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昼下がりの陽が傾き始めたころ、青司とリオナは商業ギルドの重厚な扉を押した。
以前よりも出入りする人の数が明らかに増えている。帳簿を抱えた商人や、宿屋の使いらしき若者たちが慌ただしく行き交い、受付前には列までできていた。
そんな喧噪の中、青司の姿を見つけたガラントが手を上げて近づいてくる。
「おお、セイジ殿! ちょうど良いところに来た。最近の街の様子、見ておられるだろうか? 領主様も動かれたんだ」
案内されたのは二階の応接室。
木彫の扉を開けると、香り高い紅茶と焼き菓子の香りがふわりと漂った。
ソファに腰かけていたのは、ラシェル・エルドレッド――ガラントの妻であり、このリルト商業ギルドの長にして、領主家とも親しいエルドレッド子爵家の当主だった。
「まあ、セイジさん。それにリオナさんも。久しぶりね」
ラシェルは立ち上がり、優雅な仕草で会釈する。その姿はいつ見ても隙がなく、金糸の髪は光を受けて柔らかく揺れていた。本人は白いものが混じってきたことを気にしているが、表に出すことはない。最近は、コンディショナーで艶やかになり自信を深めているほどである。
「街がなんだかずいぶん賑やかになりましたね」
青司がそう切り出すと、ガラントとラシェルは顔を見合わせ、同時に口元をほころばせた。
「――ふふ、気づかれました?実はね」とラシェル。
「お茶会で少し話したのよ。最近、リルトの空気が変わってきたって。――そのきっかけを作ったのが、セイジさんたちの“香りの品”だって噂になっているの」
青司が驚いたように目を瞬かせる。
ラシェルはくすりと笑い、紅茶のカップを置いた。
「先日のお茶会でね、貴族夫人たちが私の髪を見て『艶が違う』『どこの香油を使っているの?』って。あれはあなたの調合したシャンプーとコンディショナーのおかげでしょう? それ以来、皆が“リルトに行ってみたい”と言い始めて。観光でも物見遊山でも構わないけれど、人が動けば街が潤う。だから私は領主様に、“街の美観と衛生を整える好機です”と進言したの」
青司が頷くと、ガラントが誇らしげに続けた。
「それで行政にも働きかけてな。清掃局を新設し、貧民街の無就労者を雇い入れて街の掃除を始めたんだ。貧民街の治安も良くなって一石二鳥だぞ。もう少しすれば、“貧民街”なんて言葉もなくなるだろう。宿屋組合にも通達を出して、全宿に風呂を設置させる方針にした。もちろん、そこで使うのは君の石鹸とシャンプー、そして洗剤だ」
「なるほど……街が息を吹き返しているようですね」
青司は静かに微笑み、窓の外に目をやる。
商業区の先、通りの石畳は陽に反射して輝き、人々の声が穏やかに響いていた。
そのとき、ラシェルがふとリオナの方へ視線を向ける。
「……リオナさん。その髪の毛先、どの色も綺麗ね。まるで夏の陽射しを閉じ込めたみたい。それも、セイジさんの成果なの?」
リオナは頬を少し染めてうなずく。
「はい。森の植物から作った染め薬を、セイジが調合してくれたんです。陶器屋のお婆さんが白髪を気にしていたのを見て作ったんですよ。私は毛先だけお試しでつけただけですが、黒髪なので少し暗めに見えるんです」
ラシェルは前のめりになって感嘆する。
「まあ、なんて素敵。自然に染まるなんて! 私も使ってみたいわ。それにこれ、もし販売できるならミレットの店で取り扱うべきね」
ラシェルは少し目を輝かせ、具体的なイメージを語り始める。
「改装して、上流層向けの美容と香りの専門店にするの。内装は木目と大理石を基調にして、窓際にはハーブの鉢や花を飾る。香りは森や花の自然なものを感じさせて、シャンプーやコンディショナー、染め薬の効果も体験できるようにするの。美容と香り、両方の魅力を楽しんでもらうのよ」
青司が少し考え込むと、ガラントは笑って肩をすくめる。
「ほら出た、うちのラシェルが本気になるとこうだ。領主にも顔が利く。君の薬が街を変えたように、今度は文化を変える番かもしれんぞ」
ラシェルは微笑み、紅茶を口に運ぶ。
「本気よ。リルトを“香りと清らかさの街”にしたいの。セイジさん、力を貸してくれる?」
青司は一瞬迷い、それからゆっくりと頷いた。
「すでにミレットの店に専売契約もしています。人の暮らしを豊かにできる協力なら――それが一番嬉しいことです。ですが、ミレットとトーマがそれを望むかどうかはなんとも言えませんが」
ラシェルはゆっくりと頷き、目を細めて微笑んだ。
「もちろん、無理強いするつもりはないのよ。ただ、ミレットたちも、もし興味を持ってくれるなら、街の変化を感じながら一緒に楽しんでもらいたいのよね。香りと色で人々の生活が豊かになることを、二人にも体験してほしいのよ」
青司は軽く肩をすくめ、柔らかく笑った。
「なるほど……上流層向けの専門店として、街の理容店を引っ張る立場になるのなら、気持ちの持ちようも変わりますね。
ただ、あくまで“選択肢”として提案してもらえるなら、彼らが納得して進められると思います」
ラシェルはカップを置き、窓の外の商業区を眺めながら続けた。
「そうね、私たちと同じ選択をしてくれたら嬉しいのだけれど。
専門店にするなら、ただ商品を並べるだけではなく――五感に訴える空間にしたいの。森の香りを思わせるハーブや、木の温もりを感じる家具。光の差し込み方まで計算した窓……。御婦人やご令嬢が来るだけで心が落ち着く、そんな場所よ。施術のときは、香りや色の変化を楽しんでもらいながら、視覚も嗅覚も満たされる――少し贅沢なひとときを提供するの」
リオナは目を輝かせ、そっと青司の腕に触れる。
「……森の恵みが、街に生きてるのね」
ラシェルは再び微笑み、青司に向き直った。
「セイジさん、あなたの作るものと、その工夫があるからこそ、私たちはこうした店を形にできるのよ。無理に進めるつもりはありませんが、準備が整ったら、ぜひ二人の店と一緒にこの街を発展させるお手伝いをしてほしいの」
青司は静かに頷いた。
「わかりました。皆が納得する形であれば、喜んで協力します。それと、染め薬を用意していますので、よろしければ、ラシェル様にもお試しいただければ嬉しいです」
ラシェルは再びカップを手に取り、柔らかな笑みを浮かべた。
「嬉しい贈り物ね。それでは、少しずつ話を進めましょう。森の色と香りが、街の暮らしに新しい彩りをもたらす日を楽しみにしているわ」
ラシェルはカップを置き、柔らかな笑みを浮かべたまま、青司の方に視線を向けた。
「セイジさん、それとは無関係ではないお話があるのよ」
青司が静かに頷くと、ラシェルは声の調子をわずかに落としながら続けた。
「実は――領主のフィオレル子爵が、あなたと直接お会いしたいとおっしゃっているの。
あなたが手掛けた洗剤や香りの品が街の清掃局や宿屋組合、理髪組合にまで広がって、今ではリルトの生活そのものを変えつつあるのよ。
そして今度は“色”の技術まで加わった。……これらが街の整備や文化にどれほど大きな影響を与えているか、子爵にもぜひ知っていただきたいの」
青司は驚いたように瞬きをし、静かに息を整えた。
「領主……ですか。突然のことで、少し身構えてしまいますね」
ラシェルはその様子を見て、小さく笑いながら首を振った。
「心配はいらないわ。フィオレル子爵は、功績を誇る者よりも“人の役に立つ技”を尊ぶ方。
あなたのように、地道に人の暮らしを良くする仕事をされている方には、とても好意的なのよ。
むしろ、あなたのような人を探しておられたのかもしれないわ」
ガラントが腕を組み、にやりと笑う。
「領主が会いたがるなんて、めったにないことだ。……つまり、セイジ。お前のやってることが、街の柱の一つになってるってことだな」
青司は小さく息をつき、苦笑をこぼした。
「柱、ですか……少し荷が重い気もしますが、逃げるわけにもいきませんね」
ラシェルは満足げに頷き、穏やかな声で告げた。
「それでいいの。きっと話してみれば分かるわ――あなたの商品が、街の未来にどんな希望をもたらすかを」
ラシェルは柔らかく微笑んだまま、だがその視線は強く青司を捉えていた。
「それとね、もう迷っている場合じゃないわ。前にも話したけれど、商会の設立――これはもはや選択肢ではなく、必然よ。個人での取引では、あなたの作った商品が持つ価値を十分に守れない」
青司は指先でテーブルの縁をなぞり、眉を寄せる。
「商会……ですか。でも、自分にできるでしょうか……」
ラシェルは軽く息をつき、視線を外さずに続けた。
「できるわ。これまであなたが積み上げてきた信用と実績――それをそのままにしておくのは、もったいない。あなたの商品を、街の人々に安定して届けるためには、組織として形にするしかないの」
ガラントも腕を組み、うなずいた。
「ラシェルの言う通りだ。今のままでも十分価値はある。しかしな――ギルドに販売権があるのは契約上は問題ないが、公平中立を旨とするギルドの立場からすれば、いつまでも特定の商品を独占的に扱うのは難しい。
だからこそ、今のうちに商会を作り、自前の販路を築く時だ。そうすれば、ギルドも胸を張って支援できる」
青司は困惑しながらも、小さく息をついた。
「でも、責任も増えるのでは……」
ラシェルは少し前に身を乗り出し、言葉に力を込める。
「責任は増えるわ。でも、それ以上に得られる信頼と信用――そしてあなたが築いた価値を守る力は、計り知れない。今行動しなければ、この機会は逃げてしまうのよ」
ガラントも笑みを浮かべ、力強く付け加える。
「それとな、頭の痛い話だが――セイジが商会を作るのなら、ギルドを辞めてでも一緒に働きたいという者たちが名乗りを上げている。
それだけ君を信頼しているんだ。君一人じゃない、仲間と共に動ける」
リオナは静かに微笑み、青司の肩に軽く触れる。
「……セイジ、みんな、あなたの作ったものを信じてくれてるみたい」
青司は深く息を整え、ゆっくりと頷く。
「……わかりました。自分にできる範囲で、やってみます」
ラシェルはさらに一歩近づき、真っ直ぐな眼差しで言葉を添えた。
「焦る必要はないわ。けれど――あなたが築いた信頼を形にする、その時が“今”来たの」
**************
ガラントは執務机の脇にある小さな呼び鈴を鳴らした。
澄んだ金属音が室内に響くと、扉の向こうからすぐにノックの音が返る。
入ってきたのは、銀縁の眼鏡を掛けた中年の男――ギルドの司法担当官だった。
彼は几帳面な動きで書類の束を抱え、軽く一礼する。
「お呼びでしょうか、副ギルド長」
「ああ、すまん。セイジ氏だ。新たに商会設立を検討している」
その言葉に、興味深げに青司の方へ視線を向けた。
机の上に書類を整然と並べ、手際よくペンを走らせながら尋ねる。
「商会名、そして代表者のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか。もちろん、まだ仮の段階でも構いません」
「商会……名、ですか」
青司は思わずリオナの方を見た。
リオナはわずかに目を見開き、けれどすぐに、静かに頷いた。
その小さな動きに、青司の肩の力がほんの少し抜ける。
その様子を見て、ラシェルが優しく口を開いた。
「焦らなくていいの。まずは“仮登録”よ。今後の活動を法的に保護するための手続きだから」
「はい……。えっと、その、名は――ホヅミでお願いします」
青司の声はわずかに震えていたが、その目は真っすぐだった。
担当官は頷き、淡々と説明を続けた。
「商会を設立するには、代表者証明と保証人、それから初期資本の申告が必要です。通常は三名の保証が求められますが……」
「その点は心配いらないわ」
ラシェルが静かに言い、机の上に一枚の紙を差し出した。
「私たち二人と、染色職人のマルコットが保証人になります。――彼からの委任状も、もう受け取っているわ」
「それと、初期資本の件だが」
ガラントが青司に視線を向けた。
「今週の売り上げで十分にまかなえるはずだ。ちゃんと生活費以上の稼ぎは残るから、それで構わないか?」
「そんなに……。まさか、そこまで考えてくださっていたとは。――はい、それでお願いします」
「では、それで頼む」
ガラントがうなずくと、担当官は少し目を見開いた。
「ギルド長夫妻の連名保証とは……非常に異例ですが、問題ありません。領主府への提出書類もこちらで整えておきます」
ラシェルが紅茶を口にしながら、柔らかく笑う。
「セイジさん、あなたの活動が街の整備や衛生、そして商業の発展にまで及んでいるのは、誰の目にも明らかよ。私たちが保証するのは当然のことなの」
青司は少しだけ戸惑いながらも、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。こんなに早く話が進むとは思っていませんでした」
担当官は軽く眼鏡を押し上げ、書類を青司の前に差し出した。
「こちらが設立登記の書式です。ご署名を――代表者として」
羽ペンを受け取る青司の手が、わずかに震えた。
インクの先が紙に触れると、淡い音が室内に響く。
その瞬間、ひとつの新しい商会が――静かに、この街に産声を上げようとしていた。
署名を終えると、ガラントが満足そうに頷く。
「よし、これで“森の恵み”が正式に街の力になる。セイジ、これからが本番だぞ」
青司は深く息をつき、静かに微笑んだ。
「……はい。自分の持っている技術や工夫を、街の暮らしに生かせるように、力を尽くします」
ラシェルは満足げに微笑み、ティーカップを掲げた。
「新しい始まりに――乾杯とはいかないけれど、祝福を」
その言葉に、リオナもそっと微笑んだ。
窓の外では初夏の光が傾き、リルトの街の屋根瓦が金色に染まっていく。
その光の中で、ホヅミ商会の最初の一歩が、静かに刻まれた。
ギルドの扉を押し開けると、ひんやりとした夕暮れの風が頬をなでた。
街のざわめきは一段落し、石畳を行き交う人々の影が長く伸びている。
青司は胸いっぱいに外の空気を吸い込み、ようやく肩の力を抜いた。
「……終わった、のかな」
小さくこぼすと、隣のリオナがほっとしたように笑う。
「うん。すごく緊張してたみたいね、セイジ」
「まあ……人生で初めて、“商会代表”なんて名で書類にサインしたからな」
二人の間に、小さな笑いがこぼれた。
それだけで、張りつめていた心が少しずつ溶けていく。
背後から、柔らかな声が響いた。
「お二人とも、本当にお疲れさま」
振り向くと、ラシェルがギルドの玄関口に立っていた。
夕陽を受けた金の髪が、やわらかく光を返している。
「今日のことは、きっと新しい一歩になるわ。
もしよければ、このあと軽くお祝いの食事でも――」
その申し出に、青司は一瞬迷い、そして控えめに首を振った。
「お気持ちはとても嬉しいです。でも今日は……少し落ち着いて、考えたいんです」
ラシェルはすぐに頷き、穏やかに微笑む。
「ええ、そうね。今日という日は、心にしまっておく方がいいかもしれないわ。
また後日、きちんとお祝いしましょう」
「ありがとうございます」
「ありがとう、ラシェルさん」
彼女は軽く手を振り、ギルドの中へ戻っていった。
残された青司は、ゆっくりと空を見上げる。
西の空は茜から群青へと変わりつつあり、遠くの屋根の上に一番星が瞬いていた。
「……帰ろうか、リオナ」
「うん。――今日は、いい日だったね」
二人は並んで歩き出す。
石畳を踏む音が、やわらかく夜の街に溶けていった。




