70
昼過ぎの街路は、容赦なく、真夏の陽射しを照り返していた。
石畳の熱が靴底から伝わり、空気は重い。
夏の巡回は、慣れているとはいえ楽な仕事ではない。
衛兵隊の詰所前。
持ち場の交代で、数人の衛兵が日陰に集まっていた。
「……今日は、妙に楽だな」
誰かが、独り言のように言った。
言われてみれば、と別の衛兵が自分の胸元を引っ張る。
「汗はかいてるはずなんだが」
「張り付く感じがしねえ」
鎧の下の肌着。
いつもなら、巡回が半分を過ぎる頃には、背中に重さを感じ始める。
濡れて、冷えて、乾かず、また汗を吸う。
不快さが積み重なって、集中力を削っていく。
だが今日は違った。
肌に触れる感触が軽い。
湿っているはずなのに、息苦しくならない。
「……匂いも、な」
若い衛兵が言って、少し照れたように鼻先を指で擦る。
「いつもなら、昼過ぎは自分でわかるくらいなんだが」
「わかる」
年嵩の衛兵が苦笑する。
「鎧脱ぐの、正直ちょっと気が重かった」
誰かが、笑った。
大声ではない。
仕事の合間に、ふっと零れた程度の笑いだ。
そこへ、衛兵隊長が戻ってくる。
「休憩は終わりだ。次は西門――」
言いかけて、隊長は足を止めた。
隊員たちの様子が、いつもと違う。
疲れてはいる。
だが、だらけていない。
むしろ、動きが軽い。
「……どうだ?」
隊長が、短く尋ねる。
「問題ありません」
即座に返事が返る。
それから、少し間を置いて。
「……正直に言っていいなら」
一人が続けた。
「今日は、楽です」
隊長は眉を上げた。
「楽?」
「はい」
「暑いのは暑いです。でも――」
言葉を探す。
「いつもより、集中できてます」
隊長は、黙って頷いた。
彼自身も、同じ肌着を着ている。
違いには、気づいていた。
だが、それを口にするのは、少し先でもいいと思っていた。
「巡回を終えたら、報告をまとめる」
隊長は言った。
「着用感、問題点、全部だ。遠慮はいらん」
「了解しました!」
隊員たちは、いつもより張りのある声で応じ、持ち場へ散っていく。
その背中を見送りながら、隊長は一度、胸元に手を当てた。
汗は、確かにかいている。
だが、重くない。
(……これは)
導入前、正直なところ、半信半疑だった。
新しい支給品。
話だけ立派で、現場では役に立たないものも、いくらでも見てきた。
だが――
(文句が、出ない)
それが、何よりだった。
苦情は、現場が一番早い。
良くないものほど、すぐに声が上がる。
それが、ない。
詰所に戻った隊長は、簡単なメモを取り始めた。
「炎天下での巡回、問題なし」
「不快感の軽減、明確」
「集中力の持続、確認」
「頭と下半身、靴の中の不快感が……」
書きながら、ふとペンを止める。
「……商会長、だったか」
名前を思い出す。
派手な売り込みをするわけでもなく、
ただ「試してほしい」と言っていた男。
「――続ける価値は、あるな」
それは評価というより、現場の実感だった。
この街を歩き続けるために。
剣を握る前の、身体を守るために。
その日の夕方。
巡回を終えた衛兵たちは、詰所で鎧を外しながら、いつもより静かだった。
疲れていないわけではない。
だが、不快さが、確かに少ない。
「……明日も、これだな。洗い替えまであって助かる」
誰かが言った。
「そうだな」
隊長は短く頷いた。
「使えると分かった以上、上に回さない理由はない」
それだけで、十分だった。
声高な賛辞も、拍手もない。
ただ、現場が、少し楽になった。
それは、衛兵隊にとって、何より確かな“成果”だった。
◆
衛兵詰所の応接室は、簡素だが手入れが行き届いていた。
壁際には武具棚、窓からは訓練場の掛け声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
テーブルを挟んで向かいに座るのは、衛兵隊長のヴァルド。
実直な体躯の男で、鎧を脱いでも背筋が崩れない。
その隣に、清掃局長のグレイスが控えめに腰掛けている。
「――率直に言おう」
衛兵隊長は、そう前置きしてから口を開いた。
「この肌着、助かっている」
青司は、思わず背筋を正した。
「今まではな」
隊長は続ける。
「夏場の巡回は、二刻もすれば汗で下が冷え、鎧の内側が蒸れて集中力が落ちる」
「だが、これを着せてからは違う」
指で、自分の脇腹あたりを軽く叩く。
「汗をかいても、張り付かない。
乾くのが早いから、休憩に入る頃には不快感が抜けている」
言葉は淡々としていたが、現場を預かる者の確信があった。
「倒れる者が減った」
「交代の頻度も下がった」
「何より、文句が出ない」
そこで、わずかに口角を上げる。
「これは、かなり珍しい」
青司の隣りに座っていたセリーナは、
頷く衛兵隊長の様子を確認してから、静かに尋ねた。
「縫製や耐久面での問題はございませんか?」
「ない」
即答だった。
「洗っても性能は落ちていない」
「多少ヨレは出るが、実用上は問題ない範囲だ」
青司は、胸の奥で小さく息を吐いた。
仮成功――その言葉が、ようやく実感として形を持った。
ここで、清掃局長が、控えめに口を挟む。
「うちでも、同じです」
「清掃は動き続ける仕事ですから」
「午後の作業が、ずいぶん楽になったと聞いています」
それだけ言って、再び黙る。
必要以上に出しゃばらない、現場責任者らしい態度だった。
衛兵隊長は、二人を見渡した。
「で、だ」
「これは、今後も供給できるのか?」
核心だった。
セリーナが、青司に一瞬だけ視線を送る。
それを受けて、青司の後ろに立っていたクライヴが、はっきりと言った。
「現行の仕様であれば、可能です」
「綿糸を加工したものに限りますが、
服飾ギルドの工房で量産ラインを回していただく形になります」
「……魔力の問題は?」
青司が、気になっていた点を確認する。
「解決していますわ」
セリーナが、即座に断言した。
「ギルド内の錬金術師だけで対応できます」
ヴァルドは、深く頷いた。
「なら、正式に採用を検討しよう」
「まずは、現行人数分」
「問題がなければ、追加を出す」
それは、試験ではなく――実運用への一歩だった。
青司は、そこでようやく口を開いた。
「ありがとうございます」
「素材の特性上、麻より少し高くはなりますが……」
「構わん」
隊長は遮る。
「倒れる兵を減らせるなら、安いものだ」
短く、実務的な結論だった。
話が一区切りつき、立ち上がる前。
衛兵隊長は、ふと視線を落として言った。
「……いい仕事だ」
「街を守る側として、こういう道具は歓迎する」
青司は、深く一礼した。
隊長が立ち上がりかけた、その時だった。
「もう一点、よろしいですか」
セリーナが、静かに声をかける。
隊長が振り返る。
「今回の加工は、肌着に限ったものではありません」
ヴァルドは、わずかに眉を上げた。
「ほう?」
「同じ糸を使えば」
セリーナは淡々と言葉を続ける。
「帽子の内側、兜の下に被る布。
手袋の内側。
靴下や、ズボン下、靴の中敷にも展開できます」
一瞬の沈黙。
隊長は、無意識に自分の籠手を見た。
「……そいつは助かる」
「実際、隊員たちからも、
頭と下半身の暑さが相対的に強く感じるようになったと
声が上がっている」
「ええ」
セリーナは頷く。
「特に頭と足元は、体調に直結します。
炎天下では、なおさらです」
「ギルドの方でラインの安定が整うようでしたら」
クライヴが補足するように言う。
「衛兵隊と清掃局、双方の御要望を
改めて伺いたいと存じます」
だが、衛兵隊長は首を横に振った。
「いや、
さすがに予算の確保をしてからでないとな」
短く、だが確かな手応えを含んだ声だった。
「街を守る仕事は、装備が命だ。
選択肢が増えるのは、悪くない。
上に上げて、判断を仰ぐだけの材料は揃っている」
**************
街での用件をすべて終え、青司とリオナは連れ立って森へ戻った。
石畳の道を外れ、街道を離れると、空気が少しずつ変わっていく。
昼の熱を含んだ風は、森の縁に近づくにつれて和らぎ、葉擦れの音が耳に戻ってきた。
「やっぱり、こっちは落ち着くね」
隣を歩くリオナが、そう言って小さく息を吐く。
「街は便利だけど……人が多いからな」
「うん」
それだけで会話は終わる。
だが、歩調は自然と揃っていた。
森の家に着いた頃には、日が傾き始めていた。
戸を開けると、昼間に閉め切っていた空気が、ひんやりと迎えてくる。
「先に、火を起こすね」
「じゃあ、俺は水を汲んでくる」
言葉少なに役割を分け、二人は手際よく動いた。
こうして一緒に戻るのは、いつの間にか当たり前になっている。
簡素な夕食を並んで食べ終え、後片付けを済ませる。
やがて、いつもの薬草茶を淹れると、二人は並んで腰を下ろした。
湯気の立つカップを手に、リオナが自然に青司の隣へ寄る。
肩と肩が、そっと触れ合った。
「……最近、すごく忙しそうだったね」
何気ない声だった。
責めるでもなく、ただ様子を気遣うだけの調子。
「まあ……少し」
青司は苦笑して、茶をひと口飲む。
「正直、あの肌着が、ここまで大きな仕事になるとは思ってなかったよ」
「そうなんだ」
それ以上は聞かず、リオナは頷いた。
代わりに、彼女の指先が、青司の手の甲に軽く触れる。
意識しなければ、気づかないほどの距離だった。
「ちゃんと、休めてる?」
「……別邸でも気遣ってもらってたけど、
ここに戻ってくると、やっぱり一番休める」
その言葉に、リオナは小さく笑った。
「なら、よかった」
薬草茶の香りが、ゆっくりと部屋に広がる。
外では、鳥の声が夕暮れから夜へと移ろい始めていた。
特別なことは、何も起きない。
ただ、並んで座り、同じ時間を過ごすだけ。
けれど、その距離は、確かに以前よりも近い。
青司は、肩に伝わるぬくもりを感じながら、静かに思う。
(……一緒に、帰ってきたんだな)
街で踏み出した一歩の、その続きを考えるのは――
もう少し、先でいい。
今は、この静けさを、二人で分け合っていればよかった。
薬草茶の湯気が細くなり、カップの中身もいつの間にか冷めていた。
二人並んで腰掛けたまま、言葉は少なくなっていく。
外では虫の声が増え、森の夜がゆっくりと深まっていた。
ふと、リオナの肩が、青司の腕に触れた。
最初は、偶然だと思った。
だが、次の瞬間、わずかな重みが増す。
リオナは何も言わない。
ただ、無意識のまま、そっと寄りかかっている。
青司は息を止めた。
(……寝そう、か)
動こうとすれば動ける。
けれど、その重さが、どうしても邪魔をする。
温かくて、軽くて、
それでいて、離すのが惜しい重みだった。
しばらくして、リオナが小さく身じろぎをした。
「……もう、遅いね」
眠気を含んだ声だった。
「ああ……そうだな」
それ以上、言葉は続かない。
青司は、そっと立ち上がり、ランプの火を落とす。
部屋は、月明かりと森の影だけになる。
リオナは肩から離れ、名残惜しそうに瞬きをしたあと、
静かに背筋を伸ばした。
「今日は……ここまで、だね」
「うん」
それだけで、十分だった。
特別なことは、何も起きない。
ただ、同じ夜を過ごしただけ。
けれど、その静けさは、
確かに、二人の間に残っていた。
◆
朝の森は、静かだった。
夜露の名残が葉の先で光り、鳥の声が少しずつ増えていく。
青司が竈の前で朝食の仕度をしていると、背後で戸が静かに開いた。
「おはよう、青司」
籠を抱えたリオナが立っている。
いつもの森の服だが、街にいた頃より、どこか表情が柔らかい。
「おはよう。暑くなかった?」
「大丈夫」
簡単な朝食を済ませ、片付けを終えたあと。
二人は縁側に並んで腰を下ろした。
しばらくは、森の音だけが流れる。
やがて、リオナがぽつりと口を開いた。
「ねえ……」
「街にいる間のこと、少し話してもいい?」
「うん」
青司が頷くと、リオナは膝の上で指を組んだ。
「私ね」
「お姉ちゃんのお店、ほとんど毎日手伝ってたの」
「黒猫亭?」
「うん」
小さく笑う。
「昼は給仕で、夕方は仕込み」
「暑い日は、裏で氷を運ぶのも大変で」
その様子が、青司の頭に浮かぶ。
「でもね」
リオナは続ける。
「街に出ることも多かったから……何度か、青司を見かけた」
青司は、少し驚いたように目を瞬いた。
「見てた、って……?」
「偶然だよ」
「服飾ギルドの前とか、別邸の近くとか」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「別邸ではね」
「女官さんやメイドさんたちが、よく話してた」
「……どんな?」
「“ホヅミ商会の人、また戻ってきてる”とか」
「“昨日も遅くまで灯りが消えなかった”とか」
責める調子は、まったくなかった。
「だから」
リオナは静かに言う。
「忙しいんだな、って思ってた」
風が、木々を揺らす。
「黒猫亭からの帰り道ね」
「遠くから、青司が歩いてるのを見たこともある」
青司は、思わず息を吐いた。
「……どんな顔してた?」
「ちゃんと前を見てた」
「でも」
一瞬、言葉が止まる。
「誰かと話してる時より、少しだけ……」
「肩が下がってた」
青司は、苦笑した。
「そんな顔、してたか」
「してたよ」
リオナは、迷いなく言った。
「ほんの少しだけ、だけど」
沈黙が落ちる。
「だからね」
リオナは顔を上げ、青司を見る。
「森に戻ってきたとき、すぐ分かった」
「……何が?」
「ほっとしてた」
その一言が、胸に残った。
「ここに戻ってきて」
「やっと、息をついてる顔だった」
青司は、しばらく何も言えなかった。
「……見られてたんだな」
「見てただけ」
リオナは小さく笑う。
「私も、自分の毎日を過ごしてただけだから」
森の朝の光が、二人の足元に落ちる。
街で踏ん張っていた時間と、
黒猫亭で忙しく動いていた時間と、
別邸で交わされた無数の言葉。
それらが、今この場所で、静かに重なっている。
青司は、隣にいるリオナを見て思った。
(……一人で戦ってたつもりだったけど)
そうじゃなかった。
ちゃんと、同じ街で、
同じ時間を生きてくれていた人がいた。
それだけで、胸の奥が、少し軽くなった。




