26
家の中には、焼けた肉の香ばしい匂いと、薪の火のぬくもりが満ちていた。
台所の小さな窓から入る夜風が、ふっと湯上がりの肌を撫でる。
青司は髪を拭きながら、テーブルに並ぶ皿を見て思わず目を見張った。
「……これ、全部、今日の鹿なのか?」
リオナは満足そうに胸を張り、尻尾をふわりと揺らした。
「うん! 若い鹿だったから、肉がやわらかいのよ。せっかくだからステーキにしてみたの」
鉄板の上では、まだじゅうじゅうと音がしている。
香草と獣脂の香りが鼻をくすぐり、青司は思わずごくりと喉を鳴らした。
「……すごいな。狩りして、解体して、料理まで……」
青司は席につきながら、静かに言葉を続ける。
「本当に、ありがとう」
少し間を置いて、青司は笑う。
「リオナがいなかったら、今日も干し肉か粥で済ませてたと思うよ」
リオナはナイフを動かす手を止め、少し照れたように笑った。
(……ちゃんと見てくれてる)
「そんなことないよ。セイジの薬があったから、今日はだいぶ楽だったんだ。あの疲労回復の薬、すごいね。途中で足が軽くなった感じがしたもん」
「ちゃんと効果があったなら、よかった」
青司は頬を緩める。
「俺も風呂を作ってる途中に、試したけど、やっぱり効いたよ。……また作っておく」
リオナはうれしそうにうなずき、焼けた肉を皿に取り分ける。
「それじゃ、いただこうか」
「うん、いただきます」
二人は同時にフォークを持ち、静かな森の家に肉の焼ける音だけが響いた。
若い鹿の肉は柔らかく、噛むたびに旨味が広がる。
青司は目を細め、噛みしめるように味わった。
「……うまい。ほんとに、うまいな」
「でしょ?」
リオナがいたずらっぽく笑う。
「このくらいの鹿は、走り回るけど、肉は脂が少なくて美味しいの。運ぶの大変だったけど、がんばったかいあったわ」
「リオナ、ありがとな。狩りも料理も、簡単じゃないだろうに」
青司が真っすぐ言うと、リオナは少し目を丸くしてから、照れくさそうに頬を掻いた。
(……ちゃんと分かってくれてるから嬉しい。)
「……ちゃんと分かってくれてるから嬉しい。私は好きでやってるし楽しんでるんだけど、姉さんも、狩りは大変でしょって言ってくれるのよ」
青司は笑ってうなずく。
「俺も、道具洗って干すだけでもひと苦労だしな。リオナがそれ以上のことしてるの、ちゃんとわかってる」
リオナの耳がぴくりと動き、ふっと柔らかく微笑んだ。
(……そういうところ、口にしてくれるのが嬉しい)
「……セイジも最近、片付けもちゃんとしてるし」
「え?」
思わず青司が間の抜けた声を出すと、リオナがくすくすと笑う。
「だって、前は脱いだ服は散乱してたし、作業部屋は草屑だらけだったでしょ? いまはきれいになってる。そういうの、嬉しいよ」
青司は頭をかき、少し赤くなった。
「いや……さすがに、リオナが料理してくれてる横で散らかしてたら悪いし」
「ふふ、そういうとこよ」
(ほんと、嬉しい)
その言葉に、青司は苦笑しながらも悪い気はしなかった。
薪の火がはぜ、外では虫の声が静かに鳴いている。
小さな家の中で、二人の笑い声が温かく響いた。
食後、リオナは皿を片付けながらふと窓の外を見た。
東屋のあたりに、湯気がまだうっすらと漂っている。
「ねえ、セイジ」
「ん?」
「お風呂ね、一日の疲れが……ふっと流れていくみたいで。すごく気持ちよかったよ。……ありがとね、私もちゃんと言っとこうと思って」
青司は少し驚いたように目を瞬き、それから静かに笑った。
「気に入ってくれたなら、うれしいよ」
リオナは笑顔でうなずき、洗った皿を棚に戻す。
「これで、森の暮らしも少しずつ快適になってくね」
「そうだな。……あとは、石鹸でも作るか」
青司が笑いながら言うと、リオナの耳がぴくりと動いた。
「石鹸まで作れるの?!」
一拍の間を置いて、リオナの目がぱっと輝く。
「まぁ、洗剤も作れんだから、石鹸も作れるさ」
「それ、すごく嬉しいかも!楽しみにしてる!」
火の明かりがゆらめき、湯気と笑い声が混ざり合う。
その夜、森の奥の小さな家には、春の香りと、あたたかな食卓のぬくもりがいつまでも残っていた。
*******
皿洗いを終え、水気を拭いた木の台に置くと、青司は火の残る炉のそばで、小さな鍋を取り出した。
「もう少しだけ湯を使ってもいいか?」
「うん。何するの?」
「お茶を淹れようと思って。今日はよく働いたし、疲れを抜いておかないとな」
青司は棚から小瓶をいくつか取り出す。中には乾いた葉や小さな果皮、淡い花びらが詰まっていた。
ムーンリーフ、ウッドミント、スリープフラワー……どれもこの森で集め、干しておいたものだ。
それらをひとつまみずつ、手のひらの上でほぐしながら鍋に落とすと、ふわりと甘く清らかな香りが立ち上がる。
リオナは湯気を眺めながら、尻尾をゆっくり揺らした。
「……いい匂い。なんだか森の夜みたい」
「うまくいけば、疲労も取れてよく眠れる。名づけるなら“森の夜のティー”ってとこかな」
青司は笑って、木のマグに淡い琥珀色の液体を注いだ。
「ちょっと、カッコつけすぎじゃない」
湯気が立ちのぼり、森の夜にほのかな香りが広がったところにリオナが優しく突っ込むと、「やりすぎた」と照れたように青司は苦笑いしていた。
カモミールのような優しい甘さに、少しミントの清涼感が混ざった香りがあたりを包む。
「……いい匂い。これ、好きかも」
リオナは両手でカップを包み、湯気を吸い込むように息をついた。
その頬が、薪火の光に照らされてやわらかく赤く染まる。
二人は卓を挟んで向かい合い、湯気の向こうで顔を合わせる。
「……いただきます」
口に含むと、ミントの爽やかさのあとに、やわらかな花の香りとほのかな甘みが広がった。
体の芯からじんわりと温かくなり、思わずリオナは息を吐く。
「……すごい。飲んだら、胸のあたりがぽかぽかしてくる」
「効いてる証拠だな。ムーンリーフとスリープフラワーの組み合わせが、ちょうどよかったみたいだ」
青司は湯気越しに微笑む。
その穏やかな表情を見て、リオナはなんとなく口を開いた。
「ねえ、セイジ。石鹸のこと言ってたけど……他にも、何か作れるの?」
青司は少し考えてから、ゆるく笑った。
「うーん、材料さえあれば、けっこういろいろできるかもな。
たとえば、手荒れを治す軟膏とか、肌を保護するクリームとか。
油脂の配合を変えれば、香りを楽しむオイルとか髪を整える香油も作れる」
リオナの耳がぴくりと動く。
「香油? それって……髪につけるやつ?」
「そうそう。木の実の油に花の香りを移して、少し魔力を混ぜれば、髪に艶も出るし、乾燥もしにくくなる」
「へぇ……なんだか、贅沢だね」
リオナは目を輝かせ、湯気越しに青司を見つめた。
「それに、セイジの手作りってだけで嬉しい」
青司は少し照れたように笑い、カップの縁を見つめる。
「……あとは、虫除け香とか、入浴剤も試してみたいな。――シャンプーやコンディショナーなんかも作れると思う
森の中で暮らすなら、そういうのがあると便利だし」
「入浴剤?」
「湯に溶かすと香りが広がって、血行もよくなるやつ。
草の種類で香りが変わるんだ。……次に作ってみようか」
リオナは頬に手を当てながら、嬉しそうに笑った。
「うん、すごくいいと思う! 森の香りのお風呂……想像しただけで幸せ」
リオナは尻尾をふわりと揺らしながら、笑顔を見せた。
「なんか、楽しそう……! 森で集めた草が、そんなにいろんなものになるなんて」
「作る側も面白いよ。生活がちょっと楽になるのがわかると、また次を作りたくなる」
「うん……そういうの、セイジらしいね」
リオナはマグを両手で包み、ゆっくりとお茶を飲み干した。
青司も同じように湯気を吸い込みながら、静かな夜を味わう。
外では虫の声が細く続き、窓から入る風が薬草の香りを運んでくる。
「……いい夜だな」
青司がつぶやくと、リオナは微笑んでうなずいた。
「うん。あったかくて、静かで……すごく好き」
春の終わりを告げる風が、木の壁をやさしく揺らした。
炎の揺らめきが静かに弱まり、ふたりの間には柔らかな沈黙が落ちる。
まるでその香りごと、森が眠りにつくようだった。
********
春の終わりを告げる風が、木の壁をやさしく揺らした。
炉の火が静かに瞬き、森の夜はゆっくりと眠りへと沈んでいく。
――そして翌朝。
外はしとしとと、細い雨が降っていた。
屋根を打つ雨音が、まるで小さな子守唄のように響いている。
青司が目を覚ますと、部屋の中はしっとりとした朝の光に包まれていた。
隣の部屋から、リオナが藁布団に丸くなって眠っているだろう寝息が微かに聞こえてきた。
実際、毛布から少しだけ出た尻尾が、ゆるやかに揺れたり止まったりして、夢の中の静かな呼吸を刻んでいる。
昨夜の疲れがすっかり抜けたのだろう。頬はやわらかく紅潮し、唇の端には安らかな笑みが浮かんでいる。
(よく眠れたみたいだな……)
青司は小さく笑って、音を立てないように起き上がる。
炉の灰の中から残った炭を掘り出し、新しい薪をくべると、ゆっくりと火が蘇った。
湯を沸かし、薬草の葉を数枚落とす。
甘い香りがふわりと立ちのぼり、木の家の中に温もりが戻っていく。
「……ん……セイジ?」
寝ぼけた声がして、毛布の中から猫耳がぴくりと動いた。
「おはよう。まだ雨、降ってるみたいだ」
リオナは目をこすりながら顔を上げ、窓の外を見た。
「ほんとだ……今日は狩り、無理そうだね」
「ゆっくり休めって、森が言ってるんだよ」
青司がそう言って笑うと、リオナもふっと微笑んだ。
朝食は、昨夜の鹿肉の残りを軽く焼き直し、香草を加えたスープにした。
外の雨音をBGMに、ふたりは静かな朝の食卓を囲む。
薪がぱちぱちと音を立てるたび、家の中はより一層あたたかくなった。
食後、青司は木の作業台に向かい、瓶や鉢、薬匙を整えた。
「今日は、商業ギルドに出す分の薬をまとめようと思う。あと……石鹸と、例のシャンプーとコンディショナー、入浴剤も試してみる」
「そんなに作るの? ……昨日、聞きそびれたんだけど、その“しゃんぷー”と“こん……ど? ……なんとか、ってやつ?”」
青司はくすりと笑って、手を止めた。
「コンディショナー。髪を洗うときに使うんだ。……石鹸と少し似てるけど、役目が違う」
「髪を洗うのに石鹸じゃだめなの?」
「石鹸でも洗えるけど、ちょっと強すぎるんだ。油分まで全部落としちゃうから、髪がきしんだり、乾いたりする」
リオナは自分の長い髪を指先でつまみ、興味深そうに見つめた。
「うん……確かに、乾くとからまることある。だからいつも櫛でとかすのが大変」
「そのために作るのがシャンプーとコンディショナー。
シャンプーは、髪の汚れを優しく落とすもの。
コンディショナーは、そのあとで髪を守る“仕上げ”みたいなものだ」
青司は棚の瓶を手に取り、指でとんとんと叩いた。
「油脂や草の香りを混ぜて、髪を柔らかくしたり、艶を出したりもできる。香りをつけることもできるぞ」
「へぇ……石鹸だって高いのに、そんなのあるんだ。香りのする髪……ちょっと素敵かも」
リオナは頬を少し赤らめて笑った。
「でも、そんな贅沢なもの、街でも見たことないよ?」
「まあ、前の世界の知恵ってやつだな」
青司は軽く肩をすくめた。
「石鹸よりも作るのは少し面倒だけど、慣れればそんなに難しくない。雨の日にはちょうどいい作業だ」
リオナは湯気の立つマグを手にしながら、少し身を乗り出した。
「じゃあ、わたしはお昼の準備しながら見ててもいい?」
「もちろん。むしろ助かる。……香りの調合、どれが好きか意見を聞かせてくれると嬉しい」
「ふふ、それなら任せて」
リオナの尻尾がふわりと揺れ、青司は微笑んだ。
外ではしとしとと雨が続いている。
屋根を叩く雨音と、瓶の中で混ぜられる液体の音が、静かな森の家に心地よく響いていた。
青司が瓶を傾け、草の粉末を乳鉢に入れると、リオナは湯を注ぎながらその動きを目で追った。
乾いたハーブをすり潰すたび、爽やかな香りが部屋に広がる。
リオナは鼻をひくひくと動かし、目を細める。
「いい匂い……この香り、昨日のお茶にも似てる」
「ムーンリーフを少し混ぜてるからな。香りが落ち着くんだ」
青司が混ぜ合わせた軟膏やオイルを並べ、瓶に詰めていく。
その横でリオナはスープを煮込みながら、ときどき振り返って青司の作業を眺めた。
瓶の中で薬草の色が変わっていく様子や、湯気に溶ける香りの変化が、彼女にはちょっとした魔法のように見えた。
昼を過ぎても雨は止まない。
青司は仕事の手を休め、リオナが煎れてくれたお茶を受け取る。
ふたりで窓辺に座り、雨の筋をぼんやりと追う。
「……雨の音って、不思議だね。なんか落ち着く」
「うん。外に出られないのに、嫌じゃない」
「ね。むしろ……こういう日も、悪くないかも」
リオナの尻尾が静かに揺れ、青司は微笑んだ。
雨が、森も家も、ふたりの時間までも柔らかく包み込んでいた。
仕事と休息のあいだにある、ささやかな休日。
それは、森がくれた小さな贈り物のようだった。
昼を過ぎても雨は止まない。
青司は仕事の手を休め、リオナが煎れてくれたお茶を受け取る。
ふたりで窓辺に座り、雨の筋をぼんやりと追う。
「……雨の音って、不思議だね。なんか落ち着く」
「うん。外に出られないのに、嫌じゃない」
「ね。むしろ……こういう日も、悪くないかも」
リオナの尻尾が静かに揺れ、青司は微笑んだ。
雨が、森も家も、ふたりの時間までも柔らかく包み込んでいた。
仕事と休息のあいだにある、ささやかな休日。
それは、森がくれた小さな贈り物のようだった。
昼を過ぎても、雨は途切れずに降り続いていた。
だが午後の半ばを過ぎたころ、窓の外の音が少しずつ柔らかくなる。
雲の切れ間から、淡い光が森を照らし始めていた。
青司は作業台の前に立ち、最後の瓶に淡い緑色の液を注いだ。
――森で採れた香草と木の実の油を使い、錬金術で仕上げたシャンプーとコンディショナー。
隣の棚には、乾燥させたばかりの石鹸と、小さな瓶に詰めたボディーバターとハンドクリームが並んでいる。
ふわりと漂う香りは、雨上がりの森そのものだった。
「……これでよし」
青司が手を止め、肩を回す。
作業中は集中していたせいか、いつのまにか時間が経っていた。
その背後では、リオナが鍋のふたを開けて湯気をのぞきこんでいた。
「できたよ。今夜は野菜のスープと、森茸の焼きパイ、塩漬けした熊肉を戻して煮込みも用意してみたわ」
「おお、いい匂いだな。雨の日にちょうどいい」
「でしょ? 今日は狩りもないし、たまにはゆっくり料理してみたかったんだ」
リオナは尻尾をふわりと揺らしながら、皿を並べていく。
青司は手を洗い、瓶の並ぶ作業台を片付けたあと、木の棚の上に作った石鹸をそっと並べた。
乾燥させるための棚には、白や淡い緑、ハーブの混ざった薄黄の石鹸が整然と並び、まるで小さな花畑のようだった。
「……こうして見ると、なんだかきれいだな」
「うん。お店に並んでてもおかしくないよ。これ、ギルドで売るの?」
「ああ。薬と一緒に見本を出してみようと思ってる。もし評判が良ければ、定期で卸せるかもしれない」
「ふふっ。セイジ、すっかり職人さんだね」
リオナが笑うと、青司も少し照れくさそうに頭をかいた。
外の雨はもうほとんど止んでいる。
窓を開けると、しっとりと湿った風が入り込み、草と土の匂いが広がった。
遠くで小鳥が鳴き、葉の先からぽとり、ぽとりと水滴が落ちる音が聞こえる。
リオナは器にスープをよそい、焼きたてのパイを切り分けた。
青司はスプーンを取り、ひと口すする。
「……うまいな。優しい味だ。体があったまる」
「ふふっ、よかった。じっくり煮込んだからね」
「森茸の香りもいいし、熊肉の塩気がちょうどいい。ほんとに美味しいよ」
青司がそう言うと、リオナは少し頬を染め、尻尾を小さく揺らした。
「ありがとう。……なんか、何度も褒められると照れるわね。それ以上褒めても、何も出ないわよ」
リオナは恥ずかしそうに笑いながら、尻尾の先をくるりと丸めた。
「べつに、これ以上何も望んでないよ。美味いものはうまいってちゃんと伝える方がいいだろ。手をかけて作ってくれてるんだから。ましてや、俺には絶対できないことだしな」
「ふふ、そう言ってくれると作りがいあるわ」
食卓に灯りをともし、ふたりは向かい合って座った。
湯気の立つスープと、焼きたてのパイの香ばしい香り。
窓の外では、雨上がりの森が淡い金色の光に包まれていた。
「……今日は不思議な日だったわね」
「うん。何もしてないのに、いろんなことが進んだ気がする」
「雨が休ませてくれたんだろう」
青司の言葉に、リオナはゆっくりと笑った。
「……ねぇ、明日、晴れたらまた森へ行こう。
新しい草、いろいろ探してみたい」
「そうだな。次は入浴剤に使えそうな香草を探そうか」
「うん。……森の香りのお風呂、早く入りたいな」
ふたりの笑い声が、小さな家に穏やかに響く。
窓の外では、春の終わりの光が木々の葉を濡らし、森のあちこちで新しい芽が息づいていた。
雨に洗われた世界の中で、青司とリオナの一日は、ゆっくりと夜へと溶けていった。




