67
薄いカーテン越しに、朝の光が差し込んでいた。
夜の名残を抱えたままの静けさ。
青司が最初に感じたのは、いつもより少し遅い目覚めと、胸元に残る温もりと、柔らかな感触。
「……?」
視線を落とすと、隣でリオナが、静かに眠っている。
ソファーに並んで腰掛けていたはずなのに、いつの間にか彼女は青司の肩にもたれ、深く眠っている。
長い睫毛が影を落とし、呼吸は規則正しい。
(……ああ、そうだった)
納涼祭の夜。
別邸に戻り、少し話をして、温かな飲み物を口にして――そのまま。
二人の上には、いつの間にかタオルケットがかけられていた。
青司は首を傾げる。自分がかけた記憶は、ない。
(……誰かが、気を利かせたな)
別邸の使用人の気配りに、胸の奥で小さく苦笑する。
青司はそっと体をずらし、タオルケットを引き寄せた。
リオナが起きないよう、慎重に。
彼女を横にして、楽な姿勢にさせてやる。
それでも、眠りは途切れない。
いつもなら、朝は早い。
森でも街でも、日の気配にすぐ反応するはずなのに。
(……よほど、疲れてたんだな)
それとも――安心しているのか。
そんなことを考えながら、青司は、近すぎる距離にある彼女の顔を、しばらく見つめてしまっていた。
青司は、何となく視線を逸らせなくなった。
近すぎて、少し困る距離。
柔らかな頬。
無防備な寝顔。
長い睫毛。
呼吸に合わせて、胸元の布が、かすかに上下する。
――かわいい、と思ってしまった。
気づけば、指が伸びていた。
つん、と。
頬を、ほんの少しだけ。
ほんの悪戯心だった。
だが、リオナは小さく眉を寄せ、もぞりと身じろぎする。
「……ん」
小さな声が漏れる。
もう一度、つん。
「……なに……?」
薄く目を開けたリオナが、ぼんやりと青司を見る。
薄く開いた目が、ゆっくりと焦点を結ぶ。
「……セイ、ジ……?」
寝起きの、掠れた声。
「あ、いや……起きてるかと思って」
言い訳になっていない言葉が口をつく。
リオナは一瞬きょとんとしてから、
青司の指先と、自分の頬を見比べて――
ぱっと顔を赤くした。
次の瞬間、状況を理解したのか、ぱちりと目が大きくなった。
「……っ!」
跳ね起きかけて、タオルケットに絡まり、動きが止まる。
青司は慌てて手を伸ばした。
「わ、悪い。起こすつもりじゃ……」
リオナは何も言わず、ただ赤くなった顔で青司を見る。
数秒の沈黙。
「……おはよう。起こすなら、ちゃんと声をかけてね」
ようやく絞り出すように言った声は、小さかった。
「……すまん」
それだけで、また静けさが戻る。
二人とも、どこに視線を置いていいか分からず、少し落ち着かない。それでも、離れようとは、どちらも思わなかった。
そのとき――
コン、コン。
控えめなノックの音。
「……お目覚めでしたら」
扉の向こうから、女官の穏やかな声がした。
「朝の身支度のご用意を。……急ぎませんので」
一拍置いて、続く。
「朝食まで、まだお時間はございます」
言外に、すべてを察した配慮だった。
リオナは、ほっと息を吐く。
「……行ってくるね。……さっきの。……悪くなかった」
声をかけたリオナの頬が染まっていた。
「ああ」
立ち上がる前、ほんの一瞬だけ、視線が合う。
言葉はない。
だが、互いに昨夜の続きを思い出しているのが、分かった。
リオナが部屋を出ると、別邸は再び静かになった。
青司はソファーに残り、タオルケットを見下ろす。
まだ、かすかに温かい。
(……変わったな)
そう思いながらも、嫌ではなかった。
やがて、自分も身支度を整え、朝の食堂へ向かう。
いつもの生活。いつもの時間。
だが、胸の奥には、確かに残っている。
昨夜の灯りと、風の音と――
隣で眠っていた温もりが。
朝の光が、別邸の食堂にやわらかく差し込んでいた。
焼き立てのパンと、薬草茶の穏やかな香り。
青司とリオナは向かい合って朝食をとっていたが、
どちらからともなく、視線が何度か逸れた。
いつも通りのはずの距離。
けれど、ほんの少しだけ、落ち着かない。
その空気を察したのか、給仕に立つ女官は、
音を立てぬよう静かに動きながら、
そっと口元を緩めていた。
そんな空気の中――
控えめなノックの音がして、ビリーが顔を出した。
「失礼します、セイジさん。クライヴさんから連絡です。本日は在庫切れのため、ホヅミ商会リオネ店舗は休みになるそうで」
「……そうか」
青司は頷いた。
「無理はしない方がいいな」
リオナが小さく笑う。
「じゃあ、今日はゆっくり?」
「黒猫亭に顔を出してから、少し街を歩こう」
ビリーは一礼し、踵を返した。
その足取りが、どこか軽い。
食堂の奥で、給仕をしていた女官たちは、視線を交わす。
言葉は交わさない。
ただ、茶器を置く手つきが、いつもより柔らかだった。
「……今日は、よい一日になりそうですね」
小さく、ほとんど息のような声。
誰に向けたものでもない呟きに、隣の女官がそっと頷く。
二人の邪魔にならぬよう、音を立てず、距離を保つ。
それが、この別邸での務めだと知っている。
青司とリオナは、その視線に気づかないまま、
朝の光の中で、次の予定を話していた。
⸻
街は、祭りの余韻をそのまま抱いているようだった。
通りにはまだ提灯が残り、昨夜の風鈴が、眠そうな音をひとつふたつ鳴らしている。
リオナは、青司の半歩隣を歩きながら、ゆっくりと息を吸った。
石畳はまだ熱を残しているけれど、空気は少しやさしい。
(……昨日より、楽)
理由は、いくつもあった。
肌に張りつかない服の内側。
昨夜、きちんと眠れたこと。
そして、隣を歩く人の存在。
黒猫亭の前に近づくと、甘い果実と砂糖の匂いが混ざって流れてきた。
店先では、早くもゼリーが並び、朝の光を受けて透き通っている。
「あっ、リオナ」
姉のマリサに声をかけられ、リオナは振り返る。
見慣れた顔、見慣れた笑顔。
「昨日も大忙しだったけど、きっと今日もね」
マリサが肩をすくめて笑う。
「セイジくんに教えてもらったゼリーのおかげよ」
「色々あってな」
ベルドが、少し照れたように頭を掻いた。
「他の店にもレシピを公開することにしたんだ。客がうちに集中しすぎるのも、良くないだろ?」
その言葉は、誇るでもなく、気取るでもなく、
ただ“街の流れ”として、自然にそこにあった。
それが、妙に胸に残った。
黒猫亭の中では、仕込みの音が静かに続いていた。
青司が話している間、リオナは店内を見回す。
壁際の席。
窓から入る光。
忙しそうで、それでもどこか穏やかな空気。
(……ここから、広がったんだ)
通りに戻ると、他の店にもゼリーが並んでいた。
黒猫亭とは違う器。違う色。違う香り。
「これ、食べてみる?」
青司に言われ、リオナは小さく頷く。
一口。
少し甘くて、果実の主張が強い。
「……違うね」
「でも、悪くない」
リオナはそう言って、少し笑った。
同じレシピではあるけれど、同じではない。
器も、色も、添えられた果実も違う。
それぞれの店の“夏”が、そこにあった。
通りを歩いていると、顔見知りの姿があちこちにあった。
屋台の前ではティオが友人たちと笑い合い、
喫茶店の外では、ルーカスやレオナルドたちが
グラスを傾けながら静かに休んでいる。
それぞれが、それぞれの場所で、
ちゃんと夏を過ごしていた。
通りの向こうで、見慣れた背中が手を振った。
クライヴだった。
隣には、夫人と、小さな子どもの姿。
「今日は、子どもを連れて祭りを楽しみます」
「いつも主人がお世話になっております」
簡単な挨拶だけ交わして、すぐ人波に紛れていく。
その背中は、どこか肩の力が抜けて見えた。
「昨日は走りっぱなしだったからね」
そんな声を聞きながら、リオナは思う。
(……みんな、ちゃんと休めてる)
昼前、日陰の多い通りで腰を下ろした。
ゼリーをもう一つ分け合い、ゆっくり食べる。
近くで、誰かが話しているのが聞こえた。
「最近できたゼリーが、色々なお店で食べられるなんてステキな街ね」
「ええ、なんでも新しい仕立て屋も次々とオープンしているんですって」
「日焼け止めに乳液もお祭りにあわせて販売されるんですもの、買いたいものが多すぎて」
その会話に、リオナは少しだけ目を伏せる。
ゼリーを広めた姉夫婦の顔が浮かび、なんとなく、胸の奥が温かくなった。
「……広がって、いいよね」
ぽつりと呟くと、青司が静かに頷いた。
通りの向こうで、子どもがゼリーを落として泣いている。
すぐに大人がしゃがみ込み、笑いながら拭いてやっていた。
それを見て、リオナはふっと息を吐く。
(……夏って、こういうものだったんだ)
暑くて、面倒で、少しつらい。
でも、誰かが手を差し伸べて、少しだけ楽になる。
気づくと、青司がこちらを見ていた。
「どうした?」
「ううん」
リオナは首を振り、また通りを見る。
昨日よりも、今日の方が好きだと思った。
派手じゃなくて、静かで、ちゃんと続いている夏。
そして、その中に、自分がいる。
リオナは、歩き出すとき、無意識に青司との距離を少しだけ詰めた。
肩が触れそうで、触れないくらい。




