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朝靄の残る森の小道を、二人の足音が並んでいた。


「昨日の小川は、この先よ」

リオナが耳をぴんと立て、歩幅を少し広げる。普段は一人で獲物を追う足取りだが、今日は隣に青司がいる。


彼は両手で小さな荷車を引いていた。荷台には採取用の袋や編み籠がいくつも積まれ、その隅には自分で仕込んだ薬を詰めた革のポーチや、護身用に買った槍が括りつけられている。歩くたびに木製の車輪が湿った地面をぎゅっ、ぎゅっと鳴らし、薬草の瓶がかすかに触れ合って澄んだ音を立てた。


「……本気でその槍、使えるの?」

リオナは横目で荷車の上の槍を見やり、半ば呆れたように言う。


「いや、散歩のお守りみたいなもんだ。もし獣が出ても……まあ、その時はなんとか考えるさ」

青司は照れ笑いを浮かべ、荷車の取っ手を握り直した。


リオナはふっと口元を緩める。

(……なんだか、不思議)

森はずっと自分の居場所だった。けれど今日は少しだけ違う。自分以外の誰か、それも気になる相手が肩を並べていることが、胸をくすぐる。


「しかし、本当にあんな石がごろごろしてるなら、相当な発見だぞ」

青司の声には、わずかな弾みがあった。

「もしこれで水を温められたら……風呂に入れるかもしれないな。リオナが最初に見つけたってのが、なんだか運命的だ」


「う、運命……?」

思わぬ言葉にリオナの耳がぴくんと跳ねた。青司は気づかず、小枝を避けながら進む。

(……本当に、気づいてないんだ)

胸の奥がむず痒く、少しだけ寂しい。けれど同時に、こうして隣に歩いているだけで嬉しい自分にも気づいてしまう。


小川のせせらぎが聞こえてきた。

「ここだな」青司が立ち止まり、辺りを見回す。

リオナは一歩先に出て、水辺を指さした。

「昨日は、あの辺りで光ってたの」


二人は並んで川面を覗き込む。朝の光を受けて、水底の砂利の中に、またひとつ赤いきらめきが瞬いた。

「……あった!」青司が声を上げ、思わず身を乗り出す。


その瞬間、青司がうっかり手を川に突っ込み、袖をびしょびしょに濡らしてしまった。

「……ちょっ、青司、大丈夫?」

リオナは呆れたように眉をひそめつつ、手元の布で彼の袖を絞る。

「ご、ごめん……つい夢中になって」

二人とも少し濡れてしまい、顔を見合わせて照れ笑い。

(……一緒に濡れて恥ずかしいけど、楽しい)

リオナは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。


上流へ進むにつれ、石の数がポツリポツリと増え、小川はきらきらと輝く。まるで宝探しをしているかのような気分だ。

「こ、これは……これだけあれば、かなりの量の水を温められそうだな!」青司は目を輝かせる。

「でも、見てるだけでも楽しいね」リオナも小さな石を拾い、手のひらで転がして遊ぶ。


風呂を夢見る青司と、子供のように石を楽しむリオナ。二人の視点の違いが会話を弾ませ、森の静かな中にも軽やかな笑いが混ざる。


木々に囲まれた森の奥で、二人だけの小さな冒険がゆっくりと始まろうとしていた。



*******



 小川に沿ってさらに上流へと遡る。水音は次第に高まり、せせらぎが岩を叩く軽やかな響きへと変わっていく。


 リオナは耳を立て、軽やかな足取りで先を進んでいた。水辺の岩をひょいと飛び越え、枝の垂れ下がる木の下をするりと抜ける。狩人らしい身のこなしは、森にすっかり溶け込んでいる。


 一方で、青司は小さな荷車をぎゅっと押し引きしながら後を追う。車輪が濡れた土をぎゅり、と沈ませるたびに、荷台の瓶や籠がかすかに触れ合い、澄んだ音を立てた。槍は荷車の横木に括りつけてあり、揺れるたびに金具が小さく鳴る。


「こっち、歩きやすいわよ!」

リオナが振り返り、青司に声をかける。枝を押し分けて進む彼女の尻尾が、陽を受けてふわりと揺れた。


 その先、視界がぱっと開ける。川幅が広がり、水音がぐっと深みを増していた。そこに、ひときわ目を引く巨大な岩が横たわっていた。


 表面には不思議な赤い模様が縦横に走っている。まるで血管のように川面に映え、流れる水に濡れて輝いていた。


「……あれだな」

青司が荷車の取っ手に体を預けるようにして息を整え、目を細めた。


 リオナはすぐに岩へと駆け寄る。掌で触れると、ひやりとした感触の奥に、ごくわずかだがざらついた粉が指先に残った。赤い粒だ。


「やっぱり……この岩から削れたカケラが、下流に沈んでたのね」

嬉しそうに言うリオナの声が、水音に混じって弾む。


 青司もしゃがみ込み、目を細めて赤い筋を覗き込む。

「なるほど……それが削れて流れてたんだな」


 そのとき――。


 ごろり、と岩の裏手から重い音が響いた。

 次の瞬間、毛むくじゃらの巨体が岩陰からぬっと顔を出す。鋭い鼻先と小さな黒目、低い唸り声。


「っ――!」

リオナの耳がぴんと跳ね、瞳が大きく見開かれた。反射的に後ずさりし、手が弓の弦へと伸びる。


「……熊か」

青司が荷車の取っ手を握りしめ、息を呑んだ。


 森の澄んだ空気が一変し、張りつめた気配が二人を包み込んだ。


 ごろり、と岩陰から現れた巨体。

 夕陽を浴びた濃い毛並みが濡れた岩肌と重なり、巨大な熊の影が川辺に伸びた。


「っ……セイジ、逃げて!」

 リオナは弓を素早く構え、弦に矢を番えながら後ろへ跳ぶ。足元の石を蹴り、水飛沫がぱしゃりと上がった。耳は反射的に後ろへ伏せられ、瞳は獲物を狙う狩人のそれに変わっていた。


 だが、声を浴びせられた青司は、一瞬ぽかんと彼女を見てしまう。

 矢を引き絞るリオナの真剣な横顔――それが脳裏に焼きつき、次の瞬間には慌てて荷車に縛りつけた槍へ手を伸ばしていた。


「に、逃げろって……? いや、俺も……っ!」

 縄を解き、槍を引き抜く。まだ構えはぎこちなく、足元は水に濡れて滑りそうだ。


 その間にも、岩の裏から現れた熊は大きく鼻を鳴らし、黒い目で二人を見据える。

 予想外の遭遇に、一瞬だけその巨体は動きを止めた。

 しかし、リオナの引き絞った弓と鋭い視線が、逆に熊を刺激した。


「――ッ!」

 獣の喉から低く唸る声が響き、肩を盛り上げて前足を踏み出す。

 次の瞬間には、攻撃の姿勢へと変わっていた。




*******



森の中は朝霧に包まれ、湿った土の匂いが鼻を刺す。小川沿いの赤い岩の影から、低いうなり声が響いた。濃い影の中に、巨体の熊がゆっくりと姿を現す。右目には、以前リオナが矢でつけた傷跡がくっきり残っていた。リオナの胸がざわりと震える。


「……やっぱり、あの時の熊だ」

耳をぴくりと立て、リオナは瞬時に距離を測る。逃げられる余地はない。隣に立つ青司は、背に薬師の鞄を負い、槍をぎこちなく握っている。戦闘経験はなく、使うのも初めてだが、転移したときに得た戦闘感覚が体の奥で目覚めている。


「……セイジ、距離は取れないよ」

リオナの声は震えていない。しかし胸の奥の鼓動は高鳴り、恐怖が皮膚のすぐ下を走る。


青司は槍を前に突き出し、視線をリオナに合わせた。「わかってる。突進してきたら俺が受け止める。矢は任せた」


熊が低く唸り、前脚を踏み出す。地面が震え、木々がざわめく。鼻をひくつかせる息は熱く、爪が土を掻く音が森の静寂を裂く。リオナは弦を引き、矢先を熊の首付け根に定める。手のひらに汗がにじむ。


突進してきた熊に、青司が槍を前に突き出す。腕に衝撃が走り、体が押し返される。ぎこちなさがありつつも、歯を食いしばり必死で踏ん張る彼の背中に、リオナは小さく安心しながらも気を引き締める。


「セイジ、右!」

リオナの矢が熊の右目をかすめ、以前の傷跡に痛烈な印を刻む。熊の頭が小さく揺れ、動きが一瞬鈍る。リオナの目は鋭く光った。恐怖を押さえ込み、狩人としての目が冴えている。


青司はぎこちなくも槍を振るい、熊の脇腹に突き刺した。血が飛び散り、熊は怒り狂って暴れる。青司は弾き飛ばされそうになり、体を必死に支える。


熊は再び突進してくる。青司は槍を構えて受け止め、踏ん張る。呼吸は荒く、全身は泥と血で濡れている。しかし、体の奥で目覚めた戦闘感覚が次の動きを導く。


リオナは次々に矢を放つ。右目の傷跡をかすめる一撃、脇腹への矢……熊は唸り声をあげ、動きが鈍る。その瞬間、青司は槍を首付け根に突き入れる。熊の巨体が大きく揺れ、怒り狂った咆哮が森に響き渡る。


熊は力を振り絞り、二人めがけて突進した。

その瞬間、時間がゆっくりと流れたかのように感じられた。熊の咆哮が遠く響き、爪が迫る。青司の槍が正面から迎え撃ち、筋肉と骨を貫く感触が腕に伝わる。リオナの矢が、熊の肩口に深々と突き刺さった。


巨体が、大地を揺らして倒れ込む。枯葉が宙に舞い、血の匂いが広がる。


静寂が戻った森で、青司は血に濡れた槍を握りしめ、肩で荒い息を吐き続ける。リオナも膝をつき、荒い呼吸の合間に震える手を押さえ込んだ。


「……セイジ、やったね」

「いや……リオナのおかげだよ。弓がなかったら、今頃……」


互いに目を合わせ、笑うでもなく、ただ強く頷き合う。


やがて、張り詰めていた力が切れたように、青司は土に突き立てた槍に体を預け、膝をついた。肩で大きく息を吐き、荒れた呼吸を整える。

「……ふぅ、さすがに応えるな……」


額の汗をぬぐいながら、青司は鞄を探り、小瓶を取り出した。淡い色の液体が光を受けて揺れる。

「この前の疲労回復薬。……リオナ、まずはこれを飲んで。怪我はない?」


差し出された瓶に、リオナは一瞬驚いたように目を瞬かせる。

「俺は大丈夫。まだ立てるし……」青司は苦笑し、もう一つ別の瓶を取り出して見せる。「それに、疲労用だけじゃなくて、傷を癒す薬も持ってる。怪我してない? 確かめて」


リオナは小さく息をつき、自分の腕や脇腹を確かめる。土と血で汚れてはいたが、致命的な傷はない。安堵の色が浮かび、そっと小瓶を受け取った。

「……ありがとう」


薬を口に含み、喉を鳴らして飲み下す。少し顔をしかめつつも、数呼吸のうちに息が落ち着き、体の震えも収まっていく。


その様子を確認してから、青司は自分用にもう一本の瓶を開け、一気に飲み干した。薬草の苦みが舌に広がり、やがて体の芯にじんわりと温かさが満ちる。重く沈んでいた疲労が少しずつ溶け、呼吸も楽になっていく。

「……よし。これでなんとか動ける」


深く息をつく青司を、リオナはじっと見つめた。耳がぴんと立ち、表情はいつもよりわずかに柔らかい。

「やっぱり、セイジ……普通なら、自分が先に飲むはずなのに」

「そりゃ……仲間が倒れてたら意味ないだろ」


青司はあっさりと答えた。あくまで友として、当たり前のことを言っているだけのように。

けれどリオナの胸の奥では、その言葉がほんの少しだけ違う響きを持って広がっていた。


互いに笑うでもなく、けれど少しだけ緊張が解けた顔で頷き合う。

薬草の香りを含んだ森の空気の中、リオナは自分の頬が熱を帯びていることに気づき、そっと目を逸らした。



*******



 森に漂う血の匂いが、ようやく現実へと二人を引き戻した。


倒れ伏した熊の巨体は、土と枯葉を押しつぶしながら横たわる。濃い毛並みが微かに揺れるたび、リオナは無意識に弓を握り直した。耳を伏せ、体を少し低く構える。


「……止めは、もう必要ないみたい。血抜きをして持ち帰りましょ」

低く静かな声だが、そこに迷いはない。戦いの緊張がようやく少しずつ解ける。


青司は荷車の横へ歩み寄り、槍を慎重に地面に突き立てた。血に濡れた穂先を目で追いながら、落ち着いた声で言う。

「荷車が役立ちそうだな」


リオナは熊から矢を抜き取り、腰のナイフを抜いて血抜きと解体に取りかかる。手際よく腹を割き、内臓を取り出す。温かい血の匂いが土に広がり、鳥たちが遠くで騒ぐ声が響いた。


淡々と作業を続けながら、リオナは低く祈るように口を動かした。

「恵みに感謝を。森に還るものに安らぎを」


取り出した内臓は、捕食者のために木陰へ置き、心臓だけは別にして土を掘り静かに埋める。その仕草は習慣を超えた誓い――森と共に生きる者の証のように見えた。


もも肉や背肉を切り分ける手つきは正確で、内臓は丁寧に森へ返す。枝や葉で覆い、静かに手を合わせる。青司はその背中を見守り、深く息をつく。


「……よし、俺の出番か」

青司は荷車の脇に立ち、槍を横に置いて両手を広げる。指先から淡い光が溢れ、胸の奥から魔力を引き上げる。錬金術の構造を重ね、見えない糸が切り分けられた熊全体を包み込むように走った。


淡い青白い光が瞬き、空気の揺らぎが膜となって肉を覆う。掌を前に押し出すと光の網は収束し、熊の恵み全体を覆う透明な層へと変化する。触れると冷たく、しかし確かな強度を持ち、時間の流れを緩め腐敗を遠ざける保存の術が完成した。


「これで、新鮮なまま運べるはず」


青司は荷車に熊を慎重に載せ、籠や袋の間に収める。リオナは毛皮を整え、荷車のバランスを見て小さく頷いた。

「毛皮はリルトの街で売ることにしましょう。材料としても、かなりの値がつくはずやよ」

戦いを終えた安堵と、これからの計画を淡々と整理する狩人の落ち着きが混じった声だった。


青司は荷車に肉と赤い石を積み込み、赤い岩を改めて見上げる。

「岩から削り出すのは、また今度。今日は熊を持ち帰ることが優先だな」


リオナも頷き、腰に差した弓を軽く確認する。耳がわずかに揺れ、緊張の余韻がまだ残る。


二人は荷車を押し引きしながら、川沿いの小道を慎重に下る。水音や鳥のさえずりが朝霧に溶け込み、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。血と汗で濡れた手を拭いながらも、二人の呼吸は徐々に落ち着き、静かな森の中に淡い朝の光が差し込む。


荷車の軋む音と、熊を覆う光の膜が微かに揺れる様子を、青司もリオナも確かめながら、互いに目を合わせることなく頷き合った。戦いの緊張から解放され、しかし命と森への敬意は静かに胸に残る――そんな午後の小道を、二人はゆっくりと進んでいった。


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