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 商業ギルドの石造りの館。その一角にある受付で、セイジとマルコットは並んで立っていた。

「商談室を二刻(約二時間)、お願いします」

マルコットがそう告げ、銅貨を一枚ずつ丁寧に数えて手渡す。銅貨三十枚。庶民の一日分の食費にあたる額である。決して安くはないが、外の喧騒を離れ、互いの商談を邪魔されずに進めるためには必要な出費だった。


「会員のお二人ならご利用いただけます。三号室をどうぞ」

 受付嬢が鍵を差し出すと、マルコットは真っ直ぐに受け取り、セイジの方へ軽く会釈した。

「お金のことは、気にせんでください。話す価値があると、わたしが思ったから借りた部屋です」

 言葉に打算はなく、職人気質の真っ直ぐさがにじんでいた。


 やがて二人が案内された三号室の扉を開けると、磨き込まれた長机と椅子が並ぶ落ち着いた空間が広がっていた。

 窓から差し込む昼の光は柔らかく、壁にはギルドの紋章入りの織物が掛けられている。

 扉を閉めれば外の喧騒は遮断され、まるで別世界の静けさが訪れる。


「改めて……先ほどは門前で急に声をかけてしまい、失礼しました。マルコットと申します。布を染める職人をしております」

 がっしりとした体格の男は、背筋を伸ばして頭を下げた。その瞳には誠実さと、どうしても聞きたいという切実さが宿っている。


 セイジもまた、静かに応じる。

「セイジと申します。森で採れる植物を扱い、薬や日用品を少しずつ形にしている者です」


 互いの自己紹介が交わされたそのとき、扉がノックされ、副ギルド長ガラントが入室してきた。銀縁の眼鏡の奥から二人を見やり、机の端に腰を下ろす。

「ふむ、すでに顔合わせは済んだようだな。……では少し補足しておこう」


 低く響く声が商談室を満たす。

「マルコット殿は、染め布を扱う堅実な工房主だ。草木や樹皮から染料を引き出し、布や皮革に色を定着させることを生業としている。植物の性質を見極め、調合を重ねる仕事ゆえに、薬液の扱いにも通じている。……だからこそ、植物から洗剤を作るセイジ殿と相性が良いと考えていた。実は以前から、いずれ紹介しようと思っていた一人だ」


 マルコットは驚きに目を瞬き、やがて納得したように深く頷いた。

「なるほど……確かに、染める前に布をきれいに保つのも我らの仕事。落ちぬ汚れを落とせなければ、いかなる色も映えません。……セイジ殿の“薬液”と、わたしの仕事は、思えば地続きなのかもしれませんな」


 セイジも静かに頷き返す。

「植物をどう扱うかという点では、確かに共通していると思います」


 ガラントは二人の反応を見て、眼鏡の奥で目を細めた。

「……よし。ならば本題に入ろう。洗剤の件で、両者にとって益となる道を探ってみるとしよう」


 商談室には、互いの胸に宿る期待と緊張が混ざり合った静けさが漂っていた。



*******



「さて……セイジ殿。例の洗剤について、改めて説明をお願いしたい」

ガラントの促しに、セイジは頷いて口を開いた。


「洗剤に使うのは三種類の草です。まず細長い葉を持つ《セトラ草》。次に、丸い葉の《リモナ草》。そして紫がかった小さな花を咲かせる《ソルビア草》。どれも鼻を近づければ柑橘のような清涼な香りがします」


「ふむ……」

 ガラントは腕を組み、すぐさま控えていた職員へと視線を向ける。

「三種の草をそれぞれ束で持て。それと瓶、小鍋も用意しろ」


 職員は深く頭を下げ、足早に部屋を出ていった。

やがて扉が再び開き、薬草の束と数本のガラス瓶、小鍋が運び込まれる。机の上に整えられたそれらから、さっそく清涼な香りが立ちのぼり、室内にさわやかな風が吹き込んだかのようだった。


 セイジは三種の草を見比べ、ゆっくりと息を吸い込む。

「確かに……間違いありません。では、実際にお見せしましょう」


 そう言って両手をかざすと、摘まれたばかりの草がふわりと宙に浮かび上がった。まるで見えない糸に吊るされたかのようにゆるやかに回転し、彼の掌の上に球状の透明な結界が形を取っていく。


「……錬金術」

マルコットが思わず小声で呟く。


 次の瞬間、結界内で草が渦を巻くように回転し、セイジの魔力が触媒となって圧縮が始まる。透明な壁に押し潰され、茎や葉から鮮やかな緑の液体がじわじわと滲み出す。滴り落ちる雫は淡く光を帯び、瓶の口へとすっと吸い込まれていく。


 リオナは指先に力を込めて小さく息を吐き、結界の揺れに体を合わせて見守る。緊張感が漂う中、マルコットは目を大きく開き、息をのむ。


「……これが、洗剤の元になります」


 結界が消えると同時に、瓶の中で緑色の液体が静かに落ち着く。柑橘のような香りが濃く漂い、部屋の空気を一変させた。


 青司は瓶を掲げて見せた後、鍋のほうへも視線を向ける。

「もっと単純に、鍋で煮出して抽出することもできます。少し時間はかかりますが、魔力を込めることで強い洗浄成分は同じように得られます。今のは効率を重視した錬金術のやり方です」


 マルコットはしばらく言葉を失ったが、やがて深く息を吐き、目を輝かせる。

「……なるほど。鍋で煮出すやり方なら、工房の設備でも十分に再現できますな。ここまで短時間で濃縮できるのは、腕の良い錬金術師ならではでしょうが……」

 その表情には驚きと同時に、職人らしい好奇心がにじんでいた。


「染料を作る際、私も錬金術を使います。草木から色を引き出す工程と大きな違いはなさそう。ならば――この洗剤も、間違いなく私の工房で作れるはずです」


 ガラントは眼鏡の奥で目を細め、満足げに頷いた。

「よし。では次に――その製法をどう守り、どう分け合うか。ギルド立ち会いのもとで話を進めよう」


 商談室の空気が、いよいよ本格的な契約の場のものへと変わっていった。



 商談室には先ほどの実演で使った瓶や鍋が整然と並ぶ。窓から差し込む昼の光が、二人の影を机に落としていた。ガラントは眼鏡越しに二人を見つめ、静かに口を開く。


「さて――青司殿、まずはこれまでの委託販売の流れを、マルコット殿に説明していただこうか」


 青司は頷き、手元の紙を指で押さえる。


「はい、僕はギルドを通じて洗剤の販売しています。売上の二割をギルドに手数料として支払い、残りの八割を受け取っています。今後もギルドの販売網を使わせてもらおうと思っています」


 マルコットは眉をひそめた。


「手数料を取られる……つまり、私が作った洗剤も、君の手元でなくギルドが販売するということですかな?」


 青司は少し身を乗り出して説明する。


「えっと、正直なところ僕はギルドに売るだけで、それ以外の販売先がありません。ですから、ギルドに販売は任せています。ただし、マルコットさんには共同販売者として利益を分ける形でいいですかね。たとえば、利益の四割をマルコットさんにお渡しする――どうでしょうか」


マルコットは唇を噛み、視線を机に落とした。


「……おいおい。既に開発された商品の製造を請けるんだ。素材と製造にかかる費用にうちの利益をのせてくれるだけで十分だ」


青司は少し考え込み、やがて口を開く。


「それでは、なんだか悪いじゃないですか。香り付けくらいしか私からの新しい案はありませんが……マルコットさんには、他に何か工房でできそうなアイデアはありますか?」


マルコットは目を輝かせ、小さく息を吸った。


「……なるほど。いくつか案があります。まず布に合わせて香りのバリエーションを作ることができますな。春の花、夏の葉、秋の樹皮……季節ごとの香りをブレンドするのも面白い。あと用途別に濃度を変えることも可能です。油汚れ用、衣類用、食器用……布の色を鮮やかに見せるための調整もできます」


 青司は目を細め、にこりと笑う。


「それなら……共同販売として進めましょう。マルコットさんのアイデアも反映させれば、たくさん売れますよ」


マルコットは少し顔を背け、口を尖らせたまま小さく「イヤイヤ……それでは利益の一割で頼む。さすがに四割はもらいすぎだ」

その声が落ちると、商談室の空気が一瞬冷えた。青司は思わず息を呑む。しかしマルコットの目には、確かな興味と好奇心が光っていた。


「……では、ギルドと同じで二割。これでいきましょうよ」


「それでは、素材代と製造費用はうちで持つことにする。それでも二割はもらいすぎだ。一割五分だ、それ以上は職人として受け取れない。腕のある職人は、手間賃以上を受け取れば誇りを損なう。私はそう教わってきた」


ガラントは二人の様子を見ながら、眼鏡の奥で目を細める。


「……ふむ。セイジ、そろそろマルコット殿の意見も受け入れて良いのではないか。どちらも譲らぬが、それがかえって健全だ。良い交渉の兆しだ。技術を尊重しつつ、販売の形を整えればよい。

 後は契約の細部を詰めればいい。契約書はギルドの職員に準備させ、魔術契約として守秘義務も明記する。違反すれば発動する制約付きだ」


 青司とマルコットは互いに視線を交わし、少し間を置いてから頷いた。緊張感の中に、これからの協力への期待が少しずつ溶け込んでいく。





 商談室の空気は緊張感に包まれ、机の上には契約書案と筆記用具が整然と並ぶ。窓から差し込む昼の光が、二人とガラントの影を机に落としていた。ガラントは眼鏡越しに青司とマルコットを見やり、低く静かな声で口を開いた。


「では、条項ごとに話し合いながら契約を確定していこう。魔術契約専門の職員も同席している。書き込みと魔術的な固定は、その者に任せる」


 職員は静かに頷き、契約書案の隣に座る。手には筆とインク、そして小さな魔導石を携え、準備を整えていた。


 青司とマルコットは条項ごとに意見を述べる。まず調合法の守秘義務について、ガラントが問いかける。


「調合法は外部に漏らさぬよう、魔術契約として保護する。違反すれば制約が発動する。これで問題ないか?」


 青司は紙を押さえながら答えた。

「はい、守秘は当然です。ただし、家族や信頼できる者に少量を譲ることは可能であると安心です」


 マルコットも頷く。

「同意します。私だけで工房はやっておりませんので、工房の者と弟子への指導は必要ですが、制限内で行うべきでしょう」


 ガラントは軽く手を動かし、次の条項に進む。

「次に販売網の限定だ。ギルドを通した販売に限定する。工房で直接売ることは不可とする」


 マルコットは青司に慎重に問う。

「なるほど。再度の確認ですが、私の作った分も、ギルドを通して販売され、二割がギルドの取り分になるという理解で間違いないですかな?」


 青司は少し間を置き、頷いた。

「はい。私に販売先がない以上、ギルドの販売網を利用する形になります。マルコットさんも共同販売者として、利益の配分は先ほど話した通りです」


 ガラントが眼鏡越しに二人を見渡し、落ち着いた声で補足する。

「確かに手数料は二割だ。しかし考えてほしい。ギルドの販売網は長年培われた信用と顧客網の上に成り立っている。それを利用することで、マルコット殿の製品もより多くの街や近隣国に届く。手数料はその対価にあたる」


 青司も言葉を添える。

「つまり、ギルドの二割は、販売や流通の手間、信用の保証に対する費用です。マルコットさんが作った洗剤を、街中や他国に回すための仕組みとして必要なのです」


 マルコットは唇をかみ、少し間を置いた。

「……なるほど。確かに私が工房で作るだけでは、街の隅々まで届かぬ。ギルドのネットワークと信用を借りるわけですな」


 ガラントは頷き、手を軽く叩く。

「その通りだ。双方が利益を得るために、必要な取り決めなのだ」


 マルコットは深く息をつき、視線を上げる。

「わかりました……ならば、その条件で共同販売という形を受け入れましょう。工房でできることはすべて提供します」


 青司も笑みを返す。

「ありがとうございます。マルコットさんの技術があれば、より多彩な商品にできます。これで、両者にとって実りある形になるはずです」


 次に譲渡についての条項が話される。

「契約に基づく販売外での譲渡は原則禁止とする。ただし、家族や親しい者、信頼できる者への少量譲渡は例外として認める」


 青司はほっと息をつき、微笑む。

「はい、それなら安心して管理できます」


 マルコットもゆっくり頷き、表情を柔らげる。

「……それで、工房での生産や弟子への指導も問題なく行えますな」


 職員は二人の確認を受けつつ、契約書に筆を滑らせる。文字がインクに光を帯び、淡い青い光が線を伝って文字全体に広がる。

 部屋全体が微かに色づき、机の上の瓶や鍋も振動しながら光に共鳴する。文字が確定するたび、光の粒子が宙に漂い、魔導石に吸い込まれる。二人の手のひらには温かさが伝わり、じんわりと体の奥まで波及して、緊張が静かに和らいでいった。


 ガラントが最後に口を開く。

「以上の条項を反映させ、魔術契約として結ぶ。守秘義務、販売網、譲渡制限、利益配分――全て違反すれば契約の制約が働く。理解できたな?」


 青司とマルコットは互いに視線を交わし、深く頷く。青司とマルコットが署名し、ガラントが最後に署名を書き込むと、文字全体が光で包まれ、光の粒子が机上の瓶や鍋の表面を滑る。温かさが増し、契約の力が体感としても三人に伝わる。


「……これで契約は成立した」

 職員の声とともに光は静かに収束し、文字に宿った魔力がしっかりと固定される。光は落ち着き、しかし文字の存在感は確かで、契約の重みと確実さを室内に示した。


 青司とマルコットは互いに微笑み、信頼とこれからの協力への期待を胸に抱く。窓から差し込む光の中、契約書はただの紙ではなく、両者の技術と信用、そして魔術の力を結びつけた証として静かに存在していた。




 ガラントは契約成立の余韻が残る商談室で、手元の書類に目を落とす。

「では、マルコット殿、今月分として千五百瓶の発注をお願いしたい」


 マルコットは眉を寄せ、机に手をつく。深く息をつき、少し困った表情を浮かべた。

「……承知しました。ただ、初回の試行に二日、弟子への教示に一日を要します。その後は日産百瓶を目安に生産可能です。ただ、問題は材料の草です。入手が簡単ではない……」


 青司は微かに眉を寄せ、肩に力が入る。材料の調達は自身も頭の痛い問題だった。


 ガラントは眼鏡越しに二人を見渡し、軽く微笑む。

「その点は心配無用。ギルドで材料と瓶の手配は請け負う。マルコット殿は生産に専念してください」


 マルコットは一瞬、考え込むように目を伏せたが、やがて頷く。

「……それはありがたい。では、生産に集中できます」


 青司はほっと息をつき、肩の力を抜いた。微かに笑みがこぼれる。

「なるほど、これで予定も現実的に組めますね」


 室内には契約書に残る光の余韻がかすかに漂い、瓶や鍋も微かに振動して共鳴するようだった。緊張感の中に、少し安心と期待が入り混じる空気が広がり、三人の心に新しい共同作業への手応えが確かに宿った。





 商談を終えた頃には、街の空はもうすっかり茜色に染まっていた。

 青司は荷車に積んだ荷物のことを気にしながらも、今から森に戻るのは現実的ではないと判断する。


「リオナ、今日は……森には帰らず、街でもう一泊しようと思うんだけど」

 そう言いながら彼女に目を向けると、リオナはすぐに頷いた。

「そうね。暗い夜の森に戻るのは危ないし……姉さんの家に続けて泊めてもらうのも悪いわよね」


 リオナの姉――マリサの顔が青司の脳裏に浮かぶ。街に出るたび、彼らを気にかけてくれる心強い存在だ。

 青司は少し肩の荷を下ろしたように笑い、続ける。

「なら一緒に『小麦亭』に泊まるか。あそこなら食事もつくし、荷物も預けられる。……もっもちろん、部屋は別々でな」


「……夕飯、一緒に食べない?」

リオナの耳がぴくりと揺れ、わずかに笑みが浮かんだ。

「……そうだね」


 二人は恥ずかしそうに小麦亭へ向かっていった。宿の入り口からではなく、食堂の入り口である木の格子戸を開けると、香ばしい匂いと穏やかな油ランプの灯りが出迎える。客はまばらで、落ち着いた雰囲気が漂っていた。


 席につき、煮込みや焼き魚を頼むと、青司は少し迷いながら言った。

「……果実酒があるみたいだから頼んでみようかな。俺、飲んだことないけど」

リオナも目を丸くしながら、けれど小さく頷いた。

「じゃあ……私も一緒に」


 やがて運ばれてきた小さなグラス。グラスを合わせる音が澄んで響き、二人は初めての酒を口にした。


「……おお、思ったより……すっきりしてる」

「……からいけど……なんだか、あったかくなる」


 酒と料理を少しずつ口にしながら、自然と会話は弾んだ。マルコットとの商談のこと、契約のこと、森での生活。最初は淡々としたやり取りだったが、酔いが回るにつれて、言葉も柔らかさを帯びていく。


 やがてリオナが小さく呟く。

「……街にいるより、森の家が安心する。焚き火のそばで、セイジと話してる時が……一番落ち着く」

グラスを両手で隠し、耳まで赤く染めながら。


 青司は驚いたように彼女を見つめ、それから少し笑って答えた。

「俺もだ。ひとりじゃなくなったのが……本当に、心強い。思った以上にな」


 二人の視線が一瞬重なり、すぐに逸らされる。だがその短い瞬間に、互いの胸の内は温かく触れ合った。


 食事を終え、食堂出ると、小麦亭のホールの空気はひんやりしていた。ほろ酔いの体には心地よい冷たさだ。


 そのままカウンターにいた女将がすぐに気づいて声をかけてきた。

「あらあら、セイジさん。今日は彼女を連れてきたのね」

 からかうような目線がリオナに向けられ、彼女はぴくりと耳を動かし、頬を赤く染めた。


「い、いえ! 違いますって。こんな可愛い子が、俺の彼女なわけないじゃないですか」

 慌てて否定した青司の言葉に、リオナの目が細くなった。

「……ふぅん」

 小さくむくれたように唇を尖らせる仕草が、かえって女将の笑みを深める。


「まぁまぁ、そういうことにしておきましょうか。で? 二人で一部屋? それとも別々?」

「べ、別々でお願いします!」

 青司が即答すると、女将は「はいはい」と軽く肩をすくめ、帳簿に書き込む。


 やり取りを横で聞いていたリオナは、まだどこか不満げに眉を寄せていた。

 その顔を見て、青司は気まずそうに頭をかき、そっと付け加える。

「……いや、その……俺なんかじゃ釣り合わないって意味で……」


 リオナの耳がぴくんと揺れ、ほんの少しだけむくれ顔が緩む。

「……ふん。知らない」

 小声でそう言って、彼女は荷物を抱え直すと、女将の案内で二階へと上がっていった。


 青司は深いため息をつきつつも、心臓の鼓動が妙に速くなっていることを隠せなかった。


「……じゃあ、明日」

 階段の途中からリオナが振り返り、わずかに笑みを浮かべる。

「マルコットさんの工房にいきましょうね」

「おう」


 それぞれの夜へと歩み出しながら、互いの胸の奥には、まだ消えない温もりが確かに残っていた。


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