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昼をとうに過ぎても客足の止まらないリオネの店舗。
外の行列は長く延びている――が、青司が走り出た時とは明らかに空気が違う。
戻ってきた青司は、まずその違和感に足を止めた。
(……並んでいるお客様の表情が、穏やかだ?)
店前で列の整理をしているのは、見覚えのない老齢の男性――クレス。
姿勢を正し、深々と一礼する。
「長らくお待たせしております。ご不便をおかけして申し訳ございません。
順に店内へご案内いたします。どうぞご安心ください」
客の何人かが思わずざわつき、しかしすぐに柔らかな空気へと変わっていった。
「ちゃんと見てもらえているって感じがするな」
「これなら待っててもいいかも」
その時、レオナルドが行列を回っていた。
小瓶に入れた“香りサンプル”をそっと配って回る。
「本日発売中のハンドクリームです。ひと息つける香りなので、よろしければお試ししてみませんか……」
客たちの肩がふっと緩む。
「いい香りだ……」
「ああ、さっきより待つのが苦じゃなくなったな」
さらにティオが小さな木盆を抱えてやってきた。
濃すぎない、疲れを和らげる香草茶を小さな器にほんの一口だけ。
「行列で疲れてきている方もいらっしゃると思って……」
毒見を示すように、ティオは客の前で杯に口をつけてから配る。
行列にいた貴族の夫人の緊張が解け、ほっとしたように囁いた。
「ちゃんと誠意がある店ね……信用できるわ」
青司は――驚きと、胸の奥に熱が広がるのをおさえられなかった。
(俺がいない間に……どうしてここまで?)
視線をクレスに向けると、老従者は軽く顎を引いて店内へ促した。
「店主であられるのでしょう? 皆が待っております。
焦る必要はございません――主が胸を張ってお入りになるだけでよいのです」
青司はクレスへ小さく会釈を返し、店の扉を押した。
――ベルが鳴る。
先ほどまで疲労で重く沈んでいたはずの店内は、まるで別の場所のようだった。
会計卓では、エリンが伝票整理をしながら横の男性の所作を確認している。
新加入のサハイだ。動きは迷いなく、数字を確認する眼差しも正確。
「……サハイさんすごい、もう理解してくださっている……」
エリンがこぼした声は震えているのに、表情は安堵で満ちている。
客案内のエリアでは、ダンがソフィアとリディアに付き添いながら接客の流れを確認している。
無理に仕切らず、あくまでふたりを立てるように動き、
横からルーカスと外から戻ってきたレオナルドが素早く棚補充や説明にフォローを入れる――
それは急増した人数とは思えない、見事な噛み合いだった。
そして二階へ向かう階段の先では、厨房経験者のアンが既にエプロン姿。
温かい食事と香草スープの仕込みを始めており、二階フロアに満ちる湯気が、
疲れ果てていた仲間たちの顔色を、ゆっくりと変えていく。
その中心――店頭奥で指示を飛ばす大柄な影。
ガラント副長だった。
「在庫棚の引き当て優先順位を変える。人気商品は先に手前へ。
クライヴ、滞留しやすい通路に気をつけろ」
次々と指示を飛ばしながらも、客の流れ・店員の動き・商品の残量すべてを把握していた。
青司は思わず言葉を漏らす。
「ガラント副長、どうして……」
振り返ったガラントがわずかに口角を上げる。
「報告を受けてすぐ動いた。すれ違いになったな。
だが――間に合った」
青司の胸の奥に、熱いものが込み上げる。
支えられている。
この店は、一人で背負う場所じゃない。
その実感が、全身の力を満たしていく。
青司はガラントと新たな仲間たちを見渡し、深く息を吸い込んだ。
「ここまで支えてくれてありがとう。
ここからは――俺も、店主として店に立ちます。
力を貸してください」
その声に、仲間全員が迷いなく頷いた。
リオネ店は、再びひとつになり、勢いを取り戻した。
**************
山場を越え、スタッフたちは一巡目の休憩を終えたところだった。
残るのは青司、クライヴ、クレスの三人――最後の休憩組となっていた。
階段を上がり、二階の休憩室に足を踏み入れた瞬間だった。
誰も言葉を発さないまま、三人とも同時に息をついた。店を安心して任せられる仲間がいる――その事実が、三人の背中をそっと支えていた。
仕事中の緊張が一気にほどけ、椅子に腰を下ろした途端、体重がそのまま抜け落ちるように背もたれに預けてしまう。
扉の向こうからは、ガラントの指揮する落ち着いた声、客の柔らかな会話、商品を包む布の擦れる音が聞こえる。
戦いの最中であるはずなのに、この部屋だけは別世界のように静かだった。ふわりと台所から漂う温かな香りが、張り詰めていた胃のあたりをやさしく溶かしていく。
「……助かりましたね、本当に」
最初に口を開いたのはクライヴだった。
スプーンを握る手がわずかに力が入っているのに、無理に笑っている。
その直後、アンが温かい食事を並べた。
湯気がふんわり立ち上り、ほのかなスープの香りが鼻をくすぐる。
味を確かめる間もなく口に運ぶと、疲れに擦り切れた心の奥まで温かさが届いた気がした。
三人はしばらく何も言わず、ただ黙々と食べ続けた。
空腹が満たされていくのに比例して、表情がゆっくりとゆるんでいく。
「……すみません、取り乱したわけじゃないんですが」
クライヴが息を整え、ぽつりと続けた。
「セイジさんがギルドへ走ってくれた後に、工房への追加発注、理容室の大口注文、宿への入浴剤納品の問い合わせ……全部一度に入ってきまして。
対応しながら、店の様子も気にしていて……気づいたら、自分の足が震えてましたよ」
誰よりも頼られる男の、静かな弱音。
青司はただ黙って聞いていたが、胸の奥がぎゅっと縮む。
「でも……倒れなくて良かったですね」
青司の言葉は励ましではなく、仲間としての願いだった。
クライヴは肩の力を抜きながら、小さく笑う。
「ええ……本当に」
その会話を聞いていたクレスが、ゆっくりと湯飲みを置いた。
「お二人に、一つだけ言わせてください」
年の功が宿る穏やかな声だった。
「今日のような店は、滅多にありません。
忙しさは人を荒ませるのに……この店では、誰も荒れていない。
客に対しても、仲間に対しても。――それは、店が良いからではなく、働く皆さんが良いからです」
クライヴの目が驚きに揺れ、青司は一瞬言葉を失った。
「倒れずに戻ってきた。それだけで十分です。
無理をしないことを選べる店は、意外と少ない。
休むべき人が休めるなら――それが強さだと、私は思います」
重たく張り詰めていたものが、そっとほどける。
責任や焦りではなく、仲間への信頼が胸を満たしていくようだった。
青司はしばらく黙っていたが、その沈黙は苦しさではなく、温かさを噛みしめるためのものだった。
「……ありがとうございます」
まっすぐに二人へ視線を向けて言う。
「今日、ちゃんと終わったら――みんなで帰りましょう。
無事に終われたら、それで十分です」
クライヴが笑う。
クレスが静かに頷く。
再び、三人は食事を続けた。
外の喧騒が聞こえても、不思議と心はゆっくりと落ち着いていた。
食べ終えたころには、まだ疲れは残っているはずなのに、足取りは来たときよりわずかに力強くなっていた。
三人は並んで階段を降りる。
階下から――明るい接客の声、案内の声、包装のリズム、レジの小気味よい音。
店はしっかりと回っていた。
ガラントと視線が合うと、彼は軽く顎を引いた。
その仕草は「任せろ」の合図だった。
青司も同じように小さく頷く。
それだけで十分だった。
――戦いはまだ続く。
だが今は、ひとりじゃない。
青司は静かに息を吸って、持ち場へ戻っていった。
**************
閉店後の静けさが店に満ちていた。
客を見送り、片付けを終え、商会員たちはそれぞれ帰宅していく。
最後に残ったのは、青司、リオナ、クライヴ、そしてクレスだった。
「……少々、よろしいでしょうか」
控えめだが通る声で、クレスが三人に呼びかけた。
「もちろんです。何か気になる点が?」
青司が振り返ると、クレスはすぐには言葉を続けず、まっすぐに青司とクライヴを見つめた。
「本日、働かれていた皆さまの姿を拝見しながら、ひとつ確かめたいことがありまして。
――皆さまの、本来のお役目についてです」
穏やかな声音だが、芯のある問いだった。
「本来の役目、ですか?」
青司が聞き返すと、クレスは落ち着いた声音で続けた。
「はい。皆さま、今日の混乱に必要だからこそ本来の持ち場を離れておられた――そのようにお見受けしました。
休憩の折、クライヴ様が少し語っておられました。ご自身は宿や理容室、職人工房などへの営業をしていた、と」
「ええ、それは彼の仕事です」
青司が頷いたうえで、付け加える。
「それと、職人工房への商品発注と品質確認を本来担当しているのはミレーネです。
今日一日、ずっと包装とリボン結びをしてもらう形になってしまいました」
クレスは静かにうなずき、もう一名の名前を待つように視線を向ける。
「エリンは会計のほかに、薬草農園や取引農家との素材調達の担当です。
本来は今日の売上の数字整理なんて、会計の仕事をすぐに片付けたい人なんですけど……」
青司の声が少しだけ苦くなる。
クレスはそれを咎める代わりに、そっと肯定するような声音で返した。
「――で、ございますね?」
「はい。間違いありません」
青司が答えると、クレスは一度小さく会釈し、そして意識的に視線の矛先を変えた。
「では、あなた様は」
青司の返答よりも早く、クライヴが口を開く。
「青司は商品開発の要だ。それに商会長でもある。
今日は現場を回すために無理をしていたが……本来現場に縛りつけていい人間じゃない」
そこで再び、クレスがそっと言葉を重ねる。
「すべてのお役目を理解したうえで申し上げます。
――今日の応急対応は、見事でした。誰か一人が欠けては成り立たなかった。それだけは揺るぎません」
静かな肯定は、胸の奥にまっすぐ届く。
青司だけでなく、クライヴもリオナも、そっと息を飲んだ。
「ですが」
クレスの声は強くも優しい。
「本来の持ち場に戻れない状況が続けば、いずれ必ずどこかが崩れます。
皆さまが本来の力を発揮できるように――補う人員を整えるべきです。
それを確認したいと思いました」
それは、責める言葉ではなかった。
ただひたすらに支えるための言葉だった。
青司の胸の奥にあった罪悪感や焦りが、少しずつほどけていく。
クレスは静かに目を伏せ、そっと言葉を締めくくった。
「無理をなさらないでも、経営は守れます。
――守らせてください。ホヅミ商会を」
その場には誰もすぐには返事をしなかった。
しかしその沈黙は、戸惑いではなく、胸の奥に詰まる感情のせいだった。
「人が増えれば、誰も倒れずに……今日みたいな一日も、胸を張って迎えられます」
「そうなる日が、きっとすぐに訪れますよ」
クレスの微笑は、今日を共に戦い抜いた者だけが持ち得る、確かな未来への光だった。
青司は肩の力を抜き、静かに息を吐いた。
「……ありがとうございます。
今の商会を守るためじゃなく、未来の商会のために――考えます」
そう告げると、クレスは安堵を滲ませながら深く一礼した。
店にはもう、掃き清めた床と、薄く残るハーブの香りと、四人の呼吸だけ。
今日乗り越えた達成感と、明日へ進むための課題とが、静かに重なり合っていた。
その重なりは重荷ではなく、確かな前進の証だった。
――明日は、今日よりも良くできる。
四人は誰も口には出さなかったが、その思いだけは同じだった。




