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 厚いカーペットを踏みしめるたびに、足音が吸い込まれていくようだった。

 三階の一番奥――重厚な扉の前で、ガラントが軽くノックする。

 

 「ギルド長、セイジ殿と理髪師ミレット嬢をお連れしました」


 「お入りなさい」


 扉の向こうから、澄んだ女性の声がした。

 それだけで、空気が少し張りつめる。

 ガラントが扉を押し開けると、室内には柔らかな陽光が差し込んでいた。


 書棚に囲まれた広い部屋。

 壁には交易路の地図や、各地の商標を記した額が並び、机の上には書類と封蝋が整然と並ぶ。

 その中央に座していたのは、淡い金の髪をまとめ、深紅のドレスをまとった女性――

 リルト商業ギルド長、ラシェル・エルドレッド子爵であった。


 彼女は優雅に立ち上がると、柔らかな笑みを浮かべて二人を迎えた。

 「ようこそ。あなたがセイジさんね。そしてこちらが……理容組合のミレットさん」


 ミレットは反射的に姿勢を正し、声が裏返るほどの緊張で名乗った。

 「は、はいっ! リルトの市場通りで理髪店をしております、ミレットと申しますっ!」


 「ふふ、そんなに肩を張らなくても大丈夫よ」

 ラシェルの笑い方は優しいが、その瞳は一瞬たりとも相手を見逃さない。

 商人として数えきれない駆け引きを経てきた人の目だった。


 「さて――例の品を開発したのがあなたなのね、セイジさん」


 「はい。森で採れる植物を使って、薬や日用品を試作しています。

  こちらは錬金の補助で香料や質感を安定させたものです」


 青司は特に緊張する様子もなく、いつも通り穏やかに答えた。

 ミレットが横で「すごい度胸だわ……」と小声で呟く。


 ラシェルは瓶を手に取り、ゆっくりと窓際に持っていく。

 夕陽が差し込む窓から金色の光が瓶を透かし、微かに揺れる液体がきらきらと反射した。

 部屋の静けさの中で、その柔らかい輝きだけが、しばらく光を集めて揺れている。

「……香りがいいわね。派手ではないのに、奥に残る柔らかさがある。

これが森の匂い、というものかしら」


 「そう思っていただけるなら嬉しいです」

 青司が軽く頭を下げる。


 「ただ、これを“街”で扱うとなると、また別の話よ」

 ラシェルは机に瓶を戻し、視線を青司とミレットに向けた。

 「商業ギルドとしては、流通と品質を保証する立場にあります。

 もしあなたがこの品を販売するつもりなら、その監督を避けることはできません」


 ミレットが思わず口を挟む。

 「ギルド長、それはもちろん承知してますが、これはまだ試作品で……!」


 「ええ、わかっているわ。セイジさんから副ギルド長への贈り物」

 ラシェルは手を軽く上げてミレットを制した。

 「だからこそ、“贈答品”としてまず確認させてほしいの。

 ガラントから話を聞いた時点で、私は最初、正直に言えば――拒否したのよ」


 「拒否……ですか?」ミレットがごくりと喉を鳴らす。


 「私の髪を、うちで抱えている理容師の者以外に触らせるつもりはなかった。

 彼との関係を軽く見られては困るし、商会間の均衡もある。

 それに――自分の容姿を軽々しく実験台にするほど、私は好奇心に駆られる人間ではないつもりよ」


 ラシェルはゆっくりと立ち上がり、窓の外へ視線を向ける。

 沈みかけた陽が、彼女の横顔を金に染めた。


 「けれど……あなた、リオナさんよね?あなたの髪を見て考えが変わったわ。

 その艶、自然なまとまり。――今朝、“現物”を見せられたのよ。あれは言葉より雄弁だった」


 青司は少し目を細めた。

 リオナの髪を褒められたことが、どこか嬉しかったのかもしれない。


 ラシェルは振り返り、微笑む。

 「私が確かめたいのは、“効果”だけではないの。

 この品が――この街の人たちにとって利益になるかどうか。

 それを見極めるのが、ギルド長としての役目です」


 ミレットはもう固まっていた。

 「そ、そんな大層なものじゃ……!」


 「いいえ、そうよ」

 ラシェルはやわらかく首を振った。

 「うちの会員の手が新しい価値を生むなら、私はその手を守る。

 ただし、幻想ではなく“現場での確かさ”が必要なの。――だから提案があるわ」


 彼女が指を机に添え、微笑みながら告げる――その瞬間、静まり返った部屋の空気がわずかに震えた。

ミレットは思わず息をのむ。

 

 「ミレットさん、あなたの店でこの品を試してもらえない?

 もちろん、私自身がその客となって」


 ミレットの顔から血の気が引き、思わず手を胸元に握りしめた。

 膝がふるふると震え、指先まで冷たくなっていくのがわかる。

「えええっ!? し、子爵様が……! う、うちの店で……」

 心臓が喉まで跳ね上がるような気がして、声が裏返りそうになる。


 「落ち着いて。これは公務ではないわ」

 ラシェルは小さく笑う。

 「“一人の女性として”試してみたいだけよ。結果が良ければ、その時改めて契約を考える。

 あなたも理容組合の加盟者である以上、正式な記録として残すことができるでしょう?」


 ガラントが咳払いをして補足する。

 「つまり――ギルド長自ら、使用感を“確認”するということです。

 最上の検証になるかもしれませんね」


 青司は一呼吸おいて、素直にうなずいた。

 「……ありがとうございます。しかしながら、今、街に持ってきている手持ちの分がなくて」


 「ここにあるでしょ?副ギルド長への贈り物が。ガラントは私に使って欲しいと言ってくれたのよ。私も楽しみにしているわ」


 ミレットは思わず息をのむ――胸の鼓動が耳にまで届きそうだ。

 ラシェルは軽く頷き、柔らかく告げた。


 「善は急げね、この後、少し用意をしてから、あなたの店へ伺うわ。――どうか、恥をかかせないでね」


 ミレットは青ざめながらも必死に笑った。

 「は、はいっ! お任せくださいっ!」


 扉を出ると同時に、ミレットの膝がふるふると震え出す。

 「ど、どうしよう……人生でいちばん手が震えるお客さんになるかもしれない……!」


 青司は苦笑しながら肩をすくめた。

 「まぁ、いい経験になるさ。きっと」


 扉が静かに閉まると、廊下には、夕刻の鐘の音が遠くに響いた。


 ガラントだけが、静かに満足げに頷いた。

 「ふむ……これで、すべての道は整いましたな」



**************



 店の扉に取り付けられた真鍮の鈴が、かすかに鳴った。

――その音を聞いただけで、ミレットの肩がびくりと跳ねる。

その横で、隣にいた青年トーマが彼女の手をそっと握った。

「大丈夫だ、落ち着いて」

低く穏やかな声。

彼はミレットの夫であり、店を共に営むパートナーでもある。


 午後の光が傾き、窓辺のレース越しに柔らかな金色を落としていた。

 普段なら穏やかな時間帯だが、今日は空気がまるで違う。

 店内には香草湯を温める湯気と、緊張で張りつめた沈黙が混ざっていた。


 「……き、来た……」

 ミレットは手をぎゅっと握りしめ、鏡越しにカウンターの奥にいる青司へ視線を送る。

 トーマはいつも通り落ち着いた様子で、瓶とタオルを並べ直していた。


 「深呼吸。大丈夫だ」

 その声に、ミレットは小さくうなずく。

 けれど、喉の奥がきゅっと締まってうまく息が入らない。


 ほどなくして、扉の向こうから軽やかな足音が近づき、

 深紅の外套をまとった女性が入ってきた。

 リルト商業ギルド長、ラシェル・エルドレッド子爵。その後ろ副ギルド長のガラントと専属の理容師と思われる女性、護衛騎士と思われる白髪の男性。


 店内が、彼女の存在だけで一段明るくなるようだった。

 「まぁ……可愛らしいお店ね」

 ラシェルは辺りを見回し、にこやかに微笑んだ。

 その仕草は穏やかだが、指先の動き一つひとつが洗練されている。


 ミレットは慌てて腰を折り、声を裏返らせながら迎えた。

 「よ、ようこそお越しくださいましたっ! お待ちしておりました、子爵様!」


 「そんなに緊張なさらないで。今日は“お客様”として来ただけよ」

 ラシェルは微笑み、外套を外す。

 下に着ているのは淡い青のシルクブラウスと黒のスカート。

 貴族の風格を纏いながらも、どこか実務的で軽やかだった。


 「お掛けくださいませ!」

 ミレットはほとんど滑るように椅子を引き、タオルを手にする。

 その指先はほんのわずかに震えていた。


 ラシェルは鏡越しにミレットの姿を見つめ、ふと柔らかく笑う。

 「あなた、手が綺麗ね。職人の手……大好きよ」


 「は、はぁっ!? あ、ありがとうございますっ!」

 心臓が跳ね、ミレットはほとんど息を詰めてタオルを巻く。

 ――この瞬間、彼女の中で「お客様」ではなく「審査官」が座っているように感じられた。


 青司はカウンターの奥から一歩前へ出て、瓶を差し出した。

 「贈らせて頂いたシャンプーとコンディショナーです。こちらをお使いさせて頂きます。使い方はミレットに伝えてあります」


 「ありがとう。さすがね、細やかだわ」

 ラシェルは受け取った瓶を軽く傾け、光を透かす。

 その液体がゆらりと揺れるたび、淡い香りが空気を包んでいった。


 ――森の朝露のような、穏やかな香り。


 「……いい香りね。本当に、あなたが作ったの?」

 ラシェルの問いに、青司は穏やかにうなずく。

 「ええ。森の草花を調合して。香料はあくまで自然に馴染むようにしています」


 「ふふ……なるほどね。では――確かめさせてもらうわ」


 ミレットはごくりと喉を鳴らし、瓶を手に取った。

 湯の温度を確かめ、指先で少しずつ泡立てていく。

 滑らかに立つ泡は柔らかく、わずかに金色を帯びた透明。


 「失礼いたします……」

 ミレットは慎重にラシェルの髪に触れた。

 その瞬間、思わず息を呑む。

 ――絹のような細い髪には少し白いものが混じっていた。

 指先が滑り、泡がさらさらと広がっていくたび、光がほのかに反射した。


 「……手際がいいわね」

 ラシェルの声が鏡越しに響く。

 「理容師としても、あなたの腕は確か。きっと街でも評判でしょう?」


 「い、いえっ……そ、そんな……」

 ミレットの頬が真っ赤に染まる。


 ラシェルは目を閉じ、香りを深く吸い込んだ。

 「……なるほど。派手ではないのに、心が落ち着く香り。

 森の空気を閉じ込めたみたいね。これは確かに……特別だわ」


 その言葉に、青司は静かに息を吐く。

 ミレットの手も、次第に震えを忘れ、自然なリズムを取り戻していった。


 洗い終えると、ミレットは丁寧にタオルで髪を拭き、木製の櫛でゆっくりと梳かしていく。

 湯気の向こうでラシェルの髪が光を帯び、金糸のように輝いた。


 「――すばらしいわ」

 ラシェルは鏡の中の自分を見つめ、満足げに微笑む。

 「この質感、この艶。まるで若い頃に戻ったみたい――白い髪が気にならなくなるほどだわ。少しカットもしてくださるかしら」


 「お、恐れ入りますっ……!」

 ミレットの声は震えていたが、そこには確かな喜びがあった。


 ラシェルは立ち上がり、髪を一度肩の上に払い落とす。

 光の筋がその動きに沿って流れる。

 「確かに効果を感じたわ。セイジさん、この品は商機がある。

 ミレットさん、あなたの技術と共に広める価値があるわね」


 青司が軽くうなずく。

 「ありがとうございます。そう言っていただけると励みになります」


「ところで、シャンプーとコンディショナーは毎日使ってもよろしいのかしら?」


「はい、シャンプーは少量を泡立てて頭皮と髪についた汚れを落として頂き、コンディショナーは髪に少し馴染ませて頂き丁寧に濯いでくだされば大丈夫です」


 「……わかったわ、また詳しい話は後日、ギルドで。

 でも今日は、久しぶりに“髪を洗うのが楽しい”と思えたわ」

 ラシェルは柔らかく微笑み、外套を羽織る。


 扉を出る直前、ふと振り返って言った。

 「あなたたち――

 この街に新しい風を運べるかもしれないわね」


 そう言い残して去った後、

 ミレットはようやく椅子にへたり込み、顔を覆った。

 「……わたし、生きてる……?」


 トーマは苦笑しながら湯桶を片づけた。

 「完璧だったよ。あんなに落ち着いて見える貴族が、本気で感心してた」


 「か、感心……してた? 本当に……?」

 「本当に」

 トーマは微笑んだ。

 「お前の手が、ちゃんと結果を出したんだ」


 ミレットはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き、

 「……夢みたい」と呟いた。


 湯気がゆっくりと薄れていく。

 森の香りだけが、まだ店内にやわらかく残っていた。




**************




 夜の帳が降り、リルトの街に灯がともり始めるころ。

 商業ギルドの二階、ガラントは書類の束を机に並べ、淡々とペンを走らせていた。


 「……以上、ギルド長による試用の結果――効果は顕著、香りも上品で持続性あり。

  使用後の髪質は柔らかく、艶やか。副作用・刺激性ともに見られず」


 淡々と記す筆跡の端に、わずかな笑みが浮かぶ。

 彼は今日の出来事を反芻していた。

 ――緊張しきったミレットの手。

 ――淡く香る泡の匂い。

 ――そして、あの妻が、鏡を見つめて「若い頃に戻ったみたい」と微笑んで言った瞬間の表情。


 「まったく……セイジ殿、あれはとんでもないものを生み出してしまったな」


 ガラントは苦笑をこぼし、ペンを置いた。

 手元の帳簿には、商業ギルドの印章を押す欄がある。

 彼は印章を手に取りながら、少しだけ空を見上げた。


 ――“ギルドとしての扱い”をどうするか。

 それが、今夜の彼の最大の悩みだった。


 「石鹸職人たちが、これをセイジに教えてもらってできるのか……」

独り言のように呟きながら、書類を指で弾く。

「材料は草花と油……だが、あの泡立ちと香りの調合は……単なる石鹸じゃない。いや、単なる理屈じゃ測れん……」


 既存の製法では再現できない。

 だが、街の職人が作れるようになれば、市場は広がる。

 そしてギルドの利益も――。


 ガラントは、静かに目を細めた。

 「……いずれにせよ、彼の承認なしには進められん。セイジ殿は職人気質だ。信を失えば、何も得られん」


 そう呟き、ペンを再び取り、報告書の末尾に署名を記した。


 ――「本件、一次報告として提出。継続検証を要す」

 押印の音が小さく部屋に響いた。


 ガラントは深く息を吐き、窓の外に目をやる。

 遠くに見える街の明かりの中、リルトの夜が静かに息づいていた。


 「……さて、風が吹くかもしれん」

 その呟きは、どこか楽しげでもあった。


 * * *


 一方、街の中心部の貴族達の住居区へ向かう馬車の中。

 ラシェル・エルドレッドは窓辺にもたれ、指先に残る香りをそっと嗅いだ。


 ――森の香り。


 柔らかく、穏やかで、懐かしい。

 幼い頃、領地の森で摘んだ薬草の匂いと、母が干していた亜麻布の匂いが混ざったような……

 そんな、心の奥に触れる香りだった。


 「……あの青年、言葉は少ないけれど、あれほど自然を理解している人はそういないわね」


 向かいに座る専属理容師の女性が、小さくうなずく。

 「はい、閣下。泡は絹のように細やかで、香りは洗い流した後まで柔らかく残りました。

……これまでの市販の獣脂石鹸とはまるで別物でございました」


 「ええ。――理容組合の者たちにも、慎重に伝えねばならないわね。

  下手に反発を招くより、彼らにも“恩恵を分け与える形”でまとめるのが得策」


 ラシェルの声は、いつもの柔らかさを保ちながらも、芯の通った響きを持っていた。

 彼女は、ただの試作品に終わらせるつもりはなかった。


 「……でも、ミレットという娘の手、よかったわね。思わずカットを許してしまったわ。あなたに任せるって決めてたのに、ごめんなさいね」

 ふっと微笑む。


 「いえ、お気になさらずに」

 理容師の女性は、鏡越しの笑みを思い出すように目を細めた。

 「あの娘の技術、おそらく王都でも評判になりそうですし、経験を積めばどちらかで抱えられてもおかしくないものでした」


 「……そうね。貴族相手に震えながらも、決して逃げなかった。あの勇気があれば、きっとこの街で名を残すでしょう」


 馬車が石畳を鳴らして進む。

 窓の外に、リルトの灯が遠ざかっていく。


 ラシェルは最後にもう一度、指先に残る香りを確かめるように息を吸った。


 「――本当に、“森の風”ね」

 ラシェルは小さく笑みをこぼした。

 「さて、どんな嵐を呼ぶのか……楽しみだわ」

 その言葉は、静かな夜の中に溶けていった。


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