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 翌朝、森はうっすらと白い靄に包まれていた。

 冷え込んだ空気を吸い込みながら、青司は家の裏手に出る。乾燥させておいた木材の山が、朝の光に淡く照らされていた。

 長い板、節の少ない角材、樹皮を剥いだ丸太。どれも少し前に、森の木を伐って干しておいたものだ。手で触れると、木肌はしっとりと冷たく、指先にわずかな油気を残した。


 「……まだ使えるな」


 つぶやき、青司は木材を数本選び出した。

 家の中にはもう空いた部屋はない。空いていた部屋はリオナの居室として使ってもらっている。

 だから風呂を作るなら外――屋根のある小屋のようなものにするしかない。


 (直に置けば、すぐ底が腐る。石を敷いて通気を取るか……。

 脳裏に手順が浮かぶのは、転移してきたときの優遇(チート)のひとつか。……ありがたいもんだ)


 頭の中で手順が自然に浮かぶ。

 底を石で支え、木箱を組み、隙間を熊の脂で埋める。防水と保護には、胡桃から搾った油を使えばいい。

板の厚みは四センチ。湯を張るなら、底は二重にしたほうがいい。

 屋根も欲しい。雨避けと目隠し、それに夜の冷気を防ぐために。

 材料も道具も、すでに揃っている。――あとは手間と時間だけ。


 青司は手斧を手に取り、木を切り出す。

 トン、トン、と木槌の音が森の空気を震わせた。

 木の香りと樹脂の匂いが立ち上り、春の朝の冷気に混ざっていく。

 削った木屑が風に舞い、陽を受けてきらめいた。


 打ち込むたびに、手のひらの奥まで響く振動。無心に刻む音が、心の奥を落ち着かせていった。


 作業をしていると、時間の感覚が消える。

 木を削り、角を合わせ、釘の代わりに木栓を打ち込む。

 この世界に来たときに授かった製作の技術(チートスキル)が、眠っていた感覚を呼び覚まし、手を自然と動かしてくれる。

 カンナで削る音。木を叩く音。どこか懐かしい、木と油の匂い。遠くで鳥が鳴き、森の風が枝を揺らした。


 日が傾いてきたころ、ようやく東屋の骨組みが立ち上がった。

 地面を掘って石を埋め、その上に四本の柱を立てる。梁を渡して屋根をかけ、胡桃の油で塗装した板と樹皮を交互に重ねて雨を弾くようにした。

 腰の高さまで板を張り、上は開けてある。森の風が通り、夜空を見上げられるように。


 森の影が長く伸びるころ、ようやく形ができあがった。


 その中央に、木製の湯船が据えられた。

 板を組んで箱を作り、継ぎ目に熊の脂を練りこむ。

 仕上げに胡桃の油を塗り伸ばすと、淡い琥珀色の艶が浮かんだ。

 青司は木槌で軽く叩き、音を確かめる。――高すぎず、鈍すぎず、しっかりとした響き。


「これなら、水を張ってもびくともしない。」

 湯船の前に腰を下ろし、深く息をついた。

 夕暮れの森は静まり返り、どこか遠くで風の音だけが続いていた。


 「さて……試してみるか」


 簡素な東屋の中に、木の湯船。

 手前には平たい石を敷き詰めて、排水口を掘る。

 溝の先には、砂と灰を敷いて自然に湯が染みこむようにした。


 青司は湖から汲んだ湧き水を桶で運び、湯船に流し込んだ。

 透明な水面がゆらゆらと揺れ、夕暮れの光を映す。森の奥では、鳥の声が次第に遠のいていく。

 空の色も、少しずつ茜から群青へと変わり始めていた。

 次に、机の上から赤い石を取り出して湯に沈めた。

 掌ほどの大きさの石は、魔力を流すと淡く光を帯び、

 しゅう、と小さな音を立てた。


 水面に泡が浮かび、湯気が一筋、立ちのぼる。

 青司は思わず息をのんだ。

 水が、確かに温まりはじめている。

 指を浸すと、ちょうど良い湯温だった。


「やるじゃないか……。なかなかいい。風呂らしくなったよな」


 湯気が頬をなで、木の香りがふっと立ち上る。

 火も薪も使わずに湯を沸かす。

 それは、錬金にも似た魔法のようで――けれど、自分の手で組んだ構造が確かに働いているのを感じる。

 しばらく見つめているうちに、頬がゆるんだ。

 湯の音、木の軋み、森の息づかい。

 そのすべてが、穏やかな満足とともに胸にしみてくる。

 ふと、鼻の奥に湯気の匂いが蘇った。

 あの冬の夜。家の浴室。

 母の声。温かな光。

 そのすべてが遠く霞んでいたはずなのに、湯気の中でぼんやりと形を取り戻していく。

 胸の奥がじんと熱くなった。


 風呂を作ることは、

 ――自分が「むこうでしていた日常」を、この世界でも取り戻すこと。

 そう思うと、手のひらの赤い石の温もりが、いっそう愛おしく感じられた。


 青司は湯に映る自分の顔を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。

 赤い石の光が、まるで心臓の鼓動のように淡く脈打っている。


 しばらくその光を眺めていた。

 湯の表面に広がる波紋が静まり、森の音だけが戻ってくる。


 青司は湯船を見下ろし、しばらく考え


 ……ほっと息をついた。


 ――抜かずに、残しておこう。


 戻ったとき、冷えてたら困るからな。


 狩りから戻るリオナが冷えていたら、この湯がちょうどいい。

 風除けの布を屋根の梁にかけ、湯気が逃げないように留める。

 手を拭い、木栓をもう一度確かめると、ほっと息をついた。


 春の風が、東屋の隙間を抜けて頬を撫でた。

 森の梢で鳥が鳴き、遠くで枝を踏む音がする。

 日が傾き、湯気が金色に光っていた。


 ――たぶん、もう少しで帰ってくるな。


 青司は湯船の縁に腰を下ろし、出来上がったばかりの風呂を見つめた。

 木と油と湯気の匂いが、家の中へとゆるやかに流れ込んでいく。

 赤い石は湯の底で、まだ小さく光を宿していた。


 青司は湯船の縁を軽く叩いてから、立ち上がった。

 作業でついた木屑が服に貼りつき、手のひらには獣脂と油のにおいが染みついている。

 そのまま裏手を回って玄関へ向かう途中――森の奥から、軽やかな声が響いた。


 「セイジー! いるー!?」


 青司は足を止めた。聞き慣れた声が、風に乗って届いてくる。

 次の瞬間、木々の間から、黒色の耳と尻尾がひらりと現れた。

 リオナだった。弓を背に、肩には獲物を背負っている。


 「おお……リオナ、おかえり」


 玄関に辿り着いたリオナは、どこか誇らしげに尻尾を揺らしていた。

 「ふふん、今日はついてたの。見て! この子!」

 彼女の肩にかかっているのは、若い鹿だった。血を抜いて、脚を紐で縛り、手際よく運んできたらしい。

 「森の西のほうで見つけてね。逃がす前に仕留められたの。いい毛並みでしょ」


 青司は思わず笑みを漏らした。

 「さすがだな。リオナ、大物じゃないか」


 リオナは嬉しそうに目を細めた。

 「でしょ? ……あ、そうだ」

 彼女は鹿を地面に下ろすと、ふと思い出したように青司を見上げた。

 「ねぇ、お風呂、できたの?」


 その問いに、青司は一拍遅れて口角を上げた。

 「――できたよ」

 その言葉を聞くやいなや、リオナの耳がぴくりと動いた。

 「ほんと!? もう入れるの?」


 青司は苦笑しながら、玄関から裏へ回るように手を振った。

 「見てみな。湯は張ってある。まだ湯気も立ってる」


 リオナは目を輝かせ、軽い足取りで駆けていった。

 彼女の尻尾が、春の木漏れ日を切るように揺れる。


 東屋の方から、やがて「わぁ……!」という声が上がった。

 青司はその声に肩を揺らし、笑みをこぼしながら玄関に足を踏み入れた。


 ――中からは、まだリオナの驚き混じりの声が続いている。


 「えっ、なにこれ……屋根まであるじゃない! 壁も……! え、ここ、ほんとに風呂!?」

 「うん。風よけ兼ねて、東屋風にしたんだ。森の風が通るように、上は開けてある」


 リオナは湯の縁にしゃがみ込み、湯気を顔に受けた。

 「……すごい。あったかい。赤い石、これ、あの時の?」

 「そう。リオナと見つけてきたやつだ。魔力を流すと、ずっとあの調子で温かい」


 リオナは湯の表面に指を伸ばし、湯気の中で小さく笑った。

 「へぇ……。なんか、夢みたい。森の中にこんな場所ができるなんて」


 青司は肩をすくめた。

「まあ、いろいろ大変だったんだぞ。木の底も二重にしたし、獣脂で目止めもした。腐らせると台なしだし」

「ふーん、そういうの、よく思いつくね」

「まあな」

 (……あの時のチートスキルとは言えないか)


 リオナはしばらく黙って湯の中を見つめていた。

 湯気の中で、赤い石の光がゆらゆらと揺れている。

 その光がリオナの金の瞳に映り込み、淡く揺れた。


「ねぇ、セイジ」

「ん?」

「これ……私も入っていいの?」

 青司は少しだけ目を丸くし、それからゆるく笑った。

 「そのつもりで、湯を抜かずにおいた。冷える前に、鹿を解体したら入っていいぞ」


 リオナの耳が嬉しそうに動いた。

 「ふふっ……ありがと」


 その言葉のあと、彼女は鹿を持ち上げて玄関の前に立った。

 青司は扉を押し開け、振り返りざまに言った。

 「解体は俺も手伝う」

 「うん!」


 夕陽が森の端を染める。

 玄関に差し込む光の中で、リオナの尻尾が一度ふわりと揺れた。

 その背中に、青司は短く視線を送り、家の中へと入っていった。


 ――木の匂い、油の匂い、そして湯気の柔らかな温もり。

 それらが、春の森の冷えた空気に溶けていく。


 吊り木に鹿を掛けながら、青司は小さく息をついた。

 (あの顔……まるで、子どもの頃の俺みたいだったな)


 笑みがこぼれる。

 静かな夕暮れ。


 リオナが手早く鹿をさばき、言った。

 「セイジ、これは今日の夕飯用ね。あとは塩漬けにしていいから」


 言われた部位を台所へ運び、残りの肉を刻んで樽に詰めていく。

 外では、湯気の立ち上る東屋。

 赤い石が、湯の底でゆっくりと光を宿していた。



*******



 夕暮れ。森の空気は少し冷えはじめていた。

 東屋から、かすかな水の音と湯気が立ち上る――。

 青司は家の外に吊るされた残骸を片付けながら、そちらに目をやった。

 湯船の中で、リオナの肩まで沈んだ背中がゆらりと揺れる。

 赤い石の光が、湯の底で淡く脈打っていた。

 湯気が風に流れ、森の香りと混ざって消えていく。

 その柔らかな景色に、青司は思わず息をついた。


 「……気持ちよさそうだな」

 思わず小さく息をつく。狩りの汗を流し、春の冷たい空気から解放された彼女の姿は、無防備で、だけどどこか柔らかかった。


 リオナは腰までの壁に服を掛け直し、湯の中で体を沈める。

 濡れた髪が肩に沿い、湯気がほんのり香る。

「ふぅ……あったかい。最高ね」

 小さく笑う声。森に吸い込まれるように、柔らかく響いた。


 青司は少し離れて立ち、湯上がりのリオナを見つめる。

 湯気の向こうに見える彼女の横顔――濡れた髪やほんのり赤い頬、着替えた服の可愛らしさに、胸が奥がわずかに跳ねる。思わず声が上擦ってしまった。

「……次は、俺も入ろうかな」


 リオナはちらりと振り返り、少し照れながらも安心したように微笑む。

「うん。夕食用意しとくわね」


 湯の向こうで、二人の呼吸だけが静かに交わる。

 木の葉が揺れ、湯面に小さな波紋が広がる。

 赤い石の光が、揺らめきながら水面を淡く照らした。

 青司は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 森の静けさと湯気に包まれ、時間が柔らかく流れていく。


 ――そして少し後。


 青司が東屋の風呂に肩まで浸かるころ、

 家の中ではリオナが夕食を作りながら優しく微笑んでいる。

 湯上がりの彼女の髪からは、まだかすかに湯気が立っている。

 台所からは包丁の音と、肉を焼く匂いが漂ってくる。

 木の壁越しに、それが小さな暮らしの鼓動のように響いていた。


 石鹸も香りもない、ただ湯と木の匂い、春の森の空気。

 それだけで、十分に温かく、心地よい時間だった。


 湯船の縁に手を置き、青司は遠く森の梢を見上げる。

 沈む夕陽の光が、湯気を淡く染める。

 「……ああ、やっぱり作ってよかった」

 小さく独りごちると、リオナが微かに笑った気がした。


 外では、台所から包丁の音がリズムよく響き、森の夕暮れに溶けていく。

 赤い石は湯の底で、淡く光を宿し続けていた。

 ――まるで、この森の中に、二人だけの小さな灯を灯しているかのように。


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