38
ギルドの第十二商談室には、まだ朝の光がやわらかく差し込んでいた。
窓際のカーテンが風に揺れ、磨かれた木の机の上に光の帯が落ちる。
青司は軽く息を整え、扉をノックして中へ入った。
「おはようございます」
すでに部屋にいたのは、クライヴとミレーネ、そして帳簿を開いていたエリン。
三人の表情には今日から仕事始めだという、やる気に満ちた明るさがあった。
「おはようございます、セイジさん。リオナさんも」
エリンが顔を上げ、微笑んだ。
リオナも軽く会釈を返す。毛並みを整えた耳が、朝の日差しを受けて柔らかく光っていた。
「昨日は本当にお疲れさま。領主様との話、上出来だったって聞いたわ」
ミレーネが椅子の背にもたれながら言う。
青司は少し照れたように笑い、軽く頭を掻いた。
「……ありがとうございます。おかげで、なんとか無事に終わりました」
「では、まずセイジさんから、今までどんな感じに仕事をしてきたか、教えてもらえませんか。もちろんギルド員だったのでおおよその把握はしているつもりですが」
クライヴが期待を込めた笑みを浮かべ、椅子にもたれた。
青司は少し考えてから、静かに言葉を選んだ。
「今までは……だいたい一週間くらい森で薬を作って、街には数日だけ滞在していましたけど……もう少し街にいる時間を増やすべきですかね?」
「でも、森にいるからこそ、いろいろ作れたんじゃない?」
リオナが口を挟む。
「素材を採ったり、生活に必要なものをセイジが考えたことが、街の人たちにも受け入れてもらえてるんだし」
「そうですね。セイジさんの作る品が、うちの一番の強みですから」
クライヴが腕を組みながら言う。
「ほら、もうセイジさんに面会したいって書簡がこんなに届いてる。――それだけ、商品が魅力的ってことですよ。ホヅミ商会の肝はセイジさんの商品開発力です。だから、森での生活が大事になるってことですね」
エリンが頷き、帳簿の端に指を置いた。
「そうね。じゃあ、セイジさんにはこれからも森と街を行き来してもらう形が、一番良さそうね」
青司は頷いた。
「うまく両立できる形を考えないとですかね」
「それなら、街と森を繋ぐ手段を整えましょう」
ミレーネが身を乗り出す。
「手紙を運ぶ信頼できる使いを雇うとか、伝書鷹を利用するとか。森の入り口近くに小さな拠点を置くのもいいかもしれないわ」
「在庫と帳簿も連動できるようにしたいですね」
エリンが紙をめくりながら言う。
「街に残る私たちが販売と記録を管理して、森にいるセイジさんが製造と研究を進める。両方がきちんと噛み合えば、安定します」
「セイジさんには森で商品開発を、街では商会長としての仕事をお願いします。俺は流通を見てみます」
クライヴが笑い、椅子の背に腕を預けた。
「森で作った薬を、どう街へ広めるか。その辺りの仕組みも考えてみます」
青司は一人ひとりの言葉を聞きながら、胸の奥で静かに熱を感じていた。
自分ひとりで始めた小さな暮らしが、こうして仲間の手によって広がろうとしている。
森の静けさも、街の喧騒も――どちらも大切にできる道が、きっとあるはずだ。
「……ありがとう、みんな。森は僕にとって帰る場所で、街はこれからを築く場所だ。どちらも繋げられるように、やってみよう」
その言葉に、リオナが静かに頷き、クライヴとミレーネが笑みを交わす。
エリンが小さく笑い、「では、次の段取りを整理しましょう。まずは書簡の確認を商会長にしてもらわないと」と言いながら、手紙を青司に手渡した。
窓の外では、朝の陽が少しずつ高くなっていく。
第十二商談室の空気は、昨日までとは違う熱を帯びていた。
森と街――二つの世界を結ぶ商会の、一歩目がいま、確かに動き出していた。
**************
――どうして、こうなった?
青司は思わず頭の中でそう呟いた。
商業ギルドの第十一商談室。
長机を囲む面々の顔ぶれを見渡せば、場違いな感覚を覚えるのも無理はない。
商業ギルド長のラシェル。宿組合長のディラン。理髪組合長のヴァン。そして石鹸職人のドナート。
さらに、ホヅミ商会からは青司とリオナ、クライヴ。そして理髪店のミレットまで顔をそろえていた。
ミレットは向かいの席のリオナに「どういうこと?」と口の動きだけで問いかける。
だがリオナも小さく首を傾げるばかり。
状況をいちばん把握していないのは、たぶんこの二人だ。
クライヴが軽く咳払いして、全員に視線を送った。
「……それでは、皆さんお集まりいただきありがとうございます。本日の会議の進行を務めさせていただく、ホヅミ商会のクライヴです。まずは、自己紹介から――」
静かな自己紹介が一巡し、再びクライヴが口を開いた。
「さて、今回の集まりの発端ですが――先日、商会に届いた書簡をギルドへ相談したところ、それをガラント副ギルド長が確認されまして。
その内容をラシェルギルド長に伝えた結果、“街の発展に関わる話になるかもしれない”との判断で、こうして関係各組合にもお声がけすることになりました」
青司は思わず、内心でため息をつく。
(いや、そんなつもりじゃなかったんだけどな……)
最初に口を開いたのは、宿組合長のディランだった。
ふっくらした頬を揺らしながらも、その瞳は商人としての鋭さを宿している。
「まず、宿屋の立場から言わせてもらいます」
ゆっくりとした口調だが、部屋の空気を自然と引き締める力があった。
「ギルドから紹介された“シャンプー”と“コンディショナー”、あれはどの宿でも評判がいい。旅人たちが“リルトでしか味わえない贅沢だ”と口を揃えて喜んでましてね」
そこで言葉を区切り、ディランはわずかに姿勢を正す。
「だからこそ、お願いしたい。――あの品は、街の外には出さないでほしいんです。
“リルトでしか手に入らない”という特別さこそが、街の価値を押し上げる。
この街の宿屋は、旅人に“もう一度訪れたい理由”を与える場所でありたいんですよ」
青司は少し身を引いた。まさか、そんな“独占”の話が出るとは思ってもいなかった。
続いて、理髪組合長のヴァンが落ち着いた声で言葉を継いだ。
「宿組合と同じく、理髪店でも評判は上々です。ただ――値が少々張る。庶民には手が出しづらいという声が多くてね。まずは、街の多くの人が恩恵を受けられるようにしてほしいのだが」
机の向こうで、ミレットが小さく眉を寄せた。
ヴァンはその仕草を見逃さず、ちらりと視線を送り、淡々と続ける。
「それともうひとつ。ミレットの店だけ“特別な品”を使っているのではないかと、他店から不満が上がっている。組合としても説明が求められている状況です」
ミレットが椅子から少し前のめりになった。
「そんなことありません! うちは正規のルートで、ホヅミ商会さんから仕入れてます!」
「落ち着きなさい、ミレット」
ヴァンが手を軽く上げてなだめる。
「あなたを疑っているわけではない。ただ、街全体のバランスを考えなければならないんです」
そのやり取りの最中、黙って腕を組んでいたドナートが、低くつぶやいた。
「量を増やせば、品質が落ちる。……俺は、それをしたくない」
一拍置いて、ゆっくりと顔を上げる。
「それに、うちの石鹸とセイジさんの物は――似ているようで、まったく別のものだ。そうだろ? うちの物に不満があるなら、無理に使ってもらわなくてもかまわない」
短い一言に、場の空気がぴたりと止まった。
無骨な石鹸職人の言葉には、妙な説得力があった。
青司は姿勢を正し、ゆっくりと口を開いた。
「先に契約させてもらったミレットの店には、僕が作った物を届けているのは確かです。ただ、僕が個人で作るには――どうしても限界があるんです」
静かな声ではあったが、その言葉の奥には責任を背負う覚悟と、周囲の反応を慎重にうかがう気配があった。
「……どういうことだ、それは?」
ヴァンが声を荒げる。
「理髪組合に属する店で、特定の店だけが特別な品を扱っているなど、あってはならん!」
クライヴがすぐに口を開いた。
「落ち着いてください、ヴァン組合長。製法や調合の詳細は商会の秘密です。ただ、これは不公平な特別扱いではありません。理髪店同士でも、技術を磨き合い、接客の工夫を重ねておられるでしょう。ですが、最終的に店ごとの個性が出るように――扱う品にも、それぞれの方針や特色があるだけのことです」
ヴァンは言葉を詰まらせ、眉をひそめた。
クライヴはその様子を見ても声の調子を崩さず、淡々と続ける。
「うちの商会長は、街の人たちに喜ばれる品質を保ったまま、供給量を増やす方法を常に模索しています。その一環として、石鹸職人のドナートさんと提携させていただいたのです。そして――ヴァン様もディラン様もおっしゃるように、街の皆さんには確かに喜んでいただけている。そうですよね?」
ヴァンはしばし黙り込み、指先で机を軽く叩いた。
「……なるほど。そこまで考えているのなら、こちらが口を挟むことではないかもしれんな」
そう言って背もたれに身を預けたが、その表情には、なお納得しきれぬ影が残っていた。
その沈黙を破ったのは、ラシェルの落ち着いた声だった。
「皆さんの意見、よくわかりました」
ラシェルは両手を机に置き、静かに場を見渡した。
「ですが――“街の独占”も、“値下げ競争”も、どちらも長くは続きません」
ひと呼吸おいて、柔らかいが確かな声で続ける。
「既に貴族夫人や令嬢たちの耳に入り、リルトへ足を向けようとしている方々の話も聞いています。そのため、私は領主に――“街を綺麗に整え、何度でも訪れたくなる場所に”とお願いをしているのです」
その一言で、全員の視線がラシェルに集まった。
「この街の宿と理髪店にしか、シャンプーとコンディショナーはありません。多くの貴族夫人と令嬢がリルトにやってくる前に――私からひとつ、提案があります」
ラシェルは微笑みを浮かべながら言葉を区切る。
「ホヅミ商会を中心に、“街のブランド”を確立することです」
「ブランド……?」とミレットが小声でつぶやいた。
ラシェルは静かに頷いた。
「“森の恵み”として、商会の商品群を一つの印で束ねましょう。
ミレットの店は、セイジさんが直接作る品を扱う“最先端の旗艦店”として、貴族御用達の専門店の誇りを持ってもらう。
他の理髪店では、貴族の従者や街で支払いにゆとりのある方々に“森の恵み”を使っていただく。
そのために――宿組合、理髪組合は、それぞれホヅミ商会と専用契約を結ぶ。
流通と品質の管理は、すべてホヅミ商会が一元的に担う形でいかがでしょう
ミレット、あなたに……その覚悟はありますか」
ミレットは一瞬だけ俯き、膝の上でそっと指を組んだ。
そして静かに息を整え、顔を上げる。
「――はい。まだ自信はありません。でも、セイジさんの品でお客様の笑顔を作っていく、その気持ちは変わりません」
その声は静かだったが、言葉の奥に確かな意志があった。
「セイジさんの作る品が“森の恵み”として広がっていくなら、私もその輪に入りたいんです。
どんなお客様にも胸を張って、“リルトの理髪師です”って言えるように。
街の名を背負うのは少し怖いけれど……それでも、やってみたいと思います」
その言葉に、室内の空気がわずかに引き締まった。
リオナが小さく頷き、青司も静かに息をついた。
クライヴが確認するように言葉を添える。
「つまり、街全体で“森の恵み”を生かした仕組みが動き出す、ということですね」
「ええ」
ラシェルは微笑みながら言葉を続けた。
「リルトを、ただの交易の街から、“森とともにある街”へ――そう発展させたいのです」
青司とリオナは思わず顔を見合わせた。
思っていたよりずっと――いや、かなり大きな話になっている。
(……いやいや、俺はただ、良いものを作りたかっただけなんだけどな)
青司は小さく息を吐き、椅子の背にもたれた。
目の前で交わされる言葉は、もう自分の想像を越えたところにある。
第十一商談室の空気は、静かに、しかし確かに“新しい街の形”へと動き出していた。
**************
午後の陽が傾きはじめた頃、リルトの市庁舎にある円卓室には、街を支える要人たちが集まっていた。
領主フィオレル・ド・ヴァルド子爵、清掃局長ベルマン、衛兵隊長グレッグ、商業ギルド長ラシェル。
そしてホヅミ商会の青司とクライヴ、染色職人のマルコット。
円卓の中央には、ラシェルが持ち込んだ地図と数枚の書簡が整然と並べられている。
「――それでは、始めましょうか」
ラシェルが静かに巻紙を広げた。
「既にご存知の方も多いかと思いますが、確認の意味を込めてお伝えします。最近、貴族夫人や令嬢たちがリルトへ足を運びたいと申し出ているのです。彼女たちの目当てはホヅミ商会の商品群――特に髪や肌を整える品々だそうです」
その言葉に、円卓の周囲がわずかにざわめいた。誰もが真剣な顔で互いを見渡し、今後の街の動向に思いを巡らせていた。
衛兵隊長グレッグが顎を撫でる。
「なるほど……それで、街の警備体制を見直す話に繋がるわけですかな」
「ええ。ただし、それだけでは不十分です」
ラシェルの声が一段階落ち着く。
「彼女たちは“美しさ”を求めてやってきます。街が清潔でなければ、一度来た人も二度と訪れません。
今後、リルトを“森とともにある街”として発展させるには、まず街そのものの印象を変える必要があります」
「森とともにある街?どういうことです?」
グレッグの言葉に周囲の参加者も、少し顔を見合わせる。誰もが同じ疑問を抱きつつ、ラシェルの説明を待っていた。
「ホヅミ商会の商品は森の恵みで作られているのです。そういった意味で、森とともにあるリルトの街は、さらに発展する機会があるのです」
ラシェルの言葉に、部屋の空気が少し引き締まる。
それはただの商談ではなく、街そのものの未来を形づくる話になりつつある――誰もが、そんな予感を抱き始めていた。
清掃局長のベルマンが、うんざりしたようにため息をついた。
「私が呼ばれたということは、街をさらに綺麗にしようということですよね。そうは言っても……清掃員の募集をかけても、誰もやりたがらないんですよ。人気のない仕事です。貧民街からなんとか二十三名を募って掃除をさせ始めたところです。
日が昇る前から動くし、汚れ仕事だ。若い連中は商会や衛兵に入りたがるばかりでね」
彼の顔には、街の清潔を守る責任の重さと、現実の厳しさが浮かんでいた。
隣に座っていたマルコットが手を挙げる。
「洗剤の提供は、ホヅミ商会を通して私が続けています。ですが、人手が増えなければ意味がありません。
街がきれいになれば、服の染め上がりだって映えるんです。……私は、この街の色を守りたいんですよ」
静かな言葉に、青司は少しうなずいた。
彼の中で、ひとつの考えが形を取りはじめる。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「若者に興味を持ってもらえるように、街で一番やりがいのある仕事にする、というのはどうでしょう」
円卓の上に、わずかな沈黙が落ちる。
フィオレが目を細め、ラシェルが興味深そうに首を傾げた。
「清掃員の人たちは、街の“顔”をつくる人たちです。
通りを歩く人たちが気持ちよく過ごせるのも、貴族夫人や令嬢が街に足を運ぶのも、彼らのおかげです。
だから、街の誰もが自然に感謝の言葉をかけられるような仕組みを作れたらどうでしょう。
“いつもきれいにしてくれてありがとう”――そんな声が溢れる街に」
青司は一呼吸おいて、続けた。
「それに、彼らは訪れた人の“思い出”を支える存在です。
街をきれいに保つことは、旅人がまた戻ってきたくなる理由になります。
規則を押し付けるのではなく、街のために自分に何ができるかを考えてもらえる――そんな誇りを持てる仕事にしてもらいたいと思います」
その場にいた全員が、思わず息を呑んだ。
マルコットは感心したように腕を組み、グレッグは口元を緩める。
「たとえば、衛兵隊が街を見回る際に、清掃員を褒めて感謝するということですかな」
「街の守護を担う方に感謝されれば、清掃員の方も誇らしいでしょう。それを見た子どもたちからも、感謝の言葉をもらえるようになるかもしれませんね」
クライヴの言葉に、周囲の面々も自然と頷き、場の空気が少し和らいだ。
「それはありがたい。彼らに誇りを持たせるなんて、考えもしなかった。汚れ仕事だからと、どんな格好でも気にしてなかったが……衛兵隊のように制服を作るのもいいかもしれない」
背もたれに身を預けていたベルマンの表情に、どこか安心した色が浮かんでいた。
やがて、フィオレルが小さく笑みを浮かべ、言葉を漏らした。
「……いい考えだな。街に出た時には、彼らに声をかけてみよう。もちろん衛兵にも。街の未来は、自分たちの手で作り変える。そのために、街にあるギルドや組合、全てに通達を出そう」
ラシェルもゆるやかに頷いた。
「“森の恵み”の商会が、街の誇りを生む――まさに理想的な形ですね」
窓の外では、午後の日差しが街の屋根を金色に照らしている。
その光の中で、青司は小さく息を吐いた。
(ただ良いものを作りたいと思っていただけなのに……気づけば、街づくりにまで関わることになるとはな)
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
リルトの街が、自分たちの手で少しずつ変わっていく――
そんな予感が、胸の奥に確かに灯っていた。




