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商談の座卓が片付けられ、工房主たちがぞろぞろと退出していく。
プレオープンの段取りについての話し合いは滞りなく終わり、工房主たちはそれぞれの店へ戻っていた。
だが、ひとりだけ残っていた。
エメリオ。薬草の成分抽出と加工を専門とするルーメン工房の主。
「……少し、いいですか」
足早に戻っていく者たちの背中を見送ったあと、エメリオは小さく声を落とした。
青司は椅子に腰を下ろしたまま、静かに顔を向ける。
「もちろん。何か気がかりでも?」
エメリオはすぐに答えず、指先で机の縁を一度なぞった。
言葉を選んでいる――その慎重さが伝わる。
「少し前から、リルトに良質な軟膏が出回り始めた。香りも、溶け方も、効能の伸びも……間違いなく“本物”だ。
品質が上がったというよりは、作り手が変わった、そういう類の品質向上だ」
青司は反応を返さなかった。驚きも、否定も、肯定もしない。
ただ淡く目を伏せ、思考を整えるように呼吸をした。
沈黙に耐えきれなくなったのはエメリオの方だった。
「……あれは、あなたが作っているのか?」
それは追及ではなく、“確信に触れたい”声音だった。
青司は視線を上げ、まっすぐ返す。
「おそらく僕がギルドに卸している薬のことだと思います。
もともとは、生活費を何とかするために売りに出したんです。そうしたら、衛兵隊に気に入ってもらえたとかで……取り扱い量と種類も、少しずつ増えていっただけのことです」
謙遜でも卑下でもなく、淡々と事実だけを述べる声音。
それが逆に“実力を隠せていない”証明になっていた。
エメリオの表情が、わずかに変わる。
驚きでも嫉妬でもなく――理解。
「……あなた、本当に“売れたくて”やっていたわけじゃないのですね」
青司は肩の力を抜き、かすかに苦笑する。
「売れたいというより、必要としてくれる人がいるなら……力になれたらいい。もちろん生活費のことはありましたけど。
それ以外は、考えたことがありません」
その言葉には飾りがなく、嘘を探す余地もない。
だからこそ、胸に刺さる。
その告白に、エメリオはわずかに目を瞠った。
やはり――という納得と、驚き、そして別の感情が混ざる。
「……なるほど。道理で“濁り”がないはずです」
青司が瞬きをする。
「腕のいい薬師は多い。
けれど──患者のために作っている薬師は、驚くほど少ないんですよ」
エメリオは視線を逸らすでもなく、まっすぐ青司を見て続けた。
「だからこそ、興味がある。
あなたが何を見て、どんな理屈で薬を作るのか──学びたい」
エメリオの声は淡々としていたが、そこには熱が宿っていた。
「私は職人だ。
良いものが市場に出回れば……嬉しい。
それと同時に、悔しい」
短い沈黙。自嘲とも誇りともつかない笑み。
「悔しいという気持ちを抱ける相手に出会えるのは、正直……久しぶりだ」
「……僕もまだ学び途中ですよ。
それでも、一緒に挑戦してくださるなら、嬉しいです」
青司の言葉を受けて、エメリオが話しを続ける。
「肌荒れ軟膏、冷え対策軟膏、疲労回復のバーム――うちで開発しているものなんだが、どうしても一つ、何かが足りない。
……だが、それが何なのか、掴めないんだ」
淡々とした口調のまま、それでも瞳の奥には悔しさと希望が揺れている。
「どうだろうか。助言をもらうことはできないだろうか。
そして……もし可能なら、共同開発という形で、うちの薬も提携を検討してほしい」
そこには虚勢も打算もなかった。
“他者の技と肩を並べたい”と願う職人の言葉。
青司は椅子に少し背を預け、息を整えた。
プレッシャーでも、畏れでもなく──“覚悟”を飲み込むような呼吸。
「……足りないもの、僕にも分かるかどうか。
ですけど、分かろうとする努力はできます。
“一緒に挑戦したい”と言ってくれるなら──断る理由はありません。ですが、もう開発もほぼ終わっているのに、共同開発にしたらエメリオさんに失礼じゃないですか?」
エメリオはわずかに目を伏せ、そしてゆっくりと笑った。
嘲りでも、気取った笑みでもなく──心からのものだった。
「……そう言われるとは思わなかった。
だが、それならなおさらだ。
“完成させたものを見せたい”じゃなくて、
“完成する過程を共有したい”と思った職人がいた。
それだけで十分だ」
椅子の脚が小さく鳴った。
握手を求めるでもなく、ただ自然に立ち上がりながら。
「一緒にやりましよう。
悔しがりながら、楽しみながら、“いいもの”を作る関係になりたい」
その言葉を受け、青司が応じ、互いの視線に揺るぎない確信が生まれたところで──
その空気を破るように、低い声が割って入った。
「……おい」
いつの間にか壁にもたれて、腕を組んだまま聞いていたソルティ工房のダンだった。
「エメリオだけ先にいいとこ持ってくんじゃねぇよ」
青司もエメリオも返すより先に、ダンは続ける。
「さっきの入浴剤の配合。塩の使い方、あれは完全に計算して分かってやってた。
……ラッキーでできたもんじゃねぇ。 だろ?」
ダンは青司を真正面から見た。
敵意ではなく、評価のあるまなざしで。
「塩を溶かすタイミング、液温が下がり始めた瞬間だった。普通はあそこで香りが死ぬ。
なのに香りを殺さず、効能だけ持ち上げてきた。あれは狙ってなきゃできねぇ」
「塩──食用の方だ。
うちは岩塩の精製だけで何十年もやってるが、“料理が上手い奴が使った塩”に勝てねぇ時がある。
お前、そういうタイプだろ」
図星を刺すような言葉だったが、青司は反論できなかった。
「客から聞いたんだ。“黒猫亭のステーキの塩味が忘れられない”ってよ。
……あそこにうちの塩は卸してねぇんだ」
ダンは腕を組み替え、息を荒くなく細く吐いた。
ぶっきらぼうな顔の奥に、感情が隠しきれていない。
「気になってな。確かめに食いに行った。
――黒猫亭のステーキは、“上手い”じゃねぇ」
一拍、置いた。
「“帰りたい味”だ。
食ってる間だけじゃなく、店を出た後の体が思い出す味だ。
あれを出せる奴は、滅多にいねぇ」
「あれを偶然でやったなら、二度と同じもんは作れねぇ。
意図してやったんなら――話は別だ」
ダンの声音は低いが、刺すような追及ではない。
“職人として知りたい”という、むき出しの真剣さ。
青司はしばらく言葉を探し、それからゆっくり口を開いた。
「……料理のことは、正直よく分かりません。
焼き方も、肉の種類も、味付けの理屈も、ほとんど知識がなくて」
ダンの眉がわずかに動く。
だが青司は目を伏せず、続けた。
「ただ――薬草の力が“食べた後の体の調子を左右する”のは知っています。
疲れている時に効くもの、気持ちを落ち着けるもの、体を温めるもの。
香りが満足感を生み、味が記憶を残すことも」
手がわずかに震える。
それでも逃げずに言葉を紡いだ。
「……黒猫亭には、少しだけハーブを混ぜたものを渡したことがあります。友達のお姉さんの店なんですよ。いつもお世話になっていたのでね。そこまで、気に入ってくれる人がいたとは思ってなかったですが」
静寂が落ちた。
ダンはゆっくり目を閉じ、低く笑った。
「なるほどな。疲れた奴が癒やされる塩だったのか。
“上手い”を作ったんじゃねぇ。“帰ってくる理由”を作ったのか。で、その塩は商品化してんのか?」
腕をほどき、指先で机を軽く叩く。
「いえ、渡したのは一回きりですし」
青司の言葉にニヤッとしたダンは頬を緩めた。
「だったら早ぇとこ言え。
うちは塩で“旨味”を作る。
あんたはハーブで“気持ち”を作る」
視線が正面からぶつかる。
ダンは笑ったまま、しかし声だけは真剣だった。
「――並行でやるぞ。入浴剤と同時進行だ。
ハーブと塩で作る……ハーブソルトってとこか。うちの塩と、あんたの……そういう“気持ち”になるハーブでな」
青司は、息をのみ、言葉を失った。
ダンは続ける。
「ハーブの知識はあんたの領分だ。料理は素人だろうが関係ねぇ。
“食うと心が軽くなる塩”――作れるのはあんたしかいねぇ。
塩は俺が責任取る。だから、逃げんな」
強引な言い回し。
けれどそこには押しつけでも奪いでもなく――ただの“信頼”があった。
青司は喉の奥が熱くなるのを感じながら、小さく笑った。
「……不安はあります。でも、挑戦しましょう」
「それでいい。職人なんざ、最初から勝算なんかねぇよ」
ダンは立ち上がり、手を差し出した。
「ようこそ、“味の世界”へだ」
青司は迷わずその手を握り返した。
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いよいよ――ホヅミ商会直営店**《リオネ》**のプレオープンの日が来た。
店の名前が「リオネ」に決まるまでには紆余曲折があった。
候補は山ほどあり、議論も尽きなかった。
だが、最後は「会長が決めるべきです」と全員から背中を押され――
青司が静かに、その名を選んだ。
“香りが残る名前がいい”
そう口にしたのは誰だったのか、もう思い出せない。
ただ、リオナの響きと似ているからでも、誰かを贔屓したいからでもなく、
この店に宿したい“気品と温もり”が、一番しっくりきたのがその名だった。
こうして、《リオネ》は生まれた。
店舗には、商会員全員が集まっていた。
青司、リオナ、グラント、ミレーネ、エリン、
研修を終え、一昨日から店に合流したソフィア、リディア、ルーカス、レオナルド、ティオ。
店内は、貴族夫人や令嬢が来ることを前提に仕立てられている。
磨かれた大理石の床、木目の温かさを残した壁、天井からは淡い光のシャンデリア。
豪華だが威圧的ではなく――疲れた心が休まる静かな空間。
ガラスケースの棚には、整然と並ぶ瓶と器。
光を受けてそれぞれが淡く色を返し、高級香水店のような気配すら漂わせていた。
店の奥には、補充しやすいように商品が種類ごとに整然と保管されている。
一昨日、遅れていた内装と外装の工事がようやく終わり、引き渡しを受けたその足で――
各工房から「待ってました」とばかりに商品が届いた。
そこから先は怒涛だった。
レイアウト、展示、在庫番号の管理、梱包材の調整。
商会員総出で徹夜寸前まで作業し、指先が震えるほど疲れ切っていたはずなのに、
誰も文句を言わなかった。
今日を迎えたかったからだ。
この店を、成功させたかったからだ。
緊張した空気を破ったのは、リオナの明るい声だった。
「みんな、お疲れさま! 本当に、今日までよく頑張りましたね!」
リオナの笑顔に、数人が思わず肩の力を抜く。
「グラントさん、商品の補充は後ろの棚で問題なしですね?」
「おうよ。種類ごとに配置してある。迷ってもすぐ取りに行けるように、棚の縁にもラベル貼っておいた」
「ミレーネは受付よね?」
「ええ。練習通りやるから、心配しないで大丈夫よ」
「私が会計を受け持つのね」
エリンは端の棚を磨きながら、落ち着いた声で続けた。
「ソフィアとリディアはお客様の案内。
ルーカスとレオナルドは商品説明のサポート。
ティオは香りのテスターの管理、で合ってますね?」
「はい!」と五人が揃って返事する。
青司は胸の前で手を組み、店内を静かに見渡した。
――この景色は、たった数ヶ月前まで想像すらできなかった。
誰かに必要とされたい。
力になりたい。
大したことはできなくても、自分にできることで。
そう思って始めただけの薬草の調合が、
こんな仲間たちと、こんな場所に繋がるなんて。
「セイジさん」
耳に届いたのは、ミレーネの落ち着いた声。
「あなたがいてくれたから、ここまで来られたんです。
今日くらい、ちゃんと誇ってくださいね」
エリンもそっと付け加える。
「私たちは全員、あなたの背中に付いてきたから、今ここにいます」
青司は俯き、息を整えた。
自信ではなく――覚悟を飲み込むように。
「……ありがとう。
だけど今日は、僕の店じゃなくて、みんなの店としてスタートしたい。
そのほうが、きっと“帰ってきたくなる場所”になると思うから」
静けさのあと、リオナが満面の笑みで言った。
「うん、それで行きましょう! じゃあ――」
リオナが両手をぱん、と打ち鳴らす。
「――リオネ、プレオープン始めます!」
声が高い天井に反響し、静かな緊張が店内に広がった。
その瞬間、入口の扉の向こうで馬車の車輪が止まる音がした。
金具が揺れる微かな音、馬の鼻息、布の擦れる気配――。
商会員全員の視線が、吸い寄せられるように扉へ向く。
誰も息をしていないかのような静寂。
いよいよ――最初の客が来る。
静かなノック。
扉が開き、最初の来客が姿を見せた。
淡い藤色のドレス。洗練された身のこなし。
表情は凛として、しかしどこか誇らしげでもある――
美容室の店長ミレット。
リオナの目がぱっと輝いた。
「ミレット!」
ミレットは目元を緩め、親友に手を振ったあと、
すぐに店内をゆっくり細部まで見渡した。
並べられたガラス瓶、香りの波、光の反射、色彩の調和。
プロの目線で一つひとつを確認していく。
やがて視線は青司に向く。
「……ステキなお店ねリオナ。
いい匂いの“呼吸”がするわ。
香りが置かれているんじゃない。空間そのものに溶けている」
その一言で、何かがほどけたように店の空気が温かくなる。
青司は少し照れながらも丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます。最初に来てもらえて、すごく嬉しいです」
ミレットは歩み寄り、近くの棚から
シャンプーとコンディショナーの瓶を一つずつ取って、掌で重みを確かめるように持ち上げた。
「……いよいよお客様達にも直接販売されるのね」
リオナが胸元を押さえながら笑った。
「あの時からずっとミレットは応援してくれたもんね」
「当たり前よ。
――セイジさんの作るものは、お客様の“気分”をちゃんと見ている。
私はその力を借りて、あのお店を盛り立てたんだもの。忘れてないから」
言葉は飾り気がないのに、誇りと感謝がまっすぐ響いた。
ミレットはくるりと振り返り、商会員全員へ視線を向ける。
「今日からこの店は、街の“美意識の基準”になるわ。
誰が来ても恥ずかしくない。むしろ――誰より先に来られて誇らしいわ」
言葉のあと、軽くウインク。
場にいた全員の表情が、緊張から喜びへと変わった。
「ミレットさん、よろしければ……商品、試していってください」
ミレーネが声をかけると、
「もちろん。そのために来たんだもの」
ミレットは微笑み、優雅に店内を歩き始めた。
最初の客が立てた足音は、
確かな成功の始まりとして店に刻まれた。




