53
翌日。
開店と同時に扉が静かに押し開かれた。
「紹介チケットをいただきまして……入店は可能でしょうか?」
「はい。順番にご案内いたします。現在、店内は五組様までとなっておりますので、少しお待ちいただけますか」
クライヴの落ち着いた声が通りへと響く。
リオネの前には、昨日を上回る人々の列が伸びていた。
貴族夫人、令嬢、従者、女官、行商人、旅の商人――穏やかな朝の光の中に、色とりどりの衣服と表情が並ぶ。
その列を整理しているのは、領主から派遣された衛兵隊の二名だった。
「ご安心ください。順番にご案内しますので、押さずお並びくださいませ」
「おひとりおひとりにお選びいただく時間を確保するため、現在は五組様ずつのご案内となります。ご理解をいただければ幸いです」
貴族へも平等に、礼を失せず静かに告げるその口調は、店の品位を守る壁のようだった。
夫人や令嬢たちは、ため息をつきながらも並び直す。
――ゆったりと選べる店、という価値は、すでに街に広まりつつあった。
店先の通りでは、清掃局の職員が二人、落ち葉や砂埃を丁寧に掃き取っていた。
大きな桶の水を手に、日の光を反射させながら、石畳にさらりと水を撒く。
「ほら……ここに、花を描いてみようか」
「いいね。待ってる人たちが少しでも気が紛れたら」
水で描かれた小さな花の絵に、行列の中からわずかな笑い声がこぼれる。
けれど、時間が経てば、また列はざわめき出す。
「まだかしら……」「もう一刻は待っているわよ……」
その声も、怒号ではなく、ただ退屈と期待の入り混じったため息。
その列を整理しているのは――
領主が派遣した衛兵隊の二名だった。
「ご安心ください。順番にご案内いたしますので押さずにお並びください」
衛兵が手を広げて列を整える。
「どうして私がこんなに待たされなければならないの?」
待ちきれない貴族夫人が声を荒げると、衛兵は柔らかく笑った。
「奥様のご順番が来ましたら私が責任を持ってご案内いたします。
今はもう少々お待ちくださいますよう」
凛とした声音だが、決して無礼ではない。
貴族夫人はむしろ顔を赤らめ、静かに列へ戻った。
衛兵は声を荒げることもなく、静かに気を配り続けていた。
店内には、別世界のような静けさがあった。
「こちら、香りの持続が長いタイプでございます」
「入浴剤をお探しでしたら、肌の乾燥を防ぐこちらも人気です」
「贈り物用にもお包みできます。よろしければお申し付けください」
「まあ……どの香りも素敵……!」
「お嬢様、こちらのほうが香りが長く残ります」
「このスクラブ、旅の疲れにも良いと聞いたんだが?」
「申し訳ございません、どの商品もお一人様二点までとなっております」
貴族夫人や令嬢、従者、女官。
交易都市リルトの宿を利用した行商人、噂を聞いた商人――
客層は徐々に広がっていた。
五組だけの空間には、香りと柔らかな声だけが満ちる。
手に取られた瓶の触れ合う小さな音、布袋の包みのかすかな擦れ。
穏やかな波のように、客たちの言葉と笑みが広がっていた。
「こんな店が、リルトにできるなんて……」
「また来たいわ。次は知り合いも連れてきたい」
その声に、青司たちの疲れはそっと和らぐ。
今日も忙しい。それでも――“この形なら守れる”と、胸に静かな手応えが宿っていた。
外には列と期待。
中には静けさと香り。
⸻
しかし、途切れることのない客の列、店内はゆったりとくつろぐ雰囲気があるがソフィアとリディアは客の対応に、
エリンはレジ前で会計、ミレーネは包装の嵐、
ルーカスとレオナルドは説明・案内に、
ティオは補充で店と倉庫を往復し続けていた。
青司とリオナ、クライヴは必要に応じた対応に機転を効かせて動きまわっていた。
「昼ご飯……まだ……?」
「言うな、涙出る……次の接客いくぞ……!」
包装の紐を結び終えたミレーネの指先が一瞬震えたのを見て、青司はすぐに声を掛けようとした。
だが、ミレーネは、疲れを隠すようにではなく、
まるで客の笑顔を思い出したかのように柔らかく微笑み――次の客へ向き直った。
――強いな。
胸の奥の疲労が、温かさに溶けていくようだった。
疲労は限界だが、それでも笑顔は消えない。
客の声が胸を支えていた。
「リルトの街に、こんな店ができるなんて……」
「また来たいわ」「この香り誰かに紹介したい」
⸻
青司は全員の表情を見た。
青司は、全員の様子をひととおり見渡した。
ソフィアは動きこそ滑らかだが、足取りがほんの少しだけ重く、
リディアは笑顔を保ちながらも声に疲れが感じられてきている。
ティオは倉庫から戻るたびに肩で息をし、
エリンは伝票をまとめながら、気づけば瞬きを忘れるほど集中しすぎて固まっている。
まだ誰も弱音を吐かない。
それでも、“そろそろ限界が近い”と分かる。
(……このままでは、持たない)
「少し抜けます。商業ギルドに行ってきます」
青司が声を上げた瞬間、皆が同時に顔を上げた。
止める者はいない。むしろ、助けを求める視線が一斉に向けられる。
「……お願いします。誰かが倒れる前に手を打った方が良さそうですね」
クライヴがかすかに笑って返す。その笑みには安堵と限界が混じっていた。
「すぐ戻ります。無理はしないでください」
青司はそう言い残し、リオネの店舗用制服のまま店の外へ飛び出した。
背後で扉が閉まる音がやけに大きく響く。仲間の奮闘を置いていく負い目が胸の奥に刺さる――
だが、今は走るしかない。
⸻
ギルドに到着すると、ロビーはいつになく慌ただしかった。
普段は落ち着いた空気のある商業ギルドだが、今日は受付前に商人たちが列を作り、文官たちが書類を抱えて走り回っている。
――リオネの影響だろうか。
街全体の商機が広がり始めていることを肌で感じた。
「セイジさん!」
受付に近づく前に、声をかけられた。
商業ギルドの受付職員――初日の出荷申請で顔を合わせた女性だ。
「リオネの行列、すごい噂になってますね」
「人員の件で来られたんですよね?」
単刀直入な問いに青司は深く頭を下げた。
「人手が足りません。商会員が休憩もとれない状況なんです。
短期でも構いません、経験者を紹介していただけると助かります」
受付職員は即座に立ち上がり、奥へ声をかけた。
「ホヅミ商会の追加人員依頼、最優先で! 名簿と実働可能者の資料を!」
すぐに資料が運ばれ、受付前のテーブルに並べられる。
「接客経験者が一名、会計経験者が一名、副長が手配をしているとのことです。
本日中に伺わせましょう。最短で一時間後には店へ向かわせられると思います」
青司は思わず息を大きく吐き、胸の強張りが解けていくのを感じた。
「……ありがとうございます。本当に救われます」
受付職員は笑みを見せた。
「リオネはここでも話題になってますからね。ホヅミ商会の商品で街に人が集まってきていたところでしたから、注目の的ですね」
「だから……困ったときは遠慮なく頼ってください。
ホヅミ商会さんなら、きっと乗り越えられるって思っていますから」
受付職員の柔らかな声に、青司は小さく息を吐き、疲れた肩の力がわずかに抜けた。
「……ありがとうございます。本当に助かります」
その時――ギルド奥の執務室からラシェル子爵が姿を見せた。
書類を抱え、周囲の職員と指示を飛ばしながら忙しく歩いていたが、ふと青司に気づき足を止める。
「セイジさん。店の好調と混乱は聞いています。今日は、街の衛兵と清掃局から応援が出ていることもあわせて聞いています」
青司は思わず姿勢を正し、深く頭を下げた。
「フィオレル様には感謝いたしております、ギルド長」
「リルト全体の活気は、あなたから始まっているのだから、気にしなくてよろしいでしょう」ラシェルは微笑みながら続ける。
「苦しい時は、遠慮なく我々を頼ってください。それがギルドの役目です」
「それと、私の家の者が年でゆっくりしたいと言ってきているのよ。荷運びにでも使ってもらえないかしら?本人は年だと言ってるけれど、まだ、警護役にも使えると思うのよ。」
その一言は、青司の疲れた心に沁みるほど温かかった。
「……ありがとうございます」
その申し出に、青司はただ感謝することしか思いつかなかった。
だが、傍らのラシェルの横顔には、街を見守る者だけが持つ静かな確信があった。
まるで、ホヅミ商会の未来を誰よりも信じているように。
深く頭を下げた青司は、紹介予定の人員のメモを受け取り、踵を返した。
店では仲間たちが必死に踏ん張っている。
補充人員が来るまでの一時間でも、少しでも負担を減らさなくては。
青司は駆け足でギルドを出た。
リオネへ戻るために――仲間たちの元へ帰るために。
********
昼をとうに過ぎても人の波がやまないリオネの店舗。
けれど先ほどギルドへ駆けていった青司の帰還よりも早く、店の入口のベルが高く鳴った。
「失礼する。ホヅミ商会への派遣人員を連れてきた」
低く通る声――商業ギルド副長、ガラントだった。
彼の後ろには、整列するようにして四名の男女が控えている。
リオナとクライヴが反射的に店頭に顔を出す。
「ガラント副長……! ありがとうございます!セイジさんがギルドに向かったのですが」
ガラントは軽く片手を挙げると、列の整理をする衛兵に一声かけ、邪魔にならないよう入口横へ一行を誘導した。
「どうやらすれ違ったようだな。さっそくだが、紹介する。まず――接客経験者、一名」
前へ出たのは、落ち着いた物腰の青年。
「ダンです。王都の飲食店で接客経験があります。本日からよろしくお願いいたします!」
三人の声は疲労で沈む店内に爽やかさを運んだ。
「会計経験者。宿の帳場を任されていた者だ」
前に進んだ男性は、静かな眼差しで会計卓へ視線を向ける。
「サハイです。金銭管理も伝票整理も可能です。すぐに入れます」
エリンの目が一瞬潤むほどの安堵が浮かんだ。
「それと……ラシェル子爵家より、従者が一名」
一歩前へ出たのは、年配ながら背筋の伸びた男。
無駄のない動作で胸に手を当てて礼を取る。
「クレスと申します。年のせいで屋敷勤めは退くこととなりました。
荷運び、警護、貴族の対応も少しは、簡単なことならお任せください」
クライヴが息を呑む。
「武の経験者……!?」と小さくこぼれた声は、周囲の疲れた空気を一瞬で変えるほど心強かった。
そして最後の一人。
ガラントの声がわずかに柔らかくなる。
「飲食店の厨房経験者。確か二階に台所があった思ったが。商会員の食事を整える役目をお願いしている」
エプロンを抱えた若い女性が一歩前へ出た。
「アンです。休憩が取れていないのではないかと伺いました。温かい食事があれば……少しでも力になれると思いましてさっそく何か作りますね」
その言葉に、ソフィアもリディアも、誰もがわずかに息を震わせた。
張りつめていた心の糸に、優しい手が触れたような瞬間だった。
ガラントは店内を素早く見回し、鋭く状況を把握したうえで告げる。
「指揮を。どこが最も必要なのだ、青司が戻るまでの繋ぎは私が受け持つ」
クライヴが即座に答える。
「サハイは会計担当エリンの補助に、ダンはお客様案内のソフィアとリディアの補助に。調理の方はティオが二階へ案内を。クレスさんは入口横で混雑の誘導を、店内は五組のお客様でお願いしています」
「了解だ。全員、指示に従え」
配置が決まった瞬間、空気がわずかに緩んだ。
客の何人かは事情を察して「応援が来たらしい」と小さく囁き、むしろ安堵した表情を浮かべている。
新たな人員が一斉に動き出し、停滞していたリオネの空気が――再び、勢いを取り戻した。
新メンバーが動き始めた直後――
入口横に配置されたクレスが、列の客たちへ向き直り、深く、静かに頭を下げた。
「長らくお待ちいただき、誠にありがとうございます。順番に必ずご案内いたします。どうか今しばらくお付き合いください」
その声音には強制も謝罪もない。
ただ真摯で、礼節があり、客を“客として扱う”矜持があった。
列の最前の婦人が小さく息を呑む。
貴族風の青年が眉を上げてささやく。
「……誘導係がここまで礼を尽くす店、見たことがないな」
ざわり、と列の雰囲気がやわらぐ。
すぐに、リオナが木盆を抱えて現れた。
小さな布袋――香りサンプルが可愛らしく並んでいる。
「本日の店内人気の香りです。お待ちの間、よろしければどうぞお試しください。開封して香りをお楽しみいただけます」
客が袋を受け取った瞬間、
ふわりと甘く落ち着く香りが広がる。
「いい匂い……」「これ、本当に癒されるな」
「自分の好きな香りを見つけておけば、中に入ったとき迷わず済みそうだ」
客同士の会話が自然と生まれ始めた。
そして――列の後方で、控えめな声。
「お疲れの方、いらっしゃいませんか。無理なく……少しでも楽になればと思いまして」
エプロン姿のアンが、温かい茶の入った小さな木の器を盆に載せていた。
「店内で販売している香草茶です。疲労回復に良い“レモン葉”と“白花の癒し”を少しだけ。
口にされるのが不安な方は、香りを嗅ぐだけでも気分が落ち着きます」
ただ飲ませるのではなく、まず安心を提示する言葉。
これなら、毒を警戒する貴族層でも受け入れられる。
客の一人が尋ねる。
「……安全は保証されているのか?」
その問いに、クレスが即座に応じた。
「この茶は、店主自らが味見し、商業ギルドの検査済みのものでございます。
飲用に抵抗のある方は香りを楽しんでいただくだけでも結構です。無理は一切ございません」
言い切る声は低く、揺るぎなく――
列の数名がほっと表情をゆるめ、器を受け取った。
「……あぁ、あたたかい……」
「香りだけでも疲れが抜ける感じがする」
「さっきより並ぶのが苦じゃなくなったな」
囁きが連鎖し、列の空気が明らかに変わった。
苛立ちでも焦りでもなく――
“安心して待っている空気”。
クレスの礼節、
リオナの心遣い、
アンの思いやり。
三人の行動が重なったその空間には、
確かにリオネの温かさが宿っていた。




