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あれから数日後、森から街に戻った青司とリオナは、通りを歩きながらふと足を止めた。
ちょうど前方を、金飾りをあしらった馬車がゆっくりと通り抜けていく。
飾り羽根のついた帽子をかぶった御者の後ろでは、上等なドレスをまとった貴族夫人たちが窓越しに通りを眺めていた。
その視線の先には、軒先を磨き上げた店や、品よく並べられた商品が並んでいる。
歩道のあちこちでは、従者たちが荷物を抱え、使用人風の若者たちが店を出入りしていた。
「……なんだか、街がすごく賑やかになったね」
リオナが小さくつぶやく。
「うん。どうやら、ほんとに貴族の人たちが来はじめたみたいだ」
青司は微笑みながら、行き交う人の波を見渡した。
そのとき、通りの向こうで聞き慣れた声が響いた。
「見てくれよ、今日も制服がピカピカだぜ!」
「ほんとだよな、動きやすいし気分が違うぜ!」
振り向くと、清掃員たちが声を掛け合いながら、水を撒いて石畳を磨いていた。
新しい制服に身を包み、胸元には街の紋章を模した小さな刺繍が光っている。
通りを走る子どもが手を振りながら叫んだ。
「いつもきれいにしてくれてありがとう!」
清掃員も笑顔で手を振り返す。
「ありがとう!」
水を撒きながら、清掃員の一人が地面にカエルの絵を描くと、子どもたちが歓声を上げた。
ちょうど通りかかった衛兵が「いい仕事だな!」と声をかけると、清掃員も胸を張って応じた。
「こっちこそ、いつも街を守ってくれてありがとう!」
「楽しそうだな……」青司が小声でつぶやく。
「子どもたちも、衛兵も、みんな笑顔だ」
「うん……街が、ちゃんと生きてる感じがする」
リオナも穏やかに頷いた。
街の人々も自然と感謝の言葉をかけ、清掃員たちは誇らしげに笑顔を返していた。
その姿は街のあちこちに広がり、リルトという街そのものが少しずつ新しい色を帯びていくようだった。
街の喧騒を背に、青司とリオナは商業ギルドの一室――ホヅミ商会が借りている第十二商談室――へと足を向けた。
扉を開けると、香草の香りとともに紙とインクの匂いがふわりと漂ってくる。
中では三人の仲間が机に向かい、山積みの書類と格闘していた。
「お帰りなさい、セイジさん、リオナさん」
顔を上げたエリンが、柔らかく微笑んだ。
その隣では、クライヴが羽ペンを走らせながら苦笑する。
「ちょうどいいところに。商会長決裁の書類が山ほどですよ」
見ると、机の上には印を待つ書類が積み上げられている。
「……うわ、これは……」
「逃げられませんよ」
ミレーネがからかうように言いながら、束ねた書類をどさりと青司の前に置いた。
「そういえば――」
ミレーネが控えめに声を落として続けた。
「染め薬の件、聞きましたよ。どうして報告がなかったんですか?」
「えっ……」
青司は思わず瞬きをする。
「ほかにも開発中の品があるなら、全部共有してもらわないと困りますよ。今後の計画にも影響しますから」
クライヴも横から穏やかだがきっちりとした口調で言葉を添えた。
「……はい、すみません」
青司は気まずそうに頭をかきながら答えた。
そして次にミレーネはリオナの方に向き直る。
「リオナちゃんにはお願いがあるの。いま街の人たちが“髪と肌の手入れ”にすごく興味を持ち始めてるの。
宣伝を兼ねて、いろんなお店や通りを回ってみて。あなたの綺麗な髪を見せるだけでも効果があると思うわ」
「わ、わたしが……?」
リオナは目を瞬かせたが、少し考えてから頷いた。
「……うん、やってみる。街の人たちに、“森の香り”を届けられたらいいな」
その言葉に、ミレーネも優しく微笑んだ。
賑やかな街の変化の裏で、ホヅミ商会もまた確実に動き始めていた。
“森の恵み”から生まれた品が、人々の暮らしを変え――そして街そのものを新しくしていく。
通りを行く人の声が、初夏の風に混じって穏やかに流れていた。
リオナは淡い色のメガネをかけ、体の線を隠すゆったりとした上着の裾を揺らしながら歩いていた。
かつては人混みの中を歩くたび、視線を感じて落ち着かなくなっていた。けれど今は、少し違う。
──今日は、街の空気をちゃんと感じて歩けている。
石畳の上では、清掃員たちが水を撒き、ブラシを滑らせていた。
陽光を受けて制服がきらりと光る。どこか誇らしげなその背に、リオナはそっと声をかけた。
「いつもありがとうございます。通りがとってもきれいですね」
一人の清掃員が顔を上げ、驚いたように目を瞬かせたあと、破顔した。
「へへっ、ありがとうございます! 最近は道具も新しくなって、気持ちいい仕事ですよ!」
「そうなんですね。みなさんのおかげで、街が気持ちよく歩けます」
軽く頭を下げて立ち去るリオナに、後ろから「また声かけてくださいね!」と声が飛んだ。
角を曲がると、巡回中の衛兵隊が通りを見回っていた。
リオナは小さく会釈をしながら言葉を添える。
「お疲れ様です。いつもありがとうございます」
若い衛兵が笑みを浮かべ、敬礼を返す。
「ありがとう、リオナ嬢。街の雰囲気が明るくなったな」
「ええ……ほんとに。風が少しやさしくなった気がします」
しばらく歩くと、陶磁器屋の老婦人が店先から声をかけてきた。
「まぁまぁ、お嬢ちゃん。その髪、光に透けてきれいねぇ」
「ありがとうございます。ミレットさんのお店で染めてもらえるんです。草木の染料で、髪にも優しいんですよ」
「理容師さんでそんなことまで? へぇ……」
「はい。おすすめですよ。今度ご一緒しましょうか?」
老婦人は目を丸くし、すぐに笑顔を見せた。
「ふふ、じゃあ次のお休みにでもねぇ」
そんなやり取りを重ねながら、リオナは街の小路を歩き続けた。
清掃員にも、衛兵にも、道端の子どもにも、同じように声をかけていく。
「お疲れ様です」「ありがとう」「今日もきれいですね」
その声に、誰もが自然と笑顔で応じた。
以前は一人で歩くことが苦手だったこの街で、今は人と人のあいだに温かな風が流れている。
リオナの歩みは、まるでその風を導くように街の隅々へと広がっていった。
リオナは街をひと巡りしてから、小さく息をついた。
「ふぅ……少し、歩き慣れたかも」
ミレーネから「宣伝にもなるから」と言われている以上、注目されるのは当然だ。
それでも人目が気になるリオナは、街を歩くあいだずっと色付きのメガネをかけていた。
そして今、立ち止まると、そのメガネをそっと外す。
額にかかった前髪を指先で整えながら、ふっと小さく息をついた。
昼下がりの陽光が石畳に反射し、柔らかく頬を照らしていた。
街を歩くあいだ、あちこちで声をかけられた。
最初は少し緊張していたが、清掃員も衛兵も、交わす言葉がどれも温かくて――
歩くたびに、胸の奥がじんわりとあたたかくなっていった。
街の若い娘やおばあちゃんたちは、リオナの髪や肌の艶を見て、
最近流行りのシャンプーやコンディショナーの話題を楽しそうに振ってくる。
そんな何気ないやり取りが、今では少し楽しい。
マルコットさんの店に顔を出したときも、
「おやおや、リオナ嬢。なんだか毛先が日差しを吸ってるみたいだな。新しいおしゃれか?」
「お、おしゃれって……そんなつもりじゃないけど」
「はは、そう言う人ほど一番似合ってるんだよ」
「森の光を吸ってきたみたいだな」なんて言われて、思わず照れてしまったけれど――
その明るい声が、今も耳に残っている。
……このまま帰る前に、寄っていこうかな。
リオナはふと足を止め、裏通りへと入っていった。
そこには、彼女の姉マリサが暮らす小さな食堂「黒猫亭」がある。
扉の前に立つと、外まで漂ってくる煮込みの香りが鼻をくすぐった。
「お姉ちゃん、いる?」
扉を軽く叩くと、中から足音が近づいてくる。
開いた扉の向こうに立っていたのは、少し頬のふっくらしたマリサだった。
「まぁ、リオナ。元気にしてたの?」
その声はどこか柔らかく、前よりも穏やかな笑みを浮かべていた。
「ちょっと顔見に来たの。調子どう?」
「うん……まぁね。最近、少し体がだるくて。ほら、前に話したでしょ? もしかしたら……」
「うん、“もしかして”って言ってたよね」
リオナは頷き、そっと視線を落とす。
マリサの手が、自然とお腹のあたりへ添えられていた。
「教会で確かめてもらったのよ。来年の春には母になるって――なんだか不思議ね」
マリサは照れくさそうに笑い、テーブルの上のマグを指でなぞる。
「怖いこともあるけど……それ以上に、守りたいって気持ちのほうが強いの」
「……お姉ちゃんらしいわね」
リオナもやわらかく微笑み返した。
幼いころ、リオナの髪をとかしてくれた姉の手。
今はその手が、これから生まれる命を包もうとしている。
それがなんだか、とても自然で、温かいものに思えた。
「ちょっと最近、疲れやすくてね。助祭様にも“無理しないように”って言われちゃったの」
マリサが息を整えるように胸に手を当てながら言う。
「大丈夫? セイジに見てもらう?」
「ううん、平気よ。でも……そうね、セイジさんの作るお茶なら、飲んでみたいかも」
リオナはほっと笑い、マリサの手をそっと包んだ。
「今度、お願いして持ってくるね。森の香りの、やさしいお茶を」
「ところで、リオナ」
「うん?」
「街が最近きれいになってきたでしょう? 清掃の人も笑ってて、子どもたちも元気で。
ああいうのを見ると、この街もちゃんと変わってるんだなって思うのよ」
「うん……清掃員の人たちが使ってる洗剤、セイジが広めたものなのよ」
リオナが少し得意げに言うと、マリサは「やっぱり、そうかなって思ってた」と静かに笑い、頷いた。
小さな家の窓から差し込む光が、湯気とともに揺らめく。
どこか懐かしい匂いの中で、二人の笑い声が静かに重なった。
――街の変化は、誰かの暮らしを少しずつ温めていく。
そんな当たり前のことを、リオナは改めて感じていた。
昼の陽ざしは柔らかく、煮込みの香りがまだ衣に残っている。
リオナは振り返り、小さな「黒猫亭」の看板をもう一度見た。
窓越しに見えるマリサの横顔は、どこか穏やかで――それが嬉しくて、胸がじんわりと温かくなる。
(……お姉ちゃん、ちゃんと笑ってた)
通りを歩きながら、リオナは自分の胸の内をそっと確かめた。
命を育て始めた姉の姿を見て、なにかが静かに心の奥で灯った気がする。
“守りたい”という言葉が、今は少しだけ自分にもわかる気がした。
そのとき、街角の風がふわりと髪を揺らす。
通りの向こうに、見慣れた看板が見えた――ミレットの理容室。
窓越しに差し込む光の中、笑顔で客を迎えるミレットの姿が見える。
「……行ってみようかな」
リオナは小さくつぶやき、胸の前で手を握った。
マリサが言っていた“街の変化”を、今度は自分の目で確かめたくなったのだ。
彼女はそっとメガネを外し、ゆっくりと理容店の扉へと歩き出した。
通りの向かいでは、菓子屋の前で女性客たちが話し込んでいる。
「ねえ、あなたの髪……とってもきれい。どこのお店でやってもらったの?」
「ミレットさんの理容室でできるわよ。ようやく予約が取れたの。最近、あそこ人気なのよね」
「あぁ、やっぱり! うちの娘も“あの香り”が好きでねぇ」
そんな会話が耳に入り、リオナの頬が思わず緩んだ。
ミレットの努力が、街の中にちゃんと根づいている。
そのことが、なぜだか自分のことのように嬉しかった。
通りを抜けて理容室の前まで来ると、扉の外には花を活けた木箱と、新しく描かれた看板が目に入った。
――《森の恵みの色と香り、あなたの髪に》。
ミレットの筆跡だ。
(この看板、あのこらしいわね……)
リオナはそっと扉を開けた。
中では、鏡の前で女性客たちが談笑し、柔らかな香草の香りが満ちている。
「いらっしゃい、リオナ」
奥から顔を出したミレットが、笑みを浮かべて手を振った。
「ミレット、忙しそうね。これ、セイジから頼まれてた染め薬」
「ありがとね、待ってたわ。この忙しさは――セイジさんのおかげよ」
ミレットは、染め液を含ませた刷毛を静かに滑らせていく。
客の髪がゆっくりと色を帯び、陽の光を受けて柔らかくきらめいた。
「いかがでしょうか?」
鏡の中の女性客が目を丸くする。
「すてき……! 香りも上品だし、こんなに滑らかになるなんて初めて」
その言葉に、リオナも小さく微笑んだ。
ミレットが鏡越しに彼女を見る。
「リオナの髪、ますます綺麗になってるわね」
「ありがとう。街を歩いてると、みんな髪のこと聞いてくるの」
「ふふ、それなら最高の宣伝ね」
ミレットが軽くウインクをすると、店の奥の棚に並ぶ瓶が光を受けてきらめいた。
それは“森の恵み”を詰め込んだガラス瓶。
香草の色、花の香り、そしてセイジが丹念に作り上げた液体たち。
「……ねぇ、リオナ」
「なに?」
「お客様を見てると、この街も少しずつ変わっていく気がするの。
リオナとセイジさんが森で作ったものが、ちゃんと人の手に届いて、みんなが笑ってる」
「うん。リルトの街も、少しずつ“動き出してる”感じがするわ」
リオナは優しく微笑んだ。
窓の外では、清掃員の若者たちが通りを磨き、子どもたちが笑い声を上げている。
あたたかな午後の光の中で、リルトという街がゆっくりと、確かに輝きを増していた。




