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 翌朝。

 朝食の湯気がまだ立ち上る中、青司とリオナは顔を見合わせる。

来訪者は商業ギルドの使い。二人は慌てて荷を整えると、そのままギルドへ向かった。


 ギルド長の執務室に通されると、すでにラシェルとガラントが待っていた。

 広い部屋の奥、陽光の差す窓辺のソファーに勧められ、二人が腰を下ろすと、すぐに香り高い紅茶と小さなケーキが運ばれてくる。


 「朝早くに呼び立ててすまないな」

 ガラントが申し訳なさそうに頭を下げた。

 「いえ、こちらこそ突然のことで……」青司が返すと、ラシェルが微笑んだ。


 「でも、呼ばずにはいられなかったのよ。あなたの石鹸とバスソルト、それにボディーバター……どれも、驚くほど使い心地が良かったわ。香りも上品で、庶民向けにも貴族向けにも通じるわね」

 彼女は柔らかく手を差し出し、指先を見せる。

 「ほら、肌がすべすべになってしまって。ミレットの手際も見事だったわね。あの娘、王都でも通用するわ」


 「お気に召して何よりです」青司は胸を撫でおろした。

 隣のリオナもほっとしたように笑みを浮かべる。


 「まったく、昨日の夕方に試したばかりだというのに、もう評判が立っている」

 ガラントが苦笑しながら書類を机に置く。

 「実はな、すでに街の石鹸職人にも声をかけてある。石鹸、それにシャンプーとコンディショナーを――本格的に商品化してみないかと思っている」


 「しょ、商品化……?」青司は思わず聞き返した。

 「洗剤液に続く第二段だ」とガラントは頷く。「昨日の反応を見れば、需要は確実にある。君が望むなら、私が仲介に入ろう」


 その言葉に、青司は呆気に取られる。

 あの夜、森の家で黙々と作っていたものが、こんなにも早く“商売”の話になるとは思いもしなかった。


 「それでね」ラシェルが静かに続けた。

 「もしこの先も新しい品を出すつもりなら、個人で扱うより“商会”を作った方がいいわ。

 個人では取引金額の上限があるし、信用も限られてしまうの。仕入れも販売も思うように広げられないでしょう?」


 「……商会、ですか」


 ガラントが手元の紙を示す。

 「設立自体は一人でもできる。だが、保証金として金貨三十枚、保証人が三人以上必要だ」

 彼は淡々と説明を続けた。

 「保証人は成人で、各自十枚以上の預け金。さらに――商会長経験者、もしくはギルドに五年以上勤めている者、あるいは子爵以上の貴族でなければならない」


 青司は思わず眉を寄せる。

 「……随分と厳しいんですね」

 「当然だ。保証人の責任は重い。新商会が違法取引をした場合、知らなかったでは済まない。罰金も課せられる」

 「そんな……」


 説明を聞き終える頃には、青司の表情に迷いが浮かんでいた。

 森での暮らしを整えることばかり考えてきた彼には、商会などという言葉は遠い世界のものだった。


 だが――。


 「安心なさい」

 ラシェルが優しく言葉を重ねる。

 「マルコットからは、あなたが商会を作るなら保証人になるという委任状が届いているわ。ガラントも、もちろん私も引き受けるつもり」

 「えっ……?」青司が驚くと、ガラントが頷いた。

 「それに、ミレットやリオナさんの姉君――マリサ殿も声をかければすぐ応じるだろう。人はもう足りている」


 「……そんな、俺はまだ何も……」

 青司は言葉を詰まらせた。

 見慣れぬ街、見慣れぬ制度。すべてが大きすぎて、手の中からこぼれ落ちそうだった。


 その肩に、リオナがそっと手を置いた。

 「でも、すごいことだよ。みんな、セイジの作ったものを信じてくれてる。……それって、すごく嬉しいことじゃない?」

 小さな笑みを浮かべる彼女に、青司は息をのんだ。

 確かに、そうだ。誰もが彼の“ものづくり”を見て、何かを感じ取ってくれたのだ。


 「……少し考えさせてください」

 青司は静かに答えた。

 ガラントは満足げに頷き、ラシェルも柔らかく微笑む。

 窓の外では、初夏の陽が街をやわらかく照らし始めていた。



*******



 話がひと段落したところで、ガラントが手元の書類を整え、顔を上げた。

 「商会の話は、焦らなくていい。だが――石鹸とシャンプー、それにコンディショナーの件は、今進めておきたい」

 低く落ち着いた声に、青司は姿勢を正す。


 「もう、街の石鹸職人たちに声をかけてある。何人かがギルドに来ている。

 彼らに、直接会ってほしい」


 「……俺が、ですか?」

「そうだ。製法を委ねる以上、君がどんな職人かを彼らにも見てもらう必要がある。君も彼らを見ておきたいだろ」


一瞬の静寂。青司がうなずくと、ガラントが扉の方へ軽く手を振った。

 ガラントが合図を送ると、扉の外から三人の職人が入ってきた。

 どの顔も日焼けしており、獣脂の匂いがかすかに漂う。手には石鹸職人特有の荒れと白粉が残っていた。

 一番年嵩の男が一歩前へ出て、礼をとった。


 「石鹸職人をしております、ドナートと申します」

 穏やかな声だが、瞳の奥に商人らしい鋭さがある。


 青司も立ち上がり、軽く会釈を返した。

 「セイジと申します。今回は……お手数をおかけします」


 ドナートが頷く。

 「いいえ。あなたが作った石鹸の評判は、すでにあちこちで耳にしています。

 正直、どんな人物なのか気になっておりました」


 その言葉に、青司は少し気恥ずかしくなりながらも苦笑する。

 ラシェルが紅茶を口にしながら、穏やかに口を開いた。


 「今回お願いしたいのは、セイジさんの配合による新しい石鹸を、ドナート達職人によってリルト限定で生産、そしてギルドが販売をすること。

 品質の維持と配合の秘匿を徹底するため、ギルドが監督に入ります」


 「つまり、共同製造……という形ですな」

 ドナートが腕を組み、慎重に言葉を選ぶ。


 「そう取ってもらって構わない」ガラントが答える。

 「契約条件はこうだ。ギルドの取り分は一割五分。材料費はこちらで負担する。

 製造量に応じてドナートたちには報酬を支払い、余剰利益はセイジ殿の取り分とする」


 その場に、わずかなざわめきが走った。

 石鹸職人の一人が目を丸くし、思わずつぶやく。

 「……ずいぶん、開発者優遇の条件だな」


 ラシェルが微笑を浮かべる。

 「ギルドとしても、先行投資と考えているの。

 この新しい石鹸と洗髪液は、リルトの名を広める品になるでしょうから」


「外から来る行商人たちに、この街を思い出させる香りになるかもしれないわ」


 彼女の静かな声には、確かな信頼と期待が込められていた。

 ドナートはしばし考え込み、やがて深くうなずいた。


 「――承知しました。わたしたちも全力を尽くしましょう」


 その瞬間、場の空気が少し和らぐ。

 青司は胸の奥にこみ上げるものを押さえながら、深く頭を下げた。


 「ありがとうございます。……皆さんの力を借りられるなら、これほど心強いことはありません」


 リオナがそっと微笑んだ。

 「セイジ、よかったね」

 その声に青司も笑みを返す。


 ガラントが立ち上がり、書類を手に取った。

 「では、契約書を作成しよう。原材料は口頭で伝えられるか?契約書が整えば、ドナートの工房で試作に取り掛かってほしいと思っている」

 「はい。」


 窓の外では、初夏の陽がすでに高く昇り、街の屋根瓦を明るく照らしていた。

 新しい仕事の始まりを告げるように――。




**************




 リルトの南通り、古い石造りの工房街。

 昼を少し過ぎた頃、青司はガラントに案内され、ドナートの工房を訪れた。

 扉を開けた瞬間、獣脂のにおいが鼻をつく。

 棚には大小の木型や石灰壺が並び、壁際の大釜では職人が木べらを回していた。


 「ようこそ、セイジ殿。……いや、先生と呼ぶべきか。石鹸作りの道具は、最近流行りの洗剤で獣脂の臭いがないようにしておいた」

 ドナートが苦笑を浮かべる。

 「とんでもない。俺は森で暮らす田舎者です」青司は軽く頭を下げた。


 机の上に、彼が持参した木の実の瓶を並べる。淡い金色や琥珀色の液体が光を反射した。

 「今日は、獣脂の代わりにこれを使います。森で採れる“リュフェの実”から搾った油です。粘り気が少なく、仕上がりが柔らかくなるんです、そして何よりいい香りがします」


 職人たちが顔を見合わせる。

 「木の実の油で石鹸を……?」

 「そんなもので泡が立つのか?」


 青司はうなずき、微笑む。

 「やってみましょう。――泡立たなかったら、その時は俺が責任を取ります」


 大釜の湯に、青司は掌をかざして魔力を少しずつ流し込んだ。

目に見えない波紋が水面を走り、泡がわずかに光を帯びて弾ける。

職人たちは思わず息を呑んだ。

青司は木の実油を流し込み、混ぜながら温度を調整していく。

「魔力の濃さは、これくらい。薄すぎると泡立たなくなるので――できるだけ込めて……はい、混ぜてみてください」


 ドナートが木べらを受け取り、慎重にかき混ぜる。


 「……重いな。いつもの脂とは違う」

 「そうなんです。獣脂より融点が低いので、ゆっくり固まります。焦らず――手の感覚で、少しずつ覚えていきましょう」


 青司の声は穏やかで、決して威圧的ではなかった。

 彼自身も試行錯誤しながら、時に温度計の代わりに手をかざし、粘度を確かめていく。


 数時間後、木型に流し込まれた半透明の石鹸は、柔らかな光を宿していた。

 「……できた、のか?」

 ドナートが息をのむ。

 青司は石鹸を指で押し、満足げにうなずいた。

 「成功です。あとは冷まして固まるのを待ちましょう」


 沈黙のあと、工房に小さな歓声が上がった。

 年長の職人が笑いながら、手を拭った。

 「まったく……木の実で石鹸ができるとは。俺たちは何十年も脂を溶かしてきたというのに、まだ知らないことがあるんだな」


 数日後には、シャンプーとコンディショナーの試作にも取りかかった。

 石鹸よりも繊細な工程で、粘度や香料の混ぜ方に何度も失敗した。

 「泡が立たん」「腰がねぇな」「香りが飛んだ」と嘆く職人たちに、青司は根気強く手順を教えた。

 「慣れればきっとできます。段階を踏めば、誰でも」


 やがて、一人の職人が手にした液体を手の甲にのせ、目を見開いた。

 「……滑らかだ。髪にも使えそうだな」

 「それが“シャンプー”です」青司が笑う。「もう一歩ですよ」


 幾度かの試行の末、職人たちはついにそれらしい仕上がりを得た。

 ただ、青司が魔力を込めて作ったものと比べれば、泡のきめ細かさや香りの持続は一段劣る。

 ドナートもそれを悟り、静かに言った。

 「俺たちには、あんたみたいな魔力はない。だが――これはこれで、悪くない」


 青司は微笑み、首を振る。

 「いえ、これで十分です。魔力が足りなくても、誰かの生活を楽にできる。それが一番大事なんです」


 ドナートがうなずく。

 「そうだな……。庶民でも買える石鹸、髪を洗える贅沢。きっと喜ばれるさ」


 その日、リルトの工房街に、石鹸とシャンプー、コンディショナーの新しい香りが漂いはじめた。

 それは、古い職人たちの手が、新しい時代を受け入れた瞬間の匂いでもあった。



*******



 石鹸とシャンプー、コンディショナーの試作が形になった翌日。

 青司とリオナはギルドに報告を済ませ、街の宿を引き払った。

 数日ぶりに森へ戻ることにしたのだ。


 「……なんだか、随分長く離れてた気がするね」

 街を出てすぐ、リオナがぽつりと呟く。

 朝の光を浴びた耳の先が、淡く揺れていた。


 「たった七日だけど、長かったな。街はやっぱり落ち着かない」

 青司が荷車をひきながら笑う。

 ドナートたちの工房での日々は、緊張と熱気に満ちていた。新しい技術を教え、失敗を繰り返し、ようやく形になった頃には、体の奥に疲れが溜まっていたのを感じる。

 それでも――教え子たちのような職人たちの笑顔を思い出すと、胸の奥が温かくなった。


 森へ続く道は、初夏の陽射しにきらめいていた。

 若葉が重なり合う枝の間を風が通り抜け、どこからか花の甘い香りが漂ってくる。

 リオナは歩を緩め、目を細めた。

 「……ああ、やっぱりこっちの空気が好き」

 「街の匂いよりもな」

 「うん。洗剤できれいに掃除をしてくれてだけど、獣脂も、石灰も、長年の臭いはどうにも残ってたわよね」

 「確かにな。かすかに鼻に残ってる気がしちゃうよな」


 ふたりの背中に、鳥のさえずりが降ってきた。

 遠くに見える森の稜線は濃い緑に染まり、風に揺れる葉音がまるで誰かの囁きのように聞こえる。

 青司は荷車の棒を握り直して、どこか懐かしい気持ちでその景色を見つめた。

 リルトの街も悪くない。だが、やはり自分の居場所はこの森にある――そう思う。


 やがて、木々の合間に見慣れた屋根が見えてきた。

 風に揺れる胡桃の木や自生している薬草。

 家の前に足を踏み入れた瞬間、リオナがふっと息をついた。

 「……帰ってきたね」

 「ああ、帰ってきた」


 扉を開けると、ほんのり乾いた木の匂いが漂ってきた。

 テーブルの上には出発前に干しておいた薬草束があり、窓辺には風に揺れるカーテン。

 暖炉の灰が、早く火を熾してほしいかのように少し舞い上がった。


 リオナは靴を脱いで部屋に入り、窓を開け放つ。

 森の風が吹き込み、彼女の髪を揺らした。

 「やっぱり、ここが一番いいね」

 「うん。静かだし、匂いも優しい」


 青司は荷を下ろし、壁に立てかけていた木べらや器具を片づけ始めた。

 リオナは台所に立ち、久しぶりに火を入れる。

 薪がパチパチと音を立て、湯気が立ち上る。

 「お茶、淹れるね」

 「ああ、頼む」


 湯気の向こうで、リオナの尻尾がゆったりと揺れていた。

 青司は窓際に腰を下ろし、外を眺める。

 森の奥には、薬草畑が青々と茂っている。

 ハーブの香りが風に乗って室内に流れ込んできた。


 「ドナートさんたち、きっと今ごろ頑張ってるね」

 「そうだな。最初はみんな自信なさそうだったけど……最後は顔が違ってた」

 青司は微笑む。

 「慣れれば、俺がいなくてもできるようになる。あの人たちの手は確かだ」


 「でも……セイジの作ったものとは、やっぱり少し違うんでしょ?」

 リオナが湯を注ぎながら、静かに尋ねる。

 「うん。魔力の分、どうしても差が出る。でも、それでいいんだ」

 青司は木のカップを受け取り、ゆっくりと息を吐いた。

 「俺の作るものと“同じ”である必要はない。みんなが毎日使える方が、きっと意味がある」


 リオナは目を細めて笑った。

 「セイジらしいね」

 「そうか?」

 「うん。棚を作ってくれたときもそうだった。いつも“役に立てばそれでいい”って顔してたよ」

 「……それしか取り柄がないからな」

 「ふふっ、そんなことないよ」


 外では、森の小鳥たちが再び歌い出していた。

 リオナはテーブルに腰を下ろし、湯気に包まれたカップを両手で包む。

 「ねぇ、次は何を作るの?」

 「うーん……考えてはいるけど、まだ決めてない。森の素材をもう少し調べたいな」

 「また新しい草を見つけるの?」

 「できれば。石鹸やシャンプーもそうだけど、日用品って生活を変えるんだ。次は――“色”を生かしたものを作りたい」


 「色……」リオナは耳を動かした。「例えば?」

 「たとえば、皿を買った店のおばちゃんも、ラシェル様も気にしてただろ?自分の気になるところが、改善して笑顔になれるといいなって」

 「そっか。じゃあ、私も手伝うね」

 「頼むよ」


 ふたりの間に、穏やかな沈黙が流れる。

 外の光が木の窓枠を通して差し込み、室内に柔らかな陰影を作った。

 旅の疲れと、街の喧噪の残り香が、少しずつ体の奥から溶けていく。


 やがて、リオナがぽつりと呟いた。

 「ねぇ、セイジ」

 「ん?」

 「街にいたとき、商会の話……あったでしょ。あれ、どうするの?」

 青司は少し目を細め、火の揺らめきを見つめた。

 「まだ決めてない。でも、あの人たちが支えてくれるなら、いずれは考えないとな」

 「うん……」

 「でも、焦るつもりはないよ。森での仕事を疎かにしたら、元も子もない」

 「それ、いいね」リオナが笑う。「セイジがセイジでいられる場所、ここだもんね」


 青司はうなずいた。

 窓の外、風が草を揺らし、薬草畑の葉がさざめいた。

 初夏の光はゆるやかに傾き、森の影が長く伸びていく。


 その日、森の家は久しぶりに湯気と香りに満たされた。

 街の喧騒を離れ、静かな時間が流れる。

 リオナの尻尾が火の光を受けてふわりと揺れ、青司は小さく息を吐いた。


 ――やはり、ここが帰る場所だ。

 そう思いながら、彼は湯気越しの光を見つめていた。

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