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 森の家に戻った翌日。

 街の喧騒が抜けきらないうちに、青司は次の作業に取りかかっていた。


 テーブルの上には、宿で使われていた寝具を思い出しながら描いた設計図。

 紙の上に鉛筆の線が走り、ベッドの形が少しずつ形を成していく。


 「やっぱり、ベッドっていいな……」


 ぽつりとこぼれた言葉に、台所で食材を仕分けしていたリオナが耳をぴくりと動かした。


 「宿のベッドのこと?」

 「うん。あれに寝たら、腰がすごく楽でさ。この家の寝具も見直そうと思って」

 「藁の布団、嫌いじゃないけど……確かにちょっとガサガサするのよね」

 「だろ? だから、リルトで綿の布団を二組、買っておいたんだ」


 青司は荷車の上に積まれていた包みを指さした。

 厚手の布に包まれたそれは、街の宿で使われていた寝具に比べてもずいぶん立派だった。

 リオナが目を丸くして近づく。


 「え、……あれのこと?……荷台に乗せてた大きな包み。それって、もしかして……すごく高いやつじゃない?」

 「ちょっと奮発した。でも、どうせ長く使うものだしな。リオナの分もある」

 「わ、私のも!?」


 彼女の尻尾がふわりと立ち、頬がわずかに赤くなった。

 青司は苦笑して首をかしげる。


 「宿のベッドをあれだけ使ったら、藁で寝るのは、ちょっと辛いだろ? 俺もだよ」

 「……うん。ありがとう、セイジ」


 照れくさそうに笑ったリオナを見て、青司も思わず笑みを返す。

 森に帰ってきてから、空気が柔らかく感じるのは、きっと彼女がそうして笑ってくれるからだろう。


 青司は立ち上がり、外へ出た。

 森の風が心地よい。木々の隙間から射す陽の光が、柔らかく地面を照らしていた。

 家の裏には、先日の木工で使い残した丸太がいくつも積んである。

 「……あの樫なら、丈夫で軋まないはずだな」


 彼は斧を手に取り、皮を削ぎながら寸法を測りはじめた。

 木の香りが立ちのぼる。錬金術で乾かした木肌の感触は、石や鉄とはまるで違う、穏やかな温もりを持っていた。


 「セイジ、手伝おうか?」

 「助かる。じゃあ、これ持っててくれ」


 リオナは木屑が飛ばないように少し離れながら、削られた木片を集めていく。

 木を削るたびに、ぱらぱらと木屑が落ち、陽の光を受けて金色に輝いた。


 「この木、いい匂いするね」

 「樫の木だ。丈夫で、虫にも強い。少し重いけど、長く使える」

 「セイジが作るなら、きっと立派なのができるね」

 「どうかな。真っ直ぐ切れるかどうかは、腕次第だ」

(……まあ、生産技術(チートスキル)のことは黙っておこう)


 軽口を交わしながらも、青司の手つきは真剣だった。

 木の節を確かめ、削りの方向を変えるたびに刃の角度を微調整する。

 森に来る前――覚えのない誰かと話して手に入れた生産技術スキルが、頭と身体に染みついている。


 やがて日が傾き始めた頃、ベッドの枠が形になってきた。

 リオナは薪を足しながら、鍋でスープを温めている。

 その香りが、削った木の匂いと混ざり合って家の中に広がった。


 「今日のところは、ここまでかな」

 青司が額の汗を拭って腰を伸ばすと、リオナが顔を上げた。

 「もうできそう?」

 「明日、組み立てて磨いたら完成だ。綿の布団も試しに広げてみるか」


 ふたりで布団を広げると、柔らかい白い生地が夕暮れの光を受けてほのかに輝いた。

 触れた指先に、宿の記憶がよみがえる。

 リオナも手を添え、感触を確かめるように目を細めた。


 「ふわふわ……藁とは全然違う」

 「だろ? 寝心地は保証する」

 「うん。でも……」

 「でも?」

 「ちょっともったいない気もする。森の中で、こんなにきれいな布団使うなんて」


 青司は笑って肩をすくめた。

 「たまにはいいだろ。ちょっと贅沢するのも」

 「そうね。でも、セイジにいろいろ作ってもらって、もう十分贅沢してると思ってるのよ」


 「俺のほうこそ、毎日うまいもの作ってもらってありがたいけどな」


 リオナは少し頬をゆるめて、布団に視線を落とした。

 「けど、木のベッドにこの布団がのったら……きっとすごくいいね」


 「そうだな」


 窓の外では、森の影が濃くなり始めていた。

 夕陽の赤が枝葉の間を抜け、家の中にゆらめく光を落とす。

 薪のはぜる音とともに、静かな夜が近づいていた。


 スープをすすりながら、リオナがふと呟く。

 「街の人たちは、もうベッドが当たり前なのよね」

 「ああ。でも、森の暮らしも悪くない。自分の手で作ったものに囲まれてると、落ち着く」

 「わかる気がする。……私も、この家がどんどん居心地よくなっていくの、うれしい」


 青司はスプーンを置き、窓の外を見やった。

 森の向こうには、リルトの街の灯が遠くにかすんで見える。

 そこからまた、新しい仕事が始まるだろう。

 けれど、どんなに街で人と関わっても――帰る場所はここだ。


 「明日は、いいベッドを完成させるからな」

 「うん」


 リオナが微笑む。

 その尻尾がゆったりと揺れ、薪の火がその影を壁に映した。


 青司は静かにカップを手に取り、温かな湯気を見つめた。

 森の匂い、木のぬくもり、誰かと分かち合う穏やかな時間。

 それは、街で得た成功よりも、確かに自分を支えてくれるものだった。


 外では、風が木々を揺らしていた。

 夜の静けさの中で、青司はふと、木の香りに包まれた未来を思い描いた。


 夜がすっかり降りるころ、東屋の湯から立ちのぼる湯気が夜気に溶けていた。

 桶の中に香草と石鹸を溶かすと、ほのかに甘い香りが立ちのぼる。

 青司が作ったばかりのシャンプーとコンディショナーを使っていた。


 先に入ったリオナが髪を洗うと、猫の毛のように柔らかい耳がしっとりと濡れて、月明かりを受けて輝いた。

 「これ……何度使っても、すごくいい匂い……髪の毛も艶がでるし」

 彼女が目を細めて笑う。その笑みを見て、青司も思わず肩の力を抜いた。


 湯気の向こうで、森の夜風が木々を揺らす。

 遠くで梟が鳴き、焚き火が静かに爆ぜた。

 街の石鹸職人たちが苦労して学び、作り上げた技術。

 その香りが、街の人たちの暮らしを包む日も、そう遠くはない。

 ――青司は与えられたものを、少しずつ街へ返していく。

 それもまた、彼の楽しみになりつつあった。


 湯から上がるころには、森の空気さえ少し甘く感じた。

 リオナの髪がふわりと香り、青司は小さく息をついた。


 「いい夜だな」

 「うん。……この匂い、好き」


 東屋の灯りがゆらめき、ふたりの影を静かに照らしていた。



**************



 翌日の朝、森には澄んだ光が差し込んでいた。

 木の葉に残る露がきらめき、家の前では青司が木槌を手にしていた。


 「……よし、これで最後だな」


 樫の木で組んだベッドの枠を溝に嵌め込み、最後のダボを叩き込む。

 昨日乾かしておいた板がぴたりと合わさり、軽く揺すっても軋む気配がない。

 青司は満足そうに手を離し、深く息をついた。木の香りが鼻をくすぐる。


 リオナが寝室を覗きこみ、ぱっと顔を輝かせる。

 「すごい……ほんとに出来たんだね!」

 「ちゃんと二台。どっちも同じ高さにしてある」

 「うわぁ……布団、のせてみてもいい?」

 「ああ、頼む」


 ふたりで布団を広げると、柔らかな白布が陽の光を受けてふんわりと膨らんだ。

 リオナは手のひらで押して、頬を寄せるように笑う。

 「これなら、ぐっすり眠れそう」

 「腰にも優しいはずだよ。宿で寝たあの感覚を思い出して作ったからな」

 「ふふ、じゃあ今夜が楽しみだね」


 その笑顔を見て、青司もつい口元をゆるめる。

 木の温もりに包まれた家は、少しずつ「生活の形」を帯びはじめていた。


 午前中、青司は作業場にこもって薬瓶と道具を並べた。

 乾燥させておいた薬草をすり鉢に入れ、乳鉢で細かく砕く。

 薬の調合だけでなく、今日は入浴用品の補充もある。

 森の木のみから抽出した油と香草を混ぜた石鹸に、シャンプーとコンディショナー。

 透明な瓶に魔力で整えた液を詰めながら、青司はミレットの顔を思い出していた。


 「これを次の納品に持っていけば、きっと喜ぶな」


 リオナは朝から外に出ていた。

 弓と短剣を背に、森の奥へと向かう姿は軽やかで、耳も尻尾も弾むように動いていた。

 「久しぶりの狩りだから!」と笑って出て行った彼女の背を、青司は手を振って見送った。

 森に暮らしはじめてからというもの、リオナの笑顔がいちばん生き生きして見えるのは、獲物を追う時かもしれない。


 青司はその間、ひたすら手を動かした。

 薬草の香りが立ちのぼり、窓の外では木漏れ日が揺れる。

 調合の音と小鳥のさえずりが混ざり合う、静かな時間。

 ときおり休憩を取りながら、瓶の栓をひとつずつ丁寧に締めていった。


 午後も半ばを過ぎたころ、家の外が少しざわついた。

 風に混じって、聞き慣れた足音と、草を踏む重たい響きが近づいてくる。

 青司が外へ出ると、そこには息を切らしたリオナがいた。

 背中の荷台には、巨大な獣が横たわっている。

 「角猪つのいのししか……! 重たかっただろ」

 「うん。森の北の沢の近くで見つけたの。ちょっと手こずったけど、なんとか仕留めてきたのよ」


 リオナは笑いながらも、額には汗が滲み、尻尾の先が疲れたように揺れていた。

 青司は思わず近づき、その背負子を受け取るように支える。

 「無理すんなよ。角猪は下手したら大人の男でも一人じゃ運べないぞ」

 「ふふ、もう慣れてるから平気。けど……ちょっと腕がぷるぷるしてるかも」


 角猪――猪が魔物化した危険な獣。

 額には黒鉄のような角があり、体毛の間にはほのかに魔力の光が揺らめいていた。

 だが、リオナの矢は正確に急所を射抜いている。

 青司はその見事な腕前に目を見張った。


 「すごいな……数日のブランクは関係ないみたいだな」

 「そりゃ、長いこと狩りをしてきてるんだから。身体が覚えてるわよ」

 リオナは笑い、額の汗を拭った。

 尻尾が満足げに揺れる。その顔には誇らしさがあった。


 「角猪は魔力を溜め込む分、肉の味も濃いんだ。しっかり血抜きすれば絶品だよ」

 「へぇ、楽しみだな。今夜はごちそうになりそうだ」


 ふたりで協力して枝を渡して滑車のように角猪を吊るし、処理を進めていく。

 青司が水を運び、リオナが素早く皮を剥いでいく。

 陽が傾くころには、赤い肉塊が吊るされ、焚き火の煙が静かに立ちのぼった。


 「ベッドも完成、角猪も仕留めた。今日は、なんだかいい日だな」

 「うん。家の中も森も、ちょっとずつ整ってきてる気がする」


 リオナは焚き火の火を見つめながら、微笑んだ。

 その横顔を見て、青司はふと胸の奥が温かくなるのを感じた。

 人と離れ、森の中に築いたこの暮らし。

 それでもこうして笑い合える誰かがいるだけで、世界はずいぶん優しく見える。


 「ねぇ、明日からは干し肉も作りましょう。猪なら保存にも向くと思うのよね」

 「いいね。それに、マリサさんとミレットにも少し分けてあげるといいんじゃないか」

 「そうね、きっと驚くわね。角猪の肉なんて、そう手に入らないから。干し肉ができたら、街でも売れるかもしれないね  」


 風が森を渡り、木の葉を鳴らす。

 新しくできたベッドのある寝室からは、まだ新しい木の香りが漂ってきていた。

 青司は空を仰ぎ、ゆっくりと息を吐いた。


 木を削る音、薬を練る匂い、狩りの足音、焚き火の灯。

 それらが一つになって、森の暮らしを形づくっていく。


 この森での暮らしが、少しずつ自分の形になっていく――今日も、いい一日だった。


 青司はそう呟き、夕闇のなかで静かに笑った。

 その傍らでは、リオナの尻尾が心地よさそうに揺れていた。



*******



 朝の光が森を染めていた。

 昨日仕留めた角猪の肉は、すでに解体を終え、木の台の上で整然と並んでいる。

 リオナはその肉を前に、腕を組んで唸っていた。


 「さて……どうしようか」

 「香草焼きは昨日食べたし、スープも飽きたんだろ?」

 「うん。せっかくだから、もっと違うの作ってみたいの」


 青司が薪を割りながら笑う。

 「また実験か?」

 「料理はね、毎日が実験みたいなものよ。上手くいったらごちそう、失敗しても次に活かせる。上手くいったレシピは、お姉ちゃんからたくさん教えてもらってるんだけどね」


 リオナはそう言って、軽やかに尻尾を揺らした。

 角猪の脂を切り分け、金鍋に移すと、火にかけてゆっくりと溶かしていく。

 甘く濃い香りが立ちのぼり、家の中を満たした。


 「この脂、猪よりずっと香りが強いみたいだな」

 「魔力が染みてるせい……かな。けど、火を通せばまろやかになるのよ」

 「そうか。だから今日は“煮込み”にするんだな」


 リオナは木の棚から瓶を取り出した。

 赤紫の果実酒――街で青司が仕入れてきたものだ。

 「これ、少しもらうね。肉の匂い消しにも使えるし、甘みが出る」

 「どんどん使っていいさ。料理人の判断に任せる」

 「ふふ、じゃあ遠慮なく」


 角猪の肉をぶつ切りにし、鍋に入れて焼き付ける。

 じゅう、と脂が跳ねる音。

 そこへ果実酒をひとたらし――香ばしい煙が立ちのぼり、リオナは目を細めた。


 「香りが変わる……これ好き」

 「なんだか職人みたいな顔してるぞ」

 「料理は仕事じゃなくて、生きるための魔法だから」


 リオナの言葉に、青司は思わず手を止めた。

 確かに、彼女の手の動きには、どこか儀式めいた静けさがあった。

 香草をすり潰す音、果実の皮を刻む音、それらが森の音と混じり合っていく。


 「次に、干した根菜と果実を入れる。森で採れたやつね」

 「酸味があるやつか」

「うん。それが角猪の濃い味を引き立ててくれるの」


 ぐつぐつと煮立つ音が台所に響く。

 湯気の向こうで、リオナの猫耳がぴくりと動いた。

 「いい匂いになってきた……ねえ、セイジ、あれ取って」

 「これか? 木の実粉?」

 「そう、それ。最後に振ると香ばしさが出るの」


 青司が粉を渡すと、リオナは手際よく仕上げの動きを見せた。

 木の実粉をぱらりと散らし、弱火でさらに煮詰める。

 やがて鍋の中の汁が濃い琥珀色に変わり、角猪の肉がとろりと艶めいた。


 「そろそろ味見してみて」

 匙を渡され、青司は一口すくって口に含む。

 ……芳醇な香り。果実酒の酸味が魔物肉の濃さを和らげ、旨味を引き締めている。

 「これは……すごいな。猪とは思えない」

 「でしょ? 香草焼きより手間はかかるけど、その分だけ深い味になるの」


 リオナは誇らしげに笑う。

 頬に湯気がかかり、月明かりのような輝きを帯びていた。


 「おまけにもう一品作るわね」

 「まだ作るのか?」

 「煮汁が残るから、それを使って“焼き団子”にするの」


 彼女は木の実の粉と水をこね、手のひらで丸めて串に刺す。

 焚き火の上で焼くと、表面がぱりりと香ばしく焦げ、リオナはその団子に煮汁をくぐらせた。


 「これ、角猪のタレ団子?」

 「うん。主食にもなるし、甘じょっぱくておいしいはず」


 皿に並べ、二人で木の卓につく。

 煮込みの香りがまだ漂う中、団子をひとくち。

 柔らかい弾力の中に、角猪の旨味と果実酒の甘みが染みていた。


 「これは……すごいな。お酒にも合いそうだ」

 「夜に少し温め直して食べてもいいかもね」

 「街の人が食べたら驚くだろうな。魔物の肉でこんなに優しい味になるなんて」

 「魔物でも、きちんと向き合えば、美味しい命になるのよ」

その言葉に、青司は何も言わず、ただ頷いた。

湯気の向こうで微笑む彼女の姿が、森に捧げる祈りのように見えた。

 夜、片付けを終えたあと、リオナは新しいベッドに腰を下ろした。

 「今日のは、ちょっと自信作かも」

 「うん。俺もそう思う。あれは街でも出せる味だ」

 「じゃあ、いつかお姉ちゃんの店にも出してもらえるかな?」

 「……いいな、それ。森の料理が街の食卓に並ぶ日が来たら、きっと楽しい」


 焚き火の明かりがふたりの間で揺れる。

 その光に、鍋の残り香がまだほんのり漂っていた。

 角猪の煮込みと団子の温もりが、夜の静けさの中でゆっくりと心を満たしていく。



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