取り始めた。


「炎天下での巡回、問題なし」

「不快感の軽減、明確」

「集中力の持続、確認」

「頭と下半身、靴の中の不快感が……」

 書きながら、ふとペンを止める。


「……商会長、だったか」


 名前を思い出す。


 派手な売り込みをするわけでもなく、

 ただ「試してほしい」と言っていた男。


「――続ける価値は、あるな」


 それは評価というより、現場の実感だった。


 この街を歩き続けるために。

 剣を握る前の、身体を守るために。


 その日の夕方。


 巡回を終えた衛兵たちは、詰所で鎧を外しながら、いつもより静かだった。


 疲れていないわけではない。

 だが、不快さが、確かに少ない。


「……明日も、これだな。洗い替えまであって助かる」

 誰かが言った。


「そうだな」

 隊長は短く頷いた。

「使えると分かった以上、上に回さない理由はない」


 それだけで、十分だった。


 声高な賛辞も、拍手もない。

 ただ、現場が、少し楽になった。


 それは、衛兵隊にとって、何より確かな“成果”だった。





 衛兵詰所の応接室は、簡素だが手入れが行き届いていた。

 壁際には武具棚、窓からは訓練場の掛け声が、途切れ途切れに聞こえてくる。


 テーブルを挟んで向かいに座るのは、衛兵隊長のヴァルド。

 実直な体躯の男で、鎧を脱いでも背筋が崩れない。


 その隣に、清掃局長のグレイスが控えめに腰掛けている。


「――率直に言おう」

 衛兵隊長は、そう前置きしてから口を開いた。


「この肌着、助かっている」


 青司は、思わず背筋を正した。


「今まではな」

 隊長は続ける。

「夏場の巡回は、二刻もすれば汗で下が冷え、鎧の内側が蒸れて集中力が落ちる」

「だが、これを着せてからは違う」


 指で、自分の脇腹あたりを軽く叩く。


「汗をかいても、張り付かない。

 乾くのが早いから、休憩に入る頃には不快感が抜けている」


 言葉は淡々としていたが、現場を預かる者の確信があった。


「倒れる者が減った」

「交代の頻度も下がった」

「何より、文句が出ない」


 そこで、わずかに口角を上げる。


「これは、かなり珍しい」


 青司の隣りに座っていたセリーナは、

頷く衛兵隊長の様子を確認してから、静かに尋ねた。


「縫製や耐久面での問題はございませんか?」


「ない」

 即答だった。

「洗っても性能は落ちていない」

「多少ヨレは出るが、実用上は問題ない範囲だ」


 青司は、胸の奥で小さく息を吐いた。

 仮成功――その言葉が、ようやく実感として形を持った。


 ここで、清掃局長が、控えめに口を挟む。


「うちでも、同じです」

「清掃は動き続ける仕事ですから」

「午後の作業が、ずいぶん楽になったと聞いています」


 それだけ言って、再び黙る。

 必要以上に出しゃばらない、現場責任者らしい態度だった。


 衛兵隊長は、二人を見渡した。


「で、だ」

「これは、今後も供給できるのか?」


 核心だった。


 セリーナが、青司に一瞬だけ視線を送る。

 それを受けて、青司の後ろに立っていたクライヴが、はっきりと言った。


「現行の仕様であれば、可能です」

「綿糸を加工したものに限りますが、

 服飾ギルドの工房で量産ラインを回していただく形になります」


「……魔力の問題は?」

 青司が、気になっていた点を確認する。


「解決していますわ」

 セリーナが、即座に断言した。

「ギルド内の錬金術師だけで対応できます」


 ヴァルドは、深く頷いた。


「なら、正式に採用を検討しよう」

「まずは、現行人数分」

「問題がなければ、追加を出す」


 それは、試験ではなく――実運用への一歩だった。


 青司は、そこでようやく口を開いた。


「ありがとうございます」

「素材の特性上、麻より少し高くはなりますが……」


「構わん」

 隊長は遮る。

「倒れる兵を減らせるなら、安いものだ」


 短く、実務的な結論だった。


 話が一区切りつき、立ち上がる前。

 衛兵隊長は、ふと視線を落として言った。


「……いい仕事だ」

「街を守る側として、こういう道具は歓迎する」


 青司は、深く一礼した。


 隊長が立ち上がりかけた、その時だった。


「もう一点、よろしいですか」


 セリーナが、静かに声をかける。


 隊長が振り返る。


「今回の加工は、肌着に限ったものではありません」


 ヴァルドは、わずかに眉を上げた。


「ほう?」


「同じ糸を使えば」

 セリーナは淡々と言葉を続ける。

「帽子の内側、兜の下に被る布。

 手袋の内側。

 靴下や、ズボン下、靴の中敷にも展開できます」


 一瞬の沈黙。


 隊長は、無意識に自分の籠手を見た。


「……そいつは助かる」

「実際、隊員たちからも、

 頭と下半身の暑さが相対的に強く感じるようになったと

 声が上がっている」


「ええ」

 セリーナは頷く。

「特に頭と足元は、体調に直結します。

 炎天下では、なおさらです」


「ギルドの方でラインの安定が整うようでしたら」

 クライヴが補足するように言う。

「衛兵隊と清掃局、双方の御要望を

 改めて伺いたいと存じます」


 だが、衛兵隊長は首を横に振った。


「いや、

 さすがに予算の確保をしてからでないとな」


 短く、だが確かな手応えを含んだ声だった。


「街を守る仕事は、装備が命だ。

 選択肢が増えるのは、悪くない。

 上に上げて、判断を仰ぐだけの材料は揃っている」




**************




 街での用件をすべて終え、青司とリオナは連れ立って森へ戻った。


 石畳の道を外れ、街道を離れると、空気が少しずつ変わっていく。

 昼の熱を含んだ風は、森の縁に近づくにつれて和らぎ、葉擦れの音が耳に戻ってきた。


「やっぱり、こっちは落ち着くね」


 隣を歩くリオナが、そう言って小さく息を吐く。


「街は便利だけど……人が多いからな」


「うん」


 それだけで会話は終わる。

 だが、歩調は自然と揃っていた。


 森の家に着いた頃には、日が傾き始めていた。

 戸を開けると、昼間に閉め切っていた空気が、ひんやりと迎えてくる。


「先に、火を起こすね」

「じゃあ、俺は水を汲んでくる」


 言葉少なに役割を分け、二人は手際よく動いた。

 こうして一緒に戻るのは、いつの間にか当たり前になっている。


 簡素な夕食を並んで食べ終え、後片付けを済ませる。


 やがて、いつもの薬草茶を淹れると、二人は並んで腰を下ろした。


 湯気の立つカップを手に、リオナが自然に青司の隣へ寄る。

 肩と肩が、そっと触れ合った。


「……最近、すごく忙しそうだったね」


 何気ない声だった。

 責めるでもなく、ただ様子を気遣うだけの調子。


「まあ……少し」

 青司は苦笑して、茶をひと口飲む。

「正直、あの肌着が、ここまで大きな仕事になるとは思ってなかったよ」


「そうなんだ」

 それ以上は聞かず、リオナは頷いた。


 代わりに、彼女の指先が、青司の手の甲に軽く触れる。

 意識しなければ、気づかないほどの距離だった。


「ちゃんと、休めてる?」


「……別邸でも気遣ってもらってたけど、

ここに戻ってくると、やっぱり一番休める」


 その言葉に、リオナは小さく笑った。


「なら、よかった」


 薬草茶の香りが、ゆっくりと部屋に広がる。

 外では、鳥の声が夕暮れから夜へと移ろい始めていた。


 特別なことは、何も起きない。

 ただ、並んで座り、同じ時間を過ごすだけ。


 けれど、その距離は、確かに以前よりも近い。


 青司は、肩に伝わるぬくもりを感じながら、静かに思う。


(……一緒に、帰ってきたんだな)


 街で踏み出した一歩の、その続きを考えるのは――

 もう少し、先でいい。


 今は、この静けさを、二人で分け合っていればよかった。


 薬草茶の湯気が細くなり、カップの中身もいつの間にか冷めていた。


 二人並んで腰掛けたまま、言葉は少なくなっていく。

 外では虫の声が増え、森の夜がゆっくりと深まっていた。


 ふと、リオナの肩が、青司の腕に触れた。


 最初は、偶然だと思った。

 だが、次の瞬間、わずかな重みが増す。


 リオナは何も言わない。

 ただ、無意識のまま、そっと寄りかかっている。


 青司は息を止めた。


(……寝そう、か)


 動こうとすれば動ける。

 けれど、その重さが、どうしても邪魔をする。


 温かくて、軽くて、

 それでいて、離すのが惜しい重みだった。


 しばらくして、リオナが小さく身じろぎをした。


「……もう、遅いね」


 眠気を含んだ声だった。


「ああ……そうだな」


 それ以上、言葉は続かない。


 青司は、そっと立ち上がり、ランプの火を落とす。

 部屋は、月明かりと森の影だけになる。


 リオナは肩から離れ、名残惜しそうに瞬きをしたあと、

 静かに背筋を伸ばした。


「今日は……ここまで、だね」


「うん」


 それだけで、十分だった。


 特別なことは、何も起きない。

 ただ、同じ夜を過ごしただけ。


 けれど、その静けさは、

 確かに、二人の間に残っていた。





 朝の森は、静かだった。

 夜露の名残が葉の先で光り、鳥の声が少しずつ増えていく。


 青司が竈の前で朝食の仕度をしていると、背後で戸が静かに開いた。


「おはよう、青司」


 籠を抱えたリオナが立っている。

 いつもの森の服だが、街にいた頃より、どこか表情が柔らかい。


「おはよう。暑くなかった?」


「大丈夫」


 簡単な朝食を済ませ、片付けを終えたあと。

 二人は縁側に並んで腰を下ろした。


 しばらくは、森の音だけが流れる。


 やがて、リオナがぽつりと口を開いた。


「ねえ……」

「街にいる間のこと、少し話してもいい?」


「うん」


 青司が頷くと、リオナは膝の上で指を組んだ。


「私ね」

「お姉ちゃんのお店、ほとんど毎日手伝ってたの」


「黒猫亭?」


「うん」

 小さく笑う。

「昼は給仕で、夕方は仕込み」

「暑い日は、裏で氷を運ぶのも大変で」


 その様子が、青司の頭に浮かぶ。


「でもね」

 リオナは続ける。

「街に出ることも多かったから……何度か、青司を見かけた」


 青司は、少し驚いたように目を瞬いた。


「見てた、って……?」


「偶然だよ」

「服飾ギルドの前とか、別邸の近くとか」


 少しだけ、言葉を選ぶ。


「別邸ではね」

「女官さんやメイドさんたちが、よく話してた」


「……どんな?」


「“ホヅミ商会の人、また戻ってきてる”とか」

「“昨日も遅くまで灯りが消えなかった”とか」


 責める調子は、まったくなかった。


「だから」

 リオナは静かに言う。

「忙しいんだな、って思ってた」


 風が、木々を揺らす。


「黒猫亭からの帰り道ね」

「遠くから、青司が歩いてるのを見たこともある」


 青司は、思わず息を吐いた。


「……どんな顔してた?」


「ちゃんと前を見てた」

「でも」


 一瞬、言葉が止まる。


「誰かと話してる時より、少しだけ……」

「肩が下がってた」


 青司は、苦笑した。


「そんな顔、してたか」


「してたよ」

 リオナは、迷いなく言った。

「ほんの少しだけ、だけど」


 沈黙が落ちる。


「だからね」

 リオナは顔を上げ、青司を見る。

「森に戻ってきたとき、すぐ分かった」


「……何が?」


「ほっとしてた」


 その一言が、胸に残った。


「ここに戻ってきて」

「やっと、息をついてる顔だった」


 青司は、しばらく何も言えなかった。


「……見られてたんだな」


「見てただけ」

 リオナは小さく笑う。

「私も、自分の毎日を過ごしてただけだから」


 森の朝の光が、二人の足元に落ちる。


 街で踏ん張っていた時間と、

 黒猫亭で忙しく動いていた時間と、

 別邸で交わされた無数の言葉。


 それらが、今この場所で、静かに重なっている。


 青司は、隣にいるリオナを見て思った。


(……一人で戦ってたつもりだったけど)


 そうじゃなかった。


 ちゃんと、同じ街で、

 同じ時間を生きてくれていた人がいた。


 それだけで、胸の奥が、少し軽くなった。


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