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――そしてその頃。
街の南通り、染布屋〈ルダン工房〉の前に、青司とミレーネの姿があった。
南通りはリルトの中でも職人たちの工房が多く、道沿いには染料の香りや、
熱した金属の匂いが入り混じっている。
その中でも〈ルダン工房〉の前だけは、どこか澄んだ空気が漂っていた。
店先には乾かし中の布が何枚も吊るされ、夏の光を受けて淡い青や紅にきらめいている。
「……綺麗ですね。まるで光そのものを染めてるみたいだ」
青司がつぶやくと、隣のミレーネが微笑む。
「マルコットさんが“ 色の扱いが天才的”って言うのも分かる気がしますね。
セイジさん、紹介状は持ってます?」
「ええ、ここに」
青司は胸ポケットから小さな封筒を取り出した。マルコットの印が押されている。
工房の扉を開けると、ふわりと草木染めの甘い香りが広がった。
中では背の高い男が大きな木桶を覗き込み、ゆっくりと染料をかき混ぜていた。
染まっていく布の色は、深い湖のような群青。
「すみません、ルダンさんはいらっしゃいますか?」
声をかけると、男が振り返った。
栗色の髪を後ろで束ね、薄手の布エプロンを身につけている。
指先は染料で染まり、しかしその瞳は驚くほど澄んでいた。
「俺がルダンだ。――おや、その印……マルコットの紹介状か」
青司が封筒を差し出すと、ルダンは受け取り、軽く目を通す。
そして興味深そうに視線を上げた。
「“髪を染める薬”の相談、って書いてあるな。なるほど……面白い」
唇の端にかすかな笑みが浮かぶ。
「布でも難しいのに、人の髪となると、なおさらだ。――入って話そう」
ルダンは作業台の上を片づけ、二人を奥へと案内した。
光を透かす染布の間を抜けて進むと、奥の棚には乾燥中の草や花が整然と並んでいる。
その規律のある並びに、青司は思わず感心して呟いた。
「整理が行き届いてる……いい職人さんだ」
ミレーネが小さく笑う。
「セイジさん、相手も同じことを思ってくれるといいですね」
ルダンは椅子をすすめ、静かに尋ねた。
「それで――どんな薬を作りたい?」
ルダンが腕を組み、青司に視線を向けた。
「草木の色素をもとにした髪染め用の薬です」
青司は腰のポーチから小瓶を取り出し、机の上にそっと置いた。
「こちらが試作品。ミレットさんの理容室でお客さんに使ってもらっているんですが、
仕上がりがよく、評判も上々です。今後、色味の幅を増やしたいと思っていて……」
ルダンは小瓶を手に取り、透かして見る。
瓶の中には、わずかに金の光を帯びた薄い茶色の液体。
蓋を開けると、ふわりと花と樹皮の混じるような香りが立ちのぼった。
「……へぇ。悪くない匂いだ。刺激も少なそうだな」
指先にほんの一滴を垂らし、試すように布切れに触れさせる。
染まりは緩やかだが、色むらが少ない。
「こいつは……藍果だけじゃないな。他に何を使ってる?」
「おっしゃる通り森で採れた藍果の果実と紅草、最後にルマ草という植物です。乾燥させて粉にして、
植物油で抽出しています。髪の傷みを防ぐために、灰汁の量も抑えて、その分魔力をたっぷり込めてあります」
ルダンの表情が変わった。
驚きと、ほんの少しの感嘆が混じる。
「なるほどな……。色の定着と、髪の質感――どっちも捨てない選択をしたってことか。
理屈じゃなく、“身につける人の生活”を考えた――魔力任せの、力づくの染め方なんだな」
青司は静かに頷いた。
「はい。魔力で定着させた香りや艶、感触のやさしさが喜ばれているようで」
ルダンは手元の染料瓶を軽く揺らし、沈殿の具合を確かめる。
「……こういう染まり方、悪くない」
少しの間を置いて、低く唸るように続けた。
「だが量産には向かねぇな」
「ええ、魔力に頼りすぎているので、量産ではもう少し抑えた方がいいかと思ってるんです」
青司は即座に頷いた。
その言葉に、ルダンの眉がわずかに動いた。
「抑える、ねぇ……。あんた、面白いこと言うじゃねぇか」
瓶を指先で弾きながら、苦笑まじりに続ける。
「魔力を抑えて同じ艶を出せるなら、それはもう“別の技術”だ。……手を抜くのとは違う」
「もちろんです。だから、職人の方の知恵と技を借りたくて」
「ふん……話の筋は悪くねぇな。あんた、思ったより職人寄りの考え方してるじゃねぇか。で、どれくらいの量を考えてる?」
ルダンの問いに、ミレーネが考え込むように腕を組んだ。
「そうですね……今のところ、数軒が試験導入すると考えてます。最初は試しの三十瓶くらい。
でも、評判が立てば半月もしないうちに一気に広がると思います。髪の色に悩む人だけじゃなくて、“新しいもの”に目ざとい人たちはすぐ動きますから」
「ふむ、三十瓶……思ったより堅実な数だな」
「ええ。まずは“使ってもらう”のが大事です。もし“染めたあとに手触りが変わらない”と分かれば――次は倍でも足りないと思います」
ルダンが頷き、瓶の中の沈殿をもう一度見つめる。
「なるほどな……需要の芽はある。こいつは面白くなってきた」
ルダンは破顔し、軽く頭をかいた。
「いやー、嫌いじゃないね。こういう“まだ誰も手をつけてない染め方”ってやつはさ。
楽しいよな、挑戦ってのは」
ミレーネがそっと口を開いた。
「ルダンさん、量産の協力をお願いできれば、商会で染料の仕入れも支援します。
市場に出す際の販売もこちらで引き受けます」
「ほう、商会付きか。……なるほど、筋が通ってる」
ルダンは小瓶をもう一度手に取る。
染料が光を受けて、淡く金色に透き通った。
「――いいだろう。試しに俺の工房でも調合してみる。
ただし、布と違って髪に使うんだ。安全性の確認は俺が納得するまでやらせてもらうぞ」
「もちろんです。ぜひお願いします」
青司が深く頭を下げると、ルダンはにやりと笑った。
「それにしても……森の薬師ってのは、噂以上に面白ぇな。
色に“香り”を合わせるなんて、普通の職人は考えねぇ」
その言葉に、青司は少し照れたように笑った。
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
ミレーネがくすりと笑う。
「それ、マルコットさんも同じことを言ってましたよ」
ルダンの笑い声が、染布の揺れる工房に響いた。
「ははっ、なら期待にこたえないわけにはいかねえな。――いいさ、セイジ。
髪を染める薬、俺の釜で試してみようじゃないか」
そう言いながらルダンは机の上の小瓶を手に取り、光にかざしながら、少しだけ顎を撫でた。
「……なるほど、面白ぇ色だ……よし。試してみる価値はありそうだな」
そう言って立ち上がると、奥の棚から数枚の麻布と試験用の小瓶を取り出す。
染料を扱う手つきは、長年の経験を物語っていた。
「だが、髪と布じゃ勝手が違う。染まり方も、色の残り方もな」
「はい。なので、まずはこの原料を使ってもらえれば」
青司は背の革袋を下ろし、中から数種類の草束と粉末を取り出した。
乾いた〈ルマ草〉の葉、藍果の実、紅草の色素を凝縮した粉末、そして媒染用の液体。
それぞれが封印された小袋に丁寧に分けられている。
「森で採れたものばかりです。乾燥度合いは揃えてありますので、再調合にも使えます」
「……ふむ。手際がいいな。お前、もともと職人だったのか?」
「本職は薬師だと思ってるんですけど、今は髪の美容の方に仕事が偏ってるんですよね」
「俺も布を染めるのが本職だが――今は髪を染める仕事をするってわけだな」
ルダンは納得したように笑い、草束を手に取った。
指先で葉をこすり、香りを確かめる。
「なるほど。染料ってのは“匂い”が大事なんだ。鼻に刺さらない、穏やかな香りなら上等だ」
工房の奥では、干し布が吊るされ、ほのかに酸と草の混じった香りが漂っている。
青司はその空気を吸い込みながら、どこか懐かしい気持ちになった。
――森の中で、薬を煮出していたときの匂いに似ている。
「試し染めには少し時間をもらうぞ」
ルダンが草束を抱え、作業台の方を指した。
「成分の出方と、色の持ちを確かめてみる。
仕上がりを見るまでは、何とも言えねぇ」
「ありがとうございます」
青司が深く頭を下げると、ルダンは片手を振った。
「礼はいい。どうせ好奇心が勝っただけだ。――だが、その分、きっちり見させてもらう」
「ルダンさんなら、安心してお任せできます」
ミレーネが穏やかに微笑む。
「材料の追加や納期の調整はこちらで手配しますので、遠慮なく言ってください」
「助かるよ。……そうだな、三日もあれば手応えは見えるだろう」
ルダンは草束を台に広げ、染料瓶を持ち上げた。
「三日後、また顔を出してくれ。その時に“結果”を見せてやる」
青司は頷いた。
「はい、楽しみにしています」
工房を出ると、昼下がりの光が石畳を金色に照らしていた。
ミレーネが横で、ほっと息をつく。
「うまくいきそうね」
「ええ。ルダンさんの目は確かです。……それに、少し楽しそうでした」
ミレーネが微笑む。
「きっと、あなたと似てるのよ。手を動かして考える人って」
青司も小さく笑い、手の中に残る〈ルマ草〉の香りを確かめた。
――この森の色が、また誰かの笑顔につながるなら、それでいい。
**************
石畳を踏むたびに、靴底に夏の日差しが跳ね返った。
商業ギルドの2階、廊下の角を曲がると、ホヅミ商会が借りている第十二商談室が見えてくる。
扉の前にはリオナとエリンの姿があった。
「おかえりなさい、セイジ!」
リオナがぱっと尻尾を揺らしながら駆け寄った。
少しだけ――後ろに立つミレーネへ視線を流す。
「マルコットさんのところ、うまくいったの?」
青司が微笑みながら答える。
「いや、マルコットさんのところは手が空いてなかったよ。けど、いい人を紹介してもらえたんだ。けっこういい手応えはあったよ」
そのやり取りを聞きながら、エリンが帳簿を抱え直し、落ち着いた声で尋ねる。
「ということは、別の工房に行かれたんですね? 成果はありましたか?」
青司が微笑むと、隣のミレーネも軽く頷いた。
「ルダンさんが引き受けてくれました。三日後には試験染めの結果が出るそうです」
「そんなに早く……⁈」
リオナの耳がぴんと立ち、瞳がぱっと輝く。
その反応に、青司の口元も自然と緩んだ。
一方で、エリンは帳簿を胸に抱き、冷静に頷く。
「商会としては十分な進展ですね。これで染め薬の供給先が見えました」
リオナの尻尾が嬉しそうに左右に揺れ、エリンはその横で小さく笑みを浮かべる。
感情の温度は違っても、二人の目に浮かんでいるものは同じ――確かな手応えだった。
店の奥から、規則正しい足音が近づいてきた。
全員がそちらを振り向くと、薄手のスーツをきちんと着こなしたクライヴが、帳簿を片手に現れた。
「お、戻りましたね。いいタイミングです。こっちもちょうど一段落ついたところですよ」
「ドナート工房はどうでした?」
ミレーネが尋ねると、クライヴは満足げに顎を撫でた。
「ドナートさんは、ロディンの工房が下請けに入ると聞いて、笑ってましたよ。
今まで街一番の石鹸工房で鼻息が荒かったくらいですからね。
――石鹸を任せられるなら、これからはシャンプーとコンディショナーに専念できるって、嬉しそうでした」
「それなら、街の理容室……ひいては街の人たちに喜んでもらえるわね」
エリンが、書きかけの帳簿を開きながら頷く。
「ええ、これで街の理容室と宿のほとんどの店に、シャンプーとコンディショナーを卸せるはずです」
「……街のほとんどか」
クライヴが感慨深げに呟く。
その言葉に、青司は確かな手応えを感じていた。
「染め薬も、同じように広まるといいわね」
リオナが尻尾を揺らしながら、セイジに笑いかける。
「もちろんです」
クライヴが腕を組み、力強くうなずいた。
「ルダン工房の仕上がりを見て、染め薬の営業もしっかり進めていきますよ」
窓から射し込む午後の光が、テーブルの上の瓶に反射してきらめく。
静かな商会の空気の中で、それぞれが手にした小さな成果を確かめるように微笑み合った。
「みんな、いい顔してるわね」
ミレーネが柔らかく笑う。
「思ったよりずっと早いわ。この流れなら、本当に商会の新しい柱になるかもしれない」
青司はその言葉に軽く頭を下げた。
「みんなのおかげです。……まだ始まりですけど、きっと形にできます」
リオナがその横で、胸の前で手をぎゅっと握った。
「わたしも……何か、役に立てればいいんだけど」
「リオナちゃんが街を歩いてくれるだけで、もう十分役に立ってますよ。
おかげで商品の評判、すごく広がってますからね」
クライヴが笑う。
「よし、あとはルダンの結果待ちですね。三日後、楽しみにしておきましょう。それまでは、一度セイジさんとリオナちゃんは森に戻ってもいいですよ。あとは我々でできるところまでやっておきますから」
「……三日後が楽しみね」
リオナがそう呟くと、青司は小さく頷いた。
窓の外では、夕暮れが始まり、街路の影が少しずつ長く伸びていく。
穏やかな空気の中に、確かに新しい商いの息吹が芽生えていた。
――ホヅミ商会の一日は、静かに、しかし力強く暮れていった。




