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 雨が上がった翌朝、空はすっかり明るく晴れていた。

 木々の葉はまだ濡れているが、陽を受けてきらきらと光っている。

 青司とリオナは洗濯物を荷車に積み込み、湖へ向かって歩いていた。


 「やっぱり、洗濯は湖の水が一番ね」

 リオナは笑いながら、荷車の端に手を添える。

「昨日の雨が、森じゅうを洗ってくれたみたいだな。

水が新しくて、少し冷たいけど……気持ちがいい」

 青司は瓶の口を少し傾け、透明な液体を桶の水に垂らした。

 すぐに木の実の油と香草の香りが広がり、泡が淡く立ちのぼる。

 水に溶かすと泡立ちは控えめで、森の香りがほのかに漂った。


 ふたりは湖畔に腰を下ろし、並んで衣を洗う。

 洗い立ての布が風に揺れ、湖面の光を映してきらりと光った。

 鳥の声、風の音、そして水を絞る音――静かな時間が流れていく。


 「この香り、ほんとに好き」

 リオナは鼻をくすぐる泡の香りに目を細めた。

 「洗剤っていうより、まるで花の露みたい」

 「それは嬉しいな。次は香りをもう少し長く残せるようにしてみようか」

 「ふふ、楽しみにしてる」


 洗い終えた布を岩の上に広げると、風がちょうどいい具合に吹いてきて、

 白い布が一斉にひるがえった。

 陽はいつのまにか高く昇り、湖面の光がまぶしい。


 昼を少し過ぎるころ、洗濯物はしっとりと乾きはじめていた。

 青司は風向きを見ながら、干した布にそっと手をかざす。

 掌の内で淡い金色の光が静かにゆらめいた。

 風の流れと太陽の熱を導くように、魔力を細く糸のように編み込んでいく。

 布地を通り抜けた光はやさしく水分を奪い、表面にほんのりと温もりを残した。


 「……これで、すぐ乾くだろう」

 「……それも錬金術の力なの?」

 リオナが目を丸くすると、青司は照れたように笑う。

 「うん。太陽と風の手伝いをしただけさ」


 布は風に揺れながら、白く柔らかに光っていた。

 太陽と風、そして青司の魔力がひとつになって、森の午後を包みこんでいく。


 リオナはそれを丁寧に畳み、青司が荷車に積み込む。

 魔力で乾いた布をたたみ終えるころ、日差しは少し傾いていた。

 小さな達成感に包まれながら、ふたりは湖をあとにした。


 帰り道、森の中は雨上がりの匂いで満ちていた。

 地面は柔らかく、踏みしめるたびにしっとりと音を立てる。

 リオナは濡れた木の葉に触れながら、「また晴れが続くといいね」と呟く。

 青司は笑って、「乾かす場所を作らないとな」と返した。


 ――静かな午後。

 森を渡る風が、洗い上げた布とふたりの笑い声をやさしく運んでいった。

 その匂いは、雨の名残と陽のぬくもりを混ぜたようだった。



*******



 家に戻ると、青司は作業台の上に並んだ小瓶や壺を順に手に取った。

 雨の日に少しずつ仕込んでおいた薬や石鹸――。

 さらに、入浴グッズを、三組だけ木箱の隅に加える。

 どれも、ふと思い浮かんだ顔を思いながら用意したものだった。


 「街で相談してみるか……使い心地を聞ければ、次の配合の参考になる」

 小さく呟きながら、青司は木箱をひとつずつ丁寧に詰めていく。

 乾いた香草と油の香りが混ざり、部屋の中にやわらかく広がっていた。



 「これで……街の分も十分だな」

 木箱の蓋を閉めると、重みが手のひらにずっしりとのしかかった。

 それを荷車に積み込み、槍を脇にくくりつける。木輪が軋む音が静かな森に響いた。


 リオナは狩衣に袖を通し、弓と矢筒、小剣の刃を軽く確かめる。

 革の鞘を腰に下げる仕草も、もうすっかり板についていた。

 「街までの道は、しばらく静かだといいけどね」

 そう呟きながら、彼女は包みをひとつ荷車にそっと忍ばせる。

 干し肉と焼き菓子、果実を詰めた簡単な軽食――青司への小さな気づかいだった。


 すべての支度を終えると、ふたりは家の戸口で顔を見合わせる。

 青司が手綱を握り、リオナが隣に並んだ。

 森の中の小道はまだ湿っているが、木々の葉の隙間から差す光が道を照らしている。


 「さあ、行こうか」

 青司の声に、リオナは小さくうなずいた。

 荷車の車輪が転がる音と、森の鳥たちのさえずりが重なり合う。

 森の奥の家をあとにして、ふたりはゆっくりとリルトの街へ歩き出した。



 森の小道は雨に洗われ、柔らかな土の匂いが立ちのぼっていた。

馴染んだ木々のあいだを、荷車の車輪が心地よい音を立てながら進む。

葉の雫が時おり光を弾き、湿った草葉が足もとを撫でる。

やがて木々の向こうに、リルトの街並みが淡く姿を現した。



*******



 街の門に着いた頃には、すでに西の空が茜色に染まりはじめていた。

 石畳の上を、荷車の車輪が軽やかに鳴る。通りにはパン屋や露店の灯りがともり、焼いた穀物の香ばしい匂いが漂っていた。


 「……今日は、まずマルコのところへ寄ろう」

 青司の言葉に、リオナがうなずく。

 洗剤の取引をしている職人マルコットの工房は、商業地区のはずれ――香料や油の匂いが立ちこめる一角にあった。


 扉を開けると、熱気と薬草の香りがどっと押し寄せた。

 中では見習いの若者たちが、次々と瓶を洗い、溶かした油を量り、調合した液体を注ぎ込んでいる。

 棚の奥までぎっしりと並んだ瓶が、夕陽の光を受けて鈍く輝いていた。


 「おお、セイジ!」

 ひときわ大きな声とともに、マルコットが顔を上げた。

 頭には布を巻き、腕まくりした袖から汗が光っている。


 「聞いてくれよ、すごいことになってるんだ!」

 青司が驚く間もなく、マルコットはにかっと笑った。

 「ギルドが販売を後押ししてくれてな。今や洗剤は毎日、街中で飛ぶように売れてる。増産を頼まれて、人を三人雇ったんだ。今は一日に三百瓶がやっとってところさ!」


 「三百瓶……ずいぶん忙しそうだな」

 青司が荷車の横に立ちながら言うと、マルコは大げさに肩をすくめた。

 「原料代はギルドが負担してくれてるが、工房はもうてんてこ舞いだよ。でも悪い気はしないさ。お前の配合があってこその仕事だ。ほんと、感謝してる」


 青司は小さく笑い、荷の中から包みをひとつ取り出した。

 「こっちこそ、みんなに喜んでもらえるものを作ってくれて嬉しいよ。試しに入浴用のシャンプー、それにコンディショナーなんかを作ってみたんだ。使い方は中にメモを挟んである」


 マルコは目を丸くして受け取ると、ふっと表情を和らげた。

 「ありがとな。ちょうど一昨日、風呂を買ったばかりなんだ。嫁さんがすごく喜んでてな、またあいつの笑顔が見られそうだ。……これは、リオナ嬢も一緒に作ったのか?」

 「ええ、香りを選んだのは私」

 「そりゃいい。街で売り出すときは、ぜひ俺にも声をかけてくれよ」


 笑い合う三人の頭上では、ランプの灯りが淡く揺れていた。

 しばし言葉を交わしたあと、青司とリオナは工房をあとにする。

 外はすっかり夕闇が降り、街路の灯りがひとつ、またひとつと灯りはじめていた。


 「マルコのところ、すごく賑やかだったね」

 リオナが荷車を引グッズ青司に言う。

 「うん。あの様子なら、俺たちの洗剤もちゃんと根づいていきそうだ」



  やがて、住宅街のほうへと道がゆるやかに曲がる。

 通りの先に、懐かしい家の明かりが見えた。

 マリサの家――木の香りがする扉の向こうから、湯気と笑い声が漏れている。


 扉を叩くと、すぐにマリサの明るい声が返ってきた。

 「まあ、リオナ! セイジさんも。今日はベルドが会合で店を休みにしてたのよ。ちょうど夕ご飯ができたところよ!」

 「ただいま、姉さん」

 リオナが微笑む。青司はそっと荷車の中から小さな包みを取り出した。


 「これ、森の家で試しに作った入浴グッズです。……よければ使ってみてください」

 「まあ、いい香り……。セイジさんが作ったのね」

 マリサは目を細め、包みを手に取りながらやわらかく笑った。

 その笑顔に、青司も自然と肩の力を抜いた。


 「さ、立ってないで入って。ベルドももうすぐ帰るから」


 食卓には、湯気の立つスープと焼きたてのパンが並んでいた。

 香ばしい匂いにリオナが思わず目を輝かせる。


 「ねぇ、リオナ。あなたの髪、なんだか前に会った時よりサラサラじゃない?光沢もあるみたいだし」

 「そうなの、肌も見て。滑らかで、柔らかくなってると思わない?」

 「本当ね、どうして?!」


 マリサが身を乗り出し、リオナが得意げに胸を張る。

 「森でセイジが作った石鹸と、あと……シャンプーっていうのとか色々使ってるの。セイジに教えてもらったのよ」

 「まあ、セイジさんったら、そんなものまで!」

 「いや、その……リオナが香りを選んだんです」


 ちょうどそのとき、戸口の向こうからベルドが顔を出した。

 「お、客が来てるのか。おお、セイジにリオナか!」

 「お邪魔してます」

 青司が軽く頭を下げると、ベルドは豪快に笑って椅子を引いた。


 「こっちの姉妹の賑やかさは、相変わらずだな」

 「はは、止めるタイミングを見失いますね」

 ふたりが顔を見合わせて苦笑する。


  リオナとマリサの声が重なり合い、食卓は一気に明るくなった。


 「ねぇ、ベルド。セイジさんから、これをいただいたのよ。うちも、そろそろお風呂を買いましょうよ。リオナは森でセイジさんに作ってもらったそうよ」


 「風呂っ! マリサ、風呂がいくらするか知ってるのか?」


 「そうだけど、リオナの髪を見て。ものすごくサラサラで艶やかで素敵でしょ? お風呂で使ったものの効果なのよ、肌もスベスベでモチモチよ」


 ベルドは思わず頭をかきながら、青司のほうをちらりと見た。

 「おいおい、本気か?……その顔は本気だよな」


 「はは……そこは、僕は何も口を挟めないですね」

 青司が苦笑すると、ベルドも肩をすくめて笑った。


 姉妹の明るい声が絶えず響き、食卓の灯がやわらかく二人を照らしていた。


 夜のリルトの灯りが窓を照らし、湯気の立つ皿の上ではスープがほのかに揺れている。


 ――こうして、森を出てきた一日が、静かで温かな笑いに包まれて暮れていった。



**************



 翌朝。

 街の空気は少しひんやりとして、石畳には昨夜の露が光っていた。

 ギルドの前には、青司が荷車を引いて立っていた。

 ほどなくして、通りの向こうからリオナが姿を見せる。


 「おはよう、セイジ」

 「おはよう。早いな、今日は」

 「姉さんに朝ごはんを食べさせられちゃってね」

 リオナが小さく笑うと、青司もつられて表情を和らげた。


 二人がギルドの扉を押し開けると、中はすでに活気づいていた。

 帳簿を手に走り回る職員たちの間を抜け、案内役の受付嬢に導かれて商談室へ向かう。

 奥の部屋で待っていたのは、商業ギルド副ギルド長のガラントだった。

 年季の入った机の上には、封のされた帳簿と小袋がいくつも並んでいる。


 「よく来たね、セイジ君、リオナ嬢」

 ガラントは分厚い手を伸ばし、穏やかな笑みを浮かべた。

 「この前の薬と洗剤、どちらも好評だよ。街のあちこちから追加注文が来ていてね」


 「それはありがたい話ですね」

 青司が丁寧に頭を下げると、ガラントは頷き、袋をひとつ差し出した。


 「これが前回分の売上からの清算だ。正確には……銀貨が三十七枚、そして金貨が五枚入っている」


 「……金貨、ですか?」

 思わず青司が問い返すと、リオナも目を丸くした。

 「そんなに、売れたんですか?」


 「売れた、というより――価値を見出されたと言うべきかな。

  王都からの商人がこの洗剤を気に入ってね。リルト産として、まとめて仕入れたいと申し出てきた。

  ギルドとしても、今後は正式な取引品に登録する予定だ」


 「……まさか、そこまでのことになるとは」

 青司は手の中の袋の重みを確かめながら、驚きと責任の入り混じった息をついた。

 「本当にありがとうございます。ギルドのみなさんの支えがなければ、ここまで来られませんでした」


 「はは、謙遜するな。良いものを作る者には、それだけの価値がある。

  それに、うちとしても新しい商機が増えるのは大歓迎さ」

 ガラントの朗らかな笑いが、木の壁に反響する。


 青司はそんな彼に、ふと何かを思い出したように木箱をひとつ取り出した。

 「そうだ、ガラントさん。いつもお世話になっているお礼に――

  試しに作った入浴グッズを、ぜひ使ってみてください」


 「ほう、入浴グッズとな?」

 ガラントがふたを開けると、ほのかな花と柑橘の香りがふわりと漂った。

 「いい香りだな……これは上等だ。リオナ嬢のような髪になれば、うちの女房が喜びそうだ。風呂の時間が長くなりそうだよ」


 「それは、責任重大ですね」

 青司は笑いながら続けた。

 「そのときは、お湯を沸かしすぎないように注意してくださいね」

 その冗談に、リオナが小さく吹き出した。


 「なるほど、そういう気遣いもできる職人か。まったく、どこまでも抜け目がないな」

 ガラントは豪快に笑い、包みを大切そうに机の引き出しへしまった。


 しばらく談笑を交わしたのち、青司とリオナは商談室をあとにした。

 外へ出ると、陽はもう高く昇り、石畳があたたかく光っていた。


 「金貨まで入ってたなんて……本当に、すごいことになってるね」

 「うん。でも、驕らないようにしないとな。――森に戻ったら、次の配合を見直そう」


 ふたりの会話を、朝の風がやさしく包みこんでいった。

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