43
リルトの街を離れ、森の小道を抜ける頃には、夏の日差しが木々の間に差し込み、黄金色の光が揺れていた。
小鳥の声と、風に擦れる葉の音だけが響く。街の喧騒が遠くに霞んでいくたびに、リオナの肩から少しずつ力が抜けていく。
「……やっぱり、森の空気の方が落ち着くわね」
リオナがそう言って、ゆっくりと深呼吸した。
街では耳や尻尾を立てることの多かった彼女の表情が、ようやく柔らかくほどけていく。
青司は微笑みながら頷く。
「確かに。……まあ、クライヴさん達みんな良い人なんだけどな。自分が作った物を売るだけじゃなくて、大量に作って街の人たちに広めるって、規模がでかくて緊張するよ。でも、あの三人が一緒なら、なんとかやっていける気がする」
「ふふ、そうね。良い人たちよね。ちゃんと話せてたってミレーネさん、褒めてたわよ? わたし、ちょっと誇らしかったわ」
リオナは小さく笑い、横目で青司を見上げる。
ミレーネからも、エリンからも“応援してるわ”と声をかけられたことを思い出す。
あのとき胸の奥に残っていた小さなもやもやは、いつの間にか消えていた。
「そう言われると照れるなぁ。……リオナも宣伝担当として褒められてたじゃないか」
「わたしたち、照れてる場合じゃないわね。森に帰って、しっかりリラックスしてこないと」
青司が軽く笑う。
「そうだな。久しぶりに、のんびり風呂にでも入るか」
「そうね、セイジは商会長なんだからゆっくりしてね。セイジの好きな物を作るから」
最後の言葉は小さくなっていたリオナの頬は、少しだけ赤く染まっている。
その言葉に混じる、どこかくすぐったい空気。
夕陽に照らされたリオナの横顔を見ながら、青司はただ笑って頷いた――その意味に気づかないまま。
やがて二人は森の家にたどり着く。
扉を開けると、出かける前のままの静けさが出迎えた。窓から差し込む夕暮れの光が床板を照らし、埃が金色に舞っていた。
「ただいま、って感じだな」
「うん……帰ってきたって、ちゃんと分かる匂いがするわ」
リオナは耳をぴくりと動かし、鼻先をくすぐる木とハーブの香りに目を細めた。
青司は荷を下ろしながら、軽く伸びをする。
「明日は久しぶりに、のんびりしてもいいかな」
「だめ。朝から洗濯と掃除。それに、ルダンさんに何かアドバイスするんでしょ?何か考えておかないと」
「うわ、もう予定入ってる……ゆっくりしてって言ってなかった?」
「ふふっ、森の暮らしがゆっくり……でしょ?私も一緒にやるんだから……ね」
軽口を交わしながら、リオナはかまどの火を起こす。
火の粉がぱちりと弾け、部屋の中に橙の光が広がっていく。
木の壁がほんのり温まり、森の夜が少しずつ遠のいていくようだった。
「今日の夕飯は、街で買ったパンと、森のベリーのジャム、角兎のソテーでいい?」
火が少しずつ温まり、薪が心地よい音を立てる。
外では梟が鳴き、森の風が窓をやさしく揺らした。
リオナがかまどの前で身をかがめ、頬に赤い火の色が映る。
青司はふと、火越しにリオナを見た。
炎の明かりが頬を照らし、その表情に街の緊張も影もなかった。
代わりに――静かな安堵と、どこか嬉しそうな笑みがあった。
「なに? じっと見て」
「いや……なんか、今日はすごくいい日だったなって思って」
「……そうね。うまくいくと、胸の奥がぽっと温かくなるの。……魔法でもないのにね」
そう言ってリオナは笑い、尻尾をゆるやかに揺らした。
その笑顔を見ながら、青司もまた、静かに微笑み返す。
火の明かりの中で、森の夜がゆっくりと満ちていく。
火が落ち着き、鍋からは角兎のソテーの香ばしい匂いが立ちのぼる。
焼きリンゴの甘い香りが部屋に広がり、外では虫の声が静かに続いていた。
二人はテーブルを挟み、温かな食事を前に箸を進める。
「……やっぱり、家のごはんが一番ね」
リオナがほっとしたように呟き、焼きリンゴを割る。
とろりと溶けた果肉が湯気を立て、甘い香りが広がった。
その香りを吸い込みながら、リオナはふと青司の方に目をやった。
「……ね、セイジ」
その声は、なんとなく嬉しそうで――自分でも理由が分からないまま、頬が少しだけ熱くなった。
青司が微笑む。
「街の食事も悪くないけど、やっぱりこっちの方が落ち着くな」
リオナはその言葉に小さく頷き、少し間をおいて言った。
焼きリンゴの湯気がゆらゆらと上がるのを見つめながら、ふと表情をやわらげる。
「……そういえばね。お姉ちゃんと会ってきたの」
青司が顔を上げる。
「マリサさんと? 変わらず元気だった?」
「うん。元気……なんだけど、ちょっと体調が悪いみたい」
リオナは焼きリンゴの切れ端を見つめ、少しだけ息をついた。
「……赤ちゃんができたんだって」
青司の目がわずかに見開かれる。
「そうか……それは、おめでたいな」
「うん。わたしも嬉しい。でも、少し無理してるみたいでね。
ベルドさんに仕事を減らしてもらってるみたい。セイジの作ったお茶、疲れがとれるじゃない?飲んでみたいっていってたんだけど、残ってる分を持っていってもいい?」
「ぜんぜんいいよ。むしろ、飲んでもらえるなら嬉しいよ」
青司は静かに頷いた。
リオナは火の明かりを見つめたまま、ふっと笑う。
「お姉ちゃん、きっと平気よね。……強い人だもの」
「そうだな。リオナのお姉さんだし」
リオナが少しだけ頬を膨らませる。
「もう……そういう言い方、ずるい」
その拗ねた声が、どこか安心した響きを帯びていた。
外では梟が一声鳴き、火の粉が小さく弾ける。
穏やかな夜の中に、家族の温もりが静かに灯っていた。
青司は火の名残を見つめながら、ふと考える。
――マリサさんに、何かできることはないだろうか。
薬草の知識も、茶葉の調合も、ほんの少しは役に立つかもしれない。
そんな思いが、静かに胸の奥に沈んでいく。
*******
翌朝。森の家の窓から差し込む光が、木の床を金色に染めていた。
青司はすでに作業台の前に座り、茶葉の入った小瓶をいくつも並べている。
乾燥させておいた薬草を、指先でそっと砕きながら、香りを確かめた。
「朝に飲むなら、金風の穂と森果の殻を多めにして……
夜は白花セリ草と月灯苔を少し。……香りづけに、ほんのひとつまみのレモンミントを足そう」
独り言のように呟き、小瓶を傾けて少しずつ混ぜ合わせる。
お湯に溶けたときの香りの立ち方まで思い浮かべながら、
青司は静かにマリサの顔を思い描いた。
「マリサさん、疲れてるって言ってたもんな……少しでも楽になれば」
そのとき、背後からあくび混じりの声がした。
「……セイジ、もう起きてたの?」
振り向くと、寝ぼけ眼のリオナが毛布を肩にかけたまま立っていた。
「うん、ちょっと試したい配合があってさ」
青司が笑うと、リオナは近づいて小瓶を覗き込む。
「……お姉ちゃんのため、ね?」
その声は柔らかく、どこか誇らしげだった。
「そう。飲みやすくて、体があったまるやつ。
こっちは穀物の優しい甘みがあって、栄養補給と母体の強化に効能があるんだ。
で、こっちはビタミン補給と疲労回復の効果が高い。
どっちも、前に作ったのより少しだけ香りをやわらげてみたんだ」
「……ふふ。セイジらしいわ」
リオナは微笑みながら、そっと火を起こし始めた。
お湯が沸くまでの間、二人の間には心地よい沈黙が流れる。
薪がぱちりと音を立て、朝の光が小瓶の中の茶葉を透かしてきらめいた。
青司は茶葉の瓶を傾けながら、香りの調子を確かめている。
その横顔は、どこか穏やかで――優しい集中が宿っていた。
リオナは火ばさみを手にしたまま、ふとその横顔を見つめる。
「……セイジって、誰かのために作るときが一番いい顔してるね」
青司が少し驚いたように顔を上げる。
「え? そうかな」
「そうよ。見てて分かるもの」
リオナは小さく笑い、火の先に視線を戻した。
「……お姉ちゃん、きっと喜ぶと思う」
「だったらいいな」
青司も微笑み返し、再び茶葉を混ぜ合わせる。
朝の光が二人の間をやわらかく包み、森の家には静かな温もりが満ちていた。
「……飲んでみて」
青司が差し出した湯気の立つ木のカップ。
リオナは両手で包み込み、そっと口をつけた。
「……あったかい。どっちも、優しい味と香りで身体が温まっていいわね」
「マリサさんにも、そう感じてもらえたらいいな」
リオナはその言葉に頷き、カップを抱えたまま少しだけ目を細めた。
湯気とともに、淡い穀草の甘みとミントの爽やかさが、朝の空気にゆっくりと溶けていく。
「うん……きっと、喜ぶと思う」
そして、ふと窓の外に目をやって、言葉を漏らした。
「……ねぇ、セイジ。洗濯と掃除、どうするの?」
「……あ」
青司が固まる。
リオナが吹き出すように笑った。
「もう、朝からずっと真剣なんだもん。仕方ないわね、今日は許してあげる」
「助かる……。今度はちゃんと一緒にやるよ」
「ふふっ、約束よ。けど、水汲みだけはしとかないとだから、一緒に湖まで行きましょ。
その後、私は狩りに出るから、ルダンさんのことも考えてあげてね」
「うん、わかった。……たまには外の空気も吸わないとな」
外では、森の鳥たちが一斉にさえずり始めていた。
小さな家の中に漂うのは、薬草の香りと、穏やかな朝の気配。
二人の新しい一日が、ゆっくりと始まっていく。
森の小道を抜けると、澄んだ空気の中に小さな湖が広がっていた。
朝陽を受けて水面がきらめき、風に揺れる葦がさらさらと音を立てる。
青司は桶を置き、しゃがみ込んで冷たい水をすくった。掌を伝う感触が気持ちよく、思わず息をつく。
「今日もいい天気ね」
リオナが湖面を見ながら言う。頬にかかる髪が光を受けて揺れていた。
「狩りにはちょうどいいな。獲物もよく出てきそうだ」
「ふふ、帰ったら食事を作るから楽しみにしてて。何か食べたいものある?」
「んー、そうだな……またあのスープが飲みたい。森菜と角兎のやつ」
「了解、セイジは家で薬とか作るんでしょ?」
「うん。新しくお茶の調合を考えても良いかなって。あとは妊婦さん用の薬も作れたらいいかな……マリサさんの分も少し多めに作っておこうと思ってる」
リオナがその言葉に小さく頷く。
「お姉ちゃん、きっと喜ぶわ。セイジの作るものは、どれも効果が高いから」
「効果が高いっていうか……単に魔力の加減が下手なだけかも」
「もう。そういうところが優しいのよ」
リオナは小さく笑ってから、腰の弓を確かめた。
森を渡る風が、二人の間をすり抜けていく。
「気をつけて、リオナ」
「うん。セイジも――あんまり散らかさないようにしてよ?」
そう言い残し、リオナは軽やかに森の中へと消えていった。
青司はその背を見送りながら、静かに息を吐く。
手桶に満たされた冷たい水が、朝の光を受けてきらりと揺れた。
――さて、やるか。
森の家へ戻る道すがら、青司の頭にはいくつもの考えが巡っていた。
マリサのための茶、ルダンへの助言、そして商会のこれから。
それらひとつひとつが、自分の手で形にできる気がして、胸の奥がほんのりと温かくなる。
鳥の声と、足元で揺れる草の音だけが響く森の小径。
今日もまた、新しい一日が静かに始まっていた。
**************
リオナを見送ったあと、青司は家の扉を閉め、ゆっくりと息を吐いた。
外は小鳥のさえずりと木々のざわめき。森の朝はしっとりとした冷気に包まれていて、吸い込むたびに胸の奥まで澄み渡るようだった。
「さて……マリサさんの分、もう少し工夫してみようか」
呟きながら作業台に向かう。瓶や袋に詰められた薬草をひとつずつ並べ、光に透かして色と質を確かめた。
白花セリ草の柔らかな葉、森果の殻を砕いた粉末、金風の穂から採った繊維のような花弁――どれも青司が森で採取し、乾かしてきたものだ。
薬包紙を開くと、ふわりと甘い草いきれが立ちのぼった。
その香りを吸い込みながら、青司は小さく頷く。
「白花セリ草は炎症を抑える。金風の穂は体温をやや上げて血行を促す。森果の殻は……疲労回復と栄養補給か」
口の中で成分を繰り返しながら、頭の中に組み合わせの図を描いていく。
マリサの姿が思い浮かぶ。
穏やかで、いつも気丈で――それでいて、今は小さな命を宿している。
「刺激が強すぎてもいけないし、香りも落ち着く方がいいな……」
指先で薬草を砕き、木の匙でゆっくりと混ぜていく。
そこで、ふと視線が棚の奥に向いた。
小瓶の中で、赤茶の粉末が朝の光を受けてきらりと光る。
「……赤苔石。そういえば、これも使えるか」
森の岩陰に生える鉄分を含む苔。焙って乾かせば、金属臭が抜けてほんのり甘くなる――マリサの体にはちょうどいいはずだ。
匙の先で粉をひとつまみ、静かに落とす。
湯の色がわずかに深まり、淡い赤褐の影を帯びた。
「これなら鉄分も補えるし、香りも邪魔しない」
湯気とともに立ちのぼる香りは、森の土と陽だまりの匂いが混じったような、柔らかく温かな気配を帯びていた。
青司はその香りを胸いっぱいに吸い込みながら、小さく息を吐いた。
――これなら、きっとマリサさんの身体にもやさしい。
薬ではなく、心をほぐすお茶。そんなものがあってもいい。
次第に、柔らかな香りが部屋に広がりはじめた。
金風の穂の穏やかな甘みの奥に、白花セリ草の清涼感が溶け込み、どこか懐かしい温もりを感じさせる香り。
青司は湯を沸かし、小さじ一杯ほどを木のカップに落とした。
淡い琥珀色の液が広がり、湯気の中に金の光がゆらゆらと揺れる。
――その香りを吸い込んだ瞬間、青司の手が止まった。
「この匂い……どこかで……」
思い返す。魔力回復薬の調合で使う“月灯苔”の香りに、どこか似ている。
月灯苔は魔力の消耗を癒やす素材だが、その効果の根本は「体内の巡りを整える」ことにある。
つまり――魔力の流れと、血や気の流れは似た性質を持っているのかもしれない。
「なるほどな……だから、魔力回復薬を飲むと疲れが取れる人もいるのか」
思わず呟いた瞬間、自分の中でひとつの線が繋がった気がした。
体と魔力、その境界にある“癒し”の共通点。
マリサのために作っていた薬が、いつの間にか自分の探究心を刺激していた。
青司は、棚の隅に並んだ瓶を見やる。
そのひとつ――“ファリナ草”の瓶を手に取った。
魔力回復薬の副素材として使う、淡い光を宿す苔。
乾燥させた欠片を指で軽く砕き、水に落とすと、銀の泡がぱちりと弾け、細かな光が水面に散った。
光が揺れるたびに、部屋の空気がほんの少しあたたかく感じられる。
「……これ、もしかして魔力そのものの含有量が多いのか?」
水を透かす光は弱いながらも、確かに周囲の気配をやわらげている。
薬効というより、“魔力を込める補助”のような働き――そう思えた。
「そうか……魔力の少ない人でも、これを混ぜれば“魔力を込める”補助になるかもしれない」
言葉が口をつくと同時に、胸の奥で小さな興奮が灯る。
洗剤や染め薬、シャンプーづくり――いずれも魔力の量が関係するものだ。
魔力の少ない職人でも、魔力触媒として“月灯苔”を使えば、仕上がりがぐっと安定するかもしれない。
青司は小さく笑みをこぼした。
「ルダンさんに試してもらおうか……彼なら、きっと面白がってくれる」
染料に光の粒が混ざれば、布に淡い輝きが宿るだろう。
「マルコさんの洗剤にも応用できそうだな。……魔力を込める補助ができるなら、清掃員の仕事が楽になるかもしれない」
青司は小さく息を吐き、瓶の中で揺れる銀の泡を見つめた。
光はゆっくり沈みながらも、どこか優しく部屋を照らしている。
そして、ふと頭に浮かんだのはドナートの顔だった。
「シャンプーにも、コンディショナーにも……使えるんじゃないかな。髪の艶も、なめらかさも上げられるはずだ」
指先に残る苔の香りを嗅ぎながら、青司の口元に自然と笑みが浮かぶ。
“人の手仕事を、少しでも助けるものを作りたい”――その思いが、胸の奥で静かに形になっていく。
朝陽が窓を通して射し込み、小瓶のひとつひとつに淡い光が宿る。
それはまるで、彼の新しい発想を祝福するかのように、柔らかく輝いていた。
小瓶を並べながら、青司は小さく息をついた。
マリサを思って始めた調合が、気づけば商会のみんなへと繋がっていく。
街と森、薬と日用品、人と人――それぞれの“癒し”が、ひとつの線で結ばれていくような気がした。
窓の外では、朝露をまとった風が葉を揺らしている。
鳥の声が遠くで響き、陽光が作業台の上の瓶をきらりと照らした。
青司は湯気の立つカップを手に取り、琥珀色の液を一口すする。
ほのかな甘みと清らかな香りが喉を通り抜け、心の奥まで穏やかに染み渡る。
「……うん、これならマリサさんも、きっと気に入ってくれる」
その呟きは、静かな森の朝に溶けていった。
窓の外では、新しい風が木々を渡り、葉のざわめきが小さく応える。
その胸の奥では、まだ名もない新しい調合の構想が――
まるで芽吹く若葉のように、静かに息づいていた。




