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翌朝、森の空気は少し湿り気を帯びていた。

夏の盛りに向かう気配が、肌にまとわりつく。


作業台の上には、丁寧に畳まれた麻の肌着が一枚置かれている。

洗い立てで、しっかり乾かされていたものだ。


「……本当に、それでいいの?」


 リオナが、少しだけ首を傾げる。


「うん。未使用の替えだし、素材としては十分だ」

 青司はそう答えながら、視線は布にだけ向けていた。

「着心地を見るのは、リオナに頼むことになるけどな」


「それは、まあ……そうよね」


 リオナは小さく笑い、肩をすくめる。

 どこか照れはあるが、困った様子ではない。


「昨日言ってたでしょ。革の下が暑いって」

「うん」

「だったら、ちゃんと試すわよ」


 そう言われて、青司は少しだけ安心したように頷いた。


「ありがとう。じゃあ……始めるな」


 青司は肌着を作業台に広げ、繊維の状態を指先で確かめる。

 麻特有の張りはあるが、目は細かく、質はいい。


「麻自体は、悪くないはずなんだ」

 独り言のように言いながら、道具を揃える。

「吸う力はある。ただ……吸ったものを溜め込むから蒸れるんじゃないかな」


「そうなのよ。汗、逃げないのよね」


「そう。吸うだけ吸って、逃がさない。

 だから、放湿と、肌離れが大事になるんだろうな」


 小鍋に水を張り、火にかける。

 そこへ、薬草としては用いない葉を主材に、いくつかの植物片を加えた。


 いずれも、森の中で手に入るものだ。

 食用にも薬用にもならないが、繊維に作用する性質だけを持つ。


 薄く削った樹の外皮からは、

 粘り気の少ない、さらりとした抽出成分を。


 柔らかな葉からは、

 布の表面をなめらかにし、摩擦を減らす性質を引き出す。


 ぐつり、と小さく泡が立つ。

 色は濁らず、香りも強くない。


 ただ、指先で触れると分かる程度に、

 水の質が、少しだけ変わっていた。


 これを布に含ませ、余分を落とし、乾かす。

 それだけで、汗を引き込み、肌に張りつかない感触が生まれる。


 特別な名前のない素材。

 だが、確かな“働き”だけを借りた、簡素な処理だった。


「ぬるぬるしない?」

 リオナが覗き込みながら聞く。


「しないように調整のしどころだな」

 即答だった。

「吸って、離れて、残らない。そこが肝心だよな。肌に汗の感じが残ったら意味ないもんな」


 鍋を火にかけ、青司は魔力をわずかに流す。

 強くはない。布を傷めない程度に、流れを整えるように。


 抽出液が澄んだところで火を止める。


「……これを、そのまま染み込ませるの?」


「一度、繊維を開く」

 青司は麻の肌着を別の器に移し、軽く湿らせる。

「撚り合わさった繊維の結び目を、錬金術で緩めて、

 その隙間に、成分を通してみる感じだな。

 水分と熱が、そこに留まらないように」


 布の上に手をかざし、静かに魔力を巡らせる。

 糸一本一本に、空気の通り道を作るような感覚。


 リオナは、その様子を黙って見ていた。


「……なんだか、服が呼吸してるみたいね」


「そんな感じに近いな」

 青司は少し笑う。

「抽出液が浸透する“道”を、ちゃんと作ってやるだけなんだけど」


「滑りを良くする成分は、表側だけ」


「内側は?」


「内側にも、もちろん吸わせるよ。

 でも、同じじゃない。肌に当たる側だからな」


 手早いが、雑ではない。

 一工程ごとに、布の状態を確かめる。


 最後に、風通しの良い場所へ吊るした。


「……すぐ着られるの?」


「半日、待ってくれないかな」

 青司は首を振りつつ、少しだけ言い添えた。

「抽出液の定着を見させてほしいんだ。

 急いで作って、着心地が悪くなったら意味がないだろ」


「そうね、毎日使うものだものね」


「そうなんだ。悪いな」


 少し間を置いて、リオナが周囲を見回した。


「……じゃあ、私、道具を洗っておこうか?」


「助かる。ありがとな」


 それだけ言って、青司は再び作業台に向き直った。


 水の音が、家の奥から静かに響く。

 木桶に道具を浸し、布で拭う音。

 規則的で、急かすことのない手つきだった。


 青司は麻の肌着を広げ、抽出液の染み込み具合を確かめながら、魔力の流れをわずかに整えていく。

 強く触れず、引っかけず、繊維の様子を見る感じで。

 熱が抜けていくのを待つ時間も、作業のうちだった。


 窓の外で、風に揺れる葉の音がする。

 陽射しが少し傾き、床に落ちる光の形が、ゆっくりと変わっていった。


 やがて、水音が止み、

 布を絞る、軽い音がひとつ。


 それでも、二人とも言葉は交わさない。

 必要なことは、もう伝わっていた。


 そうして、半刻ほどが静かに過ぎていった。


 ――夕方。


 乾いた肌着を手に取ると、触れた瞬間に違いが分かる。

 指が引っかからない。けれど、冷たすぎもしない。


「……触った感じは、いい」


「着てみる?」


「ええ」


 リオナは素早く受け取り、奥へ引っ込む。

 しばらくして戻ってきた。


「……どう?」


「……正直に言うわね」


 少し間を置いてから、言う。


「張り付かない。歩くと、風が通る感じがする」


 青司は、思わず小さく息を吐いた。


「……汗は?」


「あのね、たいして動いてもいないのに、汗なんて出ないわよ」

 そう言って、リオナは腕を軽く動かしてみせる。

「でも、さっきまでの、あの暑さがね。

 だいぶ違う感じがするの。

 ……明日から、ちょっと楽しみね」


「……よし。じゃあ、無理しない程度に試してきてくれ」


 青司は帳面を開き、配合を書き留める。


「革の下でも、意味はありそうだな」

「うん。全然違うと思うわ」

 リオナは笑った。

「これ、他の人も欲しがるはずね」


「まだ試作だけどな」

 そう言いながらも、声はどこか柔らかい。

「でも……方向は、間違ってなさそうだな」


 日焼け止めで外を守り、

 肌着で内側を整える。


 全部、派手じゃない。

 けれど、確実に“楽になる”。


「ねえ、セイジ」


「ん?」


「こういうの、好きでしょ」


 一瞬、言葉に詰まる。

「……まあ。誰かが楽になるならな」


 リオナは、くすっと笑った。

「やっぱり」


 森の家に、夕方の風が通り抜ける。

 乾いた麻の布が、静かに揺れていた。


 また一つ、夏のための工夫が形になりつつあった。




**************



 リオナが森へ入っていく背中を見送り、青司は小さく息を吐いた。


 戸を閉めると、工房の中は再び静けさを取り戻す。

 朝の光が作業台に差し込み、並べられた瓶の影を長く伸ばしていた。


 青司は自分の肌着を手に取り、指先で布の感触を確かめる。

 昨日リオナのものに施した加工と、ほぼ同じ工程だ。だが、微妙に配合を変える。汗の量も、動き方も違う。


「……守るのと、楽にするのは、やっぱり別だな」


 独り言をこぼしながら、小鍋に火を入れる。

 セリファの葉を刻み、ヴァルミアの樹皮から取った抽出物を少量。

 香りは弱く、草と木の境目のような匂いが立ちのぼる。


 日焼け止めの瓶にも手を伸ばし、表面を軽く撫でる。

 まだ試作。だが、方向は見えてきている。


 そのときだった。


 ――外で、枯れ枝を踏む音。


 青司は顔を上げた。


 続いて、戸を叩く控えめな音。


「……セイジさん。いらっしゃいますか?」


 低く、落ち着いた声。

 聞き覚えのある声だった。


「……もしかして、ビリー? どうぞ、入って」


「……はい。失礼します」


 戸が開き、革靴の音とともに、護衛騎士のビリーが姿を見せた。

 鎧ではなく、街用の軽装。それでも背筋の伸びた立ち姿は変わらない。


「……こんなところまで来るなんて。何か、ありましたか?」


「いえ、ずいぶんと戻られなかったので。念のため、様子を見に来てしまいました」


 そう言いながら、ビリーの視線が作業台へと移る。

 並んだ瓶や、乾かされている布。


「……何か作っているのだろうとは思っていましたが」


「まあ、そんなところだよ」

 青司は苦笑して答え、火加減を少しだけ弱める。


「リオナさんは?」


「狩に出てる。昨日の続きでね」


「そうでしたか」

 ビリーは静かに頷き、室内を一度だけ見回したあと、邪魔にならない位置で立ち止まった。

 踏み込まない距離。護衛として、ちょうどいい。


「暑さも増してきて、狩も、楽ではないでしょうに」


「顔や手は、だいぶ楽になったらしい」

 青司はそう言って、日焼け止めの瓶を指で示す。

「だが……革の下が暑い、と」


 ビリーの眉が、わずかに動いた。


「……夏場は、焼けてヒリヒリするものですが……楽になったんですか?」

 短く、しかし実感のこもった声だった。

「暑いのは、もちろん鎧の下も同じです。風は通らず、汗が逃げない。

 動くほど体力が削られますし、放っておくと汗疹にもなります」


 青司は小さく頷く。

「だから、内側をどうにかできないかと思っていてね」

 鍋を下ろし、布を別の器に移す。

「守る装備は変えられなくても、肌に触れるところなら、工夫の余地はありそうだって試してて」


 ビリーはしばらく黙って、その様子を見ていた。


「……ホヅミ商会の商品として売りに出されるのですか?」


「今はまだ、お試しだから」

 青司は即答した。

「生活の工夫だよ。リオナが、楽になるための」


 ビリーはそれを聞き、ふっと息を吐いた。


「……なるほどですね。楽になるといいですね」


 それ以上は踏み込まない。

 だが、視線には確かな関心と、どこか柔らかなものが宿っていた。


 守るべき対象を、守るだけでは終わらせない男なのだと。

 そんな理解が、そこにはあった。


「……しかし、こういうものを必要としている人は多いと思います。

狩人のリオナさんだけでなく、冒険者や、我々騎士や衛兵、街で汗をかく仕事の者たちも」


「そうだとしたら、ちゃんと汗を吸収してすぐに乾くようにして、喜んでもらえる物を作らないとだな。なんだかハードルが上がるな」

 青司はそう答えて、布を丁寧に広げる。


 外では、鳥の声がひとつ響いた。


「……どうやら、心配はいらないようですね。お邪魔にならないように、私は街で帰りを待つことにしますね」

 ビリーはそう言って、玄関へ向かって行く。


「ああ、リオナとそのうち戻るよ」


 戸が閉まり、再び工房に静けさが戻った。


 青司は布を見下ろし、小さく息を整える。


 森では、リオナが歩いている。

 街では、見守る目がある。


 そのどちらにも届くように――

 青司は、午後も手を動かし続けていた。



*******



 夕方、森の方から足音がした。


 戸が開き、土と草の匂いをまとったリオナが顔を出す。


「ただいま」


 背中の袋は、見てわかるほど少し重そうだった。


「おかえり。……成果があったみたいだな」


「うん。ちゃんとね」

 リオナはにこっと笑って、背負っていた袋を下ろす。

 口を開けると、中には兎に似た小型獣が一頭、きれいに血抜きされて収まっていた。


「小ぶりだけど、脂の乗ったやつよ。山際にいたの」

 そう言って、少し誇らしげに胸を張る。

「今日は十分」


 青司は覗き込み、納得したように頷いた。

「これは良いな。処理も相変わらず丁寧だ」


「でしょ?」

 リオナは嬉しそうに笑った。


 青司はそれを見て、ほっと息を吐いた。

「それなら良かった」


 リオナは弓を外しながら、少し弾んだ声で続ける。


「それでね、それでね」

 一歩近づいて、小声になる。

「例の肌着、すごく良かったの」


「本当か?」


「本当」

 うなずきながら、くるりと一回転してみせる。

「歩いても、張り付かないし。汗も、あれ?って思うくらい気にならなくて」


「革の下でも?」


「うん」

 即答だった。

「暑いのは暑いんだけど……でもね、中がもわっとしないの。あれがないだけで、全然違うのよ」

 リオナは少し照れたように笑う。


「昨日までだったら、途中で何度か木陰で休んでたと思う。でも今日は、水分補給だけで行けたの」


 青司は思わず、口元を緩めた。

「それは……大きいな」


「でしょ?」

 リオナは誇らしげに胸を張る。

「日焼け止めもね。顔も手も平気だったし、帰り道も、ひりひりしなかったの」


「……ちゃんと守れてたなら、何よりだ」


「うん」

 それから少しだけ声を落として、

「ありがとう、セイジ」


 青司は軽く首を振った。


「試作だよ。まだ」


「それでも」

 リオナは獲物の袋を指で叩く。

「これ、気分よく獲れたもの。だから、ちゃんと分け前があるのよ」


「分け前?」


「夕飯」

 にっこり。

「今度は、私が腕を振るう番ね」


 工房に、夕方の光が差し込む。


 獲物と、道具と、試作品。

 そして、少しだけ弾んだ会話。


 夏の森は、まだ暑い。

けれど――確かに、少し楽になり始めていた。

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