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 黒猫亭の厨房には、甘い果物の香りが漂っていた。


「さて……煮凝りの方は……上澄だけ使って獣臭さも飛ばしてあるがどうだ?」

ベルドは森鹿の煮凝りに工夫をしてから作った器を取り出す。黄色は柑子果の果汁を絞ったもので柔らかくなっていそうだ。


マリサが鼻を寄せる。

「……うん、大丈夫ね。上澄みだけ使ったから獣臭も飛んでるし、柔らかくぷるんと揺れてる。ちゃんとゼリーになってるわ」


リオナが小さな器に果汁を注いだ、凝固草を加えた方を覗き込む。

「こっちの柑子果は……わっ、硬くなってる」

器の中で黄色い果汁が光を反射し、弾力があって形を保っている


「凝固草は、ちょっと加えすぎると弾力が強くなっちゃうみたいね。だから量は慎重に調整しましょう。見た目もぷるんと揺れるくらいが目安ね」


「なるほど……森鹿の煮凝りはぷるんと柔らかめ、凝固草は硬め。果物によっても固まりやすさが違うのか」

 ベルドは二つの器を交互に見比べ、うなった。

「木苺のゼリーは、凝固草ではぷるんと形を保っているが、煮凝りでは柔らかすぎて崩れてしまう」


リオナは器のゼリーを指先で触ってみる。

「こっちは簡単にスプーンですくえるけど、こっちは弾力がすごい……でも、ちょっと面白いかも」

ベルドは笑みを浮かべながら頷いた。

「そうだな。どちらも特徴がある。試作しながら、食べやすい硬さを探ろう」


マリサは紙にメモを取りつつ、静かに頷いた。

「ぷるんと揺れるくらい柔らかく、でも崩れない……そんなゼリーを目指しましょう」


三人の間に、期待が入り混じった静かな時間が流れる。

小さな試作の瞬間が、黒猫亭の片隅で静かに熟していった。


**************


 甘い果物の香りが漂う黒猫亭では、夕食の客がそろそろ入る時間になっていた。さらに用意した器のゼリーは冷やされ、夕食客の準備をマリサ、ベルドは始めている。休憩時間の終えた手伝いの人も戻ってきた。


 一方、街の中心にあるホヅミ商会の店舗では、青司が少し緊張した面持ちで席につき、周囲を見渡していた。向かいには、クライヴ、ミレーネ、エリン、そして新たにスタッフとなる貴族の娘二人、ギルド見習い員の双子、孤児院出身の少年が座っている。


「では、自己紹介から始めましょうか」

 青司は深呼吸をひとつ入れ、視線を皆に向けた。

「ホヅミ商会の会長の青司です。まさか、こんなに早く店を持つことになるなんて思っていなかったので……正直、戸惑っています。でも、その分みんなの力を借りたい。よろしくお願いします」

 心の奥では、自分が本当にこれをやり切れるのか、少し不安だった。しかし、そんなことは言っていられない――と思いつつ、深く息を吐く。


まずクライヴが笑顔で口を開いた。

「私はクライヴ。商会の営業担当です。始めは店舗運営のサポートもしていきますので、よろしく」


続けて、控えめに座っていたミレーネが小さくお辞儀をする。

「ミレーネです。商品を作る工房との交渉を担当しています。分からないことがあれば、遠慮なく聞いてくださいね」


エリンはにこりと笑い、片手で髪を整えながら

「エリンです。会計と素材の管理をしています。みんなが働きやすいようにサポートしますね」


 貴族の娘たちは少し緊張している様子だったが、互いに肩を寄せて順番に名乗った。

「リディアです。シャンプーとコンディショナーはここで作ってらしたのね。私、とても好きなので嬉しいです。接客やお客様への説明も得意だと思います」


「ソフィアです。私も初めて使った時に髪の艶に感激しました。お客様の顔と名前、好みなんかを覚えるのは得意です。よろしくお願いします」


 双子の見習い員は、兄が弟を小さく突っつきながら

「僕はルーカス、こっちはレオナルド。まだ勉強中だけど、覚えたことはすぐに実践できるように頑張ります。商品の在庫管理や数量計算などはギルドで叩き込まれています」

と、元気に答えた。

 弟のレオナルドも、「僕は伝票作業が得意です」と恥ずかしそうにしながらも笑顔を見せる。


最後に孤児院の少年が震える小さな声で

「僕はティオです。手伝えることがあれば、何でもやります。声をかけてくださってありがとうございます」

と述べると、青司は優しく頷いた。


「皆、ありがとう。こうして自己紹介を聞くと、いろんな力が集まっているのがわかるね。これから一緒にお店を動かしていくんだ。よろしく頼むよ」


部屋には少し緊張感が残りつつも、互いの笑顔やうなずきが、場を穏やかに和ませていた。



自己紹介が一通り終わると、青司は深く息を吸い、皆の顔をゆっくり見回した。

緊張はまだ胸の奥に張り付いていたが、それでも――やるべきことは分かっている。


「「じゃあ、最初の仕事の割り振りを説明します」

 青司は皆の視線を受け止め、机の前で姿勢を正した。


「実は……店舗そのものはもう決まっているんですけど、内装はまだ工事前なんです。僕もまだ中を見られていなくて。だから今日は、このギルド商談室――今は商会の事務所として借りているここで、“開店準備の基礎”を一緒に進めたいと思います」


 言い終えると同時に、クライヴが腕を組みながら頷いた。


「店舗の内装は、専門の職人たちと俺が話をつける。高位貴族が来ても恥ずかしくない造りにするには、材料の選定から細工の意匠まで、全部に気を配らないといけない。ギルド長にも意見をもらって、きっちり詰めてくるさ」

 クライヴは全員を見回し、安心させるように言った。

「みんなは当面、ここで“商会が扱う商品と仕事の流れ”を覚えてくれ。セイジさんが直接説明してくれるそうだ。商品の知識、人ごとに違う役割……店が仕上がるまでに、覚えることは山ほどある」

 そう言うと、クライヴは青司に頷いて見せ、書類の束を小脇に抱えて事務所を後にした。

 扉が閉じると、商談室には期待と緊張の入り混じった空気が残る。


「私はマルコットさんとドナートさんの所へ行って、商品の卸しについて再度お願いしてくるわね。増産のお願いが重なる相談になるから……しっかり説得してくるわ」

 ミレーネは控えめながらも決意をにじませた声でそう言い、書類を胸に抱え直した。


 彼女を見送りながら、青司は商談室の中央に置かれた大きなテーブルへ歩み寄った。

 手提げ袋から小瓶や紙包みを取り出し、丁寧に並べていく。


 ――これが、ホヅミ商会の“武器”になる。

 スタッフ全員の視線が、自然とそのテーブルへ集まった。


「では……まずはホヅミ商会で扱う予定の商品の説明をします。シャンプーとコンディショナーと石鹸は皆さんも知っている通りですが――実は他にも、新しい品を作る予定です」


 その言葉に、リディアとソフィアがそっと身を乗り出した。


「まずこれが、ボディーバターです。肌を保湿するための……まあ、固めのクリームみたいなものだと思ってください。香りづけもできます」


「まあ……!」

 リディアの目が一気に輝く。

「冬に肌が乾く時、とても助かりそうですわ」


「しかも香りづけができるなんて……貴族の奥様が喜びそう」

 ソフィアも頬をほころばせた。


 青司は頷き、次の瓶を指さす。


「それからこれが、バスソルト。お湯に入れると香りが立って、体が温まりやすくなります」


「そんな贅沢があるんですね……!」

 ソフィアは思わず手を合わせた。


 そこへ、控えていたエリンが口を挟む。


「ちょっ、ちょっと、セイジさん? ボディーバターとバスソルトって……私も初耳なんですけど?

商品化するなら工房に頼まないとですし、クライヴやミレーネにも先に説明しておかないと……」

 ふうっと深い息を吐き、半ば呆れたように青司へ目を向ける。

「もぅ、やりすぎないでくださいよ。新商品を増やすのはいいですけど、順番ってものがありますからね。準備って、積み上げが大事なんですから」


「え、そんなに増やしてたっけ……?いや、でも……まあ工房探しとかはあとでいいか。じゃあ、説明の続きを。……洗剤は、衣類用と食器用の二種。薬は今まで通り、増血剤や傷薬、それから風邪薬など……」


 リディアとソフィアはさらに目を輝かせ、双子も真剣な顔つきでペンを走らせている。


「……えっと、その、ティオには初めて聞く話ばかりかもしれないな」

 青司がそっと横を見ると、ティオは“何ひとつ理解できていない”という顔のまま固まっていた。


「す、すみません。まったく分からなくて……“コンディショナー”って、髪の薬ですか? 食べるものじゃ、ないですよね?」


「食べたら危ない」

 青司が即答し、場が和やかに笑いに包まれる。


「大丈夫ですわ。最初はみんな分からなかったものです」

 リディアが優しくフォローした。


 青司はティオに向き直り、ゆっくりと指さしながら説明する。


「シャンプーが髪を洗うもの。コンディショナーは髪を整えるもの。ボディーバターは肌の保湿。バスソルトはお風呂に入れる薬。洗剤は洗い物に使う。そして薬は……まあ、そのままだな」


「し、知らないことばかりです……。バターを身体につけるんですね?今まで、頭も体も服も、全部水で洗ってました。薬も……飲んだことなくて」

 ティオは小さく息を詰め、手が止まりそうになったが、慌ててペンを握り直した。双子よりも必死にメモを書き続ける。


「今日のところは“用途を覚えるだけ”で十分です。販売の仕方も、これから一緒に考えていきましょう」

 青司がそう伝えると、皆の表情がふっと明るくなった。そのまま皆の方を見つめながら、心の中では新メンバーたちを黒猫亭でリオナに紹介しておきたいと思った。

「今日は、新しいメンバーの歓迎会ということで、みんなで黒猫亭に行きませんか?リオナにも紹介しておきたいですし」

 青司は少し微笑みながら付け加えた。

「僕の友達なんですけど、今日は黒猫亭にいるんですよ」

 

ティオや双子、リディアとソフィアが顔を見合わせ、少し笑みを浮かべて小さく頷いた。


 エリンは横目で青司を見やり、心の中でそっと呟く。(セイジさんも……本人は気づいてないみたいだけど、どうやら少し特別に思っているみたいね)


 青司は気づかずに微笑むが、すぐに現実に引き戻される。


「……あ、でもクライヴとミレーネは、外で店舗関係の用事をしていますよ」

 エリンの言葉に青司は一瞬考え込み、すぐに思いついた。

「ギルドの人に伝言を頼んでおこう。黒猫亭で合流してもらえるように、と」


 皆が準備を始める中、青司たちは事務所を出て、石畳の道を黒猫亭へ向かう。

道すがら、十字路から声がかかる。

「青司さん、ちょうど戻りました!」

 振り返ると、ミレーネがにこりと笑いながら歩み寄ってきた。

「マルコットさん達との交渉は順調でした。ところで、これからみんなでどこかに行くんですか?」

「ええ、今から黒猫亭に行くところです。一緒にいきませんか?」

「もちろん、私も一緒に行きます」

 ミレーネは軽く微笑み、青司も歩調を合わせた。


「ギルドに伝言を残してあるので、クライヴには後で追いかけてきてもらうことにしましょう」

 青司の言葉に、ティオも双子もほっとしたように頷いた。


「じゃあ、皆で黒猫亭まで向かいましょう。今日の歓迎会は……そうですね、まずは顔合わせと、あとは食事を楽しむ感じで」

 青司がそう続けると、空気がふわりとほどけ、皆の表情が少しずつ明るくなった。

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