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 リルトの商業ギルド。朝の喧騒は廊下を隔てた執務室にまで微かに届いていたが、副ギルド長であるガラントにはその雑音すら、仕事のリズムを刻む心地よい背景音に過ぎなかった。帳簿を閉じ、羽根ペンを硯に戻す。


 椅子を押しやり立ち上がると、壁際に掛けられた外套の裾を軽く整え、ゆったりと歩を進める。

 扉を押して廊下に出れば、行き交う商人や荷車の軋む音、木箱がぶつかる乾いた響き、時折混じる笑い声や呼び声――それらが一気に押し寄せてきた。


 足取りは迷いなく応接室へと向かう。すれ違う職員が慌ただしく頭を下げ、彼もまた小さく頷いて返す。

 廊下に並ぶ窓から射す朝の光が床石に白い筋を描き、背にした執務室の静けさとは対照的に、ここが街の血脈そのものであることを思わせる。


「さて……」

小さく息を吐き、扉の前に立つ。

来客の知らせはすでに届いている。手をかけた重厚な扉の向こうで、新たな取引が待っているのだった。



「お、セイジ……来たか。座ってくれ」

 重厚な木製扉がゆっくり押され、青司と弓を肩にかけ大きな包みを持った同行者の姿が現れる。ガラントは大きく頷き、椅子から身を起こす。

 扉の隙間から差し込む光に照らされた二人の姿は、応接室の重厚な空気の中でひときわ鮮明に映った。


 青司は背中にリュックを背負い、両手には木箱を抱えている。その中には解熱剤、鎮痛剤、火傷用軟膏、洗剤が整然と収められており、動作は落ち着いていて、応接室の中央まで確実に歩を進める。

 ガラントの目には、薬師としての熟練と、商品の扱いに込められた丁寧さが自然と映る。手元の木箱を置くときも、荷物が揺れないよう細心の注意を払うその動作に、ガラントは心の中で軽く唸った。「毎回の丁寧な所作だな……」


 その横に立つ同行者の少女――耳を伏せ、背筋を伸ばした姿は控えめだが芯が通っている。弓に付けられた狩人組合の印章が視線を引く。

 まっすぐガラントを見据えるその眼差しは鋭く、緊張の中にも落ち着きがあり、狩人としての自信をひそかに感じさせる。ガラントは内心で評価する。「ただの同行者ではないな……」


 青司が木箱やリュックを机の上に置くと、ガラントは微笑みを返す。机に並ぶ整然とした薬瓶や軟膏の列、淡い光を反射する瓶の表面、香りの混ざった薬草の匂い――応接室の静かな空気の中で、今日の商談の緊張感が自然と引き締まる。


「おう、いつもの薬だな」

 机の上の薬を目にし、ガラントの顔はほころぶ。解熱剤、鎮痛剤、傷回復薬、火傷用軟膏……どれも街で評判が高く、洗剤は前回入荷分があっという間に売り切れた。


「次回は洗剤の数を増やせないかと問い合わせが多くてな、薬も衛兵所だけでなく薬店からの買い取り量を増やせないかと希望が出てきている。交渉の結果、買取額を二割上げても構わぬという衛兵所に卸させてもらうことになっている」

 目を見開く男だが、この男の持ち込む薬は、品質の高さ、効き目の速さ、保存の良さ、使いやすさ――すべてが揃っている。


「ありがたいお話です。……実はガラントさんに見てもらいたい物が」と微笑む青司の隣で、同行者が大きな包みを広げると丸められた毛皮が姿を現す。

 黒褐色の毛並みは光を受けて艶めき、その重厚さ、大きさだけでただの獣ではないことがわかる。


「……おい、これは……」

 立ち上がり、足を踏み出す。毛皮を手に取り、感触を確かめる。黒熊――森の最強主の一角に違いない。

 手にした毛皮の重さ、柔らかさ、濃密な毛並み……すべてが高級品としての価値を証明している。


「まさか……森で?」

 リオナが前のめりに頷くと、ガラントは息を飲む。応接室に重く響く声で、「……まずは、無事で何よりだ」と呟いた。

 眼鏡越しに二人の顔を交互に見つめる。その瞳に驚きと称賛が入り混じり、眉間に皺が寄る。


 青司が、ここ数日はリオナに熊肉を料理してもらい、鍋やステーキを楽しんでいたと語ったとき、ガラントは思わず声を荒げた。


「……料理の話ではない!」

 机を軽く叩きながら、内心では(熊鍋にステーキに揚げ物に香草をまぶした炙り焼……どれだけ食ったんだ)と呆れを隠せない。

 熊と正面から戦った――その事実の重さが、ずしりと胸にのしかかってくる。

 リオナの短い言葉、「簡単ではなかったのですが、二人で力を合わせたので」――その声は控えめだが力強く、背中に秘めた覚悟が静かに伝わる。


 ガラントは毛皮に視線を戻す。処理の丁寧さ、毛並みの美しさ――価値を判断する者としても、感嘆を禁じ得ない。狩人組合の印章を再び目にしながら、確信を得る。


「間違いない。街でも滅多に出回らぬ逸品だ。しかるべき値で引き取る客を探そう……持ち込んで正解だったな」

 帳簿にギルド印を捺し、前回持ち込んだ薬の代金が詰まった袋を青司に手渡す。薬に続き洗剤も高評価を受け、今後は大口の取引に発展させたい――ガラントの胸中に期待が膨らんでいた。

 彼は机に両肘をつき、眼鏡越しにじっと青司を見据える。


「さて――薬と洗剤の販売量を、増やせないだろうか?」

 声は低く、しかし力強い。街の需要とギルドの期待を背負う副ギルド長としての要請だった。


 青司はその重みを受け止めつつも、少し間を置いて答える。

「……質を落とさず、供給できる範囲で構わない、というお話でしたよね。今のところ、自分で作った分しか卸せませんので」


 誠実な眼差しで返すその声には、決して妥協せず、しかしできる限り応えようとする覚悟がにじんでいた。


 ガラントはしばし沈黙したのち、大きく頷く。

「……まぁ、今はそれでよい。だが、生産を委託できる職人を紹介することもできるぞ」


「そのうち、お願いするかもしれません」


 青司の言葉に、ガラントの口元に満足げな笑みが浮かぶ。応接室に張り詰めていた空気が僅かに緩み、やがて二人は一礼して部屋を後にした。


 扉が閉じ、静寂が戻った重厚な部屋で、ガラントは深く息を吐き、机の上の熊の毛皮に視線を落とす。


「……あの二人、ただの取引相手で終わる器ではないのだがな」

 低く呟かれた声は、厚い帳簿の紙に沈み込むように消えていった。


 こうして商業ギルドでの取引を終えると、青司とリオナは石畳の街路へと出る。荷車には槍だけが括り付けられており、熊の毛皮はすでにギルドの倉庫に運ばれている。手元に残るのは、リュックの底で重みを主張する銀貨の袋だけ。



**************



 リルトの街の通りに、昼を告げる鐘の音が響いていた。商業ギルドでの商談を終えた青司とリオナは、肩の力を少し抜いて歩を進める。


「……寄っていく?」

 リオナが視線を向けたのは、街角に掲げられた黒猫の木彫り看板。木製の扉からは香ばしい肉の匂いと笑い声が漏れ、昼時の賑わいを物語っている。


「せっかくだし、顔を出そうか」

 青司は頷き、リオナの姉マリサと、その夫ベルドの営む食堂――黒猫亭へ足を踏み入れた。


 店内は満席に近く、活気が満ちていた。木製のテーブルが並ぶ中で、家族連れが楽しげに食事をとっている。厨房からは鍋を振るう音が響き、ベルドの太い声が料理人に指示を飛ばしている。マリサは小気味よい手際で皿を運び、客の笑顔に応じていた。


 その賑やかさの中、不意に甲高い子どもの声が響いた。

「あっ……!」

 小さな男の子がスプーンをひっくり返し、鮮やかな赤茶色のソースが服にべったりと落ちたのだ。とろりとした肉煮込みのソースで、色合いも濃く、布地に広がった染みは見るからに落ちにくそうだった。母親が慌てて布巾で拭くが、拭けば拭くほど色が広がり、周囲の客たちも思わず視線を向ける。


「まあ……困ったわね」

マリサが駆け寄るが、飲食店ゆえ水や布巾で落ちるはずもない。母親の顔には困惑と申し訳なさがにじむ。


 その場に、青司とリオナが入ってきた。状況を一目で察した青司は、肩に掛けていた布袋を軽く叩き、声をかける。

「ちょっと、試してみましょうか」


 袋から取り出したのは、小瓶に詰められた透明な液体。青司が街で売り出し始めた洗剤だ。周囲の客のざわめきが少し収まり、興味の視線が集まる。

「水と混ぜて布に含ませて……あとは軽く叩くように」

 青司が素早く説明しながら実演してみせると、染みの上で布が動くたびに、あれほど強く染み付いていた赤茶色が少しずつ淡くなっていった。


「……あ、落ちてる!」

母親の驚きの声が上がる。周囲の客も椅子から身を乗り出し、誰もが目を丸くした。子どもの服はみるみる元の色を取り戻し、最終的には染みの跡すら分からないほどにまできれいになった。


「すごい……! まるで新品みたいだ」

「洗い直しじゃ無理だと思ってたのに」

客たちが口々に感嘆の声を漏らし、店内の空気はいつしか温かい驚きに包まれていた。


 マリサが思わず手を打ち、目を輝かせる。

「セイジさん、それが噂の……あの洗剤なのね?」

「ええ。まだ試験的に作ってるだけですが」

青司は淡々と答えつつも、視線を集める空気にわずかに苦笑する。


 ベルドも腕を組みながら近づき、低く唸った。

「料理の染みは頑固だぞ……だがこれなら、服も布巾も長く使える。食堂にはありがたい代物だな」

リオナはそんな夫婦の反応を見て、少し誇らしげに胸を張る。


 ソースの染みを落としてもらった子どもは、胸元を見下ろした後、青司を見上げてにこっと笑った。小さな声で「ありがとう」と呟くその瞳は、憧れの英雄に向けられるもののようにまっすぐで、青司は思わず頭を撫でてやった。


 食堂に居合わせた家族は深々と頭を下げ、母親は「助かりました」と繰り返した。その姿に、店内の客たちまで拍手を送る。黒猫亭は一瞬、祝祭の場のように賑わった。



**************



 石畳の道に、荷車の車輪がごろごろと音を立てていた。

 青司は一週間分の食料や生活用品を積み込み、槍も脇に括り付けて荷車を引く。隣を歩くリオナは狩衣姿に弓矢を肩にかけ、街門に向けて軽やかに歩いていた。

 昼前のリルトは活気に溢れ、広場からは商人の呼び声や焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。


 街を出ようとしたそのとき、背後から声が飛んだ。

「――そこの方、荷車をひく方!」


 振り返った青司の目に、見覚えのある顔が映る。先日、黒猫亭で幼い子がソースを服にこぼしたあの家族の父親だった。年の頃は四十前後、がっしりとした体に、染料や煤のしみが抜けきらぬ手をしている。職人特有の、働き詰めた人間の風格がにじむ。


 息を切らして駆け寄ってくると、男は深々と頭を下げた。

「やっぱり……間違いなかった! 先日は助けていただきましたな。あのときの、マルコットと申します」


 青司も小さく頷く。

「こちらこそ。あの後、服の汚れは大丈夫でしたか?」


 マルコットの顔に、抑えきれない喜びが走る。

「ええ! あの薬液……いや、洗剤と呼べばいいんでしたか。あれほど濃いソースの染みが、跡形もなく消えました。女房も子どもも目を丸くしましてな。わたし自身、染め布を扱う職人です。布を汚すのは日常茶飯事ですが――あれほどきれいに落ちるものを見たのは、生まれて初めてでした」


 声には嘘のない驚きと感動が混じっていた。

 しかし彼は続ける前に、少し逡巡し、改めて言葉を選ぶように口を開いた。

「……正直に申しますと、あの品をぜひ、わたしの工房で作らせてもらえないかと。商いとしてどうこうよりも、染め物や皮革を扱う仲間にもきっと役立つ。なにより、家で困る人たちの助けになるはずなんです」


 熱のこもった眼差しで言い切ると、すぐに手を振って付け足す。

「いや、もちろん、いきなり図々しい願いなのは承知しております。ただ、どこで売っているものなのか、せめてそれだけでも教えていただければと……。わたしは不審者でも押し売りでもありません。ただ、あの品に本当に心を動かされた職人でして」


 まっすぐな言葉に、道行く人々まで振り返る。青司は少し苦笑し、荷車を支え直した。


「……まぁ、立ち話も何ですし」

 マルコットの目が一層真剣に光る。

「もしよろしければ、どこか腰を落ち着けて話を聞かせてもらえませんか」


 青司は頷いた。実のところ、商業ギルド副ギルド長のガラントからも「洗剤の納品数を増やせないか」と求められたばかりだ。いずれ需要が広まり、自分一人では賄いきれなくなるのは目に見えている。レシピを渡すことの意味を考えねばならないときが来たのかもしれない。


 リオナは小さく息をつき、街門の方へ目をやった。せっかく森へ帰ろうとした矢先だったが、彼女も状況を察して反対はしない。

「……じゃあ、行きましょうか」


青司が荷車の取っ手を引き直すと、マルコットは並んで歩き出した。その横顔は、余計な打算を抜きにした職人の誠実さに満ちていた。


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