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「それで、ねえセイジ、そのゼリーって……どんな感じなの?」

リオナがイスを引き寄せ、期待に胸を弾ませて覗き込んでくる。

マリサも姿勢を正し、紙と炭筆を手元に整えた。


「えっと……透明で、果汁の味がして……冷たくて、ぷるん、と……」


「ぷるん?」

リオナが小さく首をかしげる。


「そう、煮こごりみたいな……いや、それよりもっと柔らかくて、甘くて、色も薄く澄んでて……揺らすとぷるんと震える感じの……」


 青司自身、料理がまったくできないせいで説明はふんわりしていて、

リオナとマリサは思わず顔を見合わせて笑った。


「でも、大まかな方向はわかったわ。材料さえ揃えば、こっちで形にできると思う」

マリサが自信たっぷりに言う。


 青司はほっとしつつ、店内の窓から差し込む午後の光にちらりと目を向けた。

――もうすぐ商会との約束の時間だ。


「あ、そろそろ……俺、商会に行かないといけないんだった」


「大丈夫よ。材料は私たちが午後に買いに行くから」

リオナが笑顔で応える。


「夜の仕込みは私が見るわ。セイジさんの“ぷるん”がどんなものか、楽しみね」

とマリサが茶目っ気たっぷりに言った。


 青司は照れながらも、それに救われるように笑った。


 ひと通り説明を終えたあとも、青司はどこか落ち着かない様子で炭筆を握るマリサとリオナを見つめていた。


「……あの、最後にもう一回だけ。色はですね、透明とか……薄い果実の色がついたり……。甘さは……うん、ほどよく甘くて……えっと、固さは……そう、煮こごりよりは柔らかい感じで……」


 自分でも要領を得ていないのがわかり、青司は苦笑いするしかなかった。


「なるほどね。“ほどよく柔らかくて甘い透明のお菓子”ってところかしら」

 マリサが冗談めかして言うと、リオナがくすっと笑う。


「うん、だいぶ大雑把だけど……でも方向はつかめたわよ。あとは私たちに任せて!」


「そう。材料を見ながら考えれば、形にできるはずよ」

マリサは紙を閉じ、にっこりと笑った。


 青司は安堵したように息をつきつつ、外の光へ視線を向けた。


「……ありがとう。本当に助かるよ。そろそろ商会にも顔を出さないといけなくて」


「いってらっしゃい、セイジ」

リオナが手を振る。


「帰る頃には、ある程度試作の準備ができてると思うわ」

マリサの言葉に、青司は深々と頭を下げ、黒猫亭を後にした。



 扉が閉まると同時に、店内には昼の仕込み前の静けさが戻った。


「……さて。まずは材料ね」

マリサが紙を広げ、炭筆を走らせる。


「果汁は街でよく売ってる柑子果かんじかのやつが良さそう。酸味があるから甘さが引き立つし」


「ぷるんと固める素材は……森鹿の骨を煮て取った煮こごり、かな。お姉ちゃん、あれ昨日の残りがあったよね?」


「ええ、あるわ。丁寧に灰汁をとれば、臭みもとれると思うわ。あとは香りづけにミントかレモン草……これは市場で買えるはずよ」


 リオナは紙を覗き込み、ぱっと顔を上げた。


「じゃあ私、今のうちに買い出しに行ってくるね! 早めに準備すれば、夜には試作できると思うし!」


「お願いね。無理はしないで」

マリサが笑うと、リオナは腰に小袋を下げ、軽快な足取りで扉へ向かった。


 木の扉が軽い音を立てて閉まり、黒猫亭に再び静寂が戻る。


 マリサは台所へ視線を向け、小さく息をついた。


「……ぷるんとしたお菓子、ね。セイジさん、面白いものを思いつくわね」


 その声には、期待と少しの楽しさがにじんでいた。



 昼下がりのリルトの街は、今日も陽気なざわめきに満ちていた。

 近くのパン屋からは香ばしい匂いが漂い、石畳の通りを掃く清掃員の箒がさらりと響く。

 そのおかげで路地裏まで清潔で、陽の光を受けて石畳が白く輝いていた。


 リオナは腰の小袋を軽く叩き、黒猫亭を出た勢いのまま市場へ向かった。


「ミントとレモン草、それから柑子果ね……お姉ちゃん、喜んでくれるといいな」


 軽やかな足取りで通りを進んでいくと、最近よく見かける華やかな一団が目に入る。


 絹の裾を揺らしながら歩く貴族の婦人たち。

 その後ろには、控えめに付き従う従者や女官たち。

 婦人たちは、リルトの変わりつつある空気を楽しむように、店先で立ち止まっては小声で談笑していた。


「こちらの美容室、とても評判らしいわよ」

「ええ、髪がさらさらになるという噂の……」

「まあ、あなたも使っているの?」


 街角の木製テラスでは、数人の貴族女性たちが香草茶を片手に軽い社交を楽しんでいる。

 彼女たちの談笑は和やかで、どこか幸せそうだ。


(最近、本当に街がにぎやかになったわ……)


 リオナは自然と目を細めた。

 昔はこんな光景、リルトでは滅多に見なかったのだ。


 市場に近づくほど、さらに活気は増していく。

 珍しい香辛料の山、見たことのない色の布地、乾燥果実を並べた屋台――

 異国からの商人たちが声を張り上げ、通りには熱気が立ちのぼっていた。


「いらっしゃい!今日は良い皿布が入ってるよ、お嬢さん!」

「香りの強い南方の胡椒だよ!貴族様がまとめて買っていったところだ!」

「果実ならこっちだよ、採れたての柑子果だ!」


 リオナは呼び込みの声に軽く笑いながら、用事を一つひとつこなしていく。


「すみません、このミント、一束いただけますか?」

「はいよ!鼻に抜けるいい香りだよ、お嬢さん」


 次にレモン草。店主は自慢げに束を手渡す。


「この季節のは特に香りがいい。茶に使うなら間違いないよ」

「それください!」


 最後は柑子果。

 山のように積まれた黄色い実を見て、リオナの目がぱっと輝いた。


「わっ、いい香り……これ、三つください!」


「まいど!お嬢さん、料理をするのかい?」

「はい!お姉ちゃんと、新しいデザートの試作なんです」


「おお、それは楽しみだ!黒猫亭なら客も喜ぶだろうよ!」


 果実を布袋に入れ、リオナはほっと息をついた。

 これで必要なものは揃った。


 ふと横を見ると、生地屋の前で貴族の若い婦人たちが楽しげに布地を広げていた。


「この色、とても素敵……」

「旅先でこんな布を買えるなんて思っていなかったわ」

「リルトって、面白い街ね」


 その穏やかな笑顔を見て、リオナは胸がほんのり温かくなった。


(……みんなが楽しんでくれてる。

 なら、私たちも新しい甘いものを作って、もっとお客さんを喜ばせたいな)


 小袋の重さを確かめながら、リオナは黒猫亭へ向けて足を速めた。


「お姉ちゃん、待っててね。

 ぜったい美味しいゼリー、作ろうね……!」


 陽光の降り注ぐ市場の喧騒を背に、リオナは軽い足取りで帰路についた。




**************




 青司が扉を開けると、帳簿を広げていたクライヴが顔を上げた。

エリンとミレーネも作業の手を止める。


「セイジさん、おかえりなさい! リオナさんは……今日は来られないのですか?」

エリンが真っ先に尋ねる。


「うん。黒猫亭で甘味の試作を手伝ってる。材料の買い出しで午後は動けないらしい」

青司は苦笑しながら答えた。


「甘味……また面白いことをやってますねぇ」

ミレーネが肩を揺らして笑う。


 そんな空気の中で、クライヴが軽く帳簿を叩いた。


「ところでセイジさん。午前中にギルドの不動産部門に行って、条件の良い物件を仮押さえしておきました」


「もう?」


「はい。ちょうど、二月前に王都に移転した仕立て屋の店舗だった場所が、空いていたんです。家賃が高くてしばらく借り手がつかなかったようですが、ギルド長の紹介もあって、多少の値下げで押さえることができました」


 クライヴはいつもの柔らかい笑みを浮かべたまま、さらりと続ける。


「街道沿いの大通り、黒猫亭へ向かう途中の角地です。ミレットさんの理容室の向かいで、人通りが多く、貴族客も商人も必ず目に入る場所ですよ。……運よく、今なら良い条件で契約できます」


 クライヴはそこで一度言葉を切り、紙束を広げて続けた。


「それに、この物件は二階が広めの作りでして。事務所として使うには十分な広さです。帳簿や在庫管理をそこでまとめてできますし、一階とは階段で分けられるので客導線にも干渉しません」


「さらに、一階の奥は仕切りを入れれば小さな倉庫にできます。商品サンプルや補充分の在庫を置くにはちょうど良い広さでした。店舗の裏手に荷車を停められるスペースもありますので、搬入も楽になるはずです」


 「二階が事務所で、一階奥が倉庫……」

青司は図面を覗き込みながら、驚きとも安堵ともつかない声を漏らした。

「いや、思ったより……ずっとちゃんと“店”になってるんだな……」


 青司の言葉にクライヴが苦笑しつつ頷く。

「はい。工房や理容室とは規模が違いますからね。最初から動線の整った場所を確保しないと、後々苦労しますから」


 エリンが目を輝かせ、椅子から身を乗り出した。

「わあ……! これなら、お客様を迎える準備もスムーズにできますね。入口から商品の並ぶスペースまで一直線で、奥に倉庫……整ってます!」


 彼女は図面を指でなぞりながら、完全に“店員の目”になっている。

「ディスプレイも考えやすそう。季節ごとに配置を変えたり……あ、シャンプーやコンディショナーを入口に置けば香りで足が止まりそうです」


 ミレーネは腕を組み、真剣に図面を見つめていたが、やがて静かに頷いた。

「……悪くありませんね。髪や肌のことに敏感なお客は、理容室に来る途中で必ずこの前を通ります。場所としての相性もいい。ミレットの向かいなのは、むしろ“美容と生活の並び”として自然に見えるわ」


 その分析に、クライヴが満足そうに微笑む。


「ただ……」

 ミレーネは少し目を細め、現実的な問題を付け加えた。


「開店準備をするには、人手がまったく足りません。商品の説明も、お会計も、在庫整理も……誰かがいなければ回りません」


「それなんです」

クライヴが頷く。


「ラシェルさんから、働き口を探している若い貴族令嬢の話を聞きました。マナーも読み書きも問題なく、商業の基礎教育を受けているそうです。販売員見習いとしてなら、即戦力になるかもしれません」


 その言葉に、エリンがぱっと顔を上げた。


「じゃあ……私とその方で店番ができますね! 貴族のお客様が来られても、礼儀で失礼をする心配がなくて済みますし」


 青司は少し考え込み、ゆっくりと口を開いた。

「貴族の子が……うちみたいな商会で働いてくれるものなんですかね?」


「“働きたいから”だそうですよ」


 クライヴは迷いなく答えた。


「王都の学校を出ても、縁故のない家はなかなか仕事に就けません。多くはどこかの派閥に入って、紹介を受けて働くのが普通ですが……そのぶん、しがらみも多いようでして。実力で働ける場所があるのなら、むしろ望ましいと考える令嬢もいるようです」


 その説明に、ミレーネもゆっくりうなずいた。


「貴族と言っても、下位の家はむしろ“働かないといけない”のよ。家の維持にもお金はかかりますしね。礼儀をわきまえていて、清潔な身なりを保てる女性なら、お店の印象もとても良くなるわ」


 青司は胸の奥に、ゆっくりと熱が湧き上がるのを感じた。

「……そうか。じゃあ、声をかけてもらえるなら助かる。店も、人も、なんとか……形になりそうですね」


 その言葉に、三人の顔が自然と明るくなる。


「もしよければ――人員の件ですが、まだ、心当たりがあります。ギルドで商品管理と会計を学んでいる見習いが二人いるんです。二人とも経験は浅いですが、販売と帳簿付けは問題ありません。性格も真面目で、任せた仕事はきっちりこなすタイプです」


 エリンが静かにそう切り出すと、ミレーネがうなずきながら言葉を添えた。


 「エリンは薬草農家の仕事もあるし、今は商会全体の会計を見てもらっているでしょう? 店頭まで見てもらうのは負担が大きいわ。帳簿や在庫管理を任せられる人がいると助かると思います。……冬には結婚も控えているしね」


その言葉に、青司は思わず目を瞬かせた。


「……あ、そっか。冬だったね。そうなると確かに、負担は減らしたほうがいいか」


 気持ちを切り替えて、青司は本題に戻る。

「ギルドの見習いを? そんな人がうちの商会に来てくれるものなのか?」


「我々もセイジさんと働きたいと思ってきたんですよ」

クライヴが穏やかな笑みを浮かべて答える。

「彼らだってそう思うのは不思議はありませんし──小さな商会だからこその魅力はあると思います」


「“全部の仕事の流れが見える”というのは、彼らにとって大きな学びになります。本人たちも前向きに働き口を探していましたし、条件さえ合えばすぐにでも来られるはずですよ」


 そこへ、ミレーネが控えめに手を挙げた。


「あの……もう一人、紹介できる人がいます。孤児院で働き口を探している男の子なんですが、とても真面目で、力仕事が得意なんです。荷物運びや清掃、配達、品出しみたいな裏方なら、十分任せられます。院長から是非とお願いされてるんですよね」


「孤児院の子……」

青司は少し驚いたが、ミレーネの表情に嘘がないことがすぐにわかった。


「はい。責任感もありますし、仕事を覚えるのも早いですよ。前にギルドの試験で雑務を手伝ってくれたとき、本当に助かりました」


 エリンも頷く。


「裏方の仕事は、多ければ多いほど助かるわ。店を綺麗に保てるかどうかは信用に直結するもの。信頼できる子なら、しっかりした戦力になるわね」


 青司は三人の顔を見渡し、胸の中でそっと息を吸った。


「……なんだか、思っていたより早く“店舗の形”がそろってきている気がするな」


 クライヴが軽く肩をすくめる。


「商機というのは、動くときは一気に動くものですよ。タイミングを逃さないようにするのが、商人の役目です」


 エリンも、ミレーネも、それに静かに頷いた。


「じゃあ……紹介してもらえるなら、ぜひお願いしたい。店を動かすには、どうしても人の手が必要だから」


「承知しました。すぐ手配します」

「面接の準備もしておきますね」


 こうして、ホヅミ商会の第一店舗に向けて、人員配置の骨格がまた一つ固まっていった。




**************



 商会での話しが進んでいる頃、黒猫亭には市場から帰ってきたリオナの姿があった。

 いつもは客で賑わう食堂も、仕込みの合間のこの時間だけは、穏やかな静けさが漂っていた。


「よし、材料はこんなもんだな」


 カウンターに腕を組むベルドが、籠に並べられた果物へ視線を落とした。

リオナが朝のうちに買い集めてきたものだ。赤い木苺、黄色い林檎、柑橘系の柑子果、ほんのり香るレモン草にミントの葉。


「……こんなに沢山。リオナ、がんばったのね」


 椅子に腰かけたマリサが、柔らかく微笑んだ。

頬色は以前よりずっと良い。青司の薬草茶が効いているのだろう。だが、お腹にそっと添えられた手が、無理はできないことを物語っていた。


「うんっ。ゼリーって果物が大事って言ってたから、甘いのをいくつか選んでみたの!」


 リオナは胸を張る。

彼女の尻尾が、うれしさで小さくゆらゆら揺れていた。


「で、どう作るんだ? セイジの言ってた“ぷるん”ってやつ」


 ベルドが問いかけると、マリサは紙に描かれた簡単なメモを見つめる。

青司が精一杯説明した「ゼリーのイメージ」。

……見たことも食べたこともない甘味。

けれど、その曖昧さがむしろマリサの胸をくすぐった。


「果汁を煮て、森鹿の煮凝りか、凝固草を溶かして……冷やせば固まる、はず。問題は、煮凝りにしても凝固草にしても、どれだけの量を入れるかね。

 少なすぎれば固まらないし、多すぎれば弾力が出すぎて食べられたものじゃない」


「へぇ……かなり繊細なのね。果物によっても違いがあるのかな」


「どうかしらね。試してみないとなんとも言えないけど……ぷるんと揺れるくらいの、柔らかい、けれど崩れない。そんな感じを探りましょうか」


 マリサは慎重に立ち上がろうとして、ベルドに肩を押されて止められた。


「動くな。指示だけくれれば充分だ。手は俺とリオナで動かす」


「ありがとう、ベルド。始めは凝固草を使ってみましょうか。セイジさんなら、植物をつかいそうじゃない?」


「じゃあ……凝固草と煮凝りの準備は俺がやるから、リオナは木苺に柑子果、リンゴを潰して、果汁を集めてくれるか」


「任せて!」


 リオナは袖をまくり、まな板の上で木苺をつぶし始める。

指先に甘酸っぱい香りが広がり、尻尾がまたぴくっと震えた。


 マリサは紙を見つめたまま、小さく息をつく。

ふと、ぽつりと言った。胸の奥に、小さな気がかりが芽生えるのを感じながら。


「……セイジさんって、本当に不思議な人ね。

どうして、こんなお菓子の作り方を知っているのかしら」


「そんなことより今は、マリサ、果汁はどれくらい必要だ?」


ベルドの声に、マリサは思案をそっと胸の奥へ押しやり、軽く頷いた。


「そうね。この器で二つ分……凝固草と煮凝りでそれぞれ二つ分。

果物の種類ごとに作りたいから……このくらいね」

 彼女が指で示すと、ベルドは頷き、大鍋を出して火を入れた。


 しゅう、と静かに立つ湯気。

甘い香りが部屋の空気に混ざっていく。


「……いい匂い。これだけで、お菓子になりそう」


「リオナ、その調子でミントも少し刻んで。風味を添えるわ」


「はぁい!」


 リオナが軽やかに動き回る一方、ベルドは凝固草の粉を慎重に取り扱っていた。

指先で少量つまみ、光に透かしてみる。


「これ、本当に固まるのか? 少なすぎねぇか?」


「入れすぎると弾力がですぎるのよ。少ないくらいが丁度いいはず」


「……なるほどな」


 鍋の中で果汁がふつふつと泡立ち、香りが一段と強くなる。リオナが果汁を二つの鍋に分けると


「じゃあ、ここに凝固草と煮凝りの上澄を別々に溶かして……」


 マリサが指示を出し、ベルドがゆっくりとかき回す。

鍋の表面がとろりと輝きを帯びはじめた。


「わぁ……なんか、綺麗」


「さて……煮凝りの方は……どうだ?」

ベルドは煮凝りを加えた鍋を木べらでゆっくりかき混ぜた。

とろみが出始めているが、ほのかに肉の香りが残り、マリサが鼻を寄せた。森鹿の煮凝りは、森の香りが凝縮した名残を思わせる香りがした。


「……うん、ちょっと獣臭いわね」

 マリサは眉を寄せたが、すぐに表情を上げる。

「でも、誤魔化す必要はないと思うの。ほら……」

 彼女は鍋の縁からすくって、固まり始めた煮凝りの表面を指さした。

「上の、この透明な層だけなら臭いがほとんどないわ。下は旨味もあるけど、森鹿の癖が残りやすいの」


 ベルドも覗き込み、うなった。

「じゃあ、いったん全部溶かして濾すか……。ついでに香草を少し煮てやれば、臭いも飛ぶだろう」


「ええ。丁寧にやれば、いいゼリーになると思う」


「こっちは凝固草だ。ほら、光り方がぜんぜん違う」

もう一つの鍋は、澄んだ赤い果汁が柔らかく照っていた。


「これが“ゼリーになる前”の状態ね……」

リオナが瞳を輝かせ、鍋の縁に顔を寄せた。


「うん。たぶんこれが“ゼリーになる前”の状態だって、セイジが言ってたものね」

 マリサは嬉しそうに目を細めた。

彼女は椅子に座ったままだが、表情はまるで台所に立つ職人そのものだ。


「さて……あとは冷やすだけね。ちゃんと固まってくれるかしら」


「冷蔵庫みたいなのがあればすぐなんだけどね」

リオナが笑いながら木の器に液体を注ぐ。


 器を並べ終えた三人は、息をつくように一度顔を見合わせた。


「なんにせよ、成功するかどうかは……冷えてからだな」


「うん。でも、絶対おいしくなると思う!」


 リオナの確信に満ちた声に、ベルドとマリサは自然と笑みを返した。

黒猫亭の片隅で生まれた小さな挑戦は、静かに冷やされる器とともに、期待を膨らませていくのだった。



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