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 通りに入った瞬間、澄んだ音が重なって降ってきた。


 涼やかな金属音、柔らかな木の音、かすかに余韻を引く低い音。

 頭上には、素材も形も異なる風鈴が無数に吊られ、夜風に揺れている。


「……すごいな」

 青司は思わず足を止めた。


「でしょ?」

 リオナが少し誇らしげに言う。

「通りごとに音が違うの。ほら、こっちは木が多いから、やさしい音」


 歩くたびに、二人の動きに合わせて音が変わる。

 人の笑い声の間を縫うように、風鈴の音が流れていった。

 通りの向こうから、ひそやかな笑い声が聞こえてくる。


「ね、今年は全然ひりひりしないわ」

「でしょう?あれ、塗り直さなくても楽なのよ」

「日中ずっと外にいたのに、赤くならなかったもの」


 淡い色のドレスを纏った娘たちが、扇子を揺らしながら通り過ぎていく。

 頬は涼やかで、どこか安心したような表情だった。

 青司は、音の向こうに消えていく背中を、ちらりと見送った。


「音だけで、ちょっと涼しくなるな」

「うん。暑いのは変わらないんだけどね。でも、良い感じじゃない」


 そう言って、リオナは肩をすくめた。

 革の狩衣ではなく、今日は軽めの上着。

 その下には、あの肌着がある。


「……中、どうだ?」

 青司が、控えめに聞く。


 リオナは一瞬きょとんとしてから、ふっと笑った。


「ちゃんと、楽よ」

 声を落として続ける。

「歩いてるのに、張りつかない。汗の感じが、残らないの」


 その言葉に、青司は小さく息を吐いた。

 胸の奥で、静かに何かがほどける。


「……それなら、よかった」



 川辺の少し上流で、控えめな声が聞こえた。


「ほら、じっとして。すぐ楽になるから」


 淡い色の外套を羽織った貴族の婦人が、しゃがみ込み、

 小さな娘の肩に、白い乳液をそっと伸ばしている。


「……ひりひりしない?」

「うん……さっきより、平気」


 灯篭の明かりが、水面に揺れながら、その二人を照らす。

 幼い肩は、もう強張っていなかった。


「……誰かに、ちゃんと手当てされる夏って」

 青司が、灯りを見つめたまま言う。


「うん」

 リオナは、小さく頷いた。

「それだけで、全然違うよね」



 川沿いを進むと、景色が変わった。

 水面には、小さな灯りがいくつも流れている。

 紙と薄木で作られた灯篭。

 一つひとつに、短い言葉が書かれていた。


「願い事じゃないの」

 リオナが説明する。

「“お疲れさま”とか、“今日も無事”とか……労いの灯り」


 二人も、係の人から小さな灯を受け取った。


 青司は、しばらく考えてから、短く書く。


『今日も、無事』


 リオナは少し悩んで、それから、くすっと笑って書いた。


『ちゃんと、楽だった』


「それ……」

「いいでしょ?」


 並んで川にしゃがみ、同時に灯を流す。

 灯りは寄り添うように、ゆっくりと流れていった。


「……夏って、嫌いじゃなかったっけ?」

 青司が、ぽつりと言う。


「昔はね」

 リオナは水面を見つめたまま答える。

「でも、こうやって……少し楽だと、悪くない」


 その横顔が、灯りに照らされて、やわらかく見えた。



 広場に近づくと、空気が変わる。


 淡い光を放つ灯篭が並び、薬草の香りがふんわりと漂っていた。

 ひんやりとした、落ち着く匂い。


「これが、薬草灯」

「……いいな」

 青司は素直に言った。

「派手じゃないのに、ちゃんと効いてる」


「セイジの作るものと、似てるわね」


 不意に言われて、青司は少しだけ照れた。


「……そうかもな」


 灯りの中で、人々は立ち止まり、話し、休んでいる。

 誰も急がない。


「ね」

 リオナが、そっと言う。

「今年の夏、今までで一番楽かもしれない」


 青司は、少しだけ迷ってから答えた。


「……俺もだ」



 そして、夜の終わり。


 広場の中央で、係の合図が響く。

 次の瞬間、淡い光の粒が、ふわりと宙に舞い上がった。


 光の種。

 白、青、薄紫。

 ゆっくりと、夜空に溶けていく。


「きれい……」

 リオナが、思わず呟く。


 その手に、青司の手が、そっと触れた。

 驚いて顔を上げると、青司は慌てて視線を逸らす。


「……人、多いから」

「……うん」


 どちらからともなく、離そうとはしなかった。

 リオナは、指先に残る温度を、そっと握り込んだ。


 並んで見上げる夜空。

 光が消えても、余韻が残る。


「ね、セイジ」

 リオナが、少しだけ声を落とす。

「来年も……一緒に見たいな」


 青司は、一瞬だけ視線を落とし、

 それから、はっきりと頷いた。


「ああ。来年も一緒に」


 リオナは、笑った。

 夏の夜よりも、少しだけ甘い笑みで。



*******



 別邸の門をくぐる頃には、街の喧騒はすっかり背後に遠ざかっていた。

 夜風が静かで、虫の声が庭の奥から聞こえてくる。


「……帰ってきた、って感じだな」

 青司がそう言うと、リオナは小さく息を吐いて笑った。


「うん。ちょっと、ほっとする」


 夕食は祭りの屋台で済ませていたため、邸内では軽いものだけが用意されていた。

 果実を煮詰めた冷たいデザートと、薬草を少し加えた温かな飲み物。


「こちらは、眠りを妨げないよう、料理長が夜用に整えたお茶でございます。どうぞご安心ください」

 女官の一人が、控えめに声を落として説明した。


「……さすが領主家」

 青司が苦笑すると、リオナもくすっと笑った。


 ソファに並んで腰を下ろし、カップを手に取る。

 甘さは控えめで、喉を通ると体の奥がゆるむようだった。


「今日は……楽しかったね」

 リオナがぽつりと言う。


「ああ。人は多かったけど、不思議と疲れすぎなかった」


「ね」

 自分の腕や肩を見下ろしながら、

「歩き回ったのに、べたべたしなかったし」


 そこへ、頃合いを見計らったように女官が一礼する。


「リオナ様、よろしければお風呂のご用意が整っております」


「……え、もう?」

 一瞬戸惑いながらも、どこか期待が混じる声。


「今日はよく歩かれましたから」


 青司は立ち上がり、

「じゃあ、その間に俺も汗を流してくるよ」

 と自然に言った。


 すれ違いざま、ほんの一瞬、視線が重なる。

 それだけで、互いに少しだけ頬が熱くなった。



 湯上がりのリオナは、案内された自分の部屋で足を止めた。


「……え?」


 クローゼットを開くと、そこには見慣れない――けれど自分に合いそうな服が、季節ごとに揃えられていた。

 狩り用だけではない、街着、部屋着、柔らかな素材の寝間着まで。


「全部……私の?」


「はい」

 女官が微笑む。

「フィオレル様から、“長く使うことになるだろうから”と、

お気に召したものを、そのままお使いいただければと承っております」


 リオナはしばらく言葉を失い、それから小さく呟いた。


「……ここ、借りてるだけだと思ってた」


「ですが、“居場所”でもありますから」


 その言葉が、胸に静かに落ちた。



 一方、青司も湯を使い、居間に戻っていた。

 ソファに腰を下ろしていると、ふと先ほど女官に言われた言葉を思い出す。


「……女性は、身支度の間に色々教わるものです。男性は、膝枕など喜ばれると」


 思い出して、思わず咳払いをする。


 ほどなくして、リオナが部屋着姿で戻ってきた。

 髪はきちんと整えられ、ほのかに薬草の香りがする。


「……どう?」

 少し照れたように聞かれる。


「……似合ってる」

 短いが、嘘のない言葉だった。


 二人でソファに並び、静かな夜を味わう。


「ね」

 リオナが、少し間を置いて言う。

「街、歩いてる間……気づいてた?」


「護衛だろ」

 青司は即答した。

「気配、消しきれてなかった」


「やっぱり」

 安心したように笑う。

「守られてるって、分かると……ちょっと、心強いね」


 沈黙が落ちる。

 気まずくはない。


 やがて、リオナがそっと体を預けてきた。


青司は一瞬、息を止める。

けれど、避けることも、動くこともできなかった。


肩に触れる温もりが、思ったより近い。


二人とも、何も言わないまま――

ただ、顔だけが熱くなっていった。


 膝枕、というほどではない。

 けれど、確かに距離は近い。


 外では、祭りの最後の音が、かすかに風に乗って届いていた。


 ソファの上、二人の間に、わずかな隙間が残っていた。


 肘掛けに置いた青司の手と、リオナの指先が、ほんの少し近い。

 近いだけで、触れてはいない。


 ――触れたら、何かが変わってしまいそうで。


 青司は視線を前に向けたまま、じっと動かずにいる。

 リオナも同じだった。


 けれど、別邸の夜は静かで、

 昼の喧騒をすべて洗い流したあとのように、穏やかだった。


 暖かな茶の香りが、ゆっくりと鼻先をくすぐる。

 灯りは落とされ、壁際のランプだけが、淡く揺れている。


 リオナの呼吸が、少しずつ長くなる。


「……」


 青司は気づく。

 肩にかかる重みが、わずかに増えた。


 眠気だ。


 祭りの余韻。

 風。音。灯り。

 それから、歩き疲れた身体。


 青司もまた、まぶたが重い。


「……今日は、長かったな」


 小さく言うと、

 リオナは、うっすら目を開けて、笑った。


「うん……でも、楽しかった」


 そのまま、しばらく沈黙。


 指先が、わずかに動く。

 触れそうで、触れない距離。


 どちらも、動かさなかった。


 やがて――


「……おやすみ、リオナ」


 青司が、先に言った。

 起こさないような、低い声で。


 少し遅れて、


「……おやすみ、セイジ」


 リオナの声が返る。

 眠気に溶けた、やわらかな響き。


 その夜、二人の手は触れなかった。

 けれど、同じ静けさの中で、同じ温度を感じながら、

 それぞれの眠りへと落ちていった。


 ――急がなくていい距離が、そこにはあった。

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