66
通りに入った瞬間、澄んだ音が重なって降ってきた。
涼やかな金属音、柔らかな木の音、かすかに余韻を引く低い音。
頭上には、素材も形も異なる風鈴が無数に吊られ、夜風に揺れている。
「……すごいな」
青司は思わず足を止めた。
「でしょ?」
リオナが少し誇らしげに言う。
「通りごとに音が違うの。ほら、こっちは木が多いから、やさしい音」
歩くたびに、二人の動きに合わせて音が変わる。
人の笑い声の間を縫うように、風鈴の音が流れていった。
通りの向こうから、ひそやかな笑い声が聞こえてくる。
「ね、今年は全然ひりひりしないわ」
「でしょう?あれ、塗り直さなくても楽なのよ」
「日中ずっと外にいたのに、赤くならなかったもの」
淡い色のドレスを纏った娘たちが、扇子を揺らしながら通り過ぎていく。
頬は涼やかで、どこか安心したような表情だった。
青司は、音の向こうに消えていく背中を、ちらりと見送った。
「音だけで、ちょっと涼しくなるな」
「うん。暑いのは変わらないんだけどね。でも、良い感じじゃない」
そう言って、リオナは肩をすくめた。
革の狩衣ではなく、今日は軽めの上着。
その下には、あの肌着がある。
「……中、どうだ?」
青司が、控えめに聞く。
リオナは一瞬きょとんとしてから、ふっと笑った。
「ちゃんと、楽よ」
声を落として続ける。
「歩いてるのに、張りつかない。汗の感じが、残らないの」
その言葉に、青司は小さく息を吐いた。
胸の奥で、静かに何かがほどける。
「……それなら、よかった」
⸻
川辺の少し上流で、控えめな声が聞こえた。
「ほら、じっとして。すぐ楽になるから」
淡い色の外套を羽織った貴族の婦人が、しゃがみ込み、
小さな娘の肩に、白い乳液をそっと伸ばしている。
「……ひりひりしない?」
「うん……さっきより、平気」
灯篭の明かりが、水面に揺れながら、その二人を照らす。
幼い肩は、もう強張っていなかった。
「……誰かに、ちゃんと手当てされる夏って」
青司が、灯りを見つめたまま言う。
「うん」
リオナは、小さく頷いた。
「それだけで、全然違うよね」
川沿いを進むと、景色が変わった。
水面には、小さな灯りがいくつも流れている。
紙と薄木で作られた灯篭。
一つひとつに、短い言葉が書かれていた。
「願い事じゃないの」
リオナが説明する。
「“お疲れさま”とか、“今日も無事”とか……労いの灯り」
二人も、係の人から小さな灯を受け取った。
青司は、しばらく考えてから、短く書く。
『今日も、無事』
リオナは少し悩んで、それから、くすっと笑って書いた。
『ちゃんと、楽だった』
「それ……」
「いいでしょ?」
並んで川にしゃがみ、同時に灯を流す。
灯りは寄り添うように、ゆっくりと流れていった。
「……夏って、嫌いじゃなかったっけ?」
青司が、ぽつりと言う。
「昔はね」
リオナは水面を見つめたまま答える。
「でも、こうやって……少し楽だと、悪くない」
その横顔が、灯りに照らされて、やわらかく見えた。
⸻
広場に近づくと、空気が変わる。
淡い光を放つ灯篭が並び、薬草の香りがふんわりと漂っていた。
ひんやりとした、落ち着く匂い。
「これが、薬草灯」
「……いいな」
青司は素直に言った。
「派手じゃないのに、ちゃんと効いてる」
「セイジの作るものと、似てるわね」
不意に言われて、青司は少しだけ照れた。
「……そうかもな」
灯りの中で、人々は立ち止まり、話し、休んでいる。
誰も急がない。
「ね」
リオナが、そっと言う。
「今年の夏、今までで一番楽かもしれない」
青司は、少しだけ迷ってから答えた。
「……俺もだ」
⸻
そして、夜の終わり。
広場の中央で、係の合図が響く。
次の瞬間、淡い光の粒が、ふわりと宙に舞い上がった。
光の種。
白、青、薄紫。
ゆっくりと、夜空に溶けていく。
「きれい……」
リオナが、思わず呟く。
その手に、青司の手が、そっと触れた。
驚いて顔を上げると、青司は慌てて視線を逸らす。
「……人、多いから」
「……うん」
どちらからともなく、離そうとはしなかった。
リオナは、指先に残る温度を、そっと握り込んだ。
並んで見上げる夜空。
光が消えても、余韻が残る。
「ね、セイジ」
リオナが、少しだけ声を落とす。
「来年も……一緒に見たいな」
青司は、一瞬だけ視線を落とし、
それから、はっきりと頷いた。
「ああ。来年も一緒に」
リオナは、笑った。
夏の夜よりも、少しだけ甘い笑みで。
*******
別邸の門をくぐる頃には、街の喧騒はすっかり背後に遠ざかっていた。
夜風が静かで、虫の声が庭の奥から聞こえてくる。
「……帰ってきた、って感じだな」
青司がそう言うと、リオナは小さく息を吐いて笑った。
「うん。ちょっと、ほっとする」
夕食は祭りの屋台で済ませていたため、邸内では軽いものだけが用意されていた。
果実を煮詰めた冷たいデザートと、薬草を少し加えた温かな飲み物。
「こちらは、眠りを妨げないよう、料理長が夜用に整えたお茶でございます。どうぞご安心ください」
女官の一人が、控えめに声を落として説明した。
「……さすが領主家」
青司が苦笑すると、リオナもくすっと笑った。
ソファに並んで腰を下ろし、カップを手に取る。
甘さは控えめで、喉を通ると体の奥がゆるむようだった。
「今日は……楽しかったね」
リオナがぽつりと言う。
「ああ。人は多かったけど、不思議と疲れすぎなかった」
「ね」
自分の腕や肩を見下ろしながら、
「歩き回ったのに、べたべたしなかったし」
そこへ、頃合いを見計らったように女官が一礼する。
「リオナ様、よろしければお風呂のご用意が整っております」
「……え、もう?」
一瞬戸惑いながらも、どこか期待が混じる声。
「今日はよく歩かれましたから」
青司は立ち上がり、
「じゃあ、その間に俺も汗を流してくるよ」
と自然に言った。
すれ違いざま、ほんの一瞬、視線が重なる。
それだけで、互いに少しだけ頬が熱くなった。
⸻
湯上がりのリオナは、案内された自分の部屋で足を止めた。
「……え?」
クローゼットを開くと、そこには見慣れない――けれど自分に合いそうな服が、季節ごとに揃えられていた。
狩り用だけではない、街着、部屋着、柔らかな素材の寝間着まで。
「全部……私の?」
「はい」
女官が微笑む。
「フィオレル様から、“長く使うことになるだろうから”と、
お気に召したものを、そのままお使いいただければと承っております」
リオナはしばらく言葉を失い、それから小さく呟いた。
「……ここ、借りてるだけだと思ってた」
「ですが、“居場所”でもありますから」
その言葉が、胸に静かに落ちた。
⸻
一方、青司も湯を使い、居間に戻っていた。
ソファに腰を下ろしていると、ふと先ほど女官に言われた言葉を思い出す。
「……女性は、身支度の間に色々教わるものです。男性は、膝枕など喜ばれると」
思い出して、思わず咳払いをする。
ほどなくして、リオナが部屋着姿で戻ってきた。
髪はきちんと整えられ、ほのかに薬草の香りがする。
「……どう?」
少し照れたように聞かれる。
「……似合ってる」
短いが、嘘のない言葉だった。
二人でソファに並び、静かな夜を味わう。
「ね」
リオナが、少し間を置いて言う。
「街、歩いてる間……気づいてた?」
「護衛だろ」
青司は即答した。
「気配、消しきれてなかった」
「やっぱり」
安心したように笑う。
「守られてるって、分かると……ちょっと、心強いね」
沈黙が落ちる。
気まずくはない。
やがて、リオナがそっと体を預けてきた。
青司は一瞬、息を止める。
けれど、避けることも、動くこともできなかった。
肩に触れる温もりが、思ったより近い。
二人とも、何も言わないまま――
ただ、顔だけが熱くなっていった。
膝枕、というほどではない。
けれど、確かに距離は近い。
外では、祭りの最後の音が、かすかに風に乗って届いていた。
ソファの上、二人の間に、わずかな隙間が残っていた。
肘掛けに置いた青司の手と、リオナの指先が、ほんの少し近い。
近いだけで、触れてはいない。
――触れたら、何かが変わってしまいそうで。
青司は視線を前に向けたまま、じっと動かずにいる。
リオナも同じだった。
けれど、別邸の夜は静かで、
昼の喧騒をすべて洗い流したあとのように、穏やかだった。
暖かな茶の香りが、ゆっくりと鼻先をくすぐる。
灯りは落とされ、壁際のランプだけが、淡く揺れている。
リオナの呼吸が、少しずつ長くなる。
「……」
青司は気づく。
肩にかかる重みが、わずかに増えた。
眠気だ。
祭りの余韻。
風。音。灯り。
それから、歩き疲れた身体。
青司もまた、まぶたが重い。
「……今日は、長かったな」
小さく言うと、
リオナは、うっすら目を開けて、笑った。
「うん……でも、楽しかった」
そのまま、しばらく沈黙。
指先が、わずかに動く。
触れそうで、触れない距離。
どちらも、動かさなかった。
やがて――
「……おやすみ、リオナ」
青司が、先に言った。
起こさないような、低い声で。
少し遅れて、
「……おやすみ、セイジ」
リオナの声が返る。
眠気に溶けた、やわらかな響き。
その夜、二人の手は触れなかった。
けれど、同じ静けさの中で、同じ温度を感じながら、
それぞれの眠りへと落ちていった。
――急がなくていい距離が、そこにはあった。




