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リルトの街の外れ、緩やかな丘の中腹に、小さな畑が広がっていた。
刈り取られた薬草の束がいくつも干され、秋風にそよいでいる。
エリンは書類鞄を片手に、土の匂いに満ちた道を歩いた。
「――こんにちは。ホヅミ商会のエリンです。先日お願いした件、いかがでしょうか?」
畑の奥から顔を出したのは、腰の曲がった老女だった。
手ぬぐいで汗を拭いながら、細めた目でエリンを見上げる。
「おやまぁ、エリンちゃんじゃないかい。この前の話しかい?」
「はい。“ファリナ草”の栽培について、先日ご相談に伺いましたが――」
「ファリナ草ね」
老女の眉がひくりと動く。
「……あの光る草だろ。息子とも話したんだけどね、あれは無理だよ。育たないってさ」
「やはり、そうですか」
エリンは苦笑を浮かべ、手帳に短くメモを取った。
老女は鍬を杖代わりに突き立て、遠くの丘を指さす。
「昔、試した人がいたけどね。芽は出ても、すぐにしおれる。あの草は“魔の森”の土を恋しがるんだよ。
土に魔力がないと、根っこが力を吸えない。まるで魂が足りんみたいにね」
「魔力のある土地、ですか……」
エリンは顎に指を当て、少し考えるように空を見上げた。
「――もし、魔物の内臓や骨、それに糞なんかから作った肥料で、魔力を補えるとしたら……育つ可能性はあるんでしょうか?」
老女は目を丸くし、それから喉の奥で笑った。
「ほう、面白いこと言うねぇ。さすがエリンちゃん、頭の回る子だ。そんな肥料の話、聞いたこともないけど――理屈の上じゃ、ありえなくもないねぇ」
エリンは控えめに笑い、手帳を閉じた。
「実際に試してみないとわかりませんけど……商会の方で素材を手配できると思います。失敗しても、今後の参考になりますし」
「はは、仕事熱心なこと。……けど、うまくいかなかったら――そうだねぇ、聖女さまの祝福でももらうしかないねぇ」
老女は冗談めかして笑う。
エリンもつられて口元をほころばせた。
「残念ながら、そこまでのコネはありませんけど……覚えておきます」
老女も釣られて笑い、手を振った。
「ま、冗談さ。だけどね――リルトには、ちょっと風向きの変わる時期ってのがあるんだよ。
季節が移るとき、不思議と“芽の早い草”が出る。あんたらの運が良けりゃ、それがファリナ草かもしれないねぇ」
「もし、肥料を用意したら試してもらえないでしょうか」
エリンは丁寧に頭を下げた。
老女は腕を組み、少し考えるように空を見上げた。
「……そうねぇ、エリンちゃんの頼みなら、やらないこともないけど。
そこの一畝分くらいでよけりゃ、やってみてもいいよ。息子も文句は言わないさ――かわいいエリンちゃんの言うことならねぇ」
少し描き直しましたどうでしょうか
夏風が、畑の乾いた草束を揺らした。
小さな冗談のような会話の中に――何かの兆しが、確かに息づいていた。
*******
南通りを抜ける風は、染料と陽だまりの匂いを混ぜて運んでいた。
リオナは肩掛けの布を押さえながら、青司の横を歩いていた。
「ここが……染布屋さんね。なんだか、お花屋さんみたい」
見上げた先では、店先の竿に吊るされた染布が夏の光を受けて揺れている。
淡い紅、深い青、陽を透かす金――どれも風にそよぎ、光の羽のようだった。
「うん。試作をお願いしたものが、仕上って見せてもらえるはずなんだ」
「ちょっと……ドキドキするわね」
リオナは笑みを浮かべながら、少し背伸びをして中を覗き込む。
工房の中からは、草木を煮出すような甘い香りがかすかに漂ってきた。
青司が扉を開けると、釜の向こうから紅褐色の髪をしたルダンが顔を出した。
「おう、セイジに……今日は新しい顔も一緒か」
「リオナと言います、お世話になります」
リオナが丁寧に頭を下げると、ルダンは笑って手を振った。
「かしこまるな。見物かい?」
「はい。試作品を見せていただけると聞いて」
「ちょうどいいところに来た。――仕上がってるぜ。どうだ、この髪色、なかなかいいだろ?」
ルダンは作業台の上に並べた小瓶と、自分の頭を交互に指さした。
「二十回洗ってみたが、十七回目あたりから少しずつ色落ちしてきてな。それでも、まぁ悪くねぇだろ」
光を受けた液体は、それぞれ微妙に違う色合いを放っている。
ひとつは淡い栗色、ひとつは深い紅褐、そしてもうひとつは藍を帯びた灰。
前に見たとき栗色だったルダンの髪は、今日は見事な紅褐に染まっていた。
「……きれい」
リオナが思わずつぶやいた。
瓶の中の色が揺れるたび、室内の光もやわらかく反射して、壁や布を淡く染めていく。
「前に見せてもらった薬をもとに、三種類の染料を試してみた」
ルダンは腕を組みながら、少し悔しそうに笑った。
「お前の作ったやつほど、色持ちはしねぇのが腹立たしいな。母ちゃんの髪で試したんだが、同じくらい洗ってもまったく色が落ちねぇ。あれはたいしたもんだ」
彼は木の棒で瓶を軽くかき混ぜる。
「――藍果の濃度と媒染液の配合を変えて、発色を安定させてある。見てくれ」
光が細かく跳ね、ふわりと草と花の香りが立ちのぼった
青司は瓶をひとつ手に取り、静かに蓋を開けた。
やさしい香りが広がる。花と樹皮、そして森の清らかな空気を思わせる香り――。
「……あの日の匂いと同じだ。けど、少し深い……」
青司の呟きに、ルダンが口の端を上げた。
「蒸留温度を変えたんだ。発色を良くして、刺激を抜いた。髪に使っても、頭皮を焼かないようにな」
リオナが青司の腕をそっと引き、小声で言った。
「ねぇセイジ、ルダンさんの髪色……“森の紅茶”みたい。あたたかくて、優しい色です」
青司は笑い、頷いた。
「そうだな。――ルダンさん、本当にありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い。色落ちが早いのをどうするかだな」
ルダンは麻布に少量の染料を垂らし、指先で広げた。
やがて布の端から、光を飲み込むように色が浸透していく。
「発色は悪くねぇ。けど、毎日洗ってると少しずつ抜けちまうのが難点だな」
「そうですね。……リオナは、そのあたりどう思う?」
リオナは瓶の中の染料を覗き込みながら答えた。
「私は毛先だけ染めてみたじゃない? だから気にならなかったけど――一月もすると、新しく生えてきた髪がもとの色になるから、気になる人は結局染め直すと思うの。
二十回くらい洗っても色が保てるなら、十分じゃないかしら」
ルダンがふと視線を上げ、青司を見た。
「――それなら、試作は成功ってことでいいか? お前の期待した“色”、出てたか?」
青司は瓶の中の光を見つめ、しばらく黙ってから静かに言った。
「はい。……期待以上の色ですよ」
「そうか、なら良かった」
ルダンは肩の力を抜いたように笑みをこぼした。
**************
リルト西区・中央広場のすぐ近くにある〈ミレット理容室〉。
朝からドアの前には三人の使用人と、一台の馬車が停まっていた。
扉の奥では、湯気と香りと声が入り混じる。
夕方を過ぎても客足が途絶えなかった。
店の前には、王都仕立てのドレスを着た馬車付きの客が並び、店内では髪を結う音と薬草の香りが絶えない。
磨かれたガラス越しに差し込む陽が、棚に並んだ染料瓶の色をきらめかせていた。
磨かれた床板の上では、弟子たちが忙しく動き回っていた。
木桶からは泡立つシャンプーの香り、壁際の棚には整然と並んだ瓶と櫛。
その中を縫うように、金の髪を束ねたミレットが歩く。
白いエプロンの裾が揺れ、動くたびに香油の匂いがほのかに漂った。
「ミレット様、次のお客様、王都のクライン公爵夫人がお見えです!」
若い弟子の声が響く。
奥の鏡台の前で髪を束ねていたミレットは、微笑んで振り返った。
「はい、すぐ行くわ。――トーマ、仕上げの確認お願い」
「了解。紅褐の色味、少し深めておくね」
「――リサ、湯温は少し下げて。夫人の髪は細いから、熱すぎるとすぐ傷むわ」
「はい、ミレットさん!」
若い弟子が慌てて湯を調整する。隣では別の弟子が鏡を磨き、
その様子を、トーマが腕を組んで見ていた。
新しく入った弟子たちは、客の話す言葉遣いにまだ戸惑いがちで、トーマがその都度さりげなく手を貸していた。
トーマは背の高い男で、焦げ茶の髪を後ろで束ねている。
青司が届けた染料の小瓶を手に取り、光にかざした。
色味を確認する瞳は職人そのもので、弟子たちに短く声を飛ばす。
「色の配合を間違えるなよ。今日の夫人は“栗より少し赤”って注文だった。
ルマ草の抽出液は二滴、藍果はそれより半分でいい」
「は、はいっ!」
慌てて瓶を扱う弟子たち。
トーマはふっと息をつき、ミレットの背に目をやった。
ミレットはすでに貴族夫人の髪を丁寧にとかし、
鏡越しに微笑みを浮かべている。
「お肌の色が明るい方ですから、少し深めの紅が映えますね。
首元の飾りにも合うと思います」
「まぁ……さすがね、ミレットさん。王都でも評判になるわけだわ」
夫人が上機嫌で笑う。
その声を聞きながら、トーマはどこか誇らしげに微笑んだ。
――昔は、彼女が男客の髪を整えるたびに、
心のどこかで針のような嫉妬が刺さった。
だが今、彼女の手が貴族の髪を優しく包む姿を見て、
その針はもう、暖かい誇りに変わっていた。
弟子の一人が、トーマの横に小走りで寄ってくる。
「トーマさん、この液体、ちょっと濃すぎたかもしれません」
トーマは瓶を受け取り、指先で液をすくう。
香りを確かめ、軽く頷いた。
「……悪くない。だが、夫人用には少し軽い香りにした方がいい。
“香りが先に届く”と、色が霞んで見えるんだ」
「なるほど……!」
弟子の目が輝く。トーマは口元をゆるめ、低く言った。
「染料は“光”と“鼻”の仕事だ。覚えとけ」
カーテンの奥では、ミレットが最後の仕上げにかかっていた。
夫人の髪が鏡の中で柔らかく輝き、光を受けて金紅色にきらめく。
店内の空気がふっと静まり、誰もがその発色を見つめた。
「……素晴らしいわ、ミレットさん」
夫人が立ち上がり、うっとりと鏡の中の自分に見入る。
「“光で染めたみたい”って噂は本当だったのね」
ミレットが微笑み、そっとリボンを整える。
「この染料、ホヅミ商会の方が作ってくださったんです。
自然の草の色なので、髪にも優しいですよ」
「まぁ、王都にも広めないとね。わたくしの妹にも紹介するわ。その前に、次の予約をお願いしておかないといけないわね」
「ありがとうございます。最近、夕方のご予約をお受けし始めましたので――二ヶ月先の九の月でしたら、夕方に少し空きがございます」
「じゃあ、できるだけ早く予約できるところでお願いね」
「かしこまりました」
ミレットは微笑み、手帳に軽やかにペンを走らせた。
夫人が立ち上がり、香りを残して店を後にする。
扉の鈴が鳴る音に合わせて、ミレットは穏やかな笑みで深く一礼した。
「最近、王都の紹介状ばかりだね」
トーマが肩越しに言う。
「嬉しいけど、弟子志願の子たちの教育も追いつかないな」
「ええ。でも悪いことじゃないわ。うちの染料、王都の工房でも真似できないって評判なんですもの。
……ホヅミ商会の染め薬のおかげね」
そして夫人を見送ったあと、ミレットは小さく肩を落とした。
「……ふう、貴族相手は緊張するわね」
「だが完璧だった」
トーマが背後から声をかける。
彼はタオルで手を拭きながら、ミレットの耳元に軽く囁いた。
「お前の仕上げは、俺には真似できねぇよ」
ミレットが振り返り、少し笑った。
「でも、配合はあなたの方が上よ。あの香りの柔らかさ、私には出せないわ」
トーマは頬をかき、わずかに照れたように笑った。
外では、昼の鐘が鳴る。
店の看板の下には次の予約客が列を作り、
弟子たちは次の染料を準備している。
湯気と香りと光に包まれた〈ミレット理容室〉は、
リルトの中で今、いちばん活気のある場所だった。
**************
話は――青司とリオナが森の家で過ごしていた日に遡る。
ホヅミ商会の事務室には、夕方の陽が斜めに差し込んでいた。
机の上には二通の封書が置かれている。どちらも上質な羊皮紙に、丁寧な筆跡で宛名が記されていた。
一通は〈領主夫人ミルシア・フィオレル〉、もう一通は〈令嬢アリス・フィオレル〉――どちらも、リルトで最も影響力のある家の名前だ。
クライヴは椅子に腰を下ろし、封を切らずに指先で軽く叩いた。
視線の先では、ミレーネが帳簿をまとめ、エリンが納品伝票を仕分けている。
静かな紙の音が続く中、クライヴは小さく息を吐いた。
「……貴族家から、直接の購入依頼とはな」
その声に、ミレーネが顔を上げる。
「もしかして、ミレットさんのところの件ですか?」
「そう。あの理容室で使っているシャンプーとコンディショナーが、領主夫人の気に入ったらしい。令嬢の方も使ってみたいと、同じ香りを希望している」
ミレーネが目を瞬かせた。
「個人向け販売は……まだ始めていませんよね?」
「そこなんだ」
クライヴはペンを転がしながら、机の上の帳簿を開いた。
「うちの商品は今のところ、宿や理容店、浴場など――“施設向け”に限定している。個人的に売れば、宿組合や理容組合から“客を奪っている”と文句が出かねない。ましてや領主家となれば、街全体の話にもなる。少量をセイジさんが贈るくらいなら許容範囲なんだけどな」
エリンが手を止め、慎重に口を開いた。
「けれど……領主夫人の依頼を断るのも、まずいですよね」
「そうだな。貴族が関わるなら、なおさらだ。保証人には子爵でありギルド長のラシェル様がいるが、あの方は“後ろ盾”というより“監督者”だ。力のある貴族が後見人となれば、商会としての立場も安定するんだがな」
クライヴはしばらく沈黙し、机の上の封書を見つめた。
陽の光が瓶詰めのサンプルを照らし、琥珀色の液体に小さな光を生む。
――領主家の信用は、確かに大きい。だが、街の信用を損ねるのはもっと厄介だ。
「……リルトの街で販売すればいいんじゃない」
ミレーネが、ぽつりと口にした。
クライヴが顔を上げる。
「街で?」
「ええ。個人への販売じゃなく、“商会の店舗”で受け渡しをすれば、“商人としての販売”になります。うちが店舗を構えるだけなら、宿組合や理容組合の商売を奪うことにもならないでしょうし、文句も言われないと思います」
「……なるほどな。ラシェル様も、“貴族が街に遊びに来るだけでも悪くない” とおっしゃっていたからな」
クライヴは腕を組み、しばし考え込んだ。
街で販売すれば、確かに“外への流出”にはならない。
貴族が来訪して購入する形なら、むしろリルトの商業が潤う。
宿組合や理容組合、それに飲食店も、“貴族が街を訪れる理由”が増えると考えれば、むしろ歓迎するかもしれない。
「悪くない。理にかなっている」
やがてクライヴが笑みを浮かべた。
「ただし、正式に進めるならギルドとの交渉は避けられない。……明日セイジさんに話を通し、ガラント副長にも相談することにしよう」
そう言って立ち上がると、上着を羽織り、封書を懐に収めた。
窓の外では、夏の陽が街の屋根を朱に染めている。
リオナが帳簿を抱えたまま、軽く頭を下げた。
「気をつけてくださいね」
「ああ。あの人は、筋の通った話ならきっと聞いてくれる」
扉の外に出たクライヴの足元には、夕陽に染まるギルドの廊下。
その歩みの先には――商業ギルド副長、ガラントの部屋があった。




