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 リルトの街を離れ、森の小道を抜ける頃には、夏の日差しが木々の間に差し込み、黄金色の光が揺れていた。

小鳥の声と、風に擦れる葉の音だけが響く。街の喧騒が遠くに霞んでいくたびに、リオナの肩から少しずつ力が抜けていく。


「……やっぱり、森の空気の方が落ち着くわね」

リオナがそう言って、ゆっくりと深呼吸した。

街では耳や尻尾を立てることの多かった彼女の表情が、ようやく柔らかくほどけていく。


青司は微笑みながら頷く。

「確かに。……まあ、クライヴさん達みんな良い人なんだけどな。自分が作った物を売るだけじゃなくて、大量に作って街の人たちに広めるって、規模がでかくて緊張するよ。でも、あの三人が一緒なら、なんとかやっていける気がする」


「ふふ、そうね。良い人たちよね。ちゃんと話せてたってミレーネさん、褒めてたわよ? わたし、ちょっと誇らしかったわ」

リオナは小さく笑い、横目で青司を見上げる。

ミレーネからも、エリンからも“応援してるわ”と声をかけられたことを思い出す。

あのとき胸の奥に残っていた小さなもやもやは、いつの間にか消えていた。


「そう言われると照れるなぁ。……リオナも宣伝担当として褒められてたじゃないか」

「わたしたち、照れてる場合じゃないわね。森に帰って、しっかりリラックスしてこないと」

 青司が軽く笑う。

「そうだな。久しぶりに、のんびり風呂にでも入るか」

「そうね、セイジは商会長なんだからゆっくりしてね。セイジの好きな物を作るから」

 最後の言葉は小さくなっていたリオナの頬は、少しだけ赤く染まっている。

 その言葉に混じる、どこかくすぐったい空気。

夕陽に照らされたリオナの横顔を見ながら、青司はただ笑って頷いた――その意味に気づかないまま。


 やがて二人は森の家にたどり着く。

扉を開けると、出かける前のままの静けさが出迎えた。窓から差し込む夕暮れの光が床板を照らし、埃が金色に舞っていた。


 「ただいま、って感じだな」

 「うん……帰ってきたって、ちゃんと分かる匂いがするわ」

 リオナは耳をぴくりと動かし、鼻先をくすぐる木とハーブの香りに目を細めた。


 青司は荷を下ろしながら、軽く伸びをする。

 「明日は久しぶりに、のんびりしてもいいかな」

 「だめ。朝から洗濯と掃除。それに、ルダンさんに何かアドバイスするんでしょ?何か考えておかないと」

 「うわ、もう予定入ってる……ゆっくりしてって言ってなかった?」

 「ふふっ、森の暮らしがゆっくり……でしょ?私も一緒にやるんだから……ね」


軽口を交わしながら、リオナはかまどの火を起こす。

火の粉がぱちりと弾け、部屋の中に橙の光が広がっていく。

木の壁がほんのり温まり、森の夜が少しずつ遠のいていくようだった。


「今日の夕飯は、街で買ったパンと、森のベリーのジャム、角兎のソテーでいい?」


 火が少しずつ温まり、薪が心地よい音を立てる。

外では梟が鳴き、森の風が窓をやさしく揺らした。

リオナがかまどの前で身をかがめ、頬に赤い火の色が映る。

 青司はふと、火越しにリオナを見た。

 炎の明かりが頬を照らし、その表情に街の緊張も影もなかった。

 代わりに――静かな安堵と、どこか嬉しそうな笑みがあった。


 「なに? じっと見て」

 「いや……なんか、今日はすごくいい日だったなって思って」

 「……そうね。うまくいくと、胸の奥がぽっと温かくなるの。……魔法でもないのにね」


 そう言ってリオナは笑い、尻尾をゆるやかに揺らした。

 その笑顔を見ながら、青司もまた、静かに微笑み返す。


 火の明かりの中で、森の夜がゆっくりと満ちていく。

 



 火が落ち着き、鍋からは角兎のソテーの香ばしい匂いが立ちのぼる。

 焼きリンゴの甘い香りが部屋に広がり、外では虫の声が静かに続いていた。

 二人はテーブルを挟み、温かな食事を前に箸を進める。


「……やっぱり、家のごはんが一番ね」

リオナがほっとしたように呟き、焼きリンゴを割る。

とろりと溶けた果肉が湯気を立て、甘い香りが広がった。

その香りを吸い込みながら、リオナはふと青司の方に目をやった。

「……ね、セイジ」

その声は、なんとなく嬉しそうで――自分でも理由が分からないまま、頬が少しだけ熱くなった。


 青司が微笑む。

 「街の食事も悪くないけど、やっぱりこっちの方が落ち着くな」


 リオナはその言葉に小さく頷き、少し間をおいて言った。

焼きリンゴの湯気がゆらゆらと上がるのを見つめながら、ふと表情をやわらげる。

「……そういえばね。お姉ちゃんと会ってきたの」


 青司が顔を上げる。

 「マリサさんと? 変わらず元気だった?」


 「うん。元気……なんだけど、ちょっと体調が悪いみたい」

 リオナは焼きリンゴの切れ端を見つめ、少しだけ息をついた。

 「……赤ちゃんができたんだって」


 青司の目がわずかに見開かれる。

 「そうか……それは、おめでたいな」


 「うん。わたしも嬉しい。でも、少し無理してるみたいでね。

 ベルドさんに仕事を減らしてもらってるみたい。セイジの作ったお茶、疲れがとれるじゃない?飲んでみたいっていってたんだけど、残ってる分を持っていってもいい?」


 「ぜんぜんいいよ。むしろ、飲んでもらえるなら嬉しいよ」

 青司は静かに頷いた。

 リオナは火の明かりを見つめたまま、ふっと笑う。


 「お姉ちゃん、きっと平気よね。……強い人だもの」

 「そうだな。リオナのお姉さんだし」


 リオナが少しだけ頬を膨らませる。

 「もう……そういう言い方、ずるい」

 その拗ねた声が、どこか安心した響きを帯びていた。


  外では梟が一声鳴き、火の粉が小さく弾ける。

 穏やかな夜の中に、家族の温もりが静かに灯っていた。


 青司は火の名残を見つめながら、ふと考える。

 ――マリサさんに、何かできることはないだろうか。

 薬草の知識も、茶葉の調合も、ほんの少しは役に立つかもしれない。

 そんな思いが、静かに胸の奥に沈んでいく。



*******



 翌朝。森の家の窓から差し込む光が、木の床を金色に染めていた。

 青司はすでに作業台の前に座り、茶葉の入った小瓶をいくつも並べている。

 乾燥させておいた薬草を、指先でそっと砕きながら、香りを確かめた。


 「朝に飲むなら、金風の穂と森果の殻を多めにして……

 夜は白花セリ草と月灯苔を少し。……香りづけに、ほんのひとつまみのレモンミントを足そう」


 独り言のように呟き、小瓶を傾けて少しずつ混ぜ合わせる。

 お湯に溶けたときの香りの立ち方まで思い浮かべながら、

 青司は静かにマリサの顔を思い描いた。


 「マリサさん、疲れてるって言ってたもんな……少しでも楽になれば」


 そのとき、背後からあくび混じりの声がした。

 「……セイジ、もう起きてたの?」

 振り向くと、寝ぼけ眼のリオナが毛布を肩にかけたまま立っていた。


 「うん、ちょっと試したい配合があってさ」

 青司が笑うと、リオナは近づいて小瓶を覗き込む。

 「……お姉ちゃんのため、ね?」

 その声は柔らかく、どこか誇らしげだった。


 「そう。飲みやすくて、体があったまるやつ。

 こっちは穀物の優しい甘みがあって、栄養補給と母体の強化に効能があるんだ。

 で、こっちはビタミン補給と疲労回復の効果が高い。

 どっちも、前に作ったのより少しだけ香りをやわらげてみたんだ」


 「……ふふ。セイジらしいわ」


 リオナは微笑みながら、そっと火を起こし始めた。

 お湯が沸くまでの間、二人の間には心地よい沈黙が流れる。

 薪がぱちりと音を立て、朝の光が小瓶の中の茶葉を透かしてきらめいた。


 青司は茶葉の瓶を傾けながら、香りの調子を確かめている。

 その横顔は、どこか穏やかで――優しい集中が宿っていた。


 リオナは火ばさみを手にしたまま、ふとその横顔を見つめる。

 「……セイジって、誰かのために作るときが一番いい顔してるね」


 青司が少し驚いたように顔を上げる。

 「え? そうかな」


 「そうよ。見てて分かるもの」

 リオナは小さく笑い、火の先に視線を戻した。

 「……お姉ちゃん、きっと喜ぶと思う」


 「だったらいいな」

 青司も微笑み返し、再び茶葉を混ぜ合わせる。

 朝の光が二人の間をやわらかく包み、森の家には静かな温もりが満ちていた。


 「……飲んでみて」

 青司が差し出した湯気の立つ木のカップ。

 リオナは両手で包み込み、そっと口をつけた。


 「……あったかい。どっちも、優しい味と香りで身体が温まっていいわね」


 「マリサさんにも、そう感じてもらえたらいいな」

 リオナはその言葉に頷き、カップを抱えたまま少しだけ目を細めた。

 湯気とともに、淡い穀草の甘みとミントの爽やかさが、朝の空気にゆっくりと溶けていく。

 

「うん……きっと、喜ぶと思う」

 そして、ふと窓の外に目をやって、言葉を漏らした。

 「……ねぇ、セイジ。洗濯と掃除、どうするの?」

 「……あ」

 青司が固まる。


 リオナが吹き出すように笑った。

 「もう、朝からずっと真剣なんだもん。仕方ないわね、今日は許してあげる」


 「助かる……。今度はちゃんと一緒にやるよ」


 「ふふっ、約束よ。けど、水汲みだけはしとかないとだから、一緒に湖まで行きましょ。

 その後、私は狩りに出るから、ルダンさんのことも考えてあげてね」


 「うん、わかった。……たまには外の空気も吸わないとな」


 外では、森の鳥たちが一斉にさえずり始めていた。

 小さな家の中に漂うのは、薬草の香りと、穏やかな朝の気配。

 二人の新しい一日が、ゆっくりと始まっていく。



 森の小道を抜けると、澄んだ空気の中に小さな湖が広がっていた。

 朝陽を受けて水面がきらめき、風に揺れる葦がさらさらと音を立てる。

 青司は桶を置き、しゃがみ込んで冷たい水をすくった。掌を伝う感触が気持ちよく、思わず息をつく。


 「今日もいい天気ね」

 リオナが湖面を見ながら言う。頬にかかる髪が光を受けて揺れていた。


 「狩りにはちょうどいいな。獲物もよく出てきそうだ」

 「ふふ、帰ったら食事を作るから楽しみにしてて。何か食べたいものある?」

 「んー、そうだな……またあのスープが飲みたい。森菜と角兎のやつ」

 「了解、セイジは家で薬とか作るんでしょ?」

 「うん。新しくお茶の調合を考えても良いかなって。あとは妊婦さん用の薬も作れたらいいかな……マリサさんの分も少し多めに作っておこうと思ってる」


 リオナがその言葉に小さく頷く。

 「お姉ちゃん、きっと喜ぶわ。セイジの作るものは、どれも効果が高いから」

 「効果が高いっていうか……単に魔力の加減が下手なだけかも」

 「もう。そういうところが優しいのよ」


 リオナは小さく笑ってから、腰の弓を確かめた。

 森を渡る風が、二人の間をすり抜けていく。


 「気をつけて、リオナ」

 「うん。セイジも――あんまり散らかさないようにしてよ?」

 そう言い残し、リオナは軽やかに森の中へと消えていった。


 青司はその背を見送りながら、静かに息を吐く。

手桶に満たされた冷たい水が、朝の光を受けてきらりと揺れた。


――さて、やるか。


森の家へ戻る道すがら、青司の頭にはいくつもの考えが巡っていた。

マリサのための茶、ルダンへの助言、そして商会のこれから。

それらひとつひとつが、自分の手で形にできる気がして、胸の奥がほんのりと温かくなる。


鳥の声と、足元で揺れる草の音だけが響く森の小径。

今日もまた、新しい一日が静かに始まっていた。




**************




 リオナを見送ったあと、青司は家の扉を閉め、ゆっくりと息を吐いた。

 外は小鳥のさえずりと木々のざわめき。森の朝はしっとりとした冷気に包まれていて、吸い込むたびに胸の奥まで澄み渡るようだった。


 「さて……マリサさんの分、もう少し工夫してみようか」

 呟きながら作業台に向かう。瓶や袋に詰められた薬草をひとつずつ並べ、光に透かして色と質を確かめた。

 白花セリ草の柔らかな葉、森果の殻を砕いた粉末、金風の穂から採った繊維のような花弁――どれも青司が森で採取し、乾かしてきたものだ。


 薬包紙を開くと、ふわりと甘い草いきれが立ちのぼった。

  その香りを吸い込みながら、青司は小さく頷く。

 「白花セリ草は炎症を抑える。金風の穂は体温をやや上げて血行を促す。森果の殻は……疲労回復と栄養補給か」

 口の中で成分を繰り返しながら、頭の中に組み合わせの図を描いていく。


 マリサの姿が思い浮かぶ。

 穏やかで、いつも気丈で――それでいて、今は小さな命を宿している。

 「刺激が強すぎてもいけないし、香りも落ち着く方がいいな……」

 指先で薬草を砕き、木の匙でゆっくりと混ぜていく。


 そこで、ふと視線が棚の奥に向いた。

 小瓶の中で、赤茶の粉末が朝の光を受けてきらりと光る。

 「……赤苔石。そういえば、これも使えるか」

 森の岩陰に生える鉄分を含む苔。焙って乾かせば、金属臭が抜けてほんのり甘くなる――マリサの体にはちょうどいいはずだ。


 匙の先で粉をひとつまみ、静かに落とす。

 湯の色がわずかに深まり、淡い赤褐の影を帯びた。

 「これなら鉄分も補えるし、香りも邪魔しない」

 湯気とともに立ちのぼる香りは、森の土と陽だまりの匂いが混じったような、柔らかく温かな気配を帯びていた。


 青司はその香りを胸いっぱいに吸い込みながら、小さく息を吐いた。

 ――これなら、きっとマリサさんの身体にもやさしい。

 薬ではなく、心をほぐすお茶。そんなものがあってもいい。


 次第に、柔らかな香りが部屋に広がりはじめた。

 金風の穂の穏やかな甘みの奥に、白花セリ草の清涼感が溶け込み、どこか懐かしい温もりを感じさせる香り。

 青司は湯を沸かし、小さじ一杯ほどを木のカップに落とした。

 淡い琥珀色の液が広がり、湯気の中に金の光がゆらゆらと揺れる。


 ――その香りを吸い込んだ瞬間、青司の手が止まった。


 「この匂い……どこかで……」

 思い返す。魔力回復薬の調合で使う“月灯苔”の香りに、どこか似ている。

 月灯苔は魔力の消耗を癒やす素材だが、その効果の根本は「体内の巡りを整える」ことにある。

 つまり――魔力の流れと、血や気の流れは似た性質を持っているのかもしれない。


 「なるほどな……だから、魔力回復薬を飲むと疲れが取れる人もいるのか」

 思わず呟いた瞬間、自分の中でひとつの線が繋がった気がした。

 体と魔力、その境界にある“癒し”の共通点。

 マリサのために作っていた薬が、いつの間にか自分の探究心を刺激していた。


 青司は、棚の隅に並んだ瓶を見やる。

 そのひとつ――“ファリナ草”の瓶を手に取った。

 魔力回復薬の副素材として使う、淡い光を宿す苔。

 乾燥させた欠片を指で軽く砕き、水に落とすと、銀の泡がぱちりと弾け、細かな光が水面に散った。

 光が揺れるたびに、部屋の空気がほんの少しあたたかく感じられる。


 「……これ、もしかして魔力そのものの含有量が多いのか?」

 水を透かす光は弱いながらも、確かに周囲の気配をやわらげている。

 薬効というより、“魔力を込める補助”のような働き――そう思えた。


 「そうか……魔力の少ない人でも、これを混ぜれば“魔力を込める”補助になるかもしれない」

 言葉が口をつくと同時に、胸の奥で小さな興奮が灯る。

 洗剤や染め薬、シャンプーづくり――いずれも魔力の量が関係するものだ。

 魔力の少ない職人でも、魔力触媒として“月灯苔”を使えば、仕上がりがぐっと安定するかもしれない。


 青司は小さく笑みをこぼした。

 「ルダンさんに試してもらおうか……彼なら、きっと面白がってくれる」

 染料に光の粒が混ざれば、布に淡い輝きが宿るだろう。

 「マルコさんの洗剤にも応用できそうだな。……魔力を込める補助ができるなら、清掃員の仕事が楽になるかもしれない」

 青司は小さく息を吐き、瓶の中で揺れる銀の泡を見つめた。

 光はゆっくり沈みながらも、どこか優しく部屋を照らしている。


 そして、ふと頭に浮かんだのはドナートの顔だった。

 「シャンプーにも、コンディショナーにも……使えるんじゃないかな。髪の艶も、なめらかさも上げられるはずだ」

 指先に残る苔の香りを嗅ぎながら、青司の口元に自然と笑みが浮かぶ。

 “人の手仕事を、少しでも助けるものを作りたい”――その思いが、胸の奥で静かに形になっていく。


 朝陽が窓を通して射し込み、小瓶のひとつひとつに淡い光が宿る。

 それはまるで、彼の新しい発想を祝福するかのように、柔らかく輝いていた。


 小瓶を並べながら、青司は小さく息をついた。

 マリサを思って始めた調合が、気づけば商会のみんなへと繋がっていく。

 街と森、薬と日用品、人と人――それぞれの“癒し”が、ひとつの線で結ばれていくような気がした。


 窓の外では、朝露をまとった風が葉を揺らしている。

 鳥の声が遠くで響き、陽光が作業台の上の瓶をきらりと照らした。


 青司は湯気の立つカップを手に取り、琥珀色の液を一口すする。

 ほのかな甘みと清らかな香りが喉を通り抜け、心の奥まで穏やかに染み渡る。

 「……うん、これならマリサさんも、きっと気に入ってくれる」

 その呟きは、静かな森の朝に溶けていった。


 窓の外では、新しい風が木々を渡り、葉のざわめきが小さく応える。

 その胸の奥では、まだ名もない新しい調合の構想が――

 まるで芽吹く若葉のように、静かに息づいていた。

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