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 青司に話しを通したクライヴは、商業ギルド副長ガラントの執務室に来ていた。


 窓際の書棚には分厚い台帳がいくつも積まれ、部屋の空気には紙とインクの匂いが漂っていた。

 ガラント副長は書類を脇に寄せ、目の前のクライヴに向き直る。


「……つまり、領主夫人と令嬢が、個人でシャンプーとコンディショナーを求めていると」

「はい。どうやら、セイジさんの贈り物が使い終わり、ミレットさんの理容室まで出かけたようです。そして、そこで使ったものが気に入られたそうです」


 クライヴは静かに頷き、懐から二通の封書を取り出した。封蝋には、フィオレル家の紋章が刻まれている。

 ガラントはそれを一瞥し、低く唸った。


「厄介だな。直接の個人販売は、組合への波風が立つ。だが、領主家を相手に“断る”のも同じくらい面倒だ」

「ええ。そのあたり、どう立てるかを考えていまして」


 クライヴは帳簿を開き、鉛筆で線を引く。

「たとえば――宿や理容室、あるいは街の外食店などを利用した者に“販売券”を発行するのはどうでしょうか。

それを持って商会店舗に来れば、商品を購入できるようにする。あくまで“施設利用者向けの特別販売”という形です」


 ガラントが顎に手を当てた。

「なるほどな。宿や理容室などを利用した者限定、か。表向きは“施設優待”として通る。……悪くない」

 彼は短く笑い、続ける。

「それに、領主夫人も理容室に足をむけたり宿に滞在なさる時がある。形式上は、“客”として扱えるわけだ」


 クライヴも微笑んだ。

「はい。宿組合や理容組合の利益を損なうこともありません。むしろ、貴族が街を訪れる理由が増えます。

 宿も理容室も、飲食店も潤うでしょう」


「……筋は通ってるな」

 ガラントは頷き、書類の角を整えようとした――その時。


 コン、コン。


 控えめなノック音が響いた。

 ガラントが「どうぞ」と返すと、扉が静かに開く。


「二人が揃っているってことは、面白い話をしているってことよね」

 艶のある声が室内に満ちた。


 入ってきたのは、ギルド長ラシェル。

 薄桃色の外套を羽織り、昼の会議帰りらしい。

 領主との定例会から戻ったばかりのようで、わずかに疲れを帯びた微笑を浮かべている。


 扉を閉めると、二人の正面へ歩み寄る。


「……領主夫人からの依頼の件じゃないのかしら」

 微笑むラシェルの視線が、机の上の封書に止まる。

 クライヴはすぐに立ち上がり、軽く頭を下げた。


「ギルド長。はい、その件でガラント副長にご相談を」

「聞かせて――そう、宿や理容店の利用者限定での販売券制度……悪くない発想ね。

 街の組合を立てつつ、領主家の顔も立てられる。

 ちょうど領主閣下からも、“この件を穏当に処理してほしい”と仰せつかってきたところなの」


 ラシェルは椅子の背に指をかけ、微笑を浮かべる。

「ただし、いずれは王都の耳にも入るでしょう。そうなれば“リルト発”の高級品として扱われるわ。

 その時、誰の商標で出すかを今のうちに決めておきなさい」


「……ホヅミ商会の名で、ですか」

「そう。けれど、ギルドの監督印は必ず押す。信用を守るためにね」


 クライヴは小さく息をつき、深く頭を下げた。

 ガラントは肩をすくめながら笑う。


「ほらな、クライヴ。筋の通った話なら、妻――いや、ギルド長は必ず味方してくれる」

「ええ。本当に、心強いことです」


 ラシェルは軽く頷き、二人を見渡した。

 「商人というのは、街の水脈を整える者。……滞らせないようにね」


 そう言い残し、ラシェルは再び扉へ向かった。

 扉が閉まると、部屋に静けさが戻る。


 クライヴは、机の上の封書を見つめた。

 リルトの夕陽が窓から射し込み、金の封蝋を赤く照らしている。


 ――新しい取引の流れが、いま確かに始まろうとしていた。



**************




 夕方の光が窓越しに差し込み、木の机の上に柔らかな影を落としていた。

 ホヅミ商会の商談室には、青司、リオナ、エリン、ミレーネ、そしてクライヴが集まっている。

 机の上には、各々が持ち帰った書類や試作品が並べられていた。


「じゃあ、最初に僕から」

 青司が封筒を開きながら言う。


「ルダンが染め薬の試作に成功しました。まだ試験段階ですが、色持ちも良く、髪の質感も損なわないそうです。来週には、一定量の発注が可能になると思います」


「自分の髪を紅く染めあげて、試してくれてたのよね。奥様にも髪を染めてもらって、色の出方を比べたって言ってたわ。ありがたいわね」

 リオナが嬉しそうに微笑む。

「街の理容店に染め薬が広まれば、また話題になりそうね」


「それと……」

 エリンが手帳を開いた。

「薬草農家のメロックさんのほうで、ファリナ草の栽培を始める準備が整いました。土壌が合えば、初冬には収穫できそうです。肥料は配合を含めてテラノ工房に発注してあります」


 青司がうなずく。

「うまく根付くといいね。ファリナ草は寒さに少し弱いけど、リルト近郊ならなんとか冬越しできると思う。あとは霜除けを早めにしてもらえば大丈夫だろう


 その横で、ミレーネが帳簿をめくった。

「マルコットさん、ドナートさんにはそれぞれ増産をお願いしてきました。薬草の在庫確認も済んでます。これで洗濯屋からの追加注文にも対応できますし、理容室と宿の方も対応できます。特に理容室は最近どこもお客様が増えてますからね」


「助かる」

 クライヴが腕を組みながら小さく頷く。

「このところ、街の空気が変わってきてる。貴族の奥方や令嬢の姿を商店通りでよく見かけるようになった。宿の予約も埋まりはじめてるらしい」


「確かに」

 リオナが頷く。

「ミレットの理容室に“フィオレル夫人が通った”って噂を聞きつけた人たちが増えてて、ミレットのところ、今は予約がいっぱい。夕方も遅くまで店を開けているみたい。あのシャンプー、あっという間に広まりましたね」


「……それについては、ギルド長とも話をしてきました」

 クライヴが懐から報告書を取り出し、皆の前に置いた。

「領主夫人と令嬢への対応は、“宿や理容店の利用者限定販売”という形で進めます。ギルド長の承認も得ました。正式にホヅミ商会として、店舗を構えてよいとのことです。まだまだ、広がりますよ」


「じゃあ、正式に“街の店”として市民からも認められますね」

 エリンが目を輝かせる。


「ええ。監督印はギルドが押してくれます。これで、堂々と商いができる」

 クライヴは穏やかに笑い、机を軽く叩いた。

「――あとは、商品の品質と供給を安定させることだな。そのためにも、ルダンやドナート、マルコットとの連携をしっかり続けていこう」


 青司は静かに頷いた。

「はい。明日はリオナのお姉さんのところにも寄っていこうと思います。体調を崩されていると聞きましたし、薬とお茶を届けておきます」


「わたしも一緒に行きます」

 リオナが立ち上がり、軽く笑みを浮かべる。

「姉の顔を見たら、少しは安心できると思うから」


「もちろんよ。セイジさんとリオナちゃんの大事なお姉さんなんだから、安心してきてね」

 ミレーネがからかうように笑った。


「僕の姉ではないんですけどね」

 青司が少し引きつった笑みを浮かべると、

「身内みたいなものなんでしょ? それならセイジさんのお姉さんで間違ってないじゃない」

 と、エリンが追い打ちをかける。

 青司は、こっそり外堀を埋めている女性陣のことに、気づいていなかった。


「出店のことを検討したいので、お昼過ぎには顔を出してください」

 クライヴが真面目な調子で青司に声をかける。


 窓の外では、夕陽が街の屋根を赤く染め始めていた。

 ホヅミ商会の面々は、それぞれの持ち場へと戻る準備を始める。

 夏の空気の中で、新しい商いの季節が、静かに動き始めていた。





**************




 朝靄の中、石畳を掃く音が街角から街角へと響いていた。

 清掃員たちが通りを丁寧に掃き、排水溝の落ち葉を集めていく。

 その傍を通りがかる人々が、軽く会釈をしながら声をかけた。

「いつもご苦労さま」「ほんと、街がきれいになったね」

 そんな言葉に、掃除の手を止めた老夫が照れくさそうに笑う。

 リルトの朝は、いつの間にかそんな穏やかなやりとりで始まるようになっていた。


 通りには、鮮やかな布地や香油を扱う店が並び、

 そのあいだを行き交う人々の姿もどこか華やかだった。

 最近は、絹の裾を揺らす貴族の婦人と、その後ろに従う護衛や女官の姿も、街の日常の風景として見られるようになってきた。

 彼女たちは珍しげに市場を眺め、ときに路地裏の露店に足を止めた。

細い路地にまで清潔が行き届くリルトの街の安全さは、いまや貴婦人たちの間にも知られつつある。

通りの商人たちは最初こそ身を固くしていたが、今では笑顔で客を迎え、街全体が柔らかな熱気に包まれている。


 そんな中――

 路地の一角では、理容室帰りと思しき若い女性たちが集まっていた。

 互いの髪を見比べながら、陽の光を反射する艶に小さく歓声をあげている。


「ねえ、見て。ほんとに指どおりが違うのよ」

「わたしも! あの“森の香りの液(コンディショナー)”、信じられないくらい艶々でさらさらになるの」

「ミレットさんのところ、もう予約でいっぱいなんですって」

「貴族夫人の予約で埋まってるって噂、あれ本当だったのね。この街でしかシャンプーもコンディショナーも手に入らないんだもの、仕方ないわよね」


 笑い声が風に流れ、通りの花壇の葉を揺らした。

 リルトの女性たちのあいだに、小さな誇りのような喜びが広がっていた。

 それは商いというより、“街が磨かれていく”ような明るさだった。


 そんな賑やかな通りを、セイジとリオナが肩を並べて歩いていた。

 リオナの腕には、籠。中には薬瓶と、青司が森で用意してきた薬草茶の包み。

「姉さん、きっと喜ぶわ。この前より少しは楽になると思う」

 リオナの言葉に、セイジは穏やかに頷く。


 今日の目的地は、黒猫亭――マリサとバルドが営む、あの温かな食堂。

パン屋の香りや商人の呼び声が混じり合う朝の通りを、ふたりは自然と歩調を合わせて進んでいく。

通りの曲がり角を抜けると、黒猫亭の看板が目に入った。


 店先にはパンの焼ける匂いと威勢のいい声が漂い、温かな空気がこぼれてくる。

 青司とリオナは顔を見合わせ、そっと扉を押した。


「いらっしゃい――おお、セイジにリオナじゃないか」


 振り返ったベルドが、安心したように笑みを深くした。

 今日は朝から客が多いのか、エプロンの端を急ぎ結び直している。


「お姉ちゃんの具合はどうですか?」

 リオナが心配顔で問いかけると、ベルドは苦笑しながら肩を竦めた。


「良い日も悪い日もあってな。無理はさせちゃいねえが、体がいうことをきかねえらしい。……ほら、奥で少し横になってる。ふたりが来てくれたら喜ぶぞ」


 黒猫亭はいつもより賑やかだった。

 朝食を取る商人や兵士に混じって、見慣れない上等な布の衣をまとった婦人たちが席に座っている。

 従者の姿もちらほら見え、店の空気にほのかに香水の香りが混じっていた。


「最近はああいうお客さんが増えてな」

 ベルドが小声で続けた。

「街に長逗留してる貴族の奥方らしい。ミレットの店に行った帰りらしくて、髪を褒めあっては上機嫌だ」


 確かに、席の一角では、年の近い貴婦人たちがひそひそと楽しげに囁き合っている。


「本当に、指どおりが違うって言うのよ。あの森の香りの液体……名前は何だったかしら?」

「コンディショナーでしょう、奥様。私も使いましたが、驚くほど髪が整いますわ」


「黒猫亭のお料理、評判どおりね。それに、この街にはこんな素敵なお店がいくつもあるなんて……想像以上だわ。来てよかったわ、本当に。」


 青司はその会話を横耳に受けながら、ベルドとともに奥の部屋へ入った。


 マリサは布団にもたれ、薄い色の頬でこちらに微笑んだ。


「リオナ……セイジさん。わざわざ、ありがとね」


「少しでも楽になればと思って」

 リオナが籠を開け、優しい香りの立つ袋を取り出す。

「疲労回復のお茶と、鉄分を補えるお茶。それから、ビタミンの多い果実茶も少し持ってきたわ。セイジが作ってくれたのよ」


 青司も袋を差し出し、説明を重ねる。

「熱をかけすぎずにじっくり煮出せば香りもやわらかくなりますよ。飲みにくかったら、蜂蜜を少し入れても大丈夫です」


 マリサは胸に手を当て、小さく安堵の息を漏らした。

「ほんとに……助かるわ。最近、台所の匂いだけで胸がむかむかしちゃって……」


 その言葉に、外の客席のほうからも似たような声が聞こえてきた。


「奥様、大丈夫ですか?」

「ごめんなさい……少し、胸が悪くて……」


 どうやら、貴族の若い女性のひとりが体調を崩したらしい。

 従者が慌てて手を貸していた。


「匂いで気分が悪くなる……」

 青司は状況を見てすぐ判断した。

「リオナ、さっきの果実茶、少し分けてもいい?」


「もちろん」


 青司は席の方へ駆け寄り、従者に声をかけた。


「もしよければ、温かい茶を。刺激が少なくて、気分が少し楽になるはずです」


差し出された湯気の立つ薬草茶に、従者の若い女性は一度だけ主を振り返り、許しを得るように小さくうなずいた。そして控えめに手を伸ばす。


「では……まずは私が。失礼いたします」


香りを確かめ、小さく一口含む。

次の瞬間、彼女の目がわずかに開かれ、すぐに深く頭を下げた。


「問題ございません。……むしろ、とても飲みやすいお茶です」


青司は静かにうなずき、もう一杯をそっと貴族女性の前へ置いた。


「こちらはご本人に。体を温めてくれます。無理のない範囲で、お飲みください」


女性はまだ不安げだったが、従者の表情を確認してから、ほっと息をつくように微笑んだ。

両手で茶碗をそっと包み込み、ゆっくりと口をつける。


 数分もしないうちに、強張っていた表情が少しずつ和らいでいった。


「……ありがとうございます。本当に、楽になってきました」


青司は深くお辞儀をした。


「お役に立てたのなら、良かったです。……もしお気に召したようでしたら、こちらの薬草茶は黒猫亭でもお求めいただけます。旅の途中でも飲めるように、茶葉の包みもご用意していますので」


その言葉を聞いた従者の女性は、胸をなでおろすように安堵の息をついた。


「店で購入できるのですか。それは助かります。あとで主人と相談して、包みをいただこうと思います」


貴族女性も小さくうなずき、茶碗を卓に戻した。


「本当に……楽になりました。こんなにやさしいお茶があるなんて知りませんでした。後ほど、ぜひ買わせていただきます」


青司は頭を下げ、控えめに微笑む。


「ありがとうございます。黒猫亭でお預けしていますので、いつでもお声掛けください」



「黒猫亭にはこんなに心強い薬師がいるのね」

「さすが、フィオレル夫人がお褒めになっていただけはありますわ」


 そんな声が広がり、店全体の空気が明るくなる。


 その様子を見ながら、ベルドが青司の肩を叩いた。


「セイジさん。……あんた、ここ最近の街の騒ぎにぴったりだ。

 客の顔を見て、すぐ動く。あれは商売人でもなかなかできねえ」


 青司は照れたように笑う。

 するとリオナがふと思い出したように言った。


「ねえセイジ、さっきの奥様たち……甘いものがあればいいのに、って言ってたけど、セイジは料理できないものね」


「甘いもの……?」


 青司は思わずつぶやき、ふと日本でよく食べていた“ぷるんとした甘味”の記憶がよみがえった。

それは料理とは言えないほど簡単に見えたが――作り方などはまったく覚えていない。


(確か……果汁を固めた、あれだ。名前は……ゼリー)


 青司はぽつりと言葉にした。


「……ゼリー、という甘味があって。果実の汁を固めた、軽い食べ物なんです。女性の方なら、きっと喜ばれると思います」


「ゼリー?」

 ベルドが腕を組み、興味深そうに眉を上げた。


「ほう、果汁を固める……煮凝りみたいなもんか?」


「作り方まではわからないですが……素材は、この世界でも何とかなるかもしれません」


 マリサが、疲れの残る顔のままも、ぱっと明るい表情で近寄ってくる。


「果実の甘さを生かしたお菓子……いいわね。それなら私も作ってみたいわ」


 リオナも、うれしそうに目を輝かせた。


「うん!お姉ちゃんと相談しながらなら、きっと作れるわよ。セイジ、いいアイデアありがとうね」


 青司は照れくさく笑いながら、胸の奥に小さな温かさが広がるのを感じた。


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