65
日が落ちきる少し前、ホヅミ商会の裏口が、重たく軋んだ。
「……戻りました……」
最初に聞こえたのは、クライヴの声だった。
張りのあるいつもの調子は影を潜め、乾いた紙袋を揺らすような、疲労を隠さない声音。
続いてミレーネが入ってくる。
「……納品、全部確認しました。問題なし……たぶん」
最後の「たぶん」が、今日一日の過酷さを物語っていた。
事務所に辿り着いた三人は、示し合わせたわけでもないのに、ほぼ同時に椅子へ崩れ落ちる。
――どさっ。
音だけは揃っていた。
「……終わった、わよね……?」
ミレーネが天井を仰ぎながら呟く。
「ええ……今日の分は……確実に……」
クライヴは机に肘をつき、額を押さえた。
化粧水、乳液、日焼け止め、色付き薬用リップ。
各工房との契約確認、品質のすり合わせ、数量調整。
初回納品分は、なんとか今日の夕方にすべて揃え切った。
納涼祭前夜としては、奇跡に近い。
「……あとは、明日……売るだけ……」
誰かがそう言った気がしたが、誰だったかはわからない。
その奥で。
青司は、椅子に腰を下ろすこともなく、壁に手をついて小さく息を整えていた。
額には汗。
袖口は薬液と湯気で湿り、目の下にはうっすらと影が落ちている。
――正直、限界だった。
「セイジさん……?」
ミレーネが気づいて顔を上げる。
「大丈夫ですか?」
「ああ……うん。大丈夫」
返事はしたが、声が少し遅れた。
青司は一度だけ深く息を吸い、奥の作業場へ向かう。
「……?」
クライヴが怪訝そうに目を細める。
「……今から、何を?」
返事はない。
少しして、布を擦る音がした。
そして。
「――あの」
青司が戻ってきたとき、腕にはいくつかの包みが抱えられていた。
淡い色合いの布。
薄手で、見るからに夏向きの肌着。
「……なに、これ……?」
ミレーネが目を瞬かせる。
「汗を吸い取って、すぐ乾く肌着です。
……まだ、リオナにしか試してもらってはいないんですけど」
一瞬、帳場の空気が止まった。
次の瞬間、クライヴが低く呻いた。
「……今、ですか?」
「うん」
青司は素直に頷く。
「商会とお世話になってる人の分だけ。……立ちっぱなしだし、明日は暑いだろうから」
誰も、すぐに言葉が出なかった。
クライヴはしばらく包みを見つめ、それから深く、長いため息をつく。
「……セイジさん」
「なに?」
「あなた、本当に……」
言葉を探すように一度止めて、
「商売人としては、失格ですよ」
だが、その声に棘はなかった。
ミレーネは苦笑しながら包みを受け取る。
「……ありがたいけど……本当に、今夜じゃなくてよかったのに」
「明日だと、間に合わないでしょ」
青司はそう言って、肩をすくめた。
「納涼祭は、朝からだし」
ティオが包みを抱えたまま、小さく笑った。
「……セイジさんって、そういうとこですよね」
「?」
「自分の疲れ、後回し」
青司は返事をしなかった。
ただ、ようやく椅子に腰を下ろす。
その瞬間、力が抜けたように背中が沈んだ。
事務所には、しばし静けさが落ちる。
外では、夜の準備をする街の音。
灯りが増え、人の声が弾み始めている。
「……明日」
クライヴが静かに言った。
「売れるかどうかは、正直、まだ分かりません」
「うん」
「でも……」
包みを見下ろして、
「“使う側が楽になるもの”だということは、確かですね」
青司は、ゆっくりと頷いた。
「それでいい」
短い言葉だったが、疲れ切った声の中に、揺るぎはなかった。
納涼祭前夜。
商会は、ようやく息をついた。
――そして明日、この街は、少しだけ楽な夏を迎えることになる。
*******
納涼祭当日。
陽がまだ高いうちから、ホヅミ商会の店舗リオネは熱気に包まれていた。
人が途切れない。
声が重なる。
包み紙が次々と消えていく。
「すみません、化粧水は……」
「そちらは、もう完売です!」
「日焼け止めは?」
「そちらも、今ので最後です!」
棚の前で立ち止まった客が、驚いたように目を見開く。
それを見て、別の客が慌てて列に加わる。
夕方前。
「倉庫の在庫が、もうありません」
棚の補充に走り回っていたルーカスとティオが、息を切らしながら告げた。
店を仕切るクライヴとクレスは、思わず顔を見合わせる。
二日分を想定していた商品は、初日のこの時間で、ほぼ姿を消していた。
店舗の奥で、クライヴが最後の帳面を閉じる。
「……ここまでですね」
その声に、店内の空気がふっと緩んだ。
歓声はない。ただ、深く息を吐く音が、あちこちから漏れる。
「初日で、ここまでとは……」
会計に追われ続けていたレオナルドとサハイが、ようやく椅子に手をつき、息をついた。
「足りなかった、ですね」
接客を担当していたソフィアとリディア、ダンが顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。
「いや」
クライヴは首を振る。
「“足りなかった”じゃない。“届いた”んです」
その言葉に、青司は棚の跡を見つめたまま、何も言わなかった。
作ったものが、使われた。
それだけで、十分だった。
「……よし」
クライヴが顔を上げる。
「今日はここまでにしましょう。閉店です」
扉を閉め、札を裏返す。
外からは、祭りの音がはっきりと聞こえてきた。
笛の音、太鼓、笑い声。夕暮れの街が、浮き立っている。
青司は襟元を軽く引いた。
汗はかいているはずなのに、布が張り付く感じがない。
「……助かったな」
ぽつりと漏れた声は、誰に向けたものでもなかった。
青司は袖をまくり直し、振り返った。
「片付け、手伝うよ」
だが、その前に。
「――ダメです」
即座に、クライヴが言った。
「え?」
「今日はもう、会長の仕事は終わりです」
きっぱりとした口調だった。
「店の片付けは、商会員の仕事です」
「でも……」
「でもも何もありません」
リオネの鍵を手に取りながら、続ける。
「今日ここまで回ったのは、皆が役割を果たしたからです。
なら、休むのも役割のうちです」
青司は言葉を探して、結局、見つからなかった。
その横で、リオナが小さく息を整える。
「……セイジ」
呼ばれて振り向くと、リオナは少しだけ遠慮がちに言った。
「……行こ?」
外から、ひときわ大きな笑い声が響いた。
灯りがともり始め、通りが金色に染まっていく。
青司は一瞬、店内を見回した。
疲れ切ったけれど、満ち足りた顔の商会員たち。
空になった棚。
整えられた帳場。
そして、リオナ。
「……そう、だな」
その一言で、十分だった。
「いってらっしゃい」
ミレーネが手を振る。
「ちゃんと、楽しんできてくださいね」
「店は任せてください」
クレスも笑う。
扉を開けた瞬間、夜の気配が流れ込む。
涼やかな風。灯り。人の波。
「セイジ」
歩き出す前に、リオナが小さく言った。
「……中、全然違うよ。さっきまで、忙しかったのに」
青司とリオナは、並んで一歩、外へ出た。
納涼祭は、これからだ。
*******
扉が閉まり、外の喧騒が一枚隔てられると、店の中は一気に“仕事のあと”の空気に変わった。
「……さて」
クレスが袖をまくる。
「片付け、いきましょうか」
「ですねえ」
ミレーネがカウンターに肘をつき、ふうっと息を吐いた。
「初日でほぼ完売って……ちょっと、やりすぎじゃないです?」
「褒め言葉ですよ、それ」
帳簿を閉じながらクライヴが笑う。
「準備した側が一番驚いてるんですから」
棚を拭いていたティオが、ふと手を止めた。
「……行きましたね」
「行ったね」
即座にソフィア。
「並んで」
リディアが付け足す。
「外、すごく人多いのに」
ダンがわざとらしく肩をすくめた。
一瞬、店内に妙な間が落ちる。
「……まあ」
ミレーネが咳払いをひとつ。
「会長の仕事は“判断”までですからね。片付けは我々の仕事です」
「言い切りましたね」
クレスが苦笑する。
「でも」
ティオが包みを抱え直して、にやっと笑った。
「誘う方が先だったって聞きましたよ?」
「おっと」
クライヴがわざとらしく帳簿を閉じる音を立てた。
「その話は、もう少し後にしようか」
「後でですね」
「後でですね」
声が揃う。
誰も否定しない。
レオナルドが、床に落ちた布切れを拾いながら、ぽつりと呟いた。
「……それより、ですよ」
「うん?」
「今日、一日立ちっぱなしだったのに」
自分の袖口を引いてみせる。
「中、全然つらくなかったんですけど」
「それ、私も」
ソフィアが頷く。
「汗かいてるはずなのに、張り付かない」
「なんなら」
ダンが笑う。
「今日は、動いても動いても、汗が気にならなかったですね」
「……でしょうね」
ミレーネが小さく笑った。
「あの人、自分の分は最後ですから」
「最後どころか」
ティオが肩をすくめる。
「自分の疲れ、数に入れてないです」
一同、無言。
そして――
「困った会長だ」
クライヴが、でも楽しそうに言った。
「ほんとに」
「困りますね」
「でも、まあ……」
誰かが、言葉を濁す。
それで十分だった。
外から、祭りの音がまた大きくなる。
笑い声、笛、太鼓。
この店の中では、
片付けをしながら、
少しだけ生暖かい視線が行き交っていた。
「……明日は、どうしますか」
クレスが言う。
「ええ」
ミレーネが頷いた。
「職人の工房に、追加の発注はもう無理ですね」
「なら――明日は、この店は休みにしましょう」
クライヴが静かに言った。
「みんな、少し祭りで身体を休めてきてください」
誰も、反対しなかった。
無言で頷き、それぞれが灯りの下で、また手を動かし始める。
納涼祭は、続いている。
そして――ホヅミ商会の夏も、まだ終わらない。




