62
黒猫亭の喧騒と、別宅での短い休息を挟み、
青司とリオナは森へ戻っていた。
ホヅミ商会の女性商会員たちの強い要望もあり、
クライヴとエリンが、青司に指示された素材の手配を
その日のうちに済ませていたことが、大きな後押しになっていた。
街道を外れ、木々が視界を満たし始めると、空気がはっきりと変わる。
土と葉の匂い。湿り気を帯びた風。
馬車を降り、最後の小道を歩く頃には、街の音はすっかり遠ざかっていた。
「……やっぱり、ここは落ち着くわね」
リオナがそう言って、深く息を吸う。
耳が、森の音を拾い直していくのが分かる。鳥の声、枝葉の擦れる音、足元の落ち葉が砕ける感触。
「ああ。作業するなら、やっぱりここだな」
青司は背負っていた荷を下ろし、家の扉を開けた。
中は、留守の間も変わらない。
乾かした薬草の束、整えられた作業台、窓辺に置かれた瓶と器具。
森の家は、もう完全に「工房」だった。
「今日は、何から始めるの?」
リオナがエプロンをかけながら尋ねる。
「まずは化粧水だな。いちばんシンプルで、失敗が分かりやすい」
青司はそう言って、蒸留器を組み始める。
鍋に水を張り、上に冷却用の管を取り付ける。
その手つきは、薬を作るときと同じだが、どこか慎重さが増していた。
「今回の目的は、治すことじゃない。
刺激がなくて、毎日使っても大丈夫なもの……だから、欲張らない」
青司はそう言って、作業台に向き直り、
カモミールに似た効能を持つ薬草を刻んでいく。
「……ふうん」
返事とも相槌ともつかない声を返しながら、
リオナは水を汲み、鍋を火にかけた。
「香りも、強すぎない方がいいのよね?」
「ああ。『効いてる感じ』がするほど、肌には負担になることもある」
火にかけた蒸留器から、ゆっくりと透明な液体が、青司の制御した魔力を帯びて落ちてくる。
青司はそれを見つめながら、静かに言った。
「効き目が強すぎる薬ほど、後で副作用が出るって聞いたことがあるわね」
少し考えてから、付け足す。
「……でも、セイジのは、そんなことなかったけど」
集めた蒸留水に、薬草を少量だけ浸す。
色はほとんど変わらない。香りも、ほんのり。
「……作業自体は地味なのよね」
リオナが小さく笑う。
「まあ、丁寧にやらないとな。人が直接使う物を作っているんだから。……これで肌が落ち着けば、それで成功だ。毎日使うものなんだから」」
試しに、リオナが指先に一滴取って、手の甲に伸ばす。
「……ひんやりする」
「アルコールは最小限にしてあるんだ。
保存は短くなるけど、その分、負担は減る」
「うん。嫌な感じはしないわ。肌の奥に、すっと染み込むみたい」
青司はその反応に、少しだけ肩の力を抜いた。
その日は、それ以上手を加えなかった。
「今日は、ここまでだな」
青司は瓶に蓋をして、作業台から一歩引いた。
「一晩置いて、肌の反応を見る」
「すぐに完成、じゃないのね」
リオナが少し意外そうに言う。
「毎日使うものだからね。
今は良くても、明日どうなるかは気になるし、
だから、一晩は様子を見たい」
その夜、リオナは寝る前にもう一度、手の甲にそれを伸ばした。
ひんやりとした感触は変わらない。
赤みも、かゆみも出なかった。
翌朝。
「……昨日より、落ち着いてる」
リオナが、窓辺の光の中で呟く。
青司は、それを聞いて、ようやく小さく頷いた。
「よし。少なくとも、失敗じゃないな。
街に戻るまでは、様子を見続けておこう」
次は乳液だ。
軽めの植物油を温め、精製した獣脂をほんのわずか混ぜる。
蜜蝋を溶かし込み、分離しないように、何度も魔力を送り込みながら、静かに攪拌する。
作業自体は単純だが、気は抜けない。
油の温度、魔力の入れ方、混ざり具合。
少しでも雑になると、すぐに重さとして返ってくる。
――最初の試作は、明らかに重すぎた。
指に取った瞬間、しっとりというより、ぴたりと張り付く。
時間が経っても馴染まず、肌の上に残る感じが強い。
「……これは、冬なら、ちょうどいいと思うけど」
翌朝、様子を見たリオナが正直に言う。
「だな。夏に使ったら、逆に蒸れそうだ」
青司は頷き、配合を書き留める。
悪くはないが、今回の目的には合わない。
器に小さく「一号・冬用」と記した。
二度目は、油を減らし、獣脂もさらに少量にする。
蜜蝋も控えめにし、乳化の段階で魔力の流し方を変えた。
攪拌が終わると、その日はそこで止める。
触らず、蓋をして、一晩置く。
翌日。
分離はしていない。
香りも、変化はない。
指に取ると、今度はすっと伸びた。
「……これは」
「悪くないじゃないかな」
「うん。しっとりするけど、残らない」
さらに半日ほど様子を見てから、もう一度試す。
汗ばむ時間帯でも、重さは出ない。
青司は、ようやく器に印をつけた。
「乳液・二号。
化粧水と併用前提なら、このくらいがいいんじゃないかなとは思うけど」
完成、とはまだ言わない。
けれど――少なくとも、夏用としての形は見えてきた。
その夜。
火を落とした工房には、昼間の作業の余熱だけが残っていた。
試作瓶を並べ、青司は最後にもう一度、配合を書き留める。
「……あとは、夜だな」
「夜?」
「寝てる間に、つっぱったり、違和感が出たりしないか。
日中は誤魔化せても、夜に出るのが一番困るんじゃないかと思って」
リオナは頷き、化粧水と乳液を、いつもの手順で使う。
塗った直後は、重さも刺激もない。
「……大丈夫そうよ」
「すぐの感触はな。
本番は、朝だ」
夜が更け、森は静まり返る。
そして、翌朝。
目を覚ましたリオナは、無意識に頬に手を当てた。
「……つっぱらない」
指先が滑る。
乾いた感じはなく、かといって、油が残っているわけでもない。
少し遅れて起きてきた青司が、その様子を見て声をかける。
「どんな感じかな?」
「嫌な感じはないわね。
夜の間も、特に気にならなかったもの。しっとりしていて、よかったわよ」
その言葉に、青司は小さく息を吐いた。
それだけで、かなりの確認になる。
「なら、ひとまず合格だな。
少なくとも、毎日使う前提はクリアしてる」
朝の支度をしながら、リオナは外を見た。
木々の向こう、すでに日差しは強い。
「……でも」
「うん?」
「これで整えても、外に出たら、また日に焼けるわよね」
その一言に、青司は少しだけ目を細めた。
「だから――次だ」
作業台の端に置いた、すり鉢と粉砕用の石。
白く、細かな粉が入った小袋。
「守るためのやつを、作らないとな」
最後が、日焼け止めだった。
石灰岩と貝殻を、さらに細かくすり潰す。
粒子が粗いと、肌を傷つける。
「……これ、根気がいるのね。ずいぶん時間がかかってるじゃない」
「一応、粒の小さな粉は頼んだけど、
肌を傷つけてしまったら元も子もないからな。
できるだけパウダー状にしたいんだけど……錬金術で仕上げるしかないかな」
そう言って青司は、空間に結界を作る。
その中に、すり鉢で細かくした貝殻と石灰岩の粉を移した。
結界の内側で撹拌させながら圧力を加えていくと、
細かな粉状だったものが、さらに小さな粒子へと変わっていった。
青司は、指先にごくわずか取って、そっとすり合わせた。
ざらつきはなく、粉は静かに滑る。
「……このくらいなら、傷をつけることはまずないだろうな。
今日は配合の目安を見るだけだ。
商品化する時は……粒度を揃えるのが、少し大変かもしれない」
そのとき、ふっと、家の奥から香ばしい匂いが流れてきた。
油が温まる匂いと、どこか甘みのある香り。
「……こっちは、そろそろ、いい頃かしら」
リオナが鍋の方へ視線をやり、木べらを置く音がした。
「助かる。正直、集中してると時間の感覚がなくなる。あと少しで試作の完成だから、もうちょっとだけ待ってもらえないかな」
青司は手を止めずに言い、すり鉢の中身を慎重に均していった。
油分に粉末を少しずつ混ぜ、薬草エキスを加える。
白さはあるが、白粉のような強さはない。
「……塗ると、どう?」
「……仕方ないわね。先につけてみるわよ」
リオナが頬の端に、ほんの少し試す。
「……白くなりすぎることはないみたいだな。
でも、ちゃんと膜がある感じ」
「落ちやすさは?」
指で軽く触る。
「……多少は落ちる。でも、息苦しくはない」
その言葉に、青司は深く頷いた。
ふと、背後から漂ってくる料理の匂いに、鼻先がわずかに引き寄せられる。
リオナは頬を軽く拭い、指先を布で拭った。
視線が一瞬、火を落とした鍋の方へ向く。
それでも、何も言わずに、また青司の方へ視線を戻した。
「これなら、外仕事の人でも使える。
完璧じゃなくていい。『守る』って感覚があれば」
作業台の上には、三つの瓶が並ぶ。
化粧水、乳液、日焼け止め――すべて試作品だ。
「ねえ、セイジ」
リオナが、瓶を見ながら言う。
「街の人たち、きっと喜ぶと思う」
「……そうだといいな」
「ううん。絶対よ。
だって、これ……森で暮らしてる私が使っても、いいって思えるもの」
その言葉に、青司は少しだけ目を細めた。
夕方の光が、作業台を照らす。
瓶の中身は派手じゃない。けれど、確かに「使われるもの」だった。
(――急がなくていい)
一気に広げなくていい。
誰かの夏を、少しだけ楽にできれば、それで十分だ。
「……そろそろ、本当に冷めるな」
そう言って、青司はようやく手を止めた。
「ふふ。待ってたわ。本当に忘れたかと思った」
リオナはそう答えて、火を落とす。
湯気の立つ皿を挟んで向かい合い、二人は静かに食事を始めた。
試作品の瓶は、作業台の上に並んだまま。
森の外では、夏が進んでいる。
その中で、この小さな工房から、静かに新しいものが生まれ始めていた。
*******
翌日、森の中はすでに夏の色を帯びていた。
木々の隙間から落ちる日差しは強く、足元の草を白く照らしている。
リオナは頬と手の甲に、朝試したばかりの日焼け止めを薄く伸ばしてから、弓を担いで家を出た。
狩り自体は、いつも通りだった。
足運びも、弓を引く感覚も変わらない。
けれど――
(……あれ?)
開けた場所を横切っても、頬がひりつかない。
腕に日差しを受けても、じりじりと焼けるような感覚がない。
汗はかいている。
それなのに、肌が落ち着いている。
(……ちゃんと、守られてる)
そう実感できたのは、狩りを終えて家に戻る頃だった。
戸を開けると、工房の奥から青司の気配がする。
「おかえり」
「ただいま」
リオナは弓を外し、外套と狩衣を脱ぎながら続けた。
「日焼け止め……すごく良かったわ。
日向を歩いても、顔も手も、全然ひりひりしなかったの」
青司は、ほっとしたように小さく息を吐く。
「そうか。それなら、一安心だな」
けれど、リオナは狩衣を抱えたまま、少しだけ眉を寄せた。
「ただ――」
「うん?」
「服の中が、すごく暑かったのよね。
外は守られてる感じがあるのに、この革の下だけ、熱がこもるみたいで」
狩衣の内側を指で示す。
「汗も逃げにくいし、動いてると余計に……」
青司は、革の厚みを見て、少し考え込む。
「革は、身を守るためのものだからな。
風も通さないし、熱も逃げにくいんだろう」
「そうなのよね。でも……顔や手が楽だった分、余計に気になっちゃって」
リオナは苦笑した。
青司は腕を組み、天井を見上げた。
「……中なんだろうな。肌に直接触れるところが、楽になれば……
たぶん、感じ方が全然違う」
「え?」
「汗を吸って、すぐ逃がして、張り付かない……
革の下に着るものが、もう少し夏向きなら」
言いながら、自分でも考えを整理するように続ける。
「守る装備は変えられなくても、
その内側なら、工夫の余地はありそうだ」
リオナは一瞬驚いてから、ふっと表情を和らげた。
「……また、何か思いついた顔してる」
「まあ、さすがに服を作ることはできないけど……素材は工夫できるんじゃないかなってね」
青司は苦笑する。
「日焼け止めで、外からの負担は減らせたから。
なら次は……肌に直接触れるところだろうな」
狩衣を脇に置きながら、リオナは静かに頷いた。
「それができたら……夏の狩り、ずいぶん楽になると思うわ」
森の外では、変わらず強い日差しが照りつけている。
けれど、その暑さにどう向き合うか――
二人の中で、次の課題はもう、はっきりと形を持ち始めていた。




