20
扉が小さく軋みを立てて開いた。
夕暮れの森の冷たい風が、わずかに家の中へ吹き込む。その風を背に、リオナが姿を現した。肩から矢筒を下げ、背には弓を負い、手にはずっしりとした角ウサギをぶら下げている。狩人らしい凛とした姿のはずなのに、顔に浮かぶ表情はどこか誇らしげで、そして少女らしい柔らかさを帯びていた。
「……ただいま、セイジ」
その声に、室内の空気がふっと明るくなる。青司は机の手を止め、彼女の姿を見やって微笑んだ。焚きかけのランプの光に照らされたリオナの姿は、冷え込む森の気配とは反対に、温もりを運んできたように感じられた。
リオナは玄関口に獲物を置き、ぱんと両手の土を払う。
「角ウサギよ。運よく一匹、仕留められたの」
言葉にそっと視線を逸らすが、口元には笑みが浮かんでいる。誇らしさと安堵が同居する笑顔だった。
「……これで美味しい夕食が食べられるでしょ? セイジに、家のことは任せてばかりだったから」
青司は首を振りつつ、懐から小瓶を取り出した。
「むしろ助けてもらってるのは俺の方だよ。それより――ちょうどいい。午後に作っておいた疲労回復薬、試してみてくれないか」
差し出された小瓶には、淡い緑の液体が澄んで揺れている。光を受けると淡くきらめき、薬草の青臭さではなく、ほのかに甘い香りを漂わせていた。
リオナは瞬きをし、意外そうに眉を上げる。
「……私に?」
「狩りの現場はよく知らないけど、体を酷使してるんだろ。即効性はあるけど、変なふわつきは出ないよう調合してある。安心して飲んでみてくれ」
その言葉に押されるように、リオナは小瓶を受け取る。唇をつけ、一息で喉へと流し込んだ。
舌に触れるのは一瞬の苦み、すぐに清涼な甘さが追ってきて、胸の奥まで満ちていく。
「……っ」
数呼吸のうちに、肩の奥に溜まっていた重だるさがすっと抜け落ちる。腰や脚にまとわりついていた疲労の膜が溶け、血がすみずみまで巡っていくように体が軽くなった。無理やり引き上げられるのではなく、自然に本来の調子へ戻っていく感覚――それは、心地よい温泉に浸かったときのような安らぎを伴っていた。
「……すごい。体の疲れがスッと抜けていく感じ……ただ楽になっていく」
驚きと安堵をにじませた声で呟き、リオナは思わず笑みを浮かべた。
青司は胸をなで下ろしながら頷いた。
「よかった。効きすぎて具合を悪くしたらどうしようかと思ったけど……成功みたいだな。これなら、疲れをため込まずに済む」
リオナの耳の先がほんのり赤く染まり、尻尾がゆるやかに揺れる。
「……ほんと、腕のいい薬師ね。……セイジがいると、安心して森に出られる」
その言葉に青司は照れもせず、むしろ真面目に受け取った。
「俺もリオナがいるから安心できるよ。ひとりだったら、とっくにへこたれてたかもしれない」
友達として、互いに補い合う仲間だ――そういう意識を崩さずに、まっすぐ返す。だが、リオナの胸の奥にはほんのり違う熱が生まれていた。彼の気遣いがただの友情以上のものに感じられてしまい、目を合わせるのが少しだけ恥ずかしい。
角ウサギを抱き直し、照れ隠しに笑う。
「……じゃあ、美味しく作らなきゃね。セイジが元気でいてくれるなら、私も頑張れるもの」
外では夜の帳が深く降り始めていた。冷たい森の気配が迫る一方で、小さな家の中だけはランプの灯と二人の声に包まれ、確かな温もりが息づいていた。
**************
角ウサギの香ばしい匂いが居間いっぱいに広がっていた。
火にかけた鍋からは旨みの濃いスープが湯気を立て、焼き上げた肉は噛むほどに味が染み出す。湯気の向こうで、皿に盛られた肉汁が照明を受けてきらりと光り、箸を進めるたびに香ばしい匂いがふわりと立ち上る。
「……うん、やっぱり美味いな。普通の兎より濃いし、力が出そうだ」
「そう? よかった……。角ウサギはね、魔獣化してる分だけ、肉に魔力が溜まってるの。だから普通より味が濃いのよ」
リオナは向かいに座り、少し得意げに首を傾げた。青司が夢中で食べ進める様子を見て、自然に口元が緩んでいる。
「なるほどな……いや、本当に美味いよ。リオナが作ると、余計にうまい」
素直に言ったが、自分でも少し照れくさい。
リオナは箸を動かす手をほんの一瞬止める。
「……ありがと」
小さく呟いたその耳の先は、ほんのり赤く染まっていた。
二人の箸が同時に伸び、皿の上の肉に触れた。
「……あっ」
慌てて引っ込めたリオナの箸と、青司の箸がかちんと軽くぶつかる。至近距離で目が合い、ぱちりと瞬きした次の瞬間、同時に視線を逸らす。
「……ど、どうぞ、セイジが先に」
「い、いや……リオナが」
譲り合う声が重なり、余計に気まずくなる。
喉がからからになった青司は、慌てて水差しに手を伸ばした。が、同じタイミングでリオナも水を取ろうとしたらしく、指先がかすかに触れる。
「――っ」
二人同時に手を引っ込め、今度こそ沈黙。互いの耳が赤く染まっていた。
その沈黙を破ったのは、リオナの小さく、どこかからかい混じりの声だった。
「……ねえ、セイジ。あの……部屋のことなんだけど」
青司は咄嗟に固まる。
「部屋のこと?」
「うん。最初は数日だけって話で借りてたでしょ? でも、狩りの拠点としても便利だし……その……もし迷惑じゃなければ、これからも使っていい?」
青司の胸がどきりと鳴った。
「……それ、俺が勘違いしたら、一緒に暮らしたいって聞こえるよな……」
――しまった、声に出ていた。気づいたときには遅い。
「も、もちろん俺は勘違いなんてしないから! さっ、さすがに野宿よりはマシってことだろ?」
慌てて言葉を継ぐ青司の声は、少し裏返っていた。
「そっ、そうよ。もちろんそうに決まってる」
リオナは視線を逸らしたが、耳の先は赤く染まり、尻尾が小さく揺れている。
「……けど、勘違いしないの?」
青司は慌てて両手を振る。
「い、いや! だらしない俺が好かれるわけないし! だから、変な勘違いはしないって!」
リオナはぷいと横を向き、くすっと笑った。
「……ふふっ、本当に勘違いしないんだ?」
青司は肩をすくめ、にこりと笑い返す。あくまで友達として、相手を安心させる距離感で。
「うん、まあ……友達としてな」
その言葉に、リオナは一瞬だけ目を伏せ、耳の先を少し下げる。
(……ちょっと、つまんないかも)
ほんの短い思いだったが、彼女の口元には小さな笑みが浮かんでいた。
リオナは角ウサギを抱き直し、照れ隠しに笑う。
「……じゃあ、美味しく作らなきゃね。セイジが元気でいてくれるなら、私も頑張れるもの」
外では夜の帳が深く降り、森の冷え込みが増していく。
小さな家の中だけは、ランプの灯と二人の声、そして角ウサギの香ばしい匂いに包まれ、穏やかでやわらかな温もりが息づいていた。
食卓の皿がすっかり空になり、居間にはまだ角ウサギの香ばしい匂いが漂っていた。
リオナが立ち上がり、手際よく食器を重ねていく。耳をぴんと立てているのに、どこか落ち着かないようで、尻尾が小さく左右に揺れていた。
「片付けは、私がやるから」
「いや、俺もやるよ。食べるだけ食べて任せっぱなしってのも悪いし」
青司は皿を手に取ると、リオナも同時に手を伸ばす。指先がかすかに触れ、二人とも思わず手を引っ込めた。
「……っ」
沈黙の中、二人の耳が赤く染まる。
「……こ、こんなの偶然だから」
青司が慌てて言うと、リオナはちらりと横目で見て、くすっと笑った。
「……さっきから、偶然ばっかりね」
皿を流しに置き、手を洗うために水を流す。水音が静かに響く中、リオナはそっとためらうように声を出した。
「……セイジって、本当に……勘違いしないの?」
青司は手を拭きながら肩をすくめる。
「……うん、友達としてな」
彼女をからかうつもりはなく、あくまで自然体で返す。
リオナは小さくため息をつき、耳を動かす。
「……ふふ、そうなんだ」
青司は流しの脇で皿を積み上げながら、内心で苦笑する。
皿を洗い終えると、二人は互いに残りの鍋や箸を分担して片付ける。
「……リオナ、これも洗っとくよ」
「うん、ありがとう」
肩を並べて作業をする間も、互いに視線がわずかに合うたびに頬が赤くなる。
しかし、青司はあくまで友達として、自然な距離を保つ。リオナも甘さを含んだ微笑みを浮かべながら、どこか照れくさい様子で作業を進める。
流しの水音と、皿を扱う手の音、そしてかすかに立ち上る角ウサギの香ばしい匂い。
夜の森の冷気は深まるが、小さな家の中には、二人だけの穏やかな温もりと、やさしい緊張感が静かに漂っていた。
片付けを終え、二人が向かい合って立ち、ほっと息をつく。
「……ありがとう、セイジ。手伝ってくれて」
「……こうして一緒に片付けるのも、悪くないな」
リオナは耳をぴんと立て、尻尾をゆっくり揺らす。微笑みは少し甘く、でも穏やかで。
「……ふふっ、そうね。これからもよろしくね」
青司は微笑み返し、互いの距離感を確認するように一瞬だけ視線を交わす。
友達としての安心感と、リオナの少しだけ甘い気持ちが、静かな居間の灯りに優しく溶け込んでいった。
**************
翌朝。
森の家の戸口から軽やかに出ていったリオナは、いつものように弓を携えて狩りに向かった。
木々の間を駆け抜ける影を追い、狙い澄ました矢が飛ぶ。仕留めたのは、脂の乗った肥えた鳥だった。満足げに腰の籠へと収めると、リオナはその足で小川沿いを歩き出す。
清らかな水が流れる小川の底に、ふと赤い光がちらりと揺れた。
「……あれ?」
水面を覗き込み、手を伸ばす。冷たい水を掬いながら拾い上げたのは、小指の先ほどの小さな石だった。濡れた表面が朝の光を受け、ほんのりと赤くきらめいている。
リオナは目を細め、しばし見入る。
「……綺麗な色」
鉱石に詳しいわけではない。それでも小さな宝物を見つけたような気分に、思わず口元が緩む。
鳥を入れた籠と、手のひらに包んだ石。
軽やかな足取りで森の家へ戻るリオナは、青司に見せるのが待ち遠しくて、胸の奥がほんのりと弾んでいた。
**************
小さな湖に流れ込む小川のほとり。
朝の狩りで肥えた木葉鳥を仕留めたリオナは、帰り道ふと足を止めた。水面の中で、きらりと赤い光が瞬いたのだ。しゃがみ込んで拾い上げてみると、小指の先ほどの石が、濡れた表面から宝石のように輝きを放っていた。
「……綺麗」
思わず呟き、鳥と一緒にポーチへ収める。
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森の家の扉を開けると、中では青司が薬草を刻む手を止めずに振り向いた。
「おう、おかえり。……ずいぶん早かったな。お、鳥を仕留めてきたんだな」
籠を覗いた青司は目を丸くする。羽根を木の葉に似せた擬態の鳥が二羽、きれいに並んでいた。
「木葉鳥か。肉は脂がのってご馳走になるな」
「ふふ、なかなか捕まえづらいけど、今日はうまくいったの」
少し誇らしげに笑ったリオナは、ふと声を落とす。
「……それとね、もう一つ見つけたの」
彼女はポケットからそっと手を開き、赤い石を差し出す。光を受けて、宝石のようにきらりと瞬いた。
「小川で拾ったの。……なんだか綺麗で」
子供の宝物を見せるような眼差しに、青司は手を止めて受け取った。
「……ただの鉱石じゃなさそうだな」
青司は手を止め、興味深そうに受け取った。じっと観察してから、ふと眉を寄せる。
「……ちょっと試してみるか」
石を掌に包み、意識して魔力を流し込む。途端に、じんわりとした熱が青司の手に広がった。
「――おお、温かい……!」
驚いた青司が声をあげると、リオナも目を丸くする。
「えっ? ただの石じゃなかったの?」
「いや、これは魔力に反応して熱を帯びる性質があるらしい。リオナは魔力を扱えないから気づかなかったんだな」
青司は興奮を抑えきれず、石をランプの明かりに透かすように掲げた。
「もしこれをもっと集めて水瓶に仕込んだら……水を温められるかもしれない」
「水を……温める?」
リオナは首を傾げる。
「そうだ。水浴びや体を拭くだけじゃなくて、温かい水で体を温められるようになる。……そうだよ、風呂だよ」
「ふろ……?」
聞き慣れない言葉に、リオナが小首をかしげる。
「温かい水に体を浸すんだ。気持ちよくて、疲れもとれる」
「……そんな贅沢、本当にできるの?」
リオナの耳がぴくんと動き、目がわずかに輝く。
青司は笑みをこぼし、石を大切そうに机に置いた。
リオナにとっては「綺麗だから拾っただけ」の石。
けれどそれは、青司の手に渡ることで、二人の日常を大きく変えるきっかけとなろうとしていた。




