32
森の家に戻った翌日。
街の喧騒が抜けきらないうちに、青司は次の作業に取りかかっていた。
テーブルの上には、宿で使われていた寝具を思い出しながら描いた設計図。
紙の上に鉛筆の線が走り、ベッドの形が少しずつ形を成していく。
「やっぱり、ベッドっていいな……」
ぽつりとこぼれた言葉に、台所で食材を仕分けしていたリオナが耳をぴくりと動かした。
「宿のベッドのこと?」
「うん。あれに寝たら、腰がすごく楽でさ。この家の寝具も見直そうと思って」
「藁の布団、嫌いじゃないけど……確かにちょっとガサガサするのよね」
「だろ? だから、リルトで綿の布団を二組、買っておいたんだ」
青司は荷車の上に積まれていた包みを指さした。
厚手の布に包まれたそれは、街の宿で使われていた寝具に比べてもずいぶん立派だった。
リオナが目を丸くして近づく。
「え、……あれのこと?……荷台に乗せてた大きな包み。それって、もしかして……すごく高いやつじゃない?」
「ちょっと奮発した。でも、どうせ長く使うものだしな。リオナの分もある」
「わ、私のも!?」
彼女の尻尾がふわりと立ち、頬がわずかに赤くなった。
青司は苦笑して首をかしげる。
「宿のベッドをあれだけ使ったら、藁で寝るのは、ちょっと辛いだろ? 俺もだよ」
「……うん。ありがとう、セイジ」
照れくさそうに笑ったリオナを見て、青司も思わず笑みを返す。
森に帰ってきてから、空気が柔らかく感じるのは、きっと彼女がそうして笑ってくれるからだろう。
青司は立ち上がり、外へ出た。
森の風が心地よい。木々の隙間から射す陽の光が、柔らかく地面を照らしていた。
家の裏には、先日の木工で使い残した丸太がいくつも積んである。
「……あの樫なら、丈夫で軋まないはずだな」
彼は斧を手に取り、皮を削ぎながら寸法を測りはじめた。
木の香りが立ちのぼる。錬金術で乾かした木肌の感触は、石や鉄とはまるで違う、穏やかな温もりを持っていた。
「セイジ、手伝おうか?」
「助かる。じゃあ、これ持っててくれ」
リオナは木屑が飛ばないように少し離れながら、削られた木片を集めていく。
木を削るたびに、ぱらぱらと木屑が落ち、陽の光を受けて金色に輝いた。
「この木、いい匂いするね」
「樫の木だ。丈夫で、虫にも強い。少し重いけど、長く使える」
「セイジが作るなら、きっと立派なのができるね」
「どうかな。真っ直ぐ切れるかどうかは、腕次第だ」
(……まあ、生産技術のことは黙っておこう)
軽口を交わしながらも、青司の手つきは真剣だった。
木の節を確かめ、削りの方向を変えるたびに刃の角度を微調整する。
森に来る前――覚えのない誰かと話して手に入れた生産技術スキルが、頭と身体に染みついている。
やがて日が傾き始めた頃、ベッドの枠が形になってきた。
リオナは薪を足しながら、鍋でスープを温めている。
その香りが、削った木の匂いと混ざり合って家の中に広がった。
「今日のところは、ここまでかな」
青司が額の汗を拭って腰を伸ばすと、リオナが顔を上げた。
「もうできそう?」
「明日、組み立てて磨いたら完成だ。綿の布団も試しに広げてみるか」
ふたりで布団を広げると、柔らかい白い生地が夕暮れの光を受けてほのかに輝いた。
触れた指先に、宿の記憶がよみがえる。
リオナも手を添え、感触を確かめるように目を細めた。
「ふわふわ……藁とは全然違う」
「だろ? 寝心地は保証する」
「うん。でも……」
「でも?」
「ちょっともったいない気もする。森の中で、こんなにきれいな布団使うなんて」
青司は笑って肩をすくめた。
「たまにはいいだろ。ちょっと贅沢するのも」
「そうね。でも、セイジにいろいろ作ってもらって、もう十分贅沢してると思ってるのよ」
「俺のほうこそ、毎日うまいもの作ってもらってありがたいけどな」
リオナは少し頬をゆるめて、布団に視線を落とした。
「けど、木のベッドにこの布団がのったら……きっとすごくいいね」
「そうだな」
窓の外では、森の影が濃くなり始めていた。
夕陽の赤が枝葉の間を抜け、家の中にゆらめく光を落とす。
薪のはぜる音とともに、静かな夜が近づいていた。
スープをすすりながら、リオナがふと呟く。
「街の人たちは、もうベッドが当たり前なのよね」
「ああ。でも、森の暮らしも悪くない。自分の手で作ったものに囲まれてると、落ち着く」
「わかる気がする。……私も、この家がどんどん居心地よくなっていくの、うれしい」
青司はスプーンを置き、窓の外を見やった。
森の向こうには、リルトの街の灯が遠くにかすんで見える。
そこからまた、新しい仕事が始まるだろう。
けれど、どんなに街で人と関わっても――帰る場所はここだ。
「明日は、いいベッドを完成させるからな」
「うん」
リオナが微笑む。
その尻尾がゆったりと揺れ、薪の火がその影を壁に映した。
青司は静かにカップを手に取り、温かな湯気を見つめた。
森の匂い、木のぬくもり、誰かと分かち合う穏やかな時間。
それは、街で得た成功よりも、確かに自分を支えてくれるものだった。
外では、風が木々を揺らしていた。
夜の静けさの中で、青司はふと、木の香りに包まれた未来を思い描いた。
夜がすっかり降りるころ、東屋の湯から立ちのぼる湯気が夜気に溶けていた。
桶の中に香草と石鹸を溶かすと、ほのかに甘い香りが立ちのぼる。
青司が作ったばかりのシャンプーとコンディショナーを使っていた。
先に入ったリオナが髪を洗うと、猫の毛のように柔らかい耳がしっとりと濡れて、月明かりを受けて輝いた。
「これ……何度使っても、すごくいい匂い……髪の毛も艶がでるし」
彼女が目を細めて笑う。その笑みを見て、青司も思わず肩の力を抜いた。
湯気の向こうで、森の夜風が木々を揺らす。
遠くで梟が鳴き、焚き火が静かに爆ぜた。
街の石鹸職人たちが苦労して学び、作り上げた技術。
その香りが、街の人たちの暮らしを包む日も、そう遠くはない。
――青司は与えられたものを、少しずつ街へ返していく。
それもまた、彼の楽しみになりつつあった。
湯から上がるころには、森の空気さえ少し甘く感じた。
リオナの髪がふわりと香り、青司は小さく息をついた。
「いい夜だな」
「うん。……この匂い、好き」
東屋の灯りがゆらめき、ふたりの影を静かに照らしていた。
**************
翌日の朝、森には澄んだ光が差し込んでいた。
木の葉に残る露がきらめき、家の前では青司が木槌を手にしていた。
「……よし、これで最後だな」
樫の木で組んだベッドの枠を溝に嵌め込み、最後のダボを叩き込む。
昨日乾かしておいた板がぴたりと合わさり、軽く揺すっても軋む気配がない。
青司は満足そうに手を離し、深く息をついた。木の香りが鼻をくすぐる。
リオナが寝室を覗きこみ、ぱっと顔を輝かせる。
「すごい……ほんとに出来たんだね!」
「ちゃんと二台。どっちも同じ高さにしてある」
「うわぁ……布団、のせてみてもいい?」
「ああ、頼む」
ふたりで布団を広げると、柔らかな白布が陽の光を受けてふんわりと膨らんだ。
リオナは手のひらで押して、頬を寄せるように笑う。
「これなら、ぐっすり眠れそう」
「腰にも優しいはずだよ。宿で寝たあの感覚を思い出して作ったからな」
「ふふ、じゃあ今夜が楽しみだね」
その笑顔を見て、青司もつい口元をゆるめる。
木の温もりに包まれた家は、少しずつ「生活の形」を帯びはじめていた。
午前中、青司は作業場にこもって薬瓶と道具を並べた。
乾燥させておいた薬草をすり鉢に入れ、乳鉢で細かく砕く。
薬の調合だけでなく、今日は入浴用品の補充もある。
森の木のみから抽出した油と香草を混ぜた石鹸に、シャンプーとコンディショナー。
透明な瓶に魔力で整えた液を詰めながら、青司はミレットの顔を思い出していた。
「これを次の納品に持っていけば、きっと喜ぶな」
リオナは朝から外に出ていた。
弓と短剣を背に、森の奥へと向かう姿は軽やかで、耳も尻尾も弾むように動いていた。
「久しぶりの狩りだから!」と笑って出て行った彼女の背を、青司は手を振って見送った。
森に暮らしはじめてからというもの、リオナの笑顔がいちばん生き生きして見えるのは、獲物を追う時かもしれない。
青司はその間、ひたすら手を動かした。
薬草の香りが立ちのぼり、窓の外では木漏れ日が揺れる。
調合の音と小鳥のさえずりが混ざり合う、静かな時間。
ときおり休憩を取りながら、瓶の栓をひとつずつ丁寧に締めていった。
午後も半ばを過ぎたころ、家の外が少しざわついた。
風に混じって、聞き慣れた足音と、草を踏む重たい響きが近づいてくる。
青司が外へ出ると、そこには息を切らしたリオナがいた。
背中の荷台には、巨大な獣が横たわっている。
「角猪か……! 重たかっただろ」
「うん。森の北の沢の近くで見つけたの。ちょっと手こずったけど、なんとか仕留めてきたのよ」
リオナは笑いながらも、額には汗が滲み、尻尾の先が疲れたように揺れていた。
青司は思わず近づき、その背負子を受け取るように支える。
「無理すんなよ。角猪は下手したら大人の男でも一人じゃ運べないぞ」
「ふふ、もう慣れてるから平気。けど……ちょっと腕がぷるぷるしてるかも」
角猪――猪が魔物化した危険な獣。
額には黒鉄のような角があり、体毛の間にはほのかに魔力の光が揺らめいていた。
だが、リオナの矢は正確に急所を射抜いている。
青司はその見事な腕前に目を見張った。
「すごいな……数日のブランクは関係ないみたいだな」
「そりゃ、長いこと狩りをしてきてるんだから。身体が覚えてるわよ」
リオナは笑い、額の汗を拭った。
尻尾が満足げに揺れる。その顔には誇らしさがあった。
「角猪は魔力を溜め込む分、肉の味も濃いんだ。しっかり血抜きすれば絶品だよ」
「へぇ、楽しみだな。今夜はごちそうになりそうだ」
ふたりで協力して枝を渡して滑車のように角猪を吊るし、処理を進めていく。
青司が水を運び、リオナが素早く皮を剥いでいく。
陽が傾くころには、赤い肉塊が吊るされ、焚き火の煙が静かに立ちのぼった。
「ベッドも完成、角猪も仕留めた。今日は、なんだかいい日だな」
「うん。家の中も森も、ちょっとずつ整ってきてる気がする」
リオナは焚き火の火を見つめながら、微笑んだ。
その横顔を見て、青司はふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
人と離れ、森の中に築いたこの暮らし。
それでもこうして笑い合える誰かがいるだけで、世界はずいぶん優しく見える。
「ねぇ、明日からは干し肉も作りましょう。猪なら保存にも向くと思うのよね」
「いいね。それに、マリサさんとミレットにも少し分けてあげるといいんじゃないか」
「そうね、きっと驚くわね。角猪の肉なんて、そう手に入らないから。干し肉ができたら、街でも売れるかもしれないね 」
風が森を渡り、木の葉を鳴らす。
新しくできたベッドのある寝室からは、まだ新しい木の香りが漂ってきていた。
青司は空を仰ぎ、ゆっくりと息を吐いた。
木を削る音、薬を練る匂い、狩りの足音、焚き火の灯。
それらが一つになって、森の暮らしを形づくっていく。
この森での暮らしが、少しずつ自分の形になっていく――今日も、いい一日だった。
青司はそう呟き、夕闇のなかで静かに笑った。
その傍らでは、リオナの尻尾が心地よさそうに揺れていた。
*******
朝の光が森を染めていた。
昨日仕留めた角猪の肉は、すでに解体を終え、木の台の上で整然と並んでいる。
リオナはその肉を前に、腕を組んで唸っていた。
「さて……どうしようか」
「香草焼きは昨日食べたし、スープも飽きたんだろ?」
「うん。せっかくだから、もっと違うの作ってみたいの」
青司が薪を割りながら笑う。
「また実験か?」
「料理はね、毎日が実験みたいなものよ。上手くいったらごちそう、失敗しても次に活かせる。上手くいったレシピは、お姉ちゃんからたくさん教えてもらってるんだけどね」
リオナはそう言って、軽やかに尻尾を揺らした。
角猪の脂を切り分け、金鍋に移すと、火にかけてゆっくりと溶かしていく。
甘く濃い香りが立ちのぼり、家の中を満たした。
「この脂、猪よりずっと香りが強いみたいだな」
「魔力が染みてるせい……かな。けど、火を通せばまろやかになるのよ」
「そうか。だから今日は“煮込み”にするんだな」
リオナは木の棚から瓶を取り出した。
赤紫の果実酒――街で青司が仕入れてきたものだ。
「これ、少しもらうね。肉の匂い消しにも使えるし、甘みが出る」
「どんどん使っていいさ。料理人の判断に任せる」
「ふふ、じゃあ遠慮なく」
角猪の肉をぶつ切りにし、鍋に入れて焼き付ける。
じゅう、と脂が跳ねる音。
そこへ果実酒をひとたらし――香ばしい煙が立ちのぼり、リオナは目を細めた。
「香りが変わる……これ好き」
「なんだか職人みたいな顔してるぞ」
「料理は仕事じゃなくて、生きるための魔法だから」
リオナの言葉に、青司は思わず手を止めた。
確かに、彼女の手の動きには、どこか儀式めいた静けさがあった。
香草をすり潰す音、果実の皮を刻む音、それらが森の音と混じり合っていく。
「次に、干した根菜と果実を入れる。森で採れたやつね」
「酸味があるやつか」
「うん。それが角猪の濃い味を引き立ててくれるの」
ぐつぐつと煮立つ音が台所に響く。
湯気の向こうで、リオナの猫耳がぴくりと動いた。
「いい匂いになってきた……ねえ、セイジ、あれ取って」
「これか? 木の実粉?」
「そう、それ。最後に振ると香ばしさが出るの」
青司が粉を渡すと、リオナは手際よく仕上げの動きを見せた。
木の実粉をぱらりと散らし、弱火でさらに煮詰める。
やがて鍋の中の汁が濃い琥珀色に変わり、角猪の肉がとろりと艶めいた。
「そろそろ味見してみて」
匙を渡され、青司は一口すくって口に含む。
……芳醇な香り。果実酒の酸味が魔物肉の濃さを和らげ、旨味を引き締めている。
「これは……すごいな。猪とは思えない」
「でしょ? 香草焼きより手間はかかるけど、その分だけ深い味になるの」
リオナは誇らしげに笑う。
頬に湯気がかかり、月明かりのような輝きを帯びていた。
「おまけにもう一品作るわね」
「まだ作るのか?」
「煮汁が残るから、それを使って“焼き団子”にするの」
彼女は木の実の粉と水をこね、手のひらで丸めて串に刺す。
焚き火の上で焼くと、表面がぱりりと香ばしく焦げ、リオナはその団子に煮汁をくぐらせた。
「これ、角猪のタレ団子?」
「うん。主食にもなるし、甘じょっぱくておいしいはず」
皿に並べ、二人で木の卓につく。
煮込みの香りがまだ漂う中、団子をひとくち。
柔らかい弾力の中に、角猪の旨味と果実酒の甘みが染みていた。
「これは……すごいな。お酒にも合いそうだ」
「夜に少し温め直して食べてもいいかもね」
「街の人が食べたら驚くだろうな。魔物の肉でこんなに優しい味になるなんて」
「魔物でも、きちんと向き合えば、美味しい命になるのよ」
その言葉に、青司は何も言わず、ただ頷いた。
湯気の向こうで微笑む彼女の姿が、森に捧げる祈りのように見えた。
夜、片付けを終えたあと、リオナは新しいベッドに腰を下ろした。
「今日のは、ちょっと自信作かも」
「うん。俺もそう思う。あれは街でも出せる味だ」
「じゃあ、いつかお姉ちゃんの店にも出してもらえるかな?」
「……いいな、それ。森の料理が街の食卓に並ぶ日が来たら、きっと楽しい」
焚き火の明かりがふたりの間で揺れる。
その光に、鍋の残り香がまだほんのり漂っていた。
角猪の煮込みと団子の温もりが、夜の静けさの中でゆっくりと心を満たしていく。




