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 翌朝。

 森の家の窓から射し込むやわらかな朝光が床を照らすころ、リオナが姿を見せた。昨日買ったばかりの生成り色の部屋着に袖を通し、いつもよりゆるやかに結んだ髪の先が肩で揺れている。


 麻布とは思えない柔らかさを持つその服は、腰に細い布紐が結ばれていて、彼女の華奢な輪郭を優しく縁取っていた。

 青司は、無意識のうちにその姿を目で追ってしまう。


(……やっぱり、絵になる子だな。服が良いっていうより、本人がそう見せてしまうんだろう。……けど、だからといって俺なんかがどうこう思うのは違う)


 視線に気づいたのか、リオナがこちらを見上げて小さく眉を寄せた。

「……なに?」


 青司は少し照れ笑いを浮かべ、肩をすくめる。

「いや……新しい服、よく似合ってると思っただけ」


「っ……」

 リオナの耳がぴんと立ち、頬が朱に染まる。

「……なら、いいけど」


 短く返す声にどこか甘さが混じる。青司は胸の奥に妙な感触を覚えたが、それ以上踏み込まないよう、心の中で線を引いた。


 二人は並んで森を歩き、湖まで水を汲みに出かけた。朝の森は澄んだ空気に満ちていて、小鳥のさえずりが遠くに響く。

 湖面は朝日を受けて銀色にきらめき、風が立つたびに水面がさざめいた。


 水瓶に澄んだ湖水を汲み終えると、帰り道はわずか十五分ほどの道のり。それでも青司は歩きながら、つい隣のリオナに目をやってしまう。


(……落ち着け。見すぎると変に思われる。友達でいるのが一番なんだから)


 気配に気づいたのか、リオナは肩越しにちらりと視線を寄越した。

「……また見てる」


 声は小さい。怒っているというより、戸惑いを帯びていた。

 青司は苦笑して肩をすくめる。

「悪い。新しい服だから、どうしても目につくだけだ」


「……そう」

 リオナはそれ以上言わず、歩調をわずかに早めた。だが尻尾の先は小さく揺れていた。



 家に戻ると、水瓶を台所に置いたリオナが服の裾を見下ろした。

「……でも、このまま狩りに行くのは変よね」

「だな。森に入ったら、すぐに枝に引っかけちまいそうだ」

「だから、着替えてくる」


 奥の部屋に姿を消し、しばらくして現れたリオナは狩衣に身を包んでいた。

 深緑と茶を基調にした動きやすい作りで、肩や腰を守る革のパーツがしっかりと固定されている。それでいて、胸元や袖口にさりげなく入った刺繍が彼女らしい可憐さを漂わせていた。


 青司は、またしても視線を奪われる。

(……強そうなのに、どこか可愛さが残る。不思議なもんだ。……まあ、俺がどうこう思う話じゃない)


 沈黙に気づいたリオナが、視線を逸らしながら小さく言った。

「……もう。そんなに見られると、狩りに行きにくいじゃない」


 言葉は不満めいていたが、頬は赤く、耳の先まで染まっている。

 青司は気恥ずかしさを隠すように息を吐き、軽く笑って頷いた。

「悪かった。気をつけて行ってこいよ」

「ええ。夕方には戻るから」


 弓を背負い、軽やかに靴を鳴らして玄関を出ていくリオナ。

 去り際に、扉の向こうからふわりと声が返ってきた。


「……夕方、戻ったら……部屋着のほう、また着るかもしれないから」


 一瞬、青司の足が止まる。

 胸の奥がかすかに熱を帯びたが、すぐに首を振った。


(……深い意味なんてない。気を回すのはやめとけ。俺たちは、友達みたいなもんだ。それ以上でも、それ以下でもない)


 小さく息を吐き、散らかった作業台に目を戻す。

 薬草の束と空の瓶が、淡い光に照らされている。

 森の奥へと消えていったリオナの背中を思い浮かべながら、青司は静かに魔法薬作りに取りかかった。



**************



 光が窓から柔らかく差し込む森の家。リオナは森の奥へ狩りに出かけ、家には青司だけが残った。静まり返った工房に足を踏み入れると、木製の机には整然と並べられた薬瓶、乳鉢、調合用の道具、香草の束が光を受けて輝いている。深呼吸をひとつ――この空間には、今日も豊かな一日が始まる期待感が漂っていた。


「よし、まずは商業ギルド向けの薬から整理するか」


 午前は、これまで作りこんできた怪我の治療薬、解熱剤、鎮痛剤、火傷の軟膏、洗剤といった、日常的に使いやすい薬を作る時間だ。青司が手を伸ばすと、自然と体の奥から魔力が流れ出し、触れた薬草や材料の微細な繊維がかすかに光る。葉や茎の隅々まで魔力が巡り、しなやかさと瑞々しさを取り戻していく。


 乳鉢で葉を潰すと、粉末はしっとりと光を帯び、魔力が均等に混ざり込む。火にかける瞬間も、青司の魔力が液体に染み込み、熱が成分にダメージを与えないよう温度を微調整する。液体が静かに揺れるたび、微細な緑色の光の粒が水面に踊り、香りは甘く清涼感を帯びた。


「……解熱に効く成分はここ、熱に弱い成分はこの温度で……」

 頭の中で確認を繰り返しながら、青司はひとつひとつ丁寧に工程を進める。薬草の葉先から漏れる微細な魔力の波が、作業にリズムと秩序を与えていた。


 やがて午前の作業が一段落すると、棚には商業ギルド向けの薬瓶がきちんと並ぶ。机や床には薬草の切れ端、粉末のかけら、使いかけの布が散らかり始めていたが、それもまた「作業が進んだ証」だった。片付けるのは後でいい。むしろ散らかった机の上にこそ、青司は作業の熱が残っているのを感じた。


 昼を過ぎると、午後は自宅用の実用的な薬の調合に移る。今日のテーマは、新たに調合する疲労回復薬と暑熱疲労回復薬だ。筋肉痛や倦怠感を軽減し、作業効率を上げる疲労回復薬。そして、夏の暑さによる脱水や軽い食欲不振を緩和する暑熱疲労回復薬。


 青司は摘んできた薬草を乳鉢に入れ、杵を握る。潰すたびに薬草から立ち上る香りが濃くなり、繊維の間に潜んだ成分が溶け出す。その瞬間を逃さぬよう、指先から細やかに魔力を送り込む。わずかにかき混ぜるだけで液体は淡く光を宿し、香りは清涼感と甘みを帯びていった。


 火にかける段階では、液体全体を魔力で優しく包み込む。熱が成分を壊さないように巡りを整え、均一に混ざるよう微調整する。ゆらゆらと揺れる水面の上に微細な緑色の光が漂い、工房全体がほのかな薬草の香りで満ちた。


「ここは筋肉痛に、ここは倦怠感に……暑熱疲労の方は清涼感を強めに……」

 青司はつぶやきながら、慎重に仕上げていく。


 完成間際になると、魔力は自然と薬瓶の中に馴染んでいった。手に取ると柔らかな温かみがあり、瓶越しにわずかな光を感じる。疲労回復薬は、持つだけで肩のこわばりがほぐれるような感触。暑熱疲労回復薬は、喉を通すと涼やかで甘い余韻を残すのが想像できた。


 作業に没頭するうちに、机の上はさらに散らかった。乳鉢やスプーン、薬草の茎や葉が重なり合い、床にも細かな粉末が落ちている。しかし青司にとって、それは混沌ではなかった。散らかりはしていても、何がどこにあるかは体が覚えている。必要な瓶は手を伸ばせば取れるし、作業効率はむしろ保たれている。


「これで、狩りや作業で疲れたリオナも、少しは楽になるだろう……」


 ふと窓の外に目をやれば、森の薬草は今日も生き生きと葉先を揺らしている。触れれば魔力が返ってくるこの環境は、青司にとって最高の実験場だった。


 完成した薬を棚に並べるたび、工房には光と香りが満ち、青司の胸には穏やかな充足感が広がる。誰もいない森の家で、魔力を込めた薬作りに没頭する時間――静かで豊かで、心を満たす贅沢なひとときだった。



**************



リオナ視点

森の奥を進む足取りは軽快だったが、リオナの胸は晴れやかではなかった。


数日だけ、と言って青司の家に身を寄せたはずが、気づけばもう長く滞在している。

彼は嫌な顔ひとつせず迎えてくれ、ベッドも譲り、さらには洋服棚まで自分のために作ってくれた。丁寧に仕上げられた木目を思い出すと胸が温かくなるが、それ以上に「そこまでしてもらっていいのだろうか」という不安がのしかかる。


洋服だって、姉マリサが気にかけて買ってくれたものや、義兄が鹿の代金として分けてくれたお金で賄ったものが多い。自分で稼いで手に入れたわけではない。それを棚に収めたときの青司の穏やかな笑顔を思い返すと、嬉しさの隣で、どうしようもなく申し訳なさが胸を締めつける。


(……ずっと甘えていて、いいのかな)


思考に沈みかけたとき、耳がぴくりと動いた。

風に混じる、小さな葉擦れの音。かすかな土を掘る爪の音。


リオナは反射的に茂みに身を潜め、弓を手に取った。矢をつがえ、音の方向に視線を凝らす。

そこにいたのは角ウサギ――魔力を帯びて獰猛化した、森の厄介な住人だった。普通のウサギより大きく、額から突き出た二本の角は鈍い光を放つ。目は赤くぎらつき、牙を剥きながら地面の虫を食いちぎっている。


(角ウサギ……! 危険だけど、仕留められれば大きな成果になる)


狩人の血が騒ぐ。市場に持ち込めば良い値になるし、肉は滋養たっぷりで青司との食卓を豊かにできる。少しでも彼に返せるものがあるなら――その思いが矢羽に力を込めさせた。


静かに息を整え、狙いを定める。

しかし角ウサギは俊敏だ。風の変化に気づき、耳を立てて跳ねた。


「――今!」


リオナは矢を放つ。弦が高く鳴り、矢は空気を裂いて獣の肩に突き刺さった。鋭い悲鳴とともに角ウサギが地を蹴る。怒りに任せて突進してくる姿に、リオナはすでに次の矢をつがえていた。


二射目。額の角を狙った矢は、ギリギリで首筋に食い込む。だが止まらない。獣は獰猛さをむき出しにして迫る。


距離が詰まった。

リオナは迷わず弓を背に回し、小剣を抜く。突進の軌道を紙一重でかわし、横腹を切り裂いた。鋭い爪が空を切り、土が飛び散る。


「……っ!」


獣が振り向きざまに牙を剥いた瞬間、リオナは体をひねり、至近距離から三射目の矢を放った。短い距離でも矢は唸りを上げ、喉元を深々と貫いた。角ウサギは痙攣し、やがて力なく倒れ伏した。


荒い息を整えながら、リオナは弓を下ろす。

汗が額を伝い、心臓の鼓動が耳の奥で響いている。けれど勝利の実感は確かだった。


倒れた角ウサギを見下ろしながら、胸の奥に複雑な思いが渦巻く。

これを持ち帰れば、青司に胸を張れるだろう。居候していることへの負い目を、少しは和らげられるかもしれない。


けれど同時に――彼は笑って「無理するな」と言うに違いない。

自分の焦りや気がかりなど気づかぬように。だからこそ余計に、心は落ち着かなかった。


(……それでも。今日くらいは、役に立てるはず)


リオナは角ウサギを背に担ぎ直し、森の奥へと歩き出す。

陽光が木々の隙間から差し込み、影が長く揺れる。その中で、複雑な心を抱えた彼女の足取りは、けれど確かに誇らしげでもあった。



**************



 森の家の工房は、昼の調合作業を終えた余韻に包まれていた。

 机の上には薬瓶がずらりと並び、まだほんのり緑色の光を帯びた液体や軟膏が、棚に整然と収められている。作業の最中はどうしても散らかしてしまう青司だが、後片付けだけは欠かさない――いや、正確にはリオナに「このままにしたら埃が混じるでしょ」と何度も叱られた結果、さすがに習慣になったのだ。


 棚に薬を並べ終え、布で机を拭いながら青司は小さく息をついた。


(……あの日、「数日ここで過ごしたらどうだ?」って声をかけたんだよな)


 怪我をして動けないリオナを見て、気まぐれで言ったつもりだった。数日休ませて、回復したらまた彼女は森に戻る――そのはずだった。

 だが、もう何日が経っただろう。数日どころか、気づけば一緒にいるのが当たり前になっていた。


 片付いた工房から居間に出ると、すぐにリオナの気配が思い浮かぶ。

 食器棚の上には、彼女が買い揃えた調味料の瓶がきちんと並んでいる。炉端には朝のスープ鍋が下げられ、床も机も清潔に整えられていた。もともと前の世界の自分は、掃除など気まぐれにしかしていなかった。だが今は違う。リオナが「片付けておかないと気持ち悪いわ」と口を尖らせながら、整えてくれるのだ。


(……本当に、よく気がつくやつだよな)


 料理はうまいし、片付けもうるさいほどきっちりする。狩りに出れば頼りになる。

 それでいて、一緒にいると妙に気楽だ。耳や尻尾が小さく動くたびに、つい視線が向くのは……まあ仕方ない。


 けれど、そこでふと自分を戒めるように首を振った。


(……いやいや、変な勘違いはするなよ)


 彼女は自立した狩人で、気まぐれに声をかけた自分を気にせず受け入れてくれただけだ。

 便利だからこの家にいる――その程度の話だろう。


「……空き部屋なんて他に使い道もないんだし、リオナが使ってくれる方が助かる」


 そう口にして、青司は苦笑する。

 実際、一人で過ごしていた頃よりずっと暮らしやすくなった。

 食卓に彼女の声が響くとき、工房から戻ったときに誰かが台所に立っているとき――その空気が心地よいのは、事実だった。


(……まあ、仲間がいてくれる方が嬉しいに決まってる)


 だが、それ以上のことを考えるのは違う。自分はこの世界で根無し草のような存在だ。あくまで「一緒に暮らしてる友達」として接するのが一番いい。


 ふと、耳を澄ます。

 森の外から、かすかな足音が近づいてきた。規則正しく、軽やかで、それでいて確かな重量を持った足音。狩りに出ていたリオナが帰ってきたのだとすぐに分かる。


 青司は布巾を置き、扉の方へと顔を向けた。

 夕暮れに染まり始めた森の静けさを切り裂くように、その足音はまっすぐこちらに近づいてくる。


「……おかえり、リオナ」


 まだ扉が開かぬうちに、小さく呟いた声が工房に残った。

 胸の奥に、ほんの少しの安心と、友を迎えるささやかな期待をにじませながら。

 青司は帰ってくる足音をじっと待っていた。


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