63
翌朝、森の空気は少し湿り気を帯びていた。
夏の盛りに向かう気配が、肌にまとわりつく。
作業台の上には、丁寧に畳まれた麻の肌着が一枚置かれている。
洗い立てで、しっかり乾かされていたものだ。
「……本当に、それでいいの?」
リオナが、少しだけ首を傾げる。
「うん。未使用の替えだし、素材としては十分だ」
青司はそう答えながら、視線は布にだけ向けていた。
「着心地を見るのは、リオナに頼むことになるけどな」
「それは、まあ……そうよね」
リオナは小さく笑い、肩をすくめる。
どこか照れはあるが、困った様子ではない。
「昨日言ってたでしょ。革の下が暑いって」
「うん」
「だったら、ちゃんと試すわよ」
そう言われて、青司は少しだけ安心したように頷いた。
「ありがとう。じゃあ……始めるな」
青司は肌着を作業台に広げ、繊維の状態を指先で確かめる。
麻特有の張りはあるが、目は細かく、質はいい。
「麻自体は、悪くないはずなんだ」
独り言のように言いながら、道具を揃える。
「吸う力はある。ただ……吸ったものを溜め込むから蒸れるんじゃないかな」
「そうなのよ。汗、逃げないのよね」
「そう。吸うだけ吸って、逃がさない。
だから、放湿と、肌離れが大事になるんだろうな」
小鍋に水を張り、火にかける。
そこへ、薬草としては用いない葉を主材に、いくつかの植物片を加えた。
いずれも、森の中で手に入るものだ。
食用にも薬用にもならないが、繊維に作用する性質だけを持つ。
薄く削った樹の外皮からは、
粘り気の少ない、さらりとした抽出成分を。
柔らかな葉からは、
布の表面をなめらかにし、摩擦を減らす性質を引き出す。
ぐつり、と小さく泡が立つ。
色は濁らず、香りも強くない。
ただ、指先で触れると分かる程度に、
水の質が、少しだけ変わっていた。
これを布に含ませ、余分を落とし、乾かす。
それだけで、汗を引き込み、肌に張りつかない感触が生まれる。
特別な名前のない素材。
だが、確かな“働き”だけを借りた、簡素な処理だった。
「ぬるぬるしない?」
リオナが覗き込みながら聞く。
「しないように調整のしどころだな」
即答だった。
「吸って、離れて、残らない。そこが肝心だよな。肌に汗の感じが残ったら意味ないもんな」
鍋を火にかけ、青司は魔力をわずかに流す。
強くはない。布を傷めない程度に、流れを整えるように。
抽出液が澄んだところで火を止める。
「……これを、そのまま染み込ませるの?」
「一度、繊維を開く」
青司は麻の肌着を別の器に移し、軽く湿らせる。
「撚り合わさった繊維の結び目を、錬金術で緩めて、
その隙間に、成分を通してみる感じだな。
水分と熱が、そこに留まらないように」
布の上に手をかざし、静かに魔力を巡らせる。
糸一本一本に、空気の通り道を作るような感覚。
リオナは、その様子を黙って見ていた。
「……なんだか、服が呼吸してるみたいね」
「そんな感じに近いな」
青司は少し笑う。
「抽出液が浸透する“道”を、ちゃんと作ってやるだけなんだけど」
「滑りを良くする成分は、表側だけ」
「内側は?」
「内側にも、もちろん吸わせるよ。
でも、同じじゃない。肌に当たる側だからな」
手早いが、雑ではない。
一工程ごとに、布の状態を確かめる。
最後に、風通しの良い場所へ吊るした。
「……すぐ着られるの?」
「半日、待ってくれないかな」
青司は首を振りつつ、少しだけ言い添えた。
「抽出液の定着を見させてほしいんだ。
急いで作って、着心地が悪くなったら意味がないだろ」
「そうね、毎日使うものだものね」
「そうなんだ。悪いな」
少し間を置いて、リオナが周囲を見回した。
「……じゃあ、私、道具を洗っておこうか?」
「助かる。ありがとな」
それだけ言って、青司は再び作業台に向き直った。
水の音が、家の奥から静かに響く。
木桶に道具を浸し、布で拭う音。
規則的で、急かすことのない手つきだった。
青司は麻の肌着を広げ、抽出液の染み込み具合を確かめながら、魔力の流れをわずかに整えていく。
強く触れず、引っかけず、繊維の様子を見る感じで。
熱が抜けていくのを待つ時間も、作業のうちだった。
窓の外で、風に揺れる葉の音がする。
陽射しが少し傾き、床に落ちる光の形が、ゆっくりと変わっていった。
やがて、水音が止み、
布を絞る、軽い音がひとつ。
それでも、二人とも言葉は交わさない。
必要なことは、もう伝わっていた。
そうして、半刻ほどが静かに過ぎていった。
――夕方。
乾いた肌着を手に取ると、触れた瞬間に違いが分かる。
指が引っかからない。けれど、冷たすぎもしない。
「……触った感じは、いい」
「着てみる?」
「ええ」
リオナは素早く受け取り、奥へ引っ込む。
しばらくして戻ってきた。
「……どう?」
「……正直に言うわね」
少し間を置いてから、言う。
「張り付かない。歩くと、風が通る感じがする」
青司は、思わず小さく息を吐いた。
「……汗は?」
「あのね、たいして動いてもいないのに、汗なんて出ないわよ」
そう言って、リオナは腕を軽く動かしてみせる。
「でも、さっきまでの、あの暑さがね。
だいぶ違う感じがするの。
……明日から、ちょっと楽しみね」
「……よし。じゃあ、無理しない程度に試してきてくれ」
青司は帳面を開き、配合を書き留める。
「革の下でも、意味はありそうだな」
「うん。全然違うと思うわ」
リオナは笑った。
「これ、他の人も欲しがるはずね」
「まだ試作だけどな」
そう言いながらも、声はどこか柔らかい。
「でも……方向は、間違ってなさそうだな」
日焼け止めで外を守り、
肌着で内側を整える。
全部、派手じゃない。
けれど、確実に“楽になる”。
「ねえ、セイジ」
「ん?」
「こういうの、好きでしょ」
一瞬、言葉に詰まる。
「……まあ。誰かが楽になるならな」
リオナは、くすっと笑った。
「やっぱり」
森の家に、夕方の風が通り抜ける。
乾いた麻の布が、静かに揺れていた。
また一つ、夏のための工夫が形になりつつあった。
**************
リオナが森へ入っていく背中を見送り、青司は小さく息を吐いた。
戸を閉めると、工房の中は再び静けさを取り戻す。
朝の光が作業台に差し込み、並べられた瓶の影を長く伸ばしていた。
青司は自分の肌着を手に取り、指先で布の感触を確かめる。
昨日リオナのものに施した加工と、ほぼ同じ工程だ。だが、微妙に配合を変える。汗の量も、動き方も違う。
「……守るのと、楽にするのは、やっぱり別だな」
独り言をこぼしながら、小鍋に火を入れる。
セリファの葉を刻み、ヴァルミアの樹皮から取った抽出物を少量。
香りは弱く、草と木の境目のような匂いが立ちのぼる。
日焼け止めの瓶にも手を伸ばし、表面を軽く撫でる。
まだ試作。だが、方向は見えてきている。
そのときだった。
――外で、枯れ枝を踏む音。
青司は顔を上げた。
続いて、戸を叩く控えめな音。
「……セイジさん。いらっしゃいますか?」
低く、落ち着いた声。
聞き覚えのある声だった。
「……もしかして、ビリー? どうぞ、入って」
「……はい。失礼します」
戸が開き、革靴の音とともに、護衛騎士のビリーが姿を見せた。
鎧ではなく、街用の軽装。それでも背筋の伸びた立ち姿は変わらない。
「……こんなところまで来るなんて。何か、ありましたか?」
「いえ、ずいぶんと戻られなかったので。念のため、様子を見に来てしまいました」
そう言いながら、ビリーの視線が作業台へと移る。
並んだ瓶や、乾かされている布。
「……何か作っているのだろうとは思っていましたが」
「まあ、そんなところだよ」
青司は苦笑して答え、火加減を少しだけ弱める。
「リオナさんは?」
「狩に出てる。昨日の続きでね」
「そうでしたか」
ビリーは静かに頷き、室内を一度だけ見回したあと、邪魔にならない位置で立ち止まった。
踏み込まない距離。護衛として、ちょうどいい。
「暑さも増してきて、狩も、楽ではないでしょうに」
「顔や手は、だいぶ楽になったらしい」
青司はそう言って、日焼け止めの瓶を指で示す。
「だが……革の下が暑い、と」
ビリーの眉が、わずかに動いた。
「……夏場は、焼けてヒリヒリするものですが……楽になったんですか?」
短く、しかし実感のこもった声だった。
「暑いのは、もちろん鎧の下も同じです。風は通らず、汗が逃げない。
動くほど体力が削られますし、放っておくと汗疹にもなります」
青司は小さく頷く。
「だから、内側をどうにかできないかと思っていてね」
鍋を下ろし、布を別の器に移す。
「守る装備は変えられなくても、肌に触れるところなら、工夫の余地はありそうだって試してて」
ビリーはしばらく黙って、その様子を見ていた。
「……ホヅミ商会の商品として売りに出されるのですか?」
「今はまだ、お試しだから」
青司は即答した。
「生活の工夫だよ。リオナが、楽になるための」
ビリーはそれを聞き、ふっと息を吐いた。
「……なるほどですね。楽になるといいですね」
それ以上は踏み込まない。
だが、視線には確かな関心と、どこか柔らかなものが宿っていた。
守るべき対象を、守るだけでは終わらせない男なのだと。
そんな理解が、そこにはあった。
「……しかし、こういうものを必要としている人は多いと思います。
狩人のリオナさんだけでなく、冒険者や、我々騎士や衛兵、街で汗をかく仕事の者たちも」
「そうだとしたら、ちゃんと汗を吸収してすぐに乾くようにして、喜んでもらえる物を作らないとだな。なんだかハードルが上がるな」
青司はそう答えて、布を丁寧に広げる。
外では、鳥の声がひとつ響いた。
「……どうやら、心配はいらないようですね。お邪魔にならないように、私は街で帰りを待つことにしますね」
ビリーはそう言って、玄関へ向かって行く。
「ああ、リオナとそのうち戻るよ」
戸が閉まり、再び工房に静けさが戻った。
青司は布を見下ろし、小さく息を整える。
森では、リオナが歩いている。
街では、見守る目がある。
そのどちらにも届くように――
青司は、午後も手を動かし続けていた。
*******
夕方、森の方から足音がした。
戸が開き、土と草の匂いをまとったリオナが顔を出す。
「ただいま」
背中の袋は、見てわかるほど少し重そうだった。
「おかえり。……成果があったみたいだな」
「うん。ちゃんとね」
リオナはにこっと笑って、背負っていた袋を下ろす。
口を開けると、中には兎に似た小型獣が一頭、きれいに血抜きされて収まっていた。
「小ぶりだけど、脂の乗ったやつよ。山際にいたの」
そう言って、少し誇らしげに胸を張る。
「今日は十分」
青司は覗き込み、納得したように頷いた。
「これは良いな。処理も相変わらず丁寧だ」
「でしょ?」
リオナは嬉しそうに笑った。
青司はそれを見て、ほっと息を吐いた。
「それなら良かった」
リオナは弓を外しながら、少し弾んだ声で続ける。
「それでね、それでね」
一歩近づいて、小声になる。
「例の肌着、すごく良かったの」
「本当か?」
「本当」
うなずきながら、くるりと一回転してみせる。
「歩いても、張り付かないし。汗も、あれ?って思うくらい気にならなくて」
「革の下でも?」
「うん」
即答だった。
「暑いのは暑いんだけど……でもね、中がもわっとしないの。あれがないだけで、全然違うのよ」
リオナは少し照れたように笑う。
「昨日までだったら、途中で何度か木陰で休んでたと思う。でも今日は、水分補給だけで行けたの」
青司は思わず、口元を緩めた。
「それは……大きいな」
「でしょ?」
リオナは誇らしげに胸を張る。
「日焼け止めもね。顔も手も平気だったし、帰り道も、ひりひりしなかったの」
「……ちゃんと守れてたなら、何よりだ」
「うん」
それから少しだけ声を落として、
「ありがとう、セイジ」
青司は軽く首を振った。
「試作だよ。まだ」
「それでも」
リオナは獲物の袋を指で叩く。
「これ、気分よく獲れたもの。だから、ちゃんと分け前があるのよ」
「分け前?」
「夕飯」
にっこり。
「今度は、私が腕を振るう番ね」
工房に、夕方の光が差し込む。
獲物と、道具と、試作品。
そして、少しだけ弾んだ会話。
夏の森は、まだ暑い。
けれど――確かに、少し楽になり始めていた。




