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 リオナが街を巡っているころ、青司はクライヴたちに開発品の話しをしていた。


「えっと、始めに薬をいくつか作って、洗剤で家の床掃除して、胡桃油をワックス代わりにしたんだ。その後、薬の種類を少し増やして、シャンプーとか、ボディーバターやバスソルトなんかも作ってきた。それと染め薬だね。薬は、知ってると思うけど、解熱剤や鎮痛剤、火傷薬とかの軟膏を数種類、傷回復薬、疲労回復の薬やお茶とかかな」


三人は顔を見合わせ、順番にひきつった笑いを浮かべる。


 青司はまだ止まらない。

「あと、大きなものでは東屋に風呂を作ったり、クローゼットも――これは趣味みたいなもんだったけど」


「え……えぇっ!? ちょっと待って、どこまで手を出してるのよ!薬師じゃなくて本格的な大工じゃない!」

エリンの声が裏返る。


 青司はにこにこと笑いながら、手を広げた。

「いや、全部必要だと思ったんだ」


 青司は無邪気に肩をすくめて笑う。

「セイジさん……あなた、ほんとに止まらないわね」

 ミレーネも思わず目を丸くした。


「さあ、帰りが遅くなる日が続きそうだな。とりあえず、今教えてもらった物の中から製品化できそうなものの検討をしましょうか」

 クライヴは深くため息をつきながらも、帳面を取り出して机に置いた。その表情には、呆れよりもむしろ興味の色が浮かんでいる。


「そうね……ところで、ボディーバターってなんです?」

 エリンは眉を寄せながら、ペンを止めて青司を見る。彼女の声には好奇心と困惑が半分ずつ混ざっていた。


「バスソルトはなんとなく風呂に入れるものかと思うけど……」

 ミレーネは首をかしげつつ、指先で帳面の端をとんとんと叩く。

「でも、香りを使う製品って、最近人気が出てるのよね」


「そうそう、ボディーバターはね――」

 青司が立ち上がりかけたのを見て、クライヴが慌てて手を挙げて制した。

「いや、今は説明だけでいいですから。試作品の制作は後日、日程を調整して行いましょう」


室内に笑いが起こり、和やかな空気が広がった。

新しい製品の話は、どうやら思っていたよりも前向きに進みそうだった。


 そのとき――勢いよく扉が開いた。

 入ってきたのは、分厚い前掛けをした壮年の男。顔には深い疲れの色が滲んでいる。


「クライヴさん……お願いだ、助けてくれ」


 声には切実さがこもっていた。

 クライヴが眉を上げると、男は肩で息をしながら頭を下げた。


「ロディンさん? これはまた……ずいぶん久しぶりですが、どうなさいました?」

 クライヴの言葉に、青司が首を傾げる。

 エリンとミレーネも顔を見合わせた。


「知ってる方なんですか?」

「ええ、以前ギルドからセイジさんの石鹸の製造をお願いした職人の一人なんですがね。リルトの中では一番大きな石鹸の工房でして……ただ、当時は依頼を断られてしまったということが、結果、ドナートさんたちと契約したわけです」


 クライヴが静かに説明すると、ロディンは苦い顔でうつむいた。

「悪かったとは思ってる。だが、獣脂を使わない石鹸なんて、聞いたこともなかったんだ。

 油の代わりに植物を搾る? そんなの無茶だと思ってた。だが――」


 ロディンは拳を握りしめ、唇を震わせた。

「……あんたたちの“植物油の石鹸”が出回ってから、うちの石鹸は全く売れなくなっちまったんだ。

 獣脂の匂いがきついって、みんな離れていく。常連の商人まで……掃除用も洗剤ってのが出回っちまって見向きもされねぇありさまだ」


 部屋の空気が少し重くなった。

 エリンが言葉を探すように視線を動かす。

「それで、今日は……?」


「ドナートに頼んでみたんだが、“製法は守秘義務で話せない”って言われちまってな。そりゃそうだろうけどよ。

 うちの職人たちも途方に暮れてちまってるんだ。……頼む。少しだけでも、あの石鹸の作りの仕事を回してくれないか」


 青司は黙ってロディンを見つめた。

その目の奥にあるのは、怒りでも優越感でもなく、静かな理解だった。


「エリン、申し訳ないですが、至急、第十一商談室を手配してください。ロディンさん、隣の部屋ですので、準備が整うまで少し廊下でお待ちいただけますか。立ち話もなんですから」

クライヴに声をかけられたエリンは「わかったわ」と答え、書類を抱えて部屋を出ていった。


「……ああ?」

肩を落としながら、ロディンも静かに廊下へと出て行った。


ホヅミ商会の執務室――第十二商談室には、青司とクライヴ、ミレーネの三人が残っていた。


「セイジさん、状況はお分かりいただけましたか? どうやら、セイジさんの石鹸作りを断ったあと、経営が苦しくなっているようですね」

「うん……自分が断られたのに、こうして困ってるって聞くと、なんだか放っておけないな」


「商売の世界ではよくある話です。まずは、セイジさん――商会長として、どうお考えです?」

「街の職人が困ってるなら、何とかしてあげたいけど……ドナートたちとの契約では、他に製造依頼は出さないって決まってたよね?」

「ええ。それに、ドナートさんたちが新しい石鹸を作れるようになったのも、セイジさんがずいぶんお力添えされたと聞いてます」

「まぁ、そうだけど」


「機会を掴めば成功もするし、判断を誤れば廃業もある――それが商売です。ただ……セイジさんは、そういう人を見捨てたくないと?」

「せっかくリルトの街を盛り上げていこうって時だし」

「優しいですけど……経営的には少し甘い判断ですね。でも、セイジさんはそれでいい。厳しいところは、私が担当します」


クライヴは帳面を開き、軽く指で線を引いた。

「今回は、ロディンにはドナートさんたちの下請けとして動いてもらう形でどうでしょうか。石鹸作りを任せれば、ドナートさんたちはシャンプーとコンディショナーに専念できます。街の需要も、うまく回るはずです」


その提案に、青司はほっとしたように笑った。




 扉が閉まる音が静かに響いた。

 第十一商談室の中にいるのは、ロディンと、向かいに座るクライヴ、そして席の端に控える青司の三人だった。

 ミレーネとエリンは別室で各々の職務を担当している。


 クライヴは書類の束を静かに整え、卓上のインク壺の蓋を指先で閉じる。その一連の動作だけで、室内の空気が一段と張り詰めた。


「さて、ロディンさん。――まずお伺いしますが、今日ここにいらしたのは“取引の相談”ということで間違いないですね?」


「そ、そうだ……。俺の工房にはもう依頼が行かなくなってる。ドナートたちが作ってる石鹸が流行ってるせいで、こっちは客が離れたんだ。今さら植物油の石鹸を作れと言われても、製法がわからない。だから――」


 言葉を切るロディンに、クライヴは冷静な目を向けた。


「ですから、その製法を教えてほしい……と?」


「べ、別に全部教えろってわけじゃない。ただ、少しでも――」


「残念ですが、それはできません」

 クライヴの声は柔らかかったが、その言葉は刃のように鋭かった。


「ドナート工房との契約には、製造工程の守秘義務が明記されています。ホヅミ商会としても、それを破るわけにはいきません。あなたが断った案件を、今さら“作りたい”と言われても、筋が通らないでしょう」


 ロディンは唇を噛みしめ、机を睨みつけた。

 それでも、彼の声にはかすかな焦りが滲む。


「だが……俺だってこの街の職人だ。ずっと石鹸を作ってきた。なのに、こんな形で見捨てられたら――」


「見捨てたつもりはありませんよ」

 クライヴはすぐに言葉を挟んだ。

「ただ、あなたは“選ばなかった”んです。あのとき、セイジさんが新しい製法の話をしたとき、あなたは『そんなものは売れない』と言った。違いますか?」


「……違わねぇよ。だが、まさかこんなに売れるなんて思わなかったんだ」


「ええ、そこが判断の分かれ目です」

 クライヴは淡々と続ける。

「商売というのは、機を読む力がすべてです。あなたが今困っているのは、その機を逃した結果です」


 ロディンは拳を握った。

 言い返す言葉が出ない。

 だが、クライヴの声は一段低くなり、わずかに温度を変えた。


「……ですが、ホヅミ商会としても、この街の職人を見捨てるつもりはありません。そこで――提案があります」


 ロディンが顔を上げた。

 クライヴは帳面を開き、さらりと書き記しながら言う。


「あなたの工房には、石鹸の成形と乾燥の設備がありますね? 品質も悪くない。そこで――今後、ドナート工房の石鹸製造の“下請け”として作業を請け負っていただく形で契約する、というのはどうでしょうか」


「……下請け?」

 ロディンの眉がわずかに動いた。

「つまり、俺がドナートの下につくってことか」


「はい。納期と品質基準はホヅミ商会の管理下に置かれます。報酬は安くありません。今よりはずっと安定した取引になりますよ」


「ふざけるな。俺は……あいつらに頭を下げる気は――」


「――街に残る気がないなら、それも結構です」

 クライヴの声が一瞬で冷えた。

 ロディンが息を呑む。

 沈黙の中で、クライヴは視線をわずかに下げ、書類を整えながら続けた。


「あなたの工房を維持するには、おそらくあと二月が限界でしょう。燃料費、原料費、そして販売先の減少。計算すれば、すぐに分かることです。……それでも誇りを優先するなら、止めはしません」


 ロディンは青司の方を見た。

 しかし、青司は何も言わない。ただ、穏やかに見守るだけだった。

 その沈黙が、かえって答えになっていた。


「……わかったよ」

 やがてロディンは、低い声で言った。

「下請けでもなんでもやる。工房を潰すわけにはいかねぇからな」


「ロディン、私たちは好意で提案しているのですよ。無理難題を押しつけているつもりはありません」

 クライヴの声は落ち着いていたが、わずかに圧があった。


「……悪かった。いや、すみません。どうか下請けの仕事を、私にやらせてください」


 クライヴは軽く頷き、書類の署名欄を指で示した。

「それが賢明な判断です。街の人々も、あなたの石鹸をまた手に取る日が来ますよ」


 ロディンは黙って頷き、震える指でペンを取った。

 インクの先が紙に触れる音だけが、静かな商談室に響いた。


 ――交渉は終わった。


 部屋を出て行くロディンの背中を見送りながら、青司は小さく息を吐いた。

 その横で、クライヴは淡々と帳面を閉じ、手を止めることなく次の案件に視線を移していた。




 扉が静かに閉まる。

 会談を終えたロディンは、重たい足取りで廊下に出た。

 肩を落とした背中に、しばらく言葉をかけあぐねていた青司が、ようやく口を開く。


「ロディンさん」


 呼びかけに、ロディンが足を止めた。

 その表情は複雑だった。怒りとも安堵ともつかない、疲れ切った職人の顔。


「……セイジさんには、嫌われても仕方ねぇな」

 絞り出すような声で、ロディンが呟く。

「俺があのとき、セイジさんの話をちゃんと聞いてりゃ……今ごろ、こうなっちゃいなかった」


「そんなこと、誰にもわからないですよ」

 青司は柔らかく首を振った。

「俺だって、たまたまうまくいっただけです。もし失敗してたら、笑われてたのは俺のほうです」


 ロディンは小さく苦笑した。

「……セイジさん、ほんと変なやつだな。普通なら勝ち誇るとこだろうに」


「そんな性格してたら、今ここにいませんよ」

 青司はそう言って、小さく息を吐く。

「街の人たちが暮らしやすくなるなら、それでいいんです。ロディンさんの工房も、ちゃんと続いてほしい。腕があるんだから」


 その言葉に、ロディンは顔を上げた。

 目の奥に、わずかに光が戻る。

 彼は無骨な手を後ろで組み、照れくさそうに頭を下げた。


「……ありがとよ。セイジさんの石鹸、最初は気に食わなかったけど――今じゃ、女房が手放さねぇ。香りがいいってさ」


 青司は穏やかに笑った。

「それなら、俺も嬉しいです。次は、ロディンさんの名前で売れるようなもんを作りましょう。きっとできますよ」


 ロディンは無言で頷き、しばし青司を見つめた。

 そして、どこか吹っ切れたように息をつくと、足早に階段へ向かった。


 青司はその背を見送りながら、胸の奥に静かな熱を感じていた。

 ――この街には、まだ立ち上がろうとする人がいる。

 その力をどう繋いでいくかが、自分の役目なのだと思った。



 ロディンの足音が階段の向こうに消え、廊下に静寂が戻った。

 青司は小さく息をつき、扉を開けて第十二商談室へ戻った。


 部屋の中では、クライヴが帳面を閉じ、ミレーネが紅茶を片付けていた。

 先ほどまでの緊張が嘘のように、穏やかな空気が流れている。


「……終わりましたか?」

 クライヴが視線を上げた。


「ええ。なんとか納めてくれました」

 青司が椅子に腰を下ろすと、クライヴはゆっくり頷いた。


「そうですか。あの職人、根は悪くないんですけどね。ただ、古いやり方に誇りを持っている分、新しいものを受け入れるのに時間がかかるんです」


「ええ、わかります。俺だって逆の立場なら、たぶん同じだったと思います」


 ミレーネがそっと湯気の立つカップを青司の前に置いた。

 香ばしいハーブの香りが立ちのぼる。

「お疲れさまでした。……それにしても、セイジさんのやり方はいつも不思議です」


「不思議?」

 青司が顔を上げると、ミレーネは微笑んだ。


「普通なら、あんなふうに手を差し伸べたりしません。競争相手を助けるなんて」


「……たぶん、放っておけないんです」

 青司は苦笑した。

「俺は職人としても、人としても、まだこの街の“よそ者”ですから。せめて、誰かがもう一度立ち上がれるようにできたら、それが自分の居場所を作ることになるのかもって」


 その言葉に、クライヴが小さく口元を緩めた。

「――いい考えです。

 商いは、勝ち負けだけでなく“繋ぎ”でもありますからね。

 それを忘れない限り、ホヅミ商会はきっと長く続きますよ」


 青司は一瞬だけ目を閉じ、静かに頷いた。

 カップの縁から漂う香りが、少し冷えた心を温めてくれる。


 窓の外では、秋の光が傾き始めていた。

 商会の看板に射し込む夕日が、金色に輝いている。


 ――この街で生きる人々の営みを、少しでも支えられるなら。

 そう思いながら、青司は静かにカップを口へ運んだ。

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