33
朝の森は、露の光がまだやわらかかった。
青司は玄関の前で、腰に小さな革袋を吊るす。中には採取用の瓶とナイフ、それに小さな筆記帳。
木枠のベッドもようやく完成し、ここ数日は街への納品物の準備に集中していた。その甲斐あって必要な数はそろい、今朝は久しぶりに時間に追われない穏やかな朝だった。
「ねえセイジ、一緒に森の散策は久しぶりね」
髪も肌も艶やかなリオナが、機嫌よさそうに声をかけた。
「リオナ、藍果の木がある場所に案内してもらえないか? 染料になりそうな植物を探したいんだ」
青司は、リオナと出かけるのを楽しみにしている様子でそう告げた。
「染料……って、服を染めるの?」
「いや、髪を。――染め薬を作れないかと思って」
リオナがぱちりと目を瞬かせる。
「髪を、染める?」
「街でさ、陶器屋のお婆さんとラシェルギルド長がそんな話をしてただろ? 覚えてるか?白くなった髪を気にしてただろ?もし自然の色を取り戻す薬があれば、喜んでもらえると思ってな」
「ふふ、セイジらしいね」
リオナは笑い、尻尾を軽く揺らした。「薬って、痛みを治すものだと思ってたけど……心を元気にする薬も、あるのかもね」
ふたりは森の小道を進む。
木々の間を渡る風が心地よく、角兎――小さな角を持つ敏捷な獣――が茂みの間をぴょんぴょん跳ねて駆け抜ける。鳥のさえずりも近く遠くへ響き、森は生き生きと息づいていた。
リオナの案内で青司は地面を見ながら歩き、根元に小さな赤紫の実を見つけた。
「これだ、藍果の木。果皮に強い色素があるってマルコさんが言ってたんだ。布を染めたら深い青になるはずだ」
「マルコットさんは、もともと染料職人だったわね。けど、髪にも色がつくの?」
「試してみないとわからないけど……魔力を媒介にすれば、繊維と同じように定着させられるかもしれない」
リオナが枝を折り、指先で果実を潰す。
にじむ汁が指を濃い紫に染めた。
「わ、すごい。こんなに濃い色なのね」
「うん。自然の色は強い。薬草でも同じだけど、抽出と濃縮が肝心だ」
青司は瓶を取り出し、数個の実を採取する。上手く行けば荷車を引いてきて多めに採取すれば良い。
そのまま森の奥へ進むと、今度は日差しの差し込む斜面で、細長い赤い葉の草を見つけた。
「これは紅草。煮ると橙色に変わる。混ぜ方と温度次第で、茶にも紅にもなる」
「へえ……色にも調合があるのね」
「薬と同じさ。分量と順序が違えば、まったく別のものになる」
リオナは嬉しそうに頷き、籠に草を詰めていった。
ときおり彼女の尻尾が、陽光を反射して柔らかく揺れる。
「ねえセイジ、わたしの髪で試してみる?」
「いいのか?」
「うん。毛先だけなら目立たないし……少しくらい、セイジの役に立ちたいじゃない?」
青司は苦笑しながらも頷いた。
「いつもありがとな。じゃあ、帰ったら試してみよう。藍果と紅草、両方の色を調べておきたい」
帰り道、森の奥からは水の音が聞こえた。
小さな泉のほとりで、青司は空瓶の蓋を外し、泉の水と魔力を少しずつ流し込んでいく。
水面に藍果の汁を垂らすと、静かに渦を巻き、淡い光が走った。
「魔力で色が“生きてる”みたいだな」
「ほんとだ……まるで森の息みたい」
青司は微笑んで瓶を閉じる。
「マルコの話しだと染料は“死んだ色”になりやすいらしい。けど、こうして魔力を馴染ませれば、自然の輝きが残るって話しだった」
「それが、人の髪にうつるのね」
「そうだな。髪って、女性にとって大事なものだろ。
でも、よく考えたら、髪とか肌って、体の外に出た“生命の記録”みたいなもんだと思うんだ。
その記録を、少しでも明るくできたら……気持ちも軽くなる気がしてさ。そこに森の色を宿せたら……ちょっと素敵だろ?」
リオナは目を細め、頬を緩めた。
「街の人、きっと喜ぶよ。森の色を持ち帰れるなんて」
「……ああ。色を取り戻す薬じゃなくて、“心を明るくする薬”になるといい」
家に戻る頃には、太陽は高く昇っていた。
青司はすぐに作業台に瓶を並べ、火を起こす。
果実を潰し、紅草を刻み、ゆっくりと煮出す。
湯気とともに、部屋いっぱいに香りが広がった。
「これ、なんだかお茶みたいな匂いね」
「うん。植物の色は香りとも繋がってる。色と香り、どちらも心に届くよな」
煮詰めた液を濾し、透明瓶に移す。
青司は小さく魔力を送り、液体の表面に青と赤が混じり合う様子を見つめた。
「……面白いな。温度と魔力の流し方で、色が変わる」
「まるで絵を描いてるみたい」
「薬づくりは絵と似てるな。色、香り、形、ぜんぶ調和してこそ“生きた薬”になる」
リオナが興味津々に身を乗り出す。
「ねえ、毛先に試してみる?」
「あぁ、ありがたく試させてもらう。」
青司は筆を取り、リオナの黒い毛先に一滴落とした。
数秒ののち、黒だった毛先に淡い紅茶色が滲みはじめ、光を受けてやわらかく輝く。
「……わ、ほんとに変わった!」
リオナが手で毛先をそっと撫でると、柔らかさと温もりが指先に伝わった。
「森の色が、私の髪にも宿ったみたい……」
青司は微笑み、魔力の定着を確認しながら頷いた。
「うん。これなら、明日になっても色褪せずに残るはずだ」
リオナの目に小さな喜びの光が揺れ、森の柔らかい日差しに髪の紅茶色がほんのり輝いた。
「魔力が定着したな。すぐに色褪せないか、明日また見てみよう」
「うん。ちょっと嬉しいな。森の色を身につけてるみたい」
その言葉に、青司は静かに笑った。
薬師としての技術が、誰かの笑顔につながる――それは、何よりの報酬だ。
森の木漏れ日が窓から差し込み、リオナの髪の紅茶色がやわらかく光を返す。
「この色なら、街でもきっと喜ばれると思わないか」
「うん。特に、あの陶器屋のおばあちゃんに」
「そうだな……次にリルトへ行くとき、持っていこう。森の色の“贈り物”として」
青司は瓶の蓋を閉じ、机の上に整然と並べた。
藍、茶、橙、緑の幅広いグラデーション――どれも森から生まれた命の色。
風が窓を抜け、草木の匂いを運ぶ。
リオナは尻尾を揺らしながら、ふっとつぶやいた。
「ねぇセイジ。森って、やっぱり生きてるね」
青司は頷いた。
「そうだ。人も森も、色を持って生きてる。――だからこそ、混ざり合えるんだ」
その日、青司の小さな工房には、薬草の香りではなく、
森の“色”が満ちていた。
その日から数日間、青司は森での色の調合を繰り返した。藍果や紅草、黄色の花や緑の葉――それぞれの色素を抽出し、濃度や温度、魔力の量を調整しては瓶に閉じ込める。リオナはその間、森を駆け回り、角兎や山鳥、時には鹿や猪を探して過ごしていた。朝は湖で青司と水汲みをし、昼には木陰で昼寝をし、夕暮れには獲物を仕留める。その合間には青司の実験にも興味を示し、毛先や腕に少し色を付けて、その変化を楽しむのだった。
森の匂いと光に包まれた日々のなか、二人はゆっくりと呼吸を合わせ、森の時間に溶け込んでいった。青司の実験は少しずつ成果を重ね、自然の色が生き生きと瓶の中に宿るようになった。リオナの毛先も日に日に鮮やかになり、森の色をほんの少し体にまとっているように見えた。
そして、ある朝。太陽が高く昇り、森の光が全体を照らす中、青司は瓶を整然と机に並べ、深呼吸をした。
「よし……準備は整ったな」
「じゃあ、今日は街へ行く日ね」
リオナは弓と小さな荷物を背負い、笑顔で頷いた。
二人は森の小道を抜け、荷車を押しながらリルトの街へ向かう。瓶の中には森の色が閉じ込められ、街の人々の髪や心を明るくする“商品”としての準備が整っていた。森の匂いと光の記憶を胸に、青司とリオナは、新しい日々に向けて一歩を踏み出す――静かに、しかし確かに。
街に着く頃には、昼の陽射しが石畳を温め、商店の軒先には、行き交う人々の影が揺れていた。
ブラシを泡立つバケツに入れ、ゴシゴシと床を擦る――見慣れぬ人たちの姿もある。
荷車を押していた青司は、ふと隣のリオナに目をやった。
黒い毛先にうっすら紅茶色のグラデーションがかかる髪が、陽光を受けて柔らかく輝いている。
リオナは小さく笑い、肩をすくめた。
「森の色、街でも喜んでもらえるといいね」
「うん。まずはミレットの店からだな」
店に入ろうとすると理髪を終えた女性客が、髪を軽く揺らしながら笑顔で店の扉を開けた。シャンプーとコンディショナーの甘く香ばしい匂いがふんわり漂い、店内の柔らかな空気を運ぶ。
「わぁ、髪がふわふわ! 思った以上にサラサラだわ!」
女性は嬉しそうに手ぐしを通し、顔を輝かせた。
「おお、セイジさん、リオナ! ようやく来てくれたか!」
ミレットとトーマの顔がぱっと明るくなり、青司たちを温かく迎えた。
「最近は、朝からずっと予約が埋まって、夕食時を過ぎでもお客さんが途切れないんだ。シャンプーとコンディショナーのおかげで、街中でも評判になってるよ」
ミレットが嬉しそうに説明すると、トーマも頷きながら、棚に並んだ瓶を見つめる。光を受けて微かに揺れる色とりどりの瓶が、まるで森の宝石のようだった。
「荷物を届けにきました。今、確かめられますか」
「もちろんだよ。もうすぐ、シャンプーもコンディショナーも品切れになるところだったんだ。待ちわびたさ」
トーマの笑顔と言葉に青司は荷車から瓶を慎重に降ろし、棚の上に整然と並べた。
シャンプー、コンディショナー、並んだ色とりどりの瓶が、店内の光を受けて微かに揺れる。
「こんなにたくさん……助かるよ、セイジさん」
トーマが目を丸くする。
「以前は日に十七、八人くらいのお客様だったのよ。
それがシャンプーとコンディショナーのおかげで、最近は三十人近くに増えたの。
予約を取ってもらわないと対応できなくて――お断りするお客様も出始めたくらいなの」
ミレットも嬉しそうに言う。二人は嬉しい悲鳴とともに、店の奥で手を取り合って笑った。
「これから上客が街に集まってくるから」――そう言って、ギルド長は王都から見習いと即戦力の理容師を引き抜いてくるという話をしていた。
その知らせを聞いたのは、ほんの数日前のことだ。
ミレットとトーマは顔を見合わせる。
喜ばしい話ではあったが、どこか胸の奥に小さなざわめきが残った。
店を回すためには必要なことだと分かっている。
それでも、慣れ親しんだ二人のリズムが変わることへの不安は、どうしても消えず――そんな胸の内を、青司とリオナにそっとこぼしていた。
「大変だろうけど、焦らずやればきっと大丈夫だよ」
青司が目を細め、落ち着いた声をかけると
「無理に変えようとしなくても、ちゃんと形になるわよ」
リオナは優しく微笑み、二人を見つめた。
その言葉に、二人の肩の力がふっと抜け、胸に少しだけ安堵が広がった。
そのとき、リオナの髪に視線が向けられた。黒髪の毛先が、ほんのり紅茶色に染まっている。
「リオナ、その髪……どうしたの?」
ミレットが目を輝かせる。
「ミレットに見せたくて、毛先だけ試してきたの。セイジが森で調合してくれた髪の毛を染める染め薬のおかげよ」
「染め薬?」
ミレットとトーマが聞いたことがないという顔をする。
「白髪で困っている人に、自然な色味を出せないかと思って作ってみました。ただ、人によって発色や定着に差が出るかもしれないですね」
青司は説明を添える。
「黒髪のリオナの髪にも色が定着したので、髪色を変えたい人に楽しんでもらえるかなと思います。
お客様にいきなり使う前に、まず試してみる必要があるかもですね。
で、これが染め薬です」
青司が染め薬を並べると、ミレットとトーマは瓶を手に取り顔を見合わせる。
「わあ、それいいわ! シャンプーとコンディショナーと同じように、うちに専売契約してもらえる?」
「もちろん。リオナの親友のミレットですからね。森の色をそのまま届けることができれば、お客さんにきっと喜んでもらえると思う」青司も微笑む。
その後、店の奥で手早く棚に並べられた瓶は、光に揺れる宝石のようだった。ミレットとトーマはそれを見つめ、頷き合う。
「これで、二人の店も、もっと多くの人に喜んでもらえるな」
トーマが言う。
「ええ……森の恵みが、街の人たちの笑顔につながるなんて、素敵ね」
ミレットも静かに微笑む。
青司とリオナは荷物を整理し終えると、店の外に出た。石畳の上に差す陽射しが、森で見た光と同じように、柔らかく二人を包む。青司はリオナの髪に目をやり、微笑みを返した。
「お客さん、たくさんいたな」
「うん。セイジの作ったもの、喜ばれると思ってた。……ねえ、毛先の色も、街の人に喜んでもらえそうだね」
**************
昼下がり、青司とリオナは石畳の道を進み、街外れにあるマルコットの工房の扉を押した。
木の香りとハーブのほのかな匂いが漂い、工房の中には泡立つ大きな桶がいくつも並んでいる。
「おお、セイジ、リオナさん! ちょうど作業中だったところだ、よく来てくれた!」
マルコットは手を拭きながら、汗を光らせて笑顔を見せた。
奥の方では、貧民街から雇われた人々が泡立てた液を桶に流し込み、木のスプーンでかき混ぜている。
「すごい人手ですね。雇ったんですか?」
リオナが窓の外を指さす。通りでは、数十人の掃除人たちがブラシやバケツを手に、石畳をせっせと磨いていた。
「うちじゃない、うちじゃない。役場が清掃局を作って、街の掃除を強化し始めたんだ。どうやら領主の指示らしい。
おかげで、うちの洗剤も清掃局に飛ぶように売れてな。もうフル稼働さ」
マルコットは息を切らしながらも、どこか誇らしげに笑う。
「人手が足りなくて、ガラントさんに紹介してもらったんだ。ギルドの紹介なら安心だからな」
「ちょっと前までは、セイジから教えてもらった調合で、一日数百本作れれば十分だったんだが、今じゃ十倍以上。まさに嬉しい悲鳴ってやつだよ!」
マルコットは笑いながら汗を拭った。
青司は荷車に並ぶ瓶を見やり、口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「森で作った色や香りが、街の暮らしにも活きているな」
リオナも窓の外の掃除人たちを眺めて、そっとつぶやいた。
「森の水や植物、セイジの知識が……こんな形で街に届くなんて。不思議ね」
「セイジ、見てくれ!」
マルコットが手を振りながら大声で呼ぶ。
二人が振り向くと、工房の奥では、洗剤の入った桶を次々に移し替え、雇われた人たちが手際よく瓶詰めしていた。
「これで今日だけで千本以上は出荷できそうだ。街の掃除も、これでだいぶ進むはずさ」
「すごい……森の恵みが、街の人々の生活を支えてるのが目に見えるわね」
青司は穏やかに頷き、リオナの方を見た。黒髪の毛先がうっすら紅茶色に光を受け、柔らかく揺れている。
「セイジの作ったものが、街の人たちの暮らしに役立っている……誇らしいわね」
リオナは微笑みながら工房の様子を見渡した。
泡立つ洗剤、忙しく働く人々、外で掃除に励む市民の姿が――まるで一つの大きな循環を描いているようだった。
マルコットは肩をすくめ、少し照れくさそうに笑う。
「セイジ、まさかここまでになるとは思わなかったよ。森の植物と魔力の力、そして君の工夫があってこそだ。いやあ、嬉しい悲鳴だな」
青司は荷車のそばで静かに微笑み、リオナと顔を見合わせた。
森で培った知識が、街の清掃や人々の暮らしに姿を変えて広がっていく――
その確かさが、二人の胸を静かに満たしていた。




