59
翌朝、森は澄んだ冷気に包まれていた。
家の戸を開けると、夜露を含んだ土の匂いが立ち上る。
歩いて十五分ほどの湖へ向かう道は、二人にとって久しぶりでありながら、確かに“いつもの”道だった。
鳥の声を聞き分け、踏み跡の柔らかさを確かめながら、青司は桶を担ぎ、リオナは周囲に気を配る。
湖面は朝の光を受けて静かに揺れていた。
青司が水を汲み、桶の蓋を閉める。
「ここからは別行動ね」
「ああ。無理はするなよ」
短い言葉だけ交わして、リオナは弓を背負い直す。
その口元には、ほんのわずかだが弾むような気配があった。
森へ踏み出す足取りは軽く、狩りに向かうことそのものを楽しんでいるのが伝わってくる。
青司はその背中を見送り、無言で頷いた。
自分が作業場に戻り、薬を作るのと同じように――
彼女もまた、自分の得意な場所へ向かっているだけだ。
リオナの姿が木々の間に溶けて見えなくなってから、青司は家路についた。
*
作業場に戻ると、朝の光が窓から差し込み、整えられた棚の瓶を照らす。
昨日採取した紫痕蔦と、補助となる解毒草が布の上に並んでいた。
青司は深く息を吸う。
ここからは、薬師としての時間だ。
まず蔦を手に取り、昨夜途中まで進めた処理の跡をあらためて確認する。
一見すると問題はない――だが、節の色味がわずかに違う。
「……やっぱり、だめだな」
昨日は、毒の流れを読み違えていた。
刃を入れる角度がほんの僅かに深く、結果として毒性を刺激してしまっている。
青司は迷いなく、そこまでの処理を破棄した。
もったいないという感情は、薬師の判断には不要だ。
改めて蔦を丁寧に分解する。
毒が集中する節と、薬効を持つ繊維を見極め、今度は刃を浅く、繊維の流れに沿わせる。
不用意に傷つければ毒は活性化する――それを理解した上での手つきには、もう揺らぎはなかった。
「……よし」
乳鉢に素材を入れ、ゆっくりと摺る。
その動きは一定で、呼吸と同調していた。
粉が均一になったところで、抽出液を加える。
ここからが、錬金術師としての領域だ。
青司は掌をかざし、意識を集中させる。
体内を巡る魔力を、糸を引くように静かに引き上げる感覚。
荒々しく流せば薬は壊れる。
必要なのは、制御と理解。
「……鎮め、繋げ」
低く呟くと、魔力が溶液に染み渡る。
紫がかった液体が、次第に澄んだ色へと変わっていく。
毒性を削ぎ落とし、薬効だけを残す工程――
本来なら知識と感覚、その両方が求められるところだが、授けられた恩寵のおかげで、青司の中には学びや経験がなくとも、その感覚が最初から備わっている。
この世界に来たとき、青司は明確な優遇を受けていた。
物を作り出す制作の技、錬金と薬師としての知識、成功率を底上げするスキル――いわゆるチートだ。
だが今、彼はそれを優遇とは呼ばなくなってきていた。
ここへ来たときに授けられ、今も借り続けている力――
使えるから使うのではない。使わせてもらっているから、無駄にはしない。
その力を、恩寵として受け止め始めていた。
額に汗が滲む。
だが手は止まらない。
魔力を練り込み、一定のリズムで循環させる。
器具がかすかに共鳴し、空気が張り詰める。
やがて、ふっと重さが抜けた。
青司は手を離し、液体を見下ろす。
そこには、安定した淡い色の解毒薬が完成していた。
「……できたな」
瓶に移し、封をする。
ラベルには迷いなく〈紫痕蔦 解毒薬〉と記した。
外から、風に揺れる森の音が聞こえる。
今頃、リオナは獲物を追っているだろう。
青司は瓶を棚に並べ、軽く拳を握った。
剣を振るうでも、矢を放つでもない。
だが――誰かの命を確かに守る力が、ここにある。
その自覚が、胸の奥で静かに熱を帯びていた。
*******
執務室の窓から差し込む午後の光は、いつもより柔らかく感じられた。
フィオレル子爵は書類から顔を上げ、入室してきたビリーの姿を見るなり、口元をわずかに緩める。
「戻ったか。……どうだった?」
問いかけは簡潔だが、声の調子は明らかに機嫌が良い。
それに気づいたのだろう、ビリーは一瞬だけ眉を上げた。
「問題ありません。セイジ殿と猫人族の娘リオナ殿、無事に森の家へ戻られました。紫痕蔦の採取も確認しております。……しかしながら、私の護衛に気づかれていたようでした。」
「……そうか。不快に思われなければ良いのだがな」
満足げに頷き、フィオレル子爵は卓の脇に置かれた銀の盆を指差した。
「報告の前に、ひとつ付き合え。黒猫亭の新作だ。どうやらこれにもセイジが絡んでいたようだがな」
小さな硝子器に盛られた、淡い色合いのゼリー。
ビリーは一瞬ためらいながらも口に運び、目を見開いた。
「……これは」
「王都の服飾ギルド長、ダラス子爵の接待で出した。見事に食いついたよ」
子爵は椅子にもたれ、愉快そうに続ける。
「結果として、王都で一人前の仕立屋になれる腕を持ちながら、資金不足で店を持てずにいる若者たちを、リルトへ紹介してもらえることになった」
ビリーは静かに聞いている。
「対価として、ゼリーのレシピをダラス家の調理人に渡すことになった。安い取引ではないが…… まあ、こちらが得たものを思えば、十分に釣り合っている。」
フィオレル子爵は椅子に深く腰掛け、満足げに息を吐いた。
「それにな、まだ“グミ”という菓子がリルトには残っている。リオネで販売を始めるそうだと、クレスから報告があがってきていてな。――セイジは、実に色々とやってくれる」
フィオレル子爵は肩をすくめ、しかし迷いはなかった。
「王都で店を出すには金がかかりすぎる。だがリルトなら、貧民街の空き家を改装すればいい。初期資金は王都の十分の一で済む。才能ある者には、街として資金を用意する」
窓の外、街の方角へ視線を向ける。
「若い力で最先端の仕立屋通りができれば、貴族夫人たちは必ずこの街に足を運ぶ。そうなれば街はさらに潤う。すでに清掃員や衛兵隊、職人たちの工房での雇用も増え、貧民街の治安も確実に改善し始めている」
ビリーは胸に手を当て、静かに頷いた。
「街が、生きているみたいですね」
「生かしているのさ。……無論、優秀な“薬師殿”の存在も忘れてはいないがな」
子爵は意味ありげに微笑み、ゼリーの器を手に取った。
「さて、報告の続きだ。セイジ殿の様子を、詳しく聞かせてもらおう。別宅での二人の様子――何か気づいたことはあるか?」
ビリーは、わずかに苦笑を含ませた。
「側から見れば……どう見ても仲の良い恋人同士なのですが」
子爵の眉が、ほんの少し動く。
「ですが、ご本人たちは至って友人のような距離感に見えます。互いに踏み込みすぎぬよう、意識しているようにも」
「ほう」
「他者からの介入は、好まれないでしょう。護衛として前に出るより、見守る方が適切かと判断しました」
フィオレル子爵はしばし黙考し、やがて静かに頷いた。
「……それでいい」
机に指を組み、低い声で言う。
「セイジ殿の機嫌を損ねる真似はしない。他の貴族が不用意に近づかぬよう、こちらで手を打つ。ホヅミ商会の後見人として、二人を見守るとしよう」
ふと、思いついたように言葉を添える。
「黒猫亭にも、目立たぬ形で護衛を回すか……。あそこも、いまや街の顔だ」
ビリーは胸に手を当て、深く一礼した。
「承知しました。騎士隊の方に伝えておきます」
「ふむ、後で私からも伝えておく」
フィオレル子爵は再びゼリーに視線を落とし、穏やかに微笑んだ。
「若い芽は、踏まずに育てるものだ――その成功例として、上の者にも見てもらおうか」
**************
森の家の作業場に、薬草とは別の香りが満ちていた。
紫痕蔦の毒性を完全に削ぎ落とし、薬効だけを残した液体が、ゆっくりとガラス瓶の底に落ち着いていく。
青司は最後の魔力を、静かに封じた。
「……よし」
瓶に蓋をし、ラベルを書き終えたところで、外から微かな足音がした。
木の葉を踏む音。軽く、迷いがない。
次の瞬間、扉が開く。
「ただいま」
狩衣姿のリオナが、弓を肩にかけたまま顔を覗かせた。
頬は少し赤く、髪には森の匂いが残っている。
「おかえり。怪我は?」
「ないわ」
気遣ってくれたのが素直に嬉しくて、リオナは少しだけ頬を赤らめた。
「今日は当たりだったのよ」
そう言って、リオナは背負っていた荷袋を下ろす。
中から取り出されたのは、布に包まれた、ずっしりとした楕円形のものだった。
「……卵?」
「運良く灰羽走鳥の巣を見つけたのよ」
布をほどくと、手のひら二つ分ほどもある大きな卵が姿を現す。
殻は淡い灰色で、うっすらと羽毛のような模様が入っていた。
「親鳥、いなかったの?」
「いたわよ。だから、これ一個だけ。欲張ると危ないから」
「灰羽走鳥は肉も卵も美味しいけど……親鳥はけっこう攻撃的で、足も速いのよね。
でも、飛べないから、しばらく木の上でやり過ごしてから帰ってきたの」
さらりと言うが、その判断の速さと冷静さが、狩人としての腕を物語っていた。
「青司、卵料理……好きでしょう」
少し視線を逸らし、言い訳めいた調子で付け加える。
青司は一瞬、言葉を失ってから、ふっと息を吐いて笑った。
「……うん、好きだよ。ありがとう。ちょうど、薬もできたところだ」
「じゃあ、今日はこれでオムレツとキッシュを作るわね」
そう言って、リオナは迷いなく台所へ向かった。
慣れた手つきで竈に火を入れ、フライパンを取り出す。
殻を割る瞬間、リオナは一拍だけ間を取った。
猫人族特有の感覚で、中身の状態を確かめてから、静かに力を加える。
殻が割れ、器に流れ出る卵液は、驚くほど濃い色をしていた。
黄身は深い橙色で、白身もとろりと粘りがある。
「……新しい。いい卵ね」
軽く塩を振り、泡立てすぎないように箸で混ぜる。
台所の奥、作業場では、青司が解毒薬の瓶を棚に戻していた。
布で台を拭き、器具を洗い、使い終えた乳鉢を乾かす。
料理に口出しするより、その方が互いに楽だと、二人とも知っている。
「火、強すぎない方がいい?」
仕切りの向こうから投げられた声に、リオナは短く答える。
「そうね。弱めで」
フライパンに油を落とし、温度を確かめてから卵液を流し込む。
じゅっ、という音は控えめで、すぐに火を落とす。
縁が固まり始めたところで、リオナは手早く中央へ寄せた。
混ぜすぎず、放置もしない。
箸の動きは迷いがなく、呼吸と同じ間合いで続く。
ふわり、と立ち上る卵の甘い香りが、家の中に広がった。
森の朝の冷たい空気に溶け込むような、やわらかな匂いだ。
作業場で瓶を並べ終えた青司が、思わず顔を上げる。
「……いい匂いだな」
「今、気にしないで。火、見てるから」
そう言いながらも、リオナの耳がわずかに揺れる。
最後に火から外し、余熱で形を整える。
皿に移されたオムレツは、表面がつるりとしていて、触れれば今にも崩れそうだった。
リオナはそのまま、次の器を手に取る。
刻んだ野菜と干し肉、少量の乳と香草を合わせ、卵液を静かに注ぐ。
「キッシュは、あと少し時間かかるわ」
「了解。片付け終わったら、火の番する」
役割を確かめ合うような短いやり取り。
それだけで、家の中の流れが揃う。
竈の火が静かに燃え、
作業場では薬瓶が整列し、
台所では卵が、ゆっくりと料理に変わっていく。
特別な言葉はない。
けれど――ここが、ちゃんと“帰る場所”になっていることだけは、確かだった。
「はい」
ナイフを入れると、中心からとろりと中身が溢れ出す。
灰羽走鳥の卵らしい、濃厚で深い色合いだ。
隣の皿には、こんがりと焼き色のついたキッシュ。表面は香ばしく、中はしっとりと層をなしている。
青司はまずオムレツを一口運び、目を細めた。
「……美味しい」
続けてキッシュにも手を伸ばし、噛みしめるように頷く。
「こっちも……いいな。卵の味がちゃんと引き立ってる」
「……なら良かった」
リオナは、ようやく少し肩の力を抜いた。
向かいに腰を下ろし、自分の皿にもフォークを入れる。
「立派なお屋敷で、豪華な料理を食べさせてもらってたでしょう?
口に合わなくなってたらどうしようって、ちょっと心配してたのよ」
それで、と続ける前に、ふっと柔らかく笑った。
湯気越しのその表情は、どこか照れを含んでいる。
「でも……やっぱり、ここで食べる方がいい顔してる」
青司は少しだけ困ったように笑い、視線を逸らしてフォークを置いた。
「……たぶん、それは料理のせいだけじゃない」
短い沈黙。
言葉はそこで止まったが、否定する必要もなかった。
外では風が木々を揺らし、鳥が鳴く。
家の中では、竈の余熱と食器の触れ合う音だけが残っている。
狩って、作って、食べる。
それぞれの得意なことを持ち寄って、同じ食卓につく。
とろとろのオムレツと、香ばしいキッシュ。
灰羽走鳥の卵で作られたそれらは、
二人がこの森で生きている証のように、静かに皿の上で温もりを保っていた。
*
夜の森は、昼とは別の顔を持っている。
音は少なく、けれど完全な静寂ではない。風が枝を揺らす気配、遠くで小さく鳴く生き物の声。家の外に出ると、それらが肌に触れるように感じられた。
東屋の風呂場に灯りを入れる。
青司が作った簡素な造りだが、雨を避けられ、湯を使うには十分だった。
桶の中の湯に、彼が作ったシャンプーを少し落とす。
鼻先をくすぐる、ほのかな草と柑橘の匂い。
「……これ、やっぱり好き」
独り言は、森に溶けて消える。
泡立ちは控えめなのに、指通りがいい。狩りで汗をかいた後でも、毛並みがきしまず、頭が軽くなる感じがする。
続いて、バススクラブを手に取る。
粒子は細かく、肌を削る感じがない。脚や腕を軽く撫でるように使うだけで、余計な疲れが落ちていく。
(……明日も、ちゃんと動けそう)
それが、何よりありがたい。
狩人にとって、身体は道具だ。だが、こうして労わる時間があると、気持ちまで整っていく。
湯を流し、風に当たる。
夜気は冷たいが、不快ではない。森の匂いと、石鹸の残り香が混じって、胸の奥が落ち着いた。
自室に戻り、タオルで髪を拭く。
最後に、ボディーバターを少しだけ手に取った。
指先で温めてから、手首と踝に伸ばす。
強い香りはなく、ほんのり甘い。
(……青司の作るものって、主張しすぎないのよね)
使う人のことを考えている、そんな感じがする。
だから、自然に生活に馴染む。
灯りを落とすと、家の中は静かになった。
向こうの部屋で、青司が何かを片付ける音が一度だけして、それきりだ。
同じ屋根の下にいる。
それだけで、十分だった。
――翌朝。
鳥の声で目を覚ます。
身体は軽く、筋張った感じも残っていない。
窓を開けると、朝の森の空気が流れ込んできた。
今日も狩りに出られる。
青司は、きっとまた作業場にこもるのだろう。
(それぞれの仕事、ね)
そう思うと、自然と口元が緩んだ。
同じ場所に帰ってくるから、それぞれ外へ出られる。
夜に整えた身体と心は、朝の一歩を軽くしてくれる。
リオナは髪を結び直し、弓に手を伸ばした。
今日も、森は変わらずそこにある。




