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エリンが第十一商談室の鍵を返して戻ってくると、クライヴはすでに立ち上がり、外套を羽織っていた。
「セイジさん、私、少し街の方へ出ます。ドナート工房に、今回のロディンさんの件を伝えてきますね」
クライヴは軽く頭を下げ、扉の方へ歩き出す。
「頼んだわよ。くれぐれも強気で交渉してきてくださいね」
ミレーネは小さく笑みを浮かべ、手を振った。
扉の向こうで足音が遠ざかると、室内には青司、ミレーネ、そしてエリンの三人だけが残った。
「さて……」青司は机に置かれた資料を見渡す。
「ボディーバターやバスソルト、各種薬の作り方と、どの職人さんにお願いできそうかを検討しましょう」
ミレーネは帳面を開き、青司の話に耳を傾けながら付箋をいくつも貼る。
「ボディーバターは香草オイルをベースにして……バスソルトは塩にハーブの粉末を混ぜて……疲労回復茶はファリナ草とビスケ花を組み合わせて……」
青司は次々と原料と作り方を口にする。
ミレーネは帳面に鉛筆を走らせながら、眉をひそめた。
「……ううん、セイジさん!ファリナ草って、ものすごく高いんですよ!知ってます?!」
「えっ、そうなの?森の家の裏に生えてるけど」
青司は少し驚きながらも、口元を緩める。
「……大量に作れるほどあるんですか?」
「いや、さすがにそこまではないと思うけど」
青司は軽くうなずきながら、「あ、そうか」と声を漏らす。手元の帳面に目を落とし、職人に依頼を出すなら素材は大量に必要になることを思い出した。
「それじゃあ、これは材料費も手間も相当かかりますね……」
ミレーネの眉はさらに寄る。
「セイジさんの家の裏で、ファリナ草の株分けをして増やせればいいんですけどね」
エリンが提案する。
「株分けってなんですか?」
青司は首をかしげる。
「薬草を育ててる農家の人たちはそうやって増やすのよ。量産を見越して、薬草農園の方にも話しを通しておきますね」
「なるほど……そういう方法があるのか」
青司は小さくうなずき、頭の中で採取から育成までの段取りを描き始めた。
「それまでは、採取依頼に出さないといけませんね」
エリンは腕組みをして額に手を当て、ため息をつく。
「予算も人手も、こんなに必要だなんて……でも、やらなきゃいけないのね」
青司は微笑んで肩をすくめる。
「無理のない範囲でいいです。少しずつ試作品から始めれば」
ミレーネは小さく息をつき、目を細める。
「……ふふ、まあ、私たちに任せてください。なんとかして製品化まで持っていきますから」
エリンも続いて頷く。
「ええ、そうね。試作の管理と予算は私に任せて。私たちの力を合わせれば、必ず形にできます」
青司は二人を見て穏やかに笑った。
「ありがとうございます。それなら、街の人たちに喜んでもらえる製品がきっと作れますね」
*******
陽が登りきる頃、商談室の窓を柔らかく照らしていた。
机の上には試作品の小瓶がいくつも並び、淡い草の香りと薬液の匂いが混じって漂っている。
エリンが帳簿を閉じ、手元のペンを置いた。
「――何にしても、次に急がないといけないのは、染め薬の量産体制ですね」
その言葉に、青司は頷く。
「はい。ミレットさんの理容室に卸して、色の染まり具合を確かめてから使うように伝えてから日が経ってるので、そろそろお客さんに使い始めると思うんですよね」
そう言って、青司は小瓶のひとつを指でつまみ上げた。中の液体が陽を受けて、淡い栗色にきらめく。
ミレーネがそれを見ながら微笑む。
「確かに。あわせてリオナちゃんの毛先の染まり具合も評判になって、すぐに噂が広まるでしょうね。だからこそ、街歩きをお願いしてよかったと思います」
「ええ。だから、今のうちに量産化を進めておかないとですね」
エリンが真剣な面持ちで頷く。
「別の理容室からも問い合わせが増えそうです。そうなる前に、しっかり手を打っておかないと」
「問題は、作る人手ですね」
青司は腕を組みながら言った。
「染料を扱える職人さんとなると、やっぱり染色工房になりますが……今、洗剤液をお願いしてるマルコットさんは忙しいはずです」
ミレーネが軽くため息をついた。
「そうね。あの人、洗剤液の注文が増えすぎて、ここ最近は寝る暇もないって言ってたもの」
しばし沈黙が落ちた。
エリンは書類の束をめくりながら、考え込むように眉を寄せる。
「もしマルコットさんが無理なら、同じ系統の工房を紹介してもらうしかありませんね。信頼できるところでないと、品質を維持できませんし」
「紹介してもらえれば助かりますね」
青司は軽く頷き、笑みを浮かべた。
「マルコットさんなら、きっと信頼できる職人を知っていると思います。俺が直接話してみます」
「ええ、それがいいと思います」
エリンが手帳に走り書きしながら応じる。
「ただし、原料の管理は商会で一括して行いましょう。染料に使う薬草や鉱石は高価ですから、在庫の扱いを慎重に」
「了解です」
青司は素直に頷いた。
ミレーネが机に肘をつきながら、柔らかく微笑んだ。
「ふふっ……セイジさん、いつの間にか商会長らしくなってきましたね。もちろん、職人相手の交渉ですし、私も一緒に行きますよ」
「商会長らしくって……そんなつもりはないんですけどね」
青司は少し照れくさそうに笑い、肩をすくめた。
「でも、一緒に来てくれるなら心強いです。街の人たちに喜ばれるなら、それが一番ですから」
エリンがその言葉に目を細め、静かに頷いた。
「ええ。そのための商会ですもの。――染め薬、必ず形にしましょう」
三人の視線が机の上の小瓶に集まった。
その中で、淡い色の薬液が光を受けて、わずかに揺れていた。
それは、ホヅミ商会の次なる商いの灯火のようにも見えた。
*******
昼下がりの陽光が、硝子窓から差し込む。
染料の匂いと熱気が入り混じった工房では、職人たちが大釜をかき回していた。
その奥でマルコットが腕まくりをし、額の汗を拭っている。
「……よぉ、セイジじゃねえか。
さっきリオナ嬢が顔を出してくれたんだ。一緒に来りゃよかったのにな。
ところで商会のほうはどうだ? ――ガラントさんから聞いたぞ。お前が商会を立ち上げるってな。驚いたぜ。
それでよ、“保証人になってやる”って言ったら、ちょうど頼みに来たところだって。あの時は、ガラントさんと二人で笑ったもんだ」
マルコットは片眉を上げ、にやりと笑った。
「ほんとに、保証人になっていただいてありがとうございました。おかげさまで、なんとか商会長をやらせてもらってます」
青司が頭を下げると、マルコットは手を振った。
「へっ、いいってことよ。――で、今日はどうした?」
「少しお願いがあって来ました」
青司は工房の隅に並んだ染め布を見やりながら口を開く。
「髪に使える染め薬を量産したいんです。ミレットさんの理容室に卸した分が、そろそろお客さんに使われ始める頃で。
他の理容室からも注文が来そうなんです」
「髪を染める薬、ねぇ……」
マルコットは腕を組み、唸るように言った。
「……くそっ、面白そうな話だ」
そう呟きかけて、ふと青司を見た。
「――ああ、そういや思い出したぞ。さっきリオナ嬢がうちに寄ったときにな、毛先が森の光を吸ったみたいに明るくなってたんだ。……やっぱりお前の仕業だったか」
青司は苦笑いを浮かべた。
「まあ……試作のひとつを、少し使ってみたんです。素材の発色を見るために」
「だろうな。あの自然な色味、日焼けじゃ出ねぇ。……まったく、やるじゃねえか」
マルコットは感心したように笑い、指先で机をとんとんと叩いた。
「けど今は洗剤液の方で手一杯だ。釜の空きもねぇし、職人たちも休ませてやらにゃ倒れちまう」
「そうですか……無理を言いましたね」
青司が頭を下げると、ミレーネが一歩前に出た。
「無理を言ってしまってすみません。でも、染め薬はきっと街で求められるはずなんです。
もし信頼できる職人さんをご存じなら、紹介していただけませんか?」
マルコットは少し驚いたように目を細め、すぐに苦笑を浮かべた。
「なるほどな……話がうまい。セイジ、いい人を仲間にしたな」
彼は机の上の染料壺を指で叩き、少し考え込む。
「……心当たりがある。〈ルダン〉って染色職人だ。昔から色の扱いが天才的でな。染布に関しては信頼できる腕だ」
「ルダンさん……紹介してもらえるんですか?」
青司が顔を上げる。
「ああ。俺の紹介って言や、断らねぇよ。あいつも新しい材料を探してたはずだ」
マルコットはにやりと笑い、机の端から小さな紙を取り出した。
そこには工房の印が刻まれ、名前が書かれている。
「この紹介状を持っていけ。南通りの奥、染布屋〈ルダン工房〉だ。――セイジの染め薬なら、きっと興味を示す」
青司はその紙を受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。マルコさんのおかげで助かります」
「ふん、礼なんざいらねぇさ。――ただし、いい物を作ったら俺にも見せてくれよ? 悔しいからな」
マルコットは照れ隠しのように笑い、手をひらひらと振った。
ミレーネがその横で微笑む。
「ええ、もちろん。完成したら真っ先にお持ちしますね。きっと気に入ってもらえますよ」
青司も笑ってうなずいた。
「ありがとうございます、マルコさん。――それじゃあ、行ってきます」
**************
――そのころ、ホヅミ商会。
扉の鈴が軽やかに鳴り、リオナが戻ってきた。
日差しをたっぷり浴びた彼女の頬には、うっすらと紅が差している。
店内では、帳簿を片付けていたエリンが顔を上げた。
「おかえりなさい、リオナちゃん。おつかれさま」
「うん。マルコットさんのところにも挨拶してきたの。
髪のこと、気にしてくれる人がたくさんいたわ」
リオナは微笑みながら、肩掛け袋を机の端に置いた。
「陶磁器屋のおばあちゃんなんてね、『今度、髪を染めてみたい』って言ってたの」
そう言ってから、ふと周囲を見回した。
「……あれ? セイジは?」
エリンは手元の帳簿を閉じ、穏やかに微笑んだ。
「セイジさんなら、ミレーネと一緒に出かけたわ。マルコットさんの工房に行ってるの」
「……ふたりで?」
リオナは瞬きをした。
その言葉の響きに、胸の奥がちくりとした気がした。
――どうしてだろう、自分でも分からない。
「ええ、染め薬の量産化の話よ。染色職人といえばマルコットさん、ってセイジさんが言ってたわ」
エリンは、いつもの落ち着いた声で言いながら、湯気の立つ茶を差し出した。
「もうすぐ、髪を染めたいお客さんが増えそうだからね」
「そっか……そうだよね、仕事の話だもんね」
リオナは小さく笑い、受け取った茶をそっと両手で包む。
けれど、胸の奥にふわりと残るもやの正体は、やっぱりよく分からなかった。
「まあ、ミレーネが一緒なら安心ね。交渉も上手だし……」
エリンは茶器を持ち上げ、一口すすると、ふとリオナを見て口元をゆるめた。
「でも、リオナちゃん。セイジさんとミレーネが“ふたりで”ってところ、ちょっと気になっちゃうんじゃない?」
「えっ……お、お仕事でしょ?気になんて――」
リオナは慌てて首を振り、湯気の向こうで笑みを作る。
「ほんと〜? 気になって仕方ないって顔してるわよ? わかりやすいんだから」
エリンは肩をすくめ、いたずらっぽく笑った。
「そ、そんなことない……!
ミレーネさんは年上が好みって言ってたし」
リオナの頬がふっと赤くなり、湯気に紛れるようにカップを持ち上げる。
その湯気に溶けるみたいに、最後の言葉はかすかに消えていった。
その仕草を眺めながら、エリンは口元に静かな微笑を浮かべる。
「……ふふ、可愛いわね」
「な、なにが?」
「セイジさんのことを話してるとき、表情が変わるのよ。気づいてる?」
「へっ……? そ、そんなことないわよ!」
エリンはくすりと笑って、ティーカップを口に運んだ。
「ふふ、いいのよ。誰かを気にかけるのは、悪いことじゃないんだから」
リオナは返す言葉を探せず、視線をカップの中に落とした。
けれど、ふと窓の外を見上げたとき、
夏の日差しを受けてきらめく街路の方角に、青司の姿を思い浮かべていた。
ミレーネと並んで歩くところを想像して――なぜか、頬がほんのり熱くなる。
「……変なの、あたし」
小さく呟いて、リオナは笑い、そっと息を吐いた。
心の中で浮かんだもやを、湯気ごと吹き消すように。
「さてと……セイジが帰ってくる前に、少し片付けておこうかな」
机の上に広げられた紙束を手に取り、整えながら、
青司がいつも使っているペンにそっと目をやる。
その筆跡を見つめているうちに、
胸の奥のモヤモヤが、ほんの少しだけ温かくなっていった。
――そしてその頃。
街の南通り、染布屋〈ルダン工房〉の前に、青司とミレーネの姿があった。




