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領主館の執務室は、午後の光が斜めに差し込んでいた。
厚手のカーテンを半分だけ開け、机の上には未処理の書類がいくつも積まれている。
フィオレルは、その一番上に置いた報告書から視線を上げた。
「――入れ」
控えめなノックのあと、扉が開く。
「失礼します」
現れたのは、護衛騎士のビリーだった。
鎧ではなく、街用の軽装。だが、背筋の伸びた姿勢は、どこにいても変わらない。
「どうした? 定例の報告には、少し早いが」
「はい。ですが……個人的な判断で、先にお耳に入れておいた方がよいと思いまして」
フィオレルは小さく眉を上げた。
「“個人的な判断”。珍しいな」
そう言いながらも、制止はしない。
ビリーがそういう言い方をするときは、たいてい現場で何かを見てきたときだ。
「では、そこに座るといい。紅茶でも飲みながら話を聞こうか。――レイド」
名を呼ばれるより早く、側近を務める騎士のレイドが静かに紅茶の用意を始めていた。
「はい」
ビリーは一礼し、椅子には腰掛けず、壁際に立ったまま口を開いた。
「先日、ホヅミ商会のセイジさんの様子を見に、森の家へ行きました」
その名が出た瞬間、フィオレルの視線がわずかに鋭くなる。
「……護衛任務の一環?」
「はい。街に戻られる予定が少し延びていたので、念のためです」
「それで?」
「そこで……いくつか、興味深いものを見ました」
ビリーは言葉を選ぶように、一拍置いた。
「セイジさんが、衣服……正確には、肌着の加工を試していました」
「衣服?」
フィオレルは椅子の背に体重を預ける。
「薬や石鹸ではなく?」
「はい。麻の肌着を、錬金術と植物抽出液で加工していました」
フィオレルの指先が、机の縁を軽く叩いた。
「……目的は?」
「どうやら、狩人のリオナさんのために、ということのようです。
吸湿と放湿――肌着が汗を吸って、すぐ乾くように。
革の狩衣や鎧の下でも、蒸れにくくするためのものだと」
フィオレルは、しばし黙ったまま天井を見上げた。
「……それは、リオナ嬢のため?」
「はい。最初は、明確にそうでした」
ビリーは正直に答える。
「ですが、話を聞いているうちに……これは、狩人だけの話ではないと感じました」
「続けてくれ」
「私が言うのは憚れますが……鎧の下は、夏場は地獄です」
短く、だが重みのある言葉だった。
「汗は逃げず、動くほど体力を削られます。放っておけば汗疹や炎症になります。
我らは耐えますが……集中力が落ちる者が出ても、おかしくはありません。
フィオレルは、無言で紅茶に手を伸ばし、ゆっくりと頷いた。
「衛兵も、同じということだな」
「はい。清掃の仕事をしている者たちも、似た状況でしょう」
「……なるほど」
フィオレルは机に肘をつき、指を組む。
「その肌着は、完成しているのか?」
「私が見た限りでは、まだ試作段階でした」
ビリーは即答した。
「ですが……リオナさんが、実際に狩りに着て出ています。
日焼け止めと併用して、顔や手の負担も減り、革の下の不快感もかなり違うそうです」
「日焼け止め?」
「はい。こちらも、セイジさんの試作品です。なんでも夏の強い日差しから肌を守るのだと」
フィオレルの目が、はっきりと細まった。
「……あの者、どこまで“生活を楽にする”気なのか」
呆れたようでいて、どこか楽しげな声音だった。
「セイジさん自身は、商品にするつもりは、まだないようでした」
「なのだろうな」
即答だった。
「“必要だから作った”。あの者は、いつもそこから始めるみたいだな」
フィオレルは立ち上がり、窓の外を見る。
夏の街。人の往来。汗をかきながら働く人々。
「……ビリー」
「はい」
「お前は、どう思った?」
問いかけは、領主ではなく、一人の人間としてだった。
ビリーは、少しだけ考えてから答える。
「正直に言えば――こういうものを、待っていました」
フィオレルは振り返らない。
「狩人だけでなく、冒険者、騎士、衛兵、清掃員……
夏に汗をかく仕事の者たち全員が、楽になると思います」
「ふふ……」
小さな笑い声。
「困ったものだな」
そう言いながら、フィオレルの表情は明らかに楽しそうだった。
「“生活の工夫”が、またひとつ、街の価値になりそうだもの」
フィオレルは、机に戻り、書類の山から一枚を抜き取った。
「ビリー」
「はい」
「これは、急がない。けれど、逃してもいけない」
視線が鋭くなる。
「まずは――衛兵と清掃隊で、試験導入を考えましょう」
レイドの言葉にビリーの目が、わずかに見開かれた。
「そうだな」
応じる領主の言葉にビリーが驚く。
「……よろしいのですか?」
「ああ。あくまで“現場の改善”としてだ」
ペンを取り、メモを書き始める。
「商業ギルドと服飾ギルドも、あとで呼ぶ。
“売る”前に、“作れるか”を確認しないと」
そして、ふとペンを止めた。
「セイジには……」
一瞬、考える。
「“説明役”だけ頼みましょう。主導は、こちらで持つのがよろしいかと」
レイドの言葉に、ビリーは静かに頷いた。
「……それが良さそうだな」
フィオレルは顔を上げ、穏やかに微笑む。
「いい報告だった、ビリー」
その目には、はっきりとした確信が宿っていた。
――またひとつ、この街は前に進む。
誰かの「楽になった」という、
小さな声から。
**************
ホヅミ商会の扉を開けた瞬間、いつもより少しだけ、空気が騒がしかった。
「おかえりなさーい、セイジさん! リオナさん!」
帳場の奥から、ミレーネが手を振る。
その横では、ソフィアとアイリたちが布の束を広げ、ああでもないこうでもないと声を上げていた。
「……なんだか、今日は賑やかだな」
青司がそう言うと、リオナがきょとんと目を瞬かせてから、すぐに小さく笑った。
「ああ、セイジは初めてよね?」
「何を?」
その問いに、今度は帳場のクライヴが苦笑混じりに肩をすくめる。
「納涼祭ですよ。もうすぐですから」
「……のうりょう、さい?」
青司が言葉を区切りながら復唱すると、今度ははっきりと笑いが起こった。
「やっぱり知らなかったんだ」
「森暮らしだものねえ」
エリンが紅茶の盆を置きながら、くすっと微笑む。
「毎年、この時期にやる街のお祭りです。暑さを忘れるための行事、という建前ですけど」
少し声を落とし、
「実際は、夏の稼ぎ時の締め、ですね」
「締め?」
「屋台が出て、音楽があって、夜まで人が集まりますから」
クライヴが続ける。
「食べ物、飲み物、装飾品、日用品……とにかく売れる。そして今年は、貴族の来訪者も多い。余計に、ですね」
青司は店の外に漏れる人の気配を思い浮かべ、なるほどと頷いた。
「つまり――夏の終わりに向けた、大きな市みたいなものか」
「そうそう!毎年、領主様が、近隣の村人たちにも声をかけてるんだよ」
ティオが元気よく手を上げる。
「だから今、みんな準備で大忙しなんです」
そう言って、広げていた布をひらりと振る。
淡い色合いの布地。薄手で、風に揺れると涼しげだ。
「この飾り付けも、納涼祭用なんですよ」
「通りごとに色を決めたりして」
青司は、その様子を見ながら、少し考え込む。
「……夜まで、人が外に出るのか」
「ええ。暑い昼間を避けて、夕方からが本番です」
エリンがそう答えた瞬間、青司の視線が、自然と作業台の隅に置いた小さな包みに向いた。
日焼け止めの試作瓶と、例の肌着の件が、頭をよぎる。
「それなら……」
思わず口に出しかけて、止める。
「?」
隣にいたリオナが、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや。なんでもない」
だが、その様子を、商会員たちは見逃さない。
「セイジさん、もしかして」
「この前の、乳液、化粧水が出来上がってます?」
「あと、他にも……日焼け止めもあるんですか?!」
一斉に視線が集まる。
「え、もう噂になってるの?」
青司が思わず苦笑すると、クライヴが肩をすくめた。
「試作とはいえ、女性商会員が興味を持つ話題ですからね」
「日焼け対策なんて聞いたら、放っておけませんよ」
リオナが、少し照れたように笑う。
「……わたし、狩りで使っただけなんだけど」
「それが一番説得力あるんですって」
エリンが即答する。
「“実際に森を歩いて平気だった”って」
青司は、頭をかきながら息を吐いた。
「まだ、形になったばかりだよ。納涼祭に間に合わせるとか、そういう段階じゃない」
「わかってます」
クライヴは穏やかに頷く。
「でも、街の人が“夏をどうやって楽に過ごすか”を考える時期なのは、確かです」
その言葉に、青司は納得したように目を細めた。
「……森にいると、季節はどう過ごすかを考える対象だったような気がするな」
「街は、ちゃんと“楽しむ”行事にしてるんだな……久しぶりだ」
最後の言葉は、誰にも聞こえないような小さな声だった。
けれど、リオナはそれを聞き取ったのか、少しだけ笑みを浮かべる。
「でしょ?」
どこか誇らしげに、そう返していた。
「夜はね、灯りがたくさんつくの。音楽もあって、子どもも大人も外に出て」
少し笑って、
「狩りの帰りに、お姉ちゃんとふらっと寄ったのも楽しかったのよ。……一緒に」
青司は、その光景を思い浮かべる。
夏の夜。
人の気配。
汗をかきながらも、どこか浮き立つ街。
その中を歩くリオナの姿まで、自然と浮かんでいた。
「一緒に回ってみない?」
リオナが言いかけた、その前に――
気づけば、青司の方が先に口を開いていた。
一瞬、言葉が止まる。
それから、リオナが目を瞬かせて、
少しだけ遅れて、笑った。
「……うん、ありがとね」
短い返事だったが、声は弾んでいた。
その瞬間、帳場の向こうから、わざとらしい咳払いがひとつ聞こえる。
「――さて、納涼祭の準備の話に戻ろうか」
クライヴが何事もなかったように言って、場を整えた。
リオナは、はっとして肩をすくめる。
ようやく周囲に気づいたように、頬を少しだけ赤くして視線を逸らした。
納涼祭。
それはただの祭りではなく、
この街が“夏を越えていくための仕組み”なのかもしれない。
青司は、作業台の隅に置いた包みを、もう一度見る。
(……間に合うかどうかは別として)
少なくとも――
この季節に必要とされるものは、はっきりしている。
商会の中では、再び笑い声が上がった。
準備の話、屋台の話、今年は何が売れそうかという話。
青司はその輪の中にいながら、
さきほど交わした、あの一言を胸の奥に残したまま、耳を傾けていた。
夏は、まだ続いている。
そしてこの街は、その暑さと、ちゃんと向き合おうとしているのだ、と。




