56
翌朝。
窓からやわらかい光が差し込み、静かな別宅の一日が始まる。
ダイニングに入ると、先に来ていたリオナが椅子に座っていた。
青司に気づいたが、ほんの一瞬目をそらす。
「……おはよ」
「お、おう。おはよう」
互いにぎこちない。
昨夜の会話が頭の片隅に残ったまま、距離の取り方がわからない。
そこへタイミングよくメイドが朝食の準備を持って入ってくる。
「お二人とも朝がお早いのですね。まだ六つ時の鐘が鳴ったばかりでございますのに」
「あ、えっと……普段から早めに起きてるからかな」
「私も。森にいた頃からの癖で……」
いつも通りの会話――それが互いの救いになる。
緊張がほんの少しだけ和らぐ。
メイドは穏やかに続けた。
「リルトの街では三刻ごとに、中央の時計台から鐘が鳴ります。昨夜も、気づかれましたか?」
「あ……そういえば、聞こえてたかも」
青司は、笑い声に混じって時折どこかで鐘が鳴っていた記憶を思い出す。
昨夜は、気づく余裕がなかっただけだ。
そう思った瞬間、ひやっと背中が熱くなる。
リオナも同じ記憶に触れたのか、こっそり肩をすくめた。
二人の視線がかすかにぶつかり――すぐに逸らす。
メイドは気づいた様子も見せず、柔らかく一礼した。
「それでは、朝食を準備してまいりますので、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
扉が閉まる。
残されたのは、蒸気の立つ食事の匂いと、気まずさと、照れくささと――でも心地よさが確かに混じった沈黙だった。
沈黙を破ったのは、メイドが運んできた温かい食事だった。
「本日の朝食をご用意いたしました。……それと――」
メイドは柔らかく微笑む。
「昨夜はずいぶん楽しそうでいらっしゃいましたね。
お二人の笑い声が廊下にまで弾んで聞こえておりましたよ」
青司、リオナ、同時に固まる。
「えっ、そ、そんなに……?」
「き、聞こえてたの……?」
リオナは顔を伏せ、青司は耳の先まで熱くなり、二人して言葉を失う。
メイドは悪戯するつもりなどまったくなく、あくまで朗らかに続ける。
「仲の良いご様子を見ると、こちらまで嬉しくなります。
どうか遠慮なく、ゆっくりお過ごしくださいませ」
そう言って静かに下がっていった。
去ったあと、二人の間に沈黙が落ちる。
だが昨夜までのものとは違う。
気まずさの奥に、どこか“嬉しい”が混じってしまっている、誤魔化しようのない空気。
「……あのさ」
青司が口を開く。
「昨日言ったこと、覚えてる?」
リオナの指がかすかに揺れる。
逃げるように返事をせず、けれど否定もできず、絞り出すように言う。
「……うっすら、ぼんやり。覚えてる、かも」
それ以上を聞くのは反則だ。
青司もそれを理解し、続きは飲み込む。
「……そうか。俺も……そんな感じ」
そこで二人はようやく視線を合わせる。
ほんの一瞬だけなのに、胸の奥が熱くなる。
そのままどちらともなく、朝食に手を伸ばした。
ぎこちなさは残ったまま、けれど距離は確実に昨日より近かった。
朝食を終えると、屋敷の正面玄関前に、立派すぎるほど立派な馬車が待っていた。
深紅の塗装、磨かれた車輪、そして側面にはフィオレル家の紋章が大きく掲げられている。
「……いや、さすがにこれは目立つだろ」
青司は固まった。隣でリオナも同じ顔をしている。
「これで店に行ったら、大騒ぎになっちゃう……」
二人が同時に困惑していると、ビリーが静かに一礼した。
「もしご心配でしたら、家紋のない商用馬車をご用意いたしましょうか」
「あっ……助かります!」
「それでお願いします!」
返事が噛み合うほど慌てながら、二人はほぼ同時に頭を下げた。
しばらくして、紋章なしの落ち着いた色合いの馬車が回されてくる。
「お待たせいたしました。こちらであれば町中でも目立ちにくいかと」
「最高です……」
「本当にありがとうございます……」
心の底からの安堵が声ににじみ、ビリーは静かに微笑んだ。
そして二人はその馬車に乗り込む。
――――馬車が動き出すと同時に、沈黙も揺れ出した。
普段乗らない馬車の揺れに合わせて、リオナがそっと背筋を伸ばす。
青司も落ち着かず、どこに視線を置けばいいかわからない。
昨夜のやり取りが記憶の端でくすぶっている。
「……き、今日、忙しくなるよな」
沈黙に耐えられなくなった青司が切り出した。
「うん。でも……」
リオナはひざの上で指をそっと絡める。
何か言いかけて、迷って――ほんの少しだけ笑った。
「……セイジと一緒なら、がんばれるわね」
控えめで、でも嘘じゃない声だった。
青司の胸の奥に、ゆっくり火が灯る。
はっきりした告白じゃない。
けれど、そう聞こえてしまう距離感がある。
「そ、そうか。……俺も、その……助かってるよ」
照れ隠しに視線をそらす青司の声が裏返っていた
リオナは気づかないふりをしながら、ほんの少しだけ笑った。
ちょうどそのとき車輪が石畳の段差を越え、揺れる勢いで二人の肩が触れ合った。
「っ……!」
離れるのも不自然で動けない。
けれどその沈黙は、もう気まずいだけのものではなかった。
そんな甘くぎこちないまま、馬車は店の前に止まった。
扉が開かれると、店の仲間たちの視線が一瞬で集まった。
「……馬車で来た?」
「えっ、しかもあれ、かなりいい馬車じゃない?」
「ていうか二人一緒に降りてきたよね?」
青司とリオナはほぼ同時に硬直する。
(終わった……)
(完全に気づかれてる……!)
だが助け船は突然やってきた。
「店長!今日のシャンプーの在庫の件で相談が!」
ルーカスが声をかけてくれる。
「昨日の売り上げをまとめたのも見せたいんですよ」
レオナルドも続く。
「あ、ああ!ちょうどよかった、助か……いや、助かったとかじゃなくて、相談、うん相談な!」
「店長、言い訳になってる」
ツッコまれながらも、青司はそのまま引っ張られて救出された。
一方リオナは――
「ねぇリオナ、今日なんか雰囲気違わない?」
ソフィアが鋭い観察眼で切り込む。
「顔赤いよね? なんで?なんで?なにあったの?」
リディアが無邪気さ全開で前のめりに追撃する。
女性陣の呼吸の合った連携に、リオナはひとたまりもない。
「ちょ、ちょっと!? な、なんでもないからっ! ほんとになんでもないってば!!」
逃げようと一歩下がった肩を両側からがっちりホールドされる。
抵抗むなしく、店の奥――休憩室の方へと、優しくも容赦なく引きずられていく。
「待って待ってほんとに違うの!! すごい普通の日だから!!」
「はいはい、その普通が何なのかゆっくり聞かせてね〜」
「詳しく〜じっくり〜できれば昨夜からの時系列で〜!」
リオナの耳まで真っ赤になり、青司の視界から完全に連行されていった。
それぞれが自分の持ち場へ散りはじめた頃、クライヴとクレスが青司のもとへ歩み寄った。
「人員の件ですが、ガラント副長が数名、候補者に声をかけてくださっているそうです」
クライヴが手帳を開きながら言う。
「あの方の紹介なら信頼できますね。ギルド経由でもありますし……お会いしてみますか?」
クレスが静かに補足した。
「――会おう。人手は絶対に必要になる。今日の午後、時間を作ろう」
青司の声音はいつもの仕事のそれに戻っていた。
さっきまであった照れも熱も、一瞬で引き締められていく。
そこで、ふっとクライヴが目元を和らげた。
「商会事務所と店舗、役割を整理していくといいですね。
もともと森で開発しているあなたが現場に縛られていては、これ以上の成長がないですし」
クレスが頷き、言葉をつなぐ。
「“守られる店”ではなく、“回り続ける店”を作りましょう。
皆さまが本来のお役目を果たせる組織を――」
「……けど、まだリオネは始まったばかりだから、僕も街にいる限りは店に顔は出すよ」
「もちろんですよ」
クライヴが笑った。
「事務所は店の二階なんですから。何かあれば、事務所組もすぐ店舗に出ていけばいい。
“分ける”ためじゃなく、“支える”ための役割分担です」
青司はその言葉に小さく息を吐き、力の入っていた肩をほんのわずかに緩めた。
*******
午後
昼の営業がひと息つくと、青司はリオネの制服のまま二階の事務所に上がってきていた。
店内からはまだ活気のある声が聞こえる。注文の呼び声、レジの音、品出しの気配――昼ピークは過ぎたはずなのに、相変わらず賑やかだ。
「今日も……お客様すごかったですね。午前中も、昨日と同じくらい売れたんじゃないですか?」
二階に上がる時にレジ前の集計を手伝っていたレオナルドが、汗を拭いながらエリンと話しをしている姿が目にとまっていた。
「ああ。人員確保、本当に急がないと」
青司の声は冷静だが、決意の色が濃くなっていた。
そこへ、手帳を片手にクライヴが近づいてきた。
「先ほどギルドから使いが来ました。第十二商談室、面談の準備が整っているそうです。候補者は三名。それぞれ時間を区切っていただけるとのことです」
「ありがとう。店のほうは任せるよ……」
「問題ありません。こちらは総出で回します。リオナさんには、商品知識のリードをお願いしています」
そのタイミングで、階段を上がってきたリオナがひょいと手を挙げた。
「できることは、全部やるから」
言い切ったあとで――自分の言葉の“重さ”に気づいたのか、ほんの一拍目をそらす。
青司も「……そっか、頼んだ」と返しながら、胸の奥に落ち着かない熱が残るのを誤魔化すように息を整えた。
「じゃあ、行ってくる。なるべく早く戻るから」
言葉も足取りも、仕事の顔に切り替わっていた。
午後のギルドは、相変わらず人の声と靴音が絶えなかった。
青司は胸の奥にまだ微かに残っている“午前の照れ”を押し込みながら、受付横を通り過ぎようとする。
――その背を、ガラントが軽く手を挙げて呼び止めた。
「セイジ、ちょうどいいところに来た」
「ガラントさん? 商談室の準備、もうできてると聞いています」
「ああ、それもなんだが……少し、伝えたいことがあってな」
ガラントは手帳を開き、苦笑まじりに眉を上げた。
「面談予定の三名とは別に――
午前中だけで、追加の応募が六名ほどあったんだ」
「……ろ、六名?」
「そうだ。リオネの評判が、一気に広まっているらしい。
“あそこで働けるならぜひ”という問い合わせが続いてな」
午前の忙しさを思い返し、青司は思わず小さく息を呑んだ。
商会員たちの奮闘が、そのまま数字になって押し寄せている。
「まだ正式な書類にはしていないが――全員“午後ならすぐに来られる”と言っていてな。
第十二商談室の前に、その六名が待っている」
「……そんなにすぐ?」
「その中にな、少し変わった希望者が二人いる。腕の立つ女冒険者たちだ。
エルミナと、その仲間のアイリ。Cランクの二人組だが、実力はB相当との評判だ」
ガラントは肩を竦めつつ、どこか楽しげに口元をゆるめる。
「彼女たちいわく――
『あの店のシャンプーとコンディショナーを使ったら、髪艶が劇的に良くなった。働くなら、あそこがいい』
……だそうだ」
「……理由、そこなんですか。けど、お客様として来ていただいてたんですね」
「みたいだな。ただ、冒険者にしてはずいぶん丁寧な言葉遣いで、調合品の扱いにも理解がありそうだ。
店にひとりふたり、そういうのがいても悪くない。女性客も増えているし、“店を守る”という面でもな」
冗談めかした口調だったが、青司はすぐにその可能性に気づく。
――確かに。
女性客向けの商品が増え、店が人気になっていくなら、
“強い女性従業員”の存在は大きな安心感を生む。
「ただ、今日はもともと三名だけ面談の予定だったからな。
六名については、まとめて今日見るか、日を改めるか……セイジの判断でいい」
「……そうですね。店の規模を考えると、守りの面も無視できないですし」
青司が答えると、ガラントは満足そうに頷いた。
「そろそろ商談室に向かってくれ。準備は整っている。
……人気が出るというのは、忙しくなるものだな、セイジ」
「うれしい悲鳴、ってやつです」
そう返したとき、自分の声が少しだけ誇らしく聞こえた。
午前の賑やかな空気。
リオナやクライヴたちの笑顔。
そして――ほんの少し残る、胸のあたたかさ。
その全部を抱えて、青司は面談の待つ商談室へと歩き出した。




