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 昼前だというのに、黒猫亭の中は熱気に満ちていた。

 ゼリーを求める客の声、グミの追加を頼む声、皿が重なる音。甘い香りに混じって、焼き菓子の匂いが漂う。


「次、ゼリー三つ! それとグミの袋、追加!」


 カウンターの内側で声を張っているのは、姉のマリサだった。

 額にうっすら汗を浮かべながらも、手は止まらない。注文をさばき、笑顔を向け、厨房と客席をつなぐ要になっている。


「マリサ、ちょっと休んだ方がいい」

 厨房から顔を出したベルドが言うが、マリサは首を振った。


「大丈夫よ。まだ初期だもの。それに――」


 言いかけて、ふと唇に指を当てる。

 忙しさに紛れていたが、乾いた感触が気になった。


「……ちょっと、荒れてるわね」


 そう呟いて、水を一口含む。けれど、忙しさの中ではそれ以上どうにもできない。


 その様子を、配膳を終えたリオナが見ていた。

 一瞬だけ迷うように視線を落とし、それからエプロンのポケットに手を入れる。


「お姉ちゃん」


「なに?」


 マリサが振り向いた瞬間、リオナは小さな容器を差し出した。


「これ……セイジが作ったの」


「え?」


「唇用。色もついてる」


 忙しい最中だというのに、マリサは思わず受け取った。

 小さな容器の中には、淡く色づいた軟膏が入っている。


「色はね、赤とピンク。どっちも派手じゃないのよ」


 リオナはそう言って、容器を二つ並べた。


「赤は血色がよく見える感じ。

 ピンクは、もっと柔らかいの。私はこっちを使ってるの」


 さらに指で示す。


「それぞれ、薄めから普通、少しだけはっきり、って三段階」


「……ずいぶん、考えてるのね」


 マリサが感心したように言うと、リオナは少しだけ目を逸らした。


「狩りのあととか、風に当たると切れやすいからって」


 誰が言い出したのか、言うまでもなかった。


「じゃあ……これ」


 マリサが選んだのは、赤の一番淡い色だった。


「仕事中だし、これくらいがいいわね」


「うん」


 リオナは頷き、指先にほんの少し取る。

 そして、ためらいなく、姉の唇にそっと触れた。


 薄く、優しく。

 撫でるように伸ばすと、荒れていた感触がすぐに和らぐのが分かる。


「……あ」


 マリサが小さく声を漏らした。


「どう?」


「いい。すっと馴染んで……潤う」


 その様子を、横で見ていたベルドがじっと見つめていた。

「……その色いいな。その……すごく、ステキだ」


「でしょ?」

 マリサが少し照れたように笑う。

「色もほんのりだし、これなら仕事中でもいいわね」


「……うん。客に向ける顔としても、ちょうどいい」

 そう言ってから、ベルドは一瞬だけ視線を逸らした。

「……かわいいな」


 マリサは言葉に詰まり、ほんのり赤くなった唇に指を当てる。


「……もう。忙しい時に、そういうこと言わないでよ」

 その声音は、叱るよりも、どこかくすぐったそうで、嬉しそうだった。


 その様子を、見ていたリオナは、思わず視線を逸らした。


(……相変わらず仲が良いのよね)


 胸の奥が、くすぐったいような、むず痒いような感覚になる。

 羨ましい、というほどはっきりした感情ではないけれど、

 自分が見ていいものだったのか、少しだけ迷う。


 頬に熱が集まりそうになるのを誤魔化すように、リオナは手元の皿を持ち直した。


「お待たせしました」

 声に出すと、不思議と気持ちは仕事の方へ戻っていく。


「次、ゼリー二つ!」

 マリサに尻を叩かれたベルドの声が飛ぶ。


「はいはい!」

 マリサはすぐにカウンターに向き直り、また仕事に戻る。

 けれど、先ほどよりも唇の感触を気にする様子はない。


 リオナはその背中を見送りながら、胸の奥で小さく息をついた。


(……ちゃんと、役に立ってる)


 青司が森で作ったものが、

 ここで、誰かの一日を少しだけ楽にしている。


 黒猫亭は今日も忙しい。

けれど、その忙しさの中には、確かな温もりが、静かに息づいていた




**************



「アイリの足ですが……」

 クライヴが先に切り出した。

「先ほど薬を飲んでもらうと、紫の色も腫れも引いて、

 今はもう、普通に歩ける状態でした。

 毒は、もう抜けたと見ていいでしょう。

 少し効き過ぎて驚きましたが、さすがセイジさんとしか思えなかったですね」


「……良かった」

 青司はそれだけ言って、ほっと息を吐いた。


「それで……もう一つ、森で作ってきたものがあるんですが」


 二階の事務所に、小さな木箱を置いた青司は、少しだけ居住まいを正した。


「……これ、森で作ってきたものです。獣脂を精製して、保湿剤にしました。

植物油を使う石鹸が増えたので、獣脂が余るかなと思って」

 少し間を置いて、続ける。

「色をつけたものは唇用です。……みなさん、どう思いますかね。使い心地とか、扱いにくい点があれば教えてください」


 蓋を開けると、白磁の小さな容器が並ぶ。

 無色のものがひとつ。

そして淡いピンクと赤――それぞれ三段階の濃さで、滑らかに移ろう。


「……これは」


 最初に声を上げたのはミレーネだった。

 ひとつ手に取り、光に透かすようにしてから、ゆっくり頷く。

「色が強すぎないのね。血色がよく見えるだけ……品がいいわね」


「三段階あるのも助かります。肌の色、立場、年齢で使い分けられるもの」

 エリンもすぐに続き、無色の容器を指で軽く撫でた。


「無色があるのも、すごくいいです。仕事中でも、男性でも使えますし」

 クライヴの言葉に、ミレーネは一度だけ頷いた。


「商品化しましょうよ」


「唇は荒れやすいし、冬前ならなおさら需要があります。価格帯も調整しやすい」


 青司は、思わず小さく息をついた。

「……そこまで言ってもらえるなら、助かります」


 そこへ、エリンが、ふと視線を逸らしながら言った。

「……あの。これとは別なんですけど」


「うん?」


「以前にもお伝えしたかと思うのだけど、冬に結婚式を挙げる予定で……昔からの、そばかすが少し気になってて。隠すっていうより、目立たなくできたらいいなって」

 少し照れたような声だった。


 昼の休憩のために二階に上がってきたソフィアが、椅子に腰かけながら頷く。


「わかるわ。白粉は……正直、少し抵抗がありますよね。

 娼婦みたいだって言う人もいるし、肌に悪いって噂もありますし。

 私は眉が薄いから、そのあたりが自然に整うなら嬉しいんですけど」


 ソフィアの話しの次はエルミナが手を挙げた。


「私は冒険者をしてたから、日焼けもあるし……染みも。

 隠すための化粧っていうより、肌がきれいに見えるものがあればいいなって。

 それに、できれば……そもそも日焼けしにくくなるものがあったら嬉しいです」


 次々に出てくる言葉に、青司は思わず頭をかいた。


「……えっと。正直に言うと、化粧品のことは、あんまり詳しくないです」


 その言い方があまりに素直で、ミレーネが小さく笑った。


「でも、石鹸も、保湿剤も、結果は出してるじゃないですか」


「そう。『わからない』から慎重に作る人の方が、信頼できるわ」


 エリンも、安心したように微笑む。


「無理に全部を一度に作らなくていいんです。

 肌に負担がなくて、“使い続けられるもの”なら」


 そう言われ、青司は皆の顔を順に見てから、ゆっくりと頷いた。


「……じゃあ。時間はかかるかもしれないけど、薬草と油の組み合わせを、少しずつ試してみましょうか」


 小さな木箱の蓋を閉じながら、青司はふと視線を落とす。


「……正直に言うと」

 言葉を選ぶように、頭をかいた。

「ルーメン工房の肌荒れ軟膏と、かぶらないかが少し気になってます。

 治療薬はあちらの領分ですし、俺がやっていいことなのか……」


 一瞬、室内が静かになる。


 最初に口を開いたのは、クライヴだった。

「方向が違いますよ、セイジさん」


 そう言って、無色のリップを指先で軽く回す。


「これは“治す薬”じゃない。“荒れないためのもの”です。

 困ってから使う工房の薬と、日常で使うこちらは、役割がはっきり分かれている」


 ミレーネも頷いた。

「むしろ、補完関係ですね。

 軽い乾燥ならこちら、ひどければ工房。

 選択肢が増えるのは、使う側にとってありがたいことです」


 青司は、少しだけ肩の力が抜けた気がした。


 ――そうか。

 森でやってきたことと、同じだ。


 傷薬と、手入れ用の油。

 狩りのあとに塗る薬と、普段から使う保湿。

 用途が違うだけで、どちらも“生きるための道具”だった。


「……俺、専門家みたいなことは言えません」

 苦笑しながら、青司は続けた。

「でも、森で暮らしてて思ったんです。

 荒れてから治すより、荒れない方が、ずっと楽だって」


 エリンが柔らかく微笑む。

「それ、とても大事な視点ですよ。

 薬師さんらしいと思います」


 青司は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。


 商品ではある。

 けれど――誰かの一日を、ほんの少し楽にするためのもの。


 それは、治療薬と同じくらい、確かな価値を持っている。


(……使えるから作ったんじゃない。

 必要だと思ったから、手を動かしただけだ)


 胸の奥で、何かが静かに定まる。


 森で身につけた感覚も、授けられた力も、無駄にはしない。

 誰かの生活に、そっと寄り添う形で使う。


 ――それが、今の自分のやり方なのだと。


 ふと視線を上げると、

 二階の事務所には夏の光が斜めに差し込んでいた。


 開け放した窓からは、通りのざわめきと、乾いた風。

 強い日差しの気配が、肌に伝わってくる。


「……今の話を聞いていて、思ったんですが」


 青司は指先で木箱の縁をなぞりながら、ゆっくりと口を開いた。


「季節的に考えるなら、まずは――

 日焼け対策からがいい気がします」


 ミレーネが小さく頷く。

「確かに。もう日差しはかなり強いですね」


「冒険者もそうですし、街で働く人も。今の時期なら、使う人はすぐにいます」

 エリンも補足するように言った。


 青司は少し考え込み、頭の中で順を組み立てる。


「化粧で隠すより、その前の段階で守る。

 ……なので、順番としては」


 指を折りながら続ける。


「まず、化粧水。日焼け後の火照りを落ち着かせるもの。

 次に、乳液。水分を逃がさないための油分。

 それから――日焼け止めですね」


 クライヴが眉を上げた。

「三つ、ですか」


「ええ。でも、全部を一度に完成させる必要はないです。

 化粧水と乳液は、今まで作ってきた延長線上でいけると思います」


 問題は、と青司は一拍置いた。


「日焼け止めです。

 肌に刺激が少なくて、白くなりすぎない。

 汗や水で、すぐ流れ落ちないこと」


 ソフィアが感心したように息をつく。

「……条件が、はっきりしてますね」


「森で暮らしてると、必要な条件から考える癖がつくんです」


 青司はそう言って、苦笑した。


「正直に言うと、俺ひとりじゃ素材を全部揃えられません。

 なので――必要なものを、リストにします」


 そう言って、机に紙を広げた。


 ペンを走らせながら、青司は言葉を添えていく。


「まず、化粧水用に――」


 紙の上に、項目が並んでいく。


「・精製水。蒸留すれば大丈夫です。

 ・肌を落ち着かせる薬草……カモミール系か、似た効能のもの。

  この二つは、森で調達できます。

 ・防腐用に、アルコールを少量」


 さらさらと、迷いなく書き進める。


「次に、乳液は――

 ・軽めの植物油

 ・精製した獣脂を、ほんの少し

  この二つも、森で問題ありません。

 ・乳化のために、蜜蝋か、それに近いもの」


 そこで、ペン先がわずかに止まった。


「日焼け止めは……少しだけ、難しくて」


 書き足す文字が、先ほどより慎重になる。


「・石灰岩由来の微粉末。できるだけ粒子の細かいもの

 ・貝殻の粉末

 ・肌に残りやすくするための油分

 ・刺激を抑える薬草のエキス」


 最後に、ぽつりと付け加える。


「……下の二つは森で用意できますが、

 石と貝の粉は、街でないと揃いません」


 そう言って、顔を上げた。


「このあたりが、まず必要になると思います」


 クライヴとエリンが、顔を見合わせた。


「わかりました」

 クライヴが即座に頷く。

「アルコールと蜜蝋、それから鉱物類と石灰岩は、商会経由で手配できます。

 粒度の指定も可能です」


「貝殻の粉は、港町から取り寄せましょう」

 エリンも間を置かずに続く。

「精製度の違うものを、何種類か用意します」


 そこまで聞いて、青司は思わず小さく息を吐いた。

「助かります。

 俺は――森に戻って、調達と配合を試します」


 ミレーネが静かに微笑む。

「役割分担、ですね」


「はい。

 作る場所は森、動かすのは街。

 その方が、無理がない」


 紙の上のリストを見つめながら、青司は思う。


 日焼け止めも、化粧水も、乳液も。

 誰かを飾るためのものじゃない。


 夏の光の下で、働く人が、狩りをする人が、

 少しでも楽に一日を終えられるためのもの。


「……じゃあ、お願いします」


 そう言って、青司は紙を差し出した。


 クライヴがそれを受け取り、軽く頷く。

「こちらで、動かします」


 エリンも微笑んだ。


「では、今日と明日は、少しゆっくりしてくださいね。

 森に戻ってからも、解毒薬や保湿剤作りで忙しくしていたでしょうから。

 素材が揃ってから、森へ戻っていただければ大丈夫です」


「いいの? ありがとう。

 それじゃあ、アイリの足の様子を見たら、黒猫亭に行ってくるよ」


 事務所の窓の外では、夏の街が絶え間なく動いている。

 人の声、馬車の音、乾いた風。


 その中心から、視線を少しだけ外し、森のある方角へと目を向けながら、

 青司は静かに思った。


(――次は、試作だな)


 森で、もう一度。

 今度は、夏のための薬を作る。

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