17
翌朝、青司は朝日の差し込む窓辺で目を覚ました。目を開けると、昨日の夜の街灯や街のざわめきがうそのように静かな、柔らかな光が部屋を満たしている。長い一日の疲れがまだ残る体を伸ばし、ベッドに身を預ける。
「やっぱり……寝心地が全然違うな……」
と、思わず小さく呟く。森の家での藁の布団や、小麦亭の簡素な敷布団では、どうしても背中や腰に微かに違和感が残ったものだ。だがこのベッドは、体を受け止める感触が柔らかくも弾力があり、体が自然に沈む一方で、ぐらつくことなく支えられている感覚があった。目覚めたときの体の軽さや、首や腰の痛みのなさに、青司は深く息をつく。
体を起こし、簡単に顔を洗って身支度を整えたあと、一階の食堂へ向かう。廊下を歩くと、木の床が柔らかな音を立て、階段を降りると暖炉の火と朝の光が交わった落ち着いた空間が迎えてくれた。昨日と同じ青年が、微笑みを浮かべて青司を迎える。
「おはようございます。朝食はこちらです」
差し出されたのは、焼きたての柔らかなパンに、ふんわりとしたオムレツ、香ばしいスープ、そして色鮮やかなオレンジ。香りをかぐだけで自然と食欲が湧く。パンの表面は軽く焼き色がつき、噛むと外はさっくり、中はしっとり。オムレツは卵の甘みとクリームのまろやかさが口の中に広がり、スープの塩気と香草の風味が体を温める。オレンジの爽やかな酸味が口の中をさっぱりとさせ、昨日の黒猫亭の食卓に匹敵する満足感がある。
「うん……これは……美味しい」
青司は口の中で味わいながら、自然と笑みをこぼす。どれも丁寧に作られ、時間をかけて味を引き出したことがわかる。
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リオナ視点
黒猫亭の朝は、夜の賑やかさとは違って落ち着いた活気に包まれていた。大通りに面した扉が開くたびに、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、煮込み鍋から立ちのぼる湯気が流れ込み、客たちを出迎える。
リオナは窓際の席に腰掛け、耳をぴくりと揺らしながら何度も入口を見やった。
来るはずの人影は、まだ現れない。
「……遅いな」
小さな声でつぶやいた途端、カウンター越しに視線を感じて顔を上げる。姉のマリサが、にやにやと口元を緩めながらこちらを見ていた。
「ふふ、リオナ。そんなに入り口ばっかり気にして……待ってる人が来ないの?」
「ち、ちがうよ!」
リオナはあわてて耳を伏せ、尻尾を膝の上に巻きつけた。
「ただ……先週は、朝にはもう来てたから……」
義兄のベルドが、豪快に笑い声を上げた。
「ははは! 森の中じゃ獲物を追い詰めるくせに、人を待つとなるとこうも落ち着かなくなるとはな」
「笑わないでよ!」
リオナは頬を赤くし、テーブルを軽く叩いた。だが、二人の前では強がりも長くは続かない。子どもの頃からの癖が抜けず、余計にからかわれるばかりだ。
マリサが木杓子を片手に近づき、姉らしい柔らかな声でささやいた。
「心配なのね? セイジさん、昨日は小麦亭に泊まるって言ってたでしょう。街に慣れていない人だから、ちょっと気になるんでしょう?」
「……そういうわけじゃ……ないけど」
リオナは視線を落とし、爪の先でテーブルをちょんと突いた。耳が赤くなるのを自分でも隠せない。
ベルドは腕を組み、少しだけ声をやわらげる。
「まあ、あの男なら大丈夫だろうさ。昨日の食事のときだって落ち着いてたし、街の連中からも評判は悪くねぇ。そうそう危ない目に遭うこともない」
「そうよ。セイジさんはしっかりした人だって、あんたが一番わかってるはずじゃない」
マリサにやさしく言われ、リオナは唇をむっと結んだ。
――わかってる。
森で一緒のときも、街の雑踏で気を配ってくれたときも。あの人が無茶をする人じゃないことくらい、自分が一番よく知っている。
それでも、姿が見えないと胸の奥にざわざわとしたものが広がってしまうのだ。
「……もし来なかったら、迎えに行くから」
小さな声でつぶやくと、マリサがくすりと笑った。
「やっぱり優しいんだから。リオナ、顔に出すぎよ」
リオナは耳を真っ赤にしながら、また入り口に目をやった。
扉の向こうで人影が差すたびに、胸が一瞬だけ高鳴る。その姿を待つ自分の様子は、狩人というよりも、ただの妹のように無防備だった。
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朝の商業ギルドは、取引を求める商人や職人で人の出入りが絶えなかった。重厚な扉をくぐった青司は、肩に大きなリュックを下げたまま受付へ向かう。周囲では商人たちが荷を並べ、検品を受け、ある者は契約に成功して笑顔を浮かべ、ある者は渋い顔で退出していく。市場を動かす生々しい空気が、ここには濃密に漂っていた。
青司のリュックには、怪我の治療薬や解熱剤、鎮痛剤、火傷用の軟膏――前回と同じ質と量を揃えた瓶がきっちりと詰められている。さらに今回は、新たに用意したものが一つ。洗剤である。
「セイジ様ですね。副ギルド長がお待ちです。どうぞ」
受付の女性が笑顔で声を掛ける。その声音は柔らかだが、商人としての実力を認められなければ、この奥へ通されることはない。青司は軽く会釈し、執務室へ向かった。
帳簿を繰っていた副ギルド長グラントは、顔を上げて鋭い眼差しを向けた。重厚な空気をまとったその目は、商人を値踏みする視線そのものだ。
「来たか、セイジ。……さて、今日は何を持ってきた?」
「前回と同じ種類の薬を同じ分だけ。怪我の治療薬、解熱剤、鎮痛剤、それに火傷の軟膏です」
青司はリュックを机の上に置き、手早く中身を並べていく。
小瓶の数々は、どれも封蝋で口を固め、そこには刻印が押されている。ラベルには名称、効能、用法、禁忌、用量、製造日が、外から読めるはっきりとした文字で記されていた。
グラントは一本手に取り、ラベルを目で追い、封蝋を確かめる。
「……ふむ。指示した通りだな。見やすく、扱いやすい。薬は“効くだけ”では駄目だ。どこで誰が使っても間違いが起きぬようでなければ、市場では通用しない」
「はい。それを肝に銘じて用意しました」
青司は深く頭を下げる。
グラントは他の瓶もいくつか抜き出し、光に透かし、手触りを確かめては机に戻す。その仕草には大きな感情の揺れは見えない。だが、粗を探しても出てこないからこその沈黙であることを、青司は感じ取っていた。
「前回の品は三軒の薬舗と衛兵詰所に回した。評判は……悪くない。いや、むしろ良すぎるくらいだ」
声は淡々としているが、言葉の端に認めざるを得ない色が滲んでいた。
「だが、それを口に出して浮かれるのは素人のすることだ。俺が見たいのは、同じ質と量をきっちり続けて持ってくるお前の姿だ。……それを忘れるな」
帳簿を閉じたガラントは、机の引き出しから革袋を取り出し、どさりと音を立てて置いた。
「さて、売上の計算だ。すべて売れた。約定通り二割をギルドが受け取り、残りの八割から前回の前金七枚を差し引いて――これがお前に渡す分だ」
袋は見た目以上に重みがあり、掌にずしりと食い込む。中で銀貨が触れ合い、低い金属音を立てた。
「……しっかりと入っていますね」
青司が袋を手にしたまま感慨に沈むと、ガラントが顎をしゃくる。
「数えておけ。商人は誰であっても、受け取った金をその場で確認する。それは相手を疑うからじゃない。互いの信用を守るためだ」
「……なるほど。心得ます」
青司は深く息を整え、机の上にもう一つの包みを置いた。
「それと……新しくこちらを」
机に置かれたのは透明な液体を詰めた瓶。ラベルには「洗剤液」と書かれ、用途や用法も細かく記されている。
「……洗剤?」
グラントが片眉を上げる。
青司は黙って布切れの一端を瓶に浸し、泥汚れのついた部分を拭う。みるみるうちに汚れが落ち、布の白地が現れた。
グラントの目が細められる。
「なるほど……これは面白い。薬ではないが、衛兵詰所の備品の手入れに使えるだろうし、宿屋や肉屋も一般家庭にも重宝するはずだ。香りを付ければ婦人向けの市場も開ける」
「人体に害のない配合にしてあります。効能や注意点も記してありますので、安心して使えるはずです」
「……扱える」
グラントは瓶を机に置き直し、声を低める。
「お前は工夫を忘れていないな。薬に加え、こうした品も出せるか。他にもまだまだ出せるものを持っていそうだな。よし、前回と同じ販売委託契約でいいか」
淡々とした声音のままだが、その裏に確かな評価があることは隠せなかった。青司は胸の奥で安堵し、丁寧に頭を下げる。
書類をまとめながら、グラントがふと思い出したように言った。
「そういえば……お前、前に街を出る時、大荷物を抱えていたらしいな。荷物を抱えたまま森に戻ったのか?」
「ええ……荷が多くて、正直骨が折れました」
苦笑まじりに答える青司に、グラントは腕を組み、少し黙考する。
「……これからも同じようなら、使っていない荷車が一台ある。もし要るなら譲ってやろう」
「えっ……? そんな待遇をいただけるほど、私はもう信用があるんですか」
問い返す青司に、グラントは目を細め、低く言い切った。
「商人にとって重要なのは、“これからどうなるか”だ。有望な取引相手になりそうな者とは、より良い連携を考えておく。それだけだ」
その言葉は、信頼と計算が混ざった商人の本音だった。青司は深く息を吸い込み、静かに頭を下げる。
「……ありがとうございます。そのご厚意、無駄にはしません」
薬と洗剤の取引を終えた青司は、少しだけ荷が軽くなった背中に、確かな手応えを感じていた。
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リオナ視点
リオナは黒猫亭から小麦亭へ足を運んだが、女将から首を横に振られた。
「昨日? 背中にリュックと槍を背負った若い男なら泊まってないよ。満室だったから白樺館を紹介したんだ」
続いて白樺館に向かうと、受付の青年がにこやかに答えた。
「セイジ様なら、今朝はもう商業ギルドに行かれましたよ」
リオナの胸の奥に、少し寂しさが灯る。けれど立ち止まるより先に足が動いていた。
商業ギルドの前にたどり着いた瞬間、扉が開く。ちょうど青司が職員の女性に見送られて出てくるところだった。
「本日はありがとうございました。またぜひよろしくお願いします」
「こちらこそ」
青司はにっこり笑って頭を下げる。その柔らかな表情に、リオナの耳がぴくんと動いた。
(……な、なによ。鼻の下、ちょっと伸びてない?)
胸に淡いちくりとした痛みを覚えつつ、思わずじっと見つめてしまう。
「あ、リオナ!」
青司が気づいて手を振ると、リオナはぷいっと顔をそむけた。
「……ずいぶん楽しそうだったわね」
「え? いや、取引の話してただけで……」
「ふうん? にやけてたように見えたけど?」
「にやけてないって!」
「にやけてた!」
「いや、あれは……営業スマイル!」
「営業でも鼻の下は伸ばさなくていいの!」
言い合いに近くの商人たちがクスクス笑う。青司は困ったように頭をかき、リオナは頬をふくらませて視線を逸らした。
やっとリオナは口を開いた。
「……そういえば、私は小麦亭にいると思って探してたのよ」
「え、小麦亭? あぁ、昨日は満室だったから……白樺館を紹介されたんだ」
リオナは小さく鼻を鳴らし、ちょっと拗ねたように視線をそらす。
「ふーん……そういうことね……まあいいわ。それで、薬はどうだったの?」
ようやく話題を変えると、青司の顔に安堵の色が広がる。
青司の顔に安堵が広がる。
「前回預けた薬は全部売れてたぞ。洗剤も高評価だったんだ。それに、荷車まで譲ってもらえることになった」
「えっ、ほんと? それは便利になるわね!」
さっきまでの拗ねた気持ちは、ぱっと明るく晴れた。リオナも思わず微笑む。
「洗剤も評判良かった。宿屋とかでも役立ちそうだって」
「ふふ、そうでしょう? あれは本当によく落ちるもの」
二人は思わず顔を見合わせ、同時に笑みをこぼした。




