表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/53

44

 夜明けとともに、森は淡い靄に包まれていた。

 木々の間を縫うように差し込む光が、苔の上にやわらかく降り注ぐ。

 青司は戸口を開け、深く息を吸い込んだ。

 湿った空気の奥に、乾いた葉と土の香りが混ざっている。


 昨夜、試しに調合した薬は小瓶に移し替え、布で丁寧に包んである。

 ファリナ草の抽出液は、一晩置いたことで光がわずかに落ち着き、乳白色の輝きになっていた。

 青司はその様子を確かめながら、満足げに小さく頷く。


 「……悪くないな」


 作業台の上には、いくつもの瓶が整然と並んでいる。

 それぞれに異なる香り、異なる効能。

 マリサのための薬も、ルダンへの提案も、ひと晩寝かせて見えてきたことがある。


 寝室から出てきたリオナが、ゆっくりと体を伸ばす。

 「……んー……おはよう、セイジ」

 「おはよう。朝でも日差しが強くなってきたな」

 青司は湯を沸かしながら、微笑んで応じる。

 リオナの耳がぴくりと動き、火のはぜる音が部屋の中に響いた。


 「昨日のスープ、すっごく美味しかったな。……朝の分も、まだあるかな?」

 青司が笑いながら言うと、リオナが頬を緩め、台所へ足を向ける。

 「角兎の肉、柔らかかったし……森菜の香りがすごく良かった。あれ、また作ってほしいな」

 「ほんと? よかった。あの森菜、干す前の方が香りが立つみたいだし――今度もう少し多めに採っておくわね」

 棚を開けたリオナが、ちらりと振り返る。

 「ふふ、スープは朝の分もありそうよ」


 「それとね……お風呂も気持ちよかった」

 リオナは髪先を軽くつまみながら、少し照れくさそうに笑った。

 「髪がつるつるになって、肌もしっとりしてる。……あれ、少し変えたの?」


 青司は湯を注ぎながら、苦笑を浮かべる。

 「えっと……ちょっと改良してみたんだ。やっぱり気づいたか。ミル草のオイルと森果の実を少し足してみた。保湿効果が出ると思って」


 「ふふっ、やっぱりね。ありがとう、セイジ」

 リオナの声は、まだ眠気を含んで柔らかい。

 「おかげでぐっすり眠れたわ」



 朝食を済ませたあと、青司は荷を整える。

 小瓶と草束を箱に詰め、蓋を布で巻き留めた。


 「今日は街へ出るのよね?」

 リオナの問いに、青司は頷く。


 「うん。ルダンとマルコさん――それにドナートにも話しておきたいことがある」

 包みを確かめながら、青司は微かに笑った。

 「その前に商会でも相談しないとだけど……きっと、面白い展開になると思う」


 青司の横顔に、朝の光が差し込む。

 その表情には、静かな決意と、どこか少年のような好奇心が混じっていた。

 リオナは言葉を探したが、結局、口には出さずに小さく頬を染めた。

 視線をそらしながら、手元のマントの裾を整える。

 「……また、にぎやかになりそうね」


 荷台に箱を載せ、扉を閉めると、森のひんやりとした風が頬を撫でた。

 夜の名残を残すように、木々の葉には朝露が光り、陽の光を受けて小さく瞬いている。

 夏の空はすでに高く、青さの奥に白い雲がゆるやかに流れていた。


 リオナは肩掛け鞄を背負いながら、深呼吸をひとつ。

 「今日も、いい天気ね」

 「うん。街までは少し暑くなりそうだけど、風があるから助かる」

 青司は荷台の上の箱を確認しながら答える。瓶や薬草を詰めた箱は布で丁寧に包まれ、揺れないように紐で固定されていた。


 「ルダンに染めの話、マルコさんに洗剤、それにドナートのシャンプーの件ね」

 リオナが指を折りながら言うと、青司は軽く笑った。

 「そう。それに、マリサさんへの薬も渡しておきたい。……ちょっとした発見もあったしな」

 「ふふっ、また商会の人たちが驚く顔が見られそうね」

 リオナの尾が楽しげに揺れる。


 青司が手綱を握ると、荷車を引く獣が低く鳴いて前へ進みだした。

 車輪が土を踏みしめ、森の小道に朝の光が差し込む。

 セミの声が遠くで鳴きはじめ、夏の匂いが風に混ざる。


 「……じゃあ、行こうか」

 「うん、一緒にね」


 並んで歩き出した二人の背を、木漏れ日がやわらかく照らしていた。

 街への道は長いが、二人の心は軽かった。

 新しい“つながり”を胸に抱きながら、青司とリオナは森を抜けていった。




**************




 街道を抜け、リルトの城門が見えてくる頃には、太陽はすっかり昇っていた。

 街を包む空気は、森とはまるで違う。石畳の照り返しに、焼いたパンと香辛料の匂いが混ざり合い、朝の活気が広場へ流れ込んでいる。


 青司は荷車を押しながら、いつもの門番に軽く会釈をした。

 「おはようございます、ホヅミ商会の方」

 「おはよう。今日もいい天気ですね」

 門を通り抜けると、リオナの耳がぴくりと動く。

 「やっぱり街の匂いってすごいね。いろんなものが混ざってる」

 「慣れるまではちょっと騒がしかったけど……それもリルトらしさだな」


 石畳の通りを抜け、商業ギルドの建物が見えてくる。

 白い漆喰の壁に、ギルドの紋章が朝陽を受け、白壁の上でまぶしく光った。

 人々が行き交い、書類を抱えた商人たちの声が絶え間なく響く。

 青司は入口で軽く息を整えると、受付の女性に声をかけた。


 「ホヅミ商会、第十二商談室をお借りしているセイジです」

 「すでにエリンさんに商談室の鍵は渡していますよ」

 「そうですか、ありがとうございます」


 階段を上がり、二階の長い廊下を抜ける。階段を上がる途中、青司が小さく息を吐くと、リオナが隣でそっと笑った。

「まだ緊張するの、セイジ。みんな待ってるよ」


 長い廊下の突き当たり、第十二商談室の扉を開けると、見慣れた顔があった。


「やっと来ましたね、セイジさん!」

 椅子から立ち上がったミレーネがいつもの笑顔で手を振り、隣の席に座るエリンが控えめに頭を下げる。

「おはようございます。森の方は順調でしたか?」

「ええ、少し収穫があったんです。……今日はその話を」


 商談室へ青司とリオナが中へ入っていく。

 部屋の中は木の香りが漂う静かな空間で、窓から射し込む朝の光が机をやわらかく照らしている。

 ミレーネがそっと扉を閉め、壁際の椅子に腰を下ろした。


 青司は荷箱を机の上に置き、布を外した。

 中には、乳白色に輝く小瓶と、香り立つ草束。

 「――今日は、ちょっと変わった素材を持ってきてて」

 ミレーネとエリンの目が同時に輝いた。

 部屋の空気が少し明るくなる――そのとき、扉がもう一度軽くノックされた。


 「戻りました。――ちょうど良かった、セイジさんいらしてたんですね」

 入ってきたのは、ホヅミ商会の営業担当クライヴだった。

 片手には数枚の書類束、もう片方には封筒を抱えている。


 「新しい報告がギルド経由で二件届いていました。どちらも会長セイジさん決裁が必要な事項です。まず――洗剤を使って、洗濯屋を始めたいという者が現れました。冒険者を引退して開業する予定で、ギルド登録も検討中とのことです」


 書類をめくるクライヴの手つきは落ち着いていたが、どこか嬉しそうでもあった。


 「洗濯屋……?」

 リオナが目を瞬かせる。


 「はい。“香りの良さと汚れ落ちの速さ”が評判で、試し洗いをした彼が『これならいける』と、ぜひ挑戦してみたいそうです。なんでも一人暮らしの男性の需要が高いようですね」


 話を聞きながら、ミレーネが「なるほどね」と小さく頷く。


 「洗濯屋に卸すとなると、どう扱います?」とエリンが問う。


 青司は一瞬だけ考え込み、視線をクライヴへ向けた。


 「現状、洗剤は街の外にも出していますし、販売先の取り決めまではしていません」とクライヴ。


 「そうか……。なら、その洗濯屋に卸してみるのはありですね。品質を見ながら様子を見ましょう。――ミレーネさん、マルコさんのところに増産のお願いをしておいてもらえますか」

 青司は短く考え、頷いた。


 「はい、すぐに伝えておきます。あの方、洗濯屋がうまくいったらきっと喜びますよ。最近、工房の従業員さんが増えて、作業着の洗濯物が増えているって言ってましたから」


 ミレーネが柔らかく笑うと、部屋の空気が少し和らいだ。


  「……そしてもうひとつ」

 少し困ったように、クライヴは手にしていた封筒をそっと机の上に置いた。

 「領主夫人と、その娘様からのご依頼です。シャンプー、コンディショナー、それから石鹸の購入希望書になります」


 室内の空気が一瞬だけ張り詰めた。

 ミレーネが目を丸くし、エリンが静かに書類をのぞき込む。


 「……領主家からの注文? すごいじゃないですか」

 「ありがたい話ですが、シャンプーとコンディショナーは――貴族の夫人や令嬢に街へ来てもらうために、リルトの宿と理容店に販売先を限定していましたよね」

 青司は小さく頷き、書類に目を通した。

 筆跡の整った依頼文には、具体的な香りの希望や数量が丁寧に記されている。


 「そうなんです。領主を通さず、直接の依頼なので……どうしたものかと」

 クライヴが少し言いづらそうに続けた。


 ――貴族層の関心が高まっている。

 なら、品質をさらに高める素材を、早めに共有しておいた方がいい。


 青司は短く息を吐き、荷箱に目を向けた。


 「ちょうど、シャンプーに関わる素材を持ってきたんです。染め薬の試作をお願いしているルダンさんのところへ持ち込む前に、まずは皆さんに見てもらおうと思って」

 青司は荷箱を机の上に置き、布を外した。

 中から現れたのは、淡い乳白色に光る小瓶と、乾いた草束。


 「――これ、前にも話した“ファリナ草”という薬草です。森で採れたもので、魔力を多く含む植物ですね。瓶に入っているのは、その抽出成分です」

 青司は丁寧に説明しながら、瓶を光にかざした。

 淡い乳白色がわずかに揺れ、瓶の中でほのかな光が踊る。


 ミレーネが身を乗り出して小瓶を覗き込み、目を輝かせた。

 「これ……ほんのり光ってますね」

 「ええ。魔力を蓄える性質があるんです。だから、魔力の少ない人が洗剤やシャンプーを作るとき、“魔力を込める補助”として働いてくれる」


 「つまり――品質を高める触媒になるってことですね」

 クライヴが目を細めた。


 「そう。洗剤なら泡立ちと香りの持続、染め薬なら発色の安定。もちろん、髪や肌にもやさしい」


 青司はひと息つき、小瓶を光に透かせた。

 淡い光が瓶の中を揺らめき、青司の指先をほのかに照らす。


 「……これを上手く使えば、魔力が少ない職人でも、いいものを作れる。街全体の仕事を支える素材になると思う」


 リオナがその横で、そっと微笑んだ。

 「ほんとに、セイジらしいね。誰かのために作るのが、いつの間にかみんなのためになってる」


 商談室の空気が、静かに温かく満ちていった。

 テーブルを囲むみんなの表情には、小さな期待と希望の色が浮かんでいる。


 ――が、その空気を引き締めるように、エリンの静かな声が響いた。


 「……だめですね。前にも話したと思いますが、ファリナ草の値段を知ってますか? 高いんですよ。一般の宿や理容室が使えば使うだけ赤字になります」

 エリンは冷静に書類を閉じ、淡々と続けた。

 「対策を取るなら、まずは供給を増やすことです。薬草農家に至急、ファリナ草の栽培をお願いしましょう。加えて、冒険者ギルドと狩人組合にも採取の依頼を。……私の方で今できる提案は、このくらいですね」


 クライヴが腕を組み、軽く頷く。

 「今の街の製品とセイジさんの品の“中間”に位置づけて、この街を訪れる貴族向けに売り出してみてはどうでしょう。もちろん、採算が合えばの話になりますけど。その際は、宿組合と理容組合、それに商業ギルドにも話を通しておく必要がありますね。説明と許可取りは、僕がやります」


 ミレーネは小さく頷き、机の上の小瓶を見下ろした。

 「ドナートさんたちに少量を渡して、試してもらいましょうか。どんな仕上がりになるか確かめないと、話が進まないですし」


 その横で、エリンが帳簿に目を落とす。

 「染め薬に使うのは、まだ早いですね。ルダンさんに試作をお願いしている段階ですから」


 室内の空気が引き締まり、次の動きが静かに決まっていった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ