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日が落ちきる少し前、ホヅミ商会の裏口が、重たく軋んだ。


「……戻りました……」


 最初に聞こえたのは、クライヴの声だった。

 張りのあるいつもの調子は影を潜め、乾いた紙袋を揺らすような、疲労を隠さない声音。


 続いてミレーネが入ってくる。


「……納品、全部確認しました。問題なし……たぶん」


 最後の「たぶん」が、今日一日の過酷さを物語っていた。


 事務所に辿り着いた三人は、示し合わせたわけでもないのに、ほぼ同時に椅子へ崩れ落ちる。


 ――どさっ。


 音だけは揃っていた。


「……終わった、わよね……?」


 ミレーネが天井を仰ぎながら呟く。


「ええ……今日の分は……確実に……」


 クライヴは机に肘をつき、額を押さえた。


 化粧水、乳液、日焼け止め、色付き薬用リップ。

 各工房との契約確認、品質のすり合わせ、数量調整。

 初回納品分は、なんとか今日の夕方にすべて揃え切った。


 納涼祭前夜としては、奇跡に近い。


「……あとは、明日……売るだけ……」


 誰かがそう言った気がしたが、誰だったかはわからない。


 その奥で。


 青司は、椅子に腰を下ろすこともなく、壁に手をついて小さく息を整えていた。


 額には汗。

 袖口は薬液と湯気で湿り、目の下にはうっすらと影が落ちている。


 ――正直、限界だった。


「セイジさん……?」


 ミレーネが気づいて顔を上げる。


「大丈夫ですか?」


「ああ……うん。大丈夫」


 返事はしたが、声が少し遅れた。


 青司は一度だけ深く息を吸い、奥の作業場へ向かう。


「……?」


 クライヴが怪訝そうに目を細める。


「……今から、何を?」


 返事はない。


 少しして、布を擦る音がした。


 そして。


「――あの」


 青司が戻ってきたとき、腕にはいくつかの包みが抱えられていた。


 淡い色合いの布。

薄手で、見るからに夏向きの肌着。


「……なに、これ……?」

 ミレーネが目を瞬かせる。


「汗を吸い取って、すぐ乾く肌着です。

 ……まだ、リオナにしか試してもらってはいないんですけど」


 一瞬、帳場の空気が止まった。

 次の瞬間、クライヴが低く呻いた。


「……今、ですか?」


「うん」

 青司は素直に頷く。


「商会とお世話になってる人の分だけ。……立ちっぱなしだし、明日は暑いだろうから」


 誰も、すぐに言葉が出なかった。


 クライヴはしばらく包みを見つめ、それから深く、長いため息をつく。


「……セイジさん」


「なに?」


「あなた、本当に……」

 言葉を探すように一度止めて、

「商売人としては、失格ですよ」


 だが、その声に棘はなかった。


 ミレーネは苦笑しながら包みを受け取る。

「……ありがたいけど……本当に、今夜じゃなくてよかったのに」


「明日だと、間に合わないでしょ」

 青司はそう言って、肩をすくめた。

「納涼祭は、朝からだし」


 ティオが包みを抱えたまま、小さく笑った。

「……セイジさんって、そういうとこですよね」


「?」


「自分の疲れ、後回し」


 青司は返事をしなかった。


 ただ、ようやく椅子に腰を下ろす。


 その瞬間、力が抜けたように背中が沈んだ。


 事務所には、しばし静けさが落ちる。


 外では、夜の準備をする街の音。

 灯りが増え、人の声が弾み始めている。


「……明日」

 クライヴが静かに言った。

「売れるかどうかは、正直、まだ分かりません」


「うん」


「でも……」


 包みを見下ろして、


「“使う側が楽になるもの”だということは、確かですね」


 青司は、ゆっくりと頷いた。

「それでいい」


 短い言葉だったが、疲れ切った声の中に、揺るぎはなかった。


 納涼祭前夜。


 商会は、ようやく息をついた。


 ――そして明日、この街は、少しだけ楽な夏を迎えることになる。


*******


 納涼祭当日。

 陽がまだ高いうちから、ホヅミ商会の店舗リオネは熱気に包まれていた。


 人が途切れない。

 声が重なる。

 包み紙が次々と消えていく。


「すみません、化粧水は……」

「そちらは、もう完売です!」

「日焼け止めは?」

「そちらも、今ので最後です!」


 棚の前で立ち止まった客が、驚いたように目を見開く。

 それを見て、別の客が慌てて列に加わる。


 夕方前。


「倉庫の在庫が、もうありません」

 棚の補充に走り回っていたルーカスとティオが、息を切らしながら告げた。


 店を仕切るクライヴとクレスは、思わず顔を見合わせる。

 二日分を想定していた商品は、初日のこの時間で、ほぼ姿を消していた。


 店舗の奥で、クライヴが最後の帳面を閉じる。


「……ここまでですね」


 その声に、店内の空気がふっと緩んだ。

 歓声はない。ただ、深く息を吐く音が、あちこちから漏れる。


「初日で、ここまでとは……」

 会計に追われ続けていたレオナルドとサハイが、ようやく椅子に手をつき、息をついた。


「足りなかった、ですね」

 接客を担当していたソフィアとリディア、ダンが顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。


「いや」

 クライヴは首を振る。

「“足りなかった”じゃない。“届いた”んです」


 その言葉に、青司は棚の跡を見つめたまま、何も言わなかった。


 作ったものが、使われた。

 それだけで、十分だった。


「……よし」

 クライヴが顔を上げる。

「今日はここまでにしましょう。閉店です」


 扉を閉め、札を裏返す。

 外からは、祭りの音がはっきりと聞こえてきた。

 笛の音、太鼓、笑い声。夕暮れの街が、浮き立っている。


 青司は襟元を軽く引いた。

 汗はかいているはずなのに、布が張り付く感じがない。


「……助かったな」

 ぽつりと漏れた声は、誰に向けたものでもなかった。

 青司は袖をまくり直し、振り返った。


「片付け、手伝うよ」


 だが、その前に。


「――ダメです」

 即座に、クライヴが言った。


「え?」


「今日はもう、会長の仕事は終わりです」

 きっぱりとした口調だった。

「店の片付けは、商会員の仕事です」


「でも……」


「でもも何もありません」

 リオネの鍵を手に取りながら、続ける。

「今日ここまで回ったのは、皆が役割を果たしたからです。

 なら、休むのも役割のうちです」


 青司は言葉を探して、結局、見つからなかった。


 その横で、リオナが小さく息を整える。


「……セイジ」


 呼ばれて振り向くと、リオナは少しだけ遠慮がちに言った。


「……行こ?」


 外から、ひときわ大きな笑い声が響いた。

 灯りがともり始め、通りが金色に染まっていく。


 青司は一瞬、店内を見回した。

 疲れ切ったけれど、満ち足りた顔の商会員たち。

 空になった棚。

 整えられた帳場。


 そして、リオナ。


「……そう、だな」

 その一言で、十分だった。


「いってらっしゃい」

 ミレーネが手を振る。

「ちゃんと、楽しんできてくださいね」


「店は任せてください」

 クレスも笑う。


 扉を開けた瞬間、夜の気配が流れ込む。

 涼やかな風。灯り。人の波。


「セイジ」

 歩き出す前に、リオナが小さく言った。

「……中、全然違うよ。さっきまで、忙しかったのに」


 青司とリオナは、並んで一歩、外へ出た。


 納涼祭は、これからだ。



*******



  扉が閉まり、外の喧騒が一枚隔てられると、店の中は一気に“仕事のあと”の空気に変わった。


「……さて」

 クレスが袖をまくる。

「片付け、いきましょうか」


「ですねえ」

 ミレーネがカウンターに肘をつき、ふうっと息を吐いた。

「初日でほぼ完売って……ちょっと、やりすぎじゃないです?」


「褒め言葉ですよ、それ」

 帳簿を閉じながらクライヴが笑う。

「準備した側が一番驚いてるんですから」


 棚を拭いていたティオが、ふと手を止めた。


「……行きましたね」


「行ったね」

 即座にソフィア。


「並んで」

 リディアが付け足す。


「外、すごく人多いのに」

 ダンがわざとらしく肩をすくめた。


 一瞬、店内に妙な間が落ちる。


「……まあ」

 ミレーネが咳払いをひとつ。

「会長の仕事は“判断”までですからね。片付けは我々の仕事です」


「言い切りましたね」

 クレスが苦笑する。


「でも」

 ティオが包みを抱え直して、にやっと笑った。

「誘う方が先だったって聞きましたよ?」


「おっと」

 クライヴがわざとらしく帳簿を閉じる音を立てた。

「その話は、もう少し後にしようか」


「後でですね」

「後でですね」


 声が揃う。


 誰も否定しない。


 レオナルドが、床に落ちた布切れを拾いながら、ぽつりと呟いた。


「……それより、ですよ」


「うん?」


「今日、一日立ちっぱなしだったのに」

 自分の袖口を引いてみせる。

「中、全然つらくなかったんですけど」


「それ、私も」

 ソフィアが頷く。

「汗かいてるはずなのに、張り付かない」


「なんなら」

 ダンが笑う。

「今日は、動いても動いても、汗が気にならなかったですね」


「……でしょうね」

 ミレーネが小さく笑った。

「あの人、自分の分は最後ですから」


「最後どころか」

 ティオが肩をすくめる。

「自分の疲れ、数に入れてないです」


 一同、無言。


 そして――


「困った会長だ」

 クライヴが、でも楽しそうに言った。


「ほんとに」

「困りますね」

「でも、まあ……」


 誰かが、言葉を濁す。


 それで十分だった。


 外から、祭りの音がまた大きくなる。

 笑い声、笛、太鼓。


 この店の中では、

 片付けをしながら、

 少しだけ生暖かい視線が行き交っていた。


「……明日は、どうしますか」

 クレスが言う。


「ええ」

 ミレーネが頷いた。

「職人の工房に、追加の発注はもう無理ですね」


「なら――明日は、この店は休みにしましょう」

 クライヴが静かに言った。

「みんな、少し祭りで身体を休めてきてください」


 誰も、反対しなかった。

 無言で頷き、それぞれが灯りの下で、また手を動かし始める。


 納涼祭は、続いている。

 そして――ホヅミ商会の夏も、まだ終わらない。

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