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 厨房から漂う香ばしい匂いに、俺の腹は思わず鳴りそうになった。

 勝手口から鹿を運び終えると、ベルドはすぐに手際よく調理に取りかかり、マリサも隣で野菜を刻んでいる。肉の焼ける音がじゅうっと響き、香ばしい脂の香りが厨房いっぱいに広がった。


「今日は特別だぞ。今朝ちょうど仕入れた紅豚があるんだ。こいつをステーキにしてやろう」

 ベルドが分厚い肉の塊を豪快に切り分け、鉄板に乗せると、脂が弾けて黄金色の煙が立ちのぼる。

「それにサラダと焼きたてのパンもつけてやる。鹿を持ってきてくれた礼だ、遠慮すんな」


「えっ……紅豚を?」

 リオナは目を丸くし、耳までぴんと立てた。狩人の彼女でも滅多に口にできない贅沢品だ。

「ちょっと、いいの? だってこれはお客さんに出すために――」


「いいんだよ。森の恵みを持ってきてくれるのは、どんな仕入れよりありがたいんだからな」

 ベルドが豪快に笑うと、マリサもにこにこと頷いた。

「そうそう。お客さんには明日から鹿料理を楽しんでもらうわ。その代わり、今日は二人にご馳走。ね?」


「……ありがとう」

 リオナは小さな声で呟き、頬を少し赤く染めて視線を伏せる。普段なら素直に言えない感謝を、照れ隠しのように押し出す姿が、妙に女の子らしかった。

 俺も隣で苦笑しながら頭を下げる。

「本当に、こんな厚意を受けていいのか……ありがたくいただきます」


 食堂の方からは常連客の笑い声やグラスの触れ合う音がかすかに響いてくる。昼の賑わいに比べれば落ち着いた雰囲気で、奥の席に腰を下ろした俺たちのところにも、ほんのりと温かな空気が流れ込んでいた。


 やがて皿が運ばれてくる。

 分厚い紅豚のステーキは香ばしく焼き上がり、肉汁が表面で光っている。脇には彩り豊かなサラダ、そして籠に盛られた湯気立つパン。

 目の前に並んだ料理の豪華さに、リオナは思わず口を開いたまま固まった。


「……こんなに豪華なの、久しぶり」

 その声は震えるほど小さく、それでいて嬉しさに満ちていた。彼女の長い睫毛が伏せられ、頬の赤みはさらに濃くなる。尻尾がわずかに揺れているのを見て、抑えきれない喜びが伝わってきた。


「ふふ、驚いた顔。ね、ベルド。用意した甲斐があったでしょう?」

 マリサは妹とその隣に座る男を見比べ、にやにやと笑みを浮かべる。姉の目は、先週より二人の距離感が近いことを見逃さない。妹の頬がわずかに赤いのも、視線を合わせたときの柔らかな表情も、ぜんぶが愛おしくて仕方なかった。


 マリサは胸の奥が温かくなるのを感じる。同時に、可愛くてからかいたくなる衝動と、妹が少しずつ自分の手を離れていくような寂しさが入り混じる。それでも笑みは止められない。大切な妹が信頼できる誰かと並んでいる――それ以上に嬉しいことはなかった。


 ベルドはそんな妻の気持ちを察したのか、目を細めて頷き、グラスを二つ置いた。

「さあ、遠慮せずに食え。鹿のお礼だ。今日はゆっくりしていけ」


 リオナは思わず俺の方を見やり、俺も同じように微笑み返す。その一瞬の視線の交わりを、マリサはちゃっかり見逃さなかった。


「にしても……リオナが客じゃなくて“連れ”をまた連れてくるなんてな」

 ベルドが肉を切り分けながら、ふとニヤリと笑った。


「べ、ベルドさん!」

 リオナが顔を真っ赤にして声を上げる。耳がぴくぴくと震えて、慌ててパンをちぎって口に運ぶ仕草は、どこか少女めいていた。


「いやいや、悪い意味じゃねぇぞ」

 ベルドは笑いをこらえながら肩をすくめる。

「ただ、嬉しいんだ。お前が誰かと肩を並べて街に続けて来るなんて、初めてじゃないか?」


 リオナは返す言葉に詰まり、パンをぎゅっと握ったまま少し俯いた。


 その様子を見て、マリサが小さく吹き出す。

「ふふ……そうね。なんだか、リオナが少し大人っぽく見えるわ」


「お姉ちゃ?まで!」

 リオナは頬を赤くしながら睨むが、その瞳には甘えと恥ずかしさが入り混じっている。


 マリサは笑みを残したまま、すぐにフォローを入れた。

「でも安心して。からかってるんじゃないの。ただね、妹がこんな顔で食事してるのを見るのは、本当に久しぶりだから。……お姉ちゃん、嬉しいのよ」


 リオナは一瞬言葉を失い、それから照れ隠しにサラダを口に運んだ。耳の先まで赤いのを、マリサは見逃さない。

「……もう。余計なこと言わないで」


「はいはい」

 マリサはおどけて肩をすくめる。けれどその目は、妹を慈しむ光で満ちていた。


 俺はそんな三人のやり取りを眺めながら、胸の奥がじんわりと温まるのを感じていた。鹿を背負って歩いてきた疲れも、街の喧騒も、この温かな空気の中ではすっかり遠のいていくようだった。

た。



**************



 紅豚のステーキは柔らかく、噛むごとに旨味が広がる。サラダの瑞々しさや、焼きたてのパンの香ばしさがそれを引き立て、気がつけば俺もリオナも夢中で皿を空にしていた。談笑しながら次々と差し出される料理に、時間の感覚はすっかり薄れていた。ベルドの豪快な笑い声や、マリサの穏やかな微笑みが厨房から流れてくる。森の暮らしとは違う、街ならではの温もりに心まで満たされていく。


 だが、ふと窓越しに射し込む光を見ると、空は橙色から深い藍色へと変わり、街灯の明かりがぼんやりと揺れていた。

「……あ」

思わず声を漏らすと、リオナが首をかしげる。

「どうしたの?」

「いや……気づいたらこんな時間で、今日、まだ宿の手配をしてなかった」


 商業ギルドに顔を出すには遅すぎる時間帯だ。夕暮れの街は、買い物袋を抱えた人々や店じまいを急ぐ職人たちで慌ただしく、昼間とは違う独特の喧騒に包まれている。


「宿? なら小麦亭に行くといい。前にも泊まってただろう?」

ベルドが豪快に言い、グラスを置く。

「場所も近いし、あそこなら安心できる。今のうちに急いで行った方がいいぞ」


「そうですね……ごちそうさまでした」

俺は慌てて荷物を背負い直す。リオナも席を立ち、店の外まで付き添ってくれる。鹿を届けて満たされた安堵と、急な宿探しへの焦りが入り混じった空気の中、彼女も歩調を少し速めた。

「さっきまでのんびりしてたのに、急に忙しくなったわね」

「……うっ、ごめんな。居心地が良すぎて油断した」

苦笑する俺に、リオナも小さく笑い、肩を軽くすくめる。


 黒猫亭の木の扉を押し、外の路地に出る。店先には、ほのかに灯ったランタンの光が二人を照らしている。行き交う人々の足音や話し声、遠くで響く笛の音が、夕暮れの街に柔らかく溶け込んでいた。


「じゃあ……私はこのままお姉ちゃんのところに泊まるから」

リオナが立ち止まり、俺に向き直る。

「セイジ、また明日会いましょう」


 思わず胸がぎゅっとなる。慌ただしい別れの瞬間だが、彼女の瞳には優しさと少しの照れが混じっている。俺は頷き、軽く会釈して応えた。

「わかった。じゃあ、また明日」


 リオナは小さく微笑み、手を振って店の奥へと戻っていく。鹿を届け、温かな食卓を囲んだ満ち足りた気持ちと、これからの夜をどう過ごすかという小さな不安が入り混じる。


 街路に立つ俺は、夕暮れに染まった石畳を見下ろす。店先に残るリオナの後ろ姿と、店の温かい灯りが、今でも胸に鮮やかに残る。人々のざわめきや軒先の灯籠の光に混じって、少しの寂しさも胸に広がる。


 急いで荷物を背負い直し、小麦亭へと向かう。夕闇に包まれた街の賑わいの中を駆け抜けるたび、今朝森で過ごした静けさと、黒猫亭での温かい時間が交錯して胸に蘇る。


 小麦亭の看板が視界に入ると、胸の奥で一瞬安堵が広がる。しかし、その期待はすぐに打ち砕かれる。女将の申し訳なさそうな表情が、こちらを見ていたのだ。

「ごめんねぇ、あんた。今日はちょうどさっき、最後の部屋が埋まっちまったんだよ」


「……そうですか」

肩の力が抜ける。夕暮れの街はすでに宿を求める人々で動き始めており、焦りが募る。


 女将は気を遣いながら続けた。

「代わりに、少し歩いた先の〈白樺館〉なら、まだ空きがあるはずだよ。うちより少し高いけど、そのぶん良い宿から安心して泊まれると思うわ」

「ありがとうございます」

慌てて礼を言い、教えられた方向へ足を急がせる。


 街の灯りに照らされ、行き交う人波の中を駆けながら、鹿を届けた喜びと、夜の宿探しへの焦りを胸に抱く。黒猫亭の店先で別れたリオナの笑顔を思い浮かべながら、俺は夕暮れの街に溶けるように歩き続けた。



**************



 街の路地を抜け、女将に教わった方向へ小走りに進む。街灯に照らされる石畳、軒先の灯りが揺れる中、青司はリュックを背負いながら、黒猫亭での温かな食卓の余韻に浸っていた。マリサの店先で別れたリオナの、軽く手を振る笑顔が胸に残る。安心感と、ほんの少しの寂しさが入り混じり、夕暮れの街を歩く足取りを穏やかにしていた。


やがて白樺館の看板が見えてくる。古風な木造建物に灯籠の柔らかな光が揺れ、落ち着いた雰囲気を漂わせている。扉を押して館内に足を踏み入れると、暖かな灯りと、ほのかに漂う暖炉の香り、そして焼き菓子の甘い香りが迎えてくれた。外の慌ただしさとは打って変わり、静かで落ち着いた空気が体を包む。


フロントに立つ青年が顔を上げ、青司に視線を向ける。

「こんばんは、ご宿泊でしょうか?」


「はい、空き部屋があるか伺いたくて」


青年の視線が、青司の左胸につけてあるピンバッジ(商業ギルドの会員証)に止まり、目を細めた。


「あ……商業ギルドの会員さんですね」


青司は少しだけ頷き、静かに微笑む。ピンバッジが宿側の安心感に直結しているのを感じた。青年も書類をめくりながら、少し安心した表情で続ける。


「本日でしたら……空いております。通常、朝食付きで銅貨85枚ですが、商業ギルドの会員の方は80枚に、それと朝食には卵料理と果物もサービスさせていただきます」


青司は一瞬目を見開く。小麦亭の素泊まり40枚と比べれば倍以上の値段だ。思わず唇を噛み、少し驚きながらも頷く。


「……少し高めですね」


青年は笑みを添えて答えた。

「……そうですね。白樺館はリルトでも高めの宿になってます。けれど、料金に見合うよう頑張らせてもらっていますので、安心してご利用ください。」


青司は鞄から銀貨を取り出して支払い、お釣りの銅貨と鍵を受け取る。荷物を背負い直して2階の部屋へと向かう。


部屋に到着し、扉を閉め、荷物を整理して槍を横に置く。白樺館というだけあって、白樺の木の香りが心地いい。隣の部屋の音も気にならない。青司はそっとベッドに腰を下ろした。昼間の黒猫亭での食卓の余韻と、街を歩いた疲れが体にじんわりと染み込む。腰を預けた瞬間、思わず眉を上げる。


森の家で使っていた敷布団は藁を布で包んだものだった。硬さは適度で寝心地は悪くないが、長く体を預けると藁のざらつきや沈み込みが背中に伝わる。小麦亭の素泊まりの部屋も、やはり藁を使った簡素な布団。すのこベッドで藁を床の湿気から守っているようだけど、長時間横になると藁の感触はしてしまう。


しかしこの宿のベッドは、まったく違った感触だった。布団に腰を沈めると、柔らかく、しかし体をしっかり支える弾力がある。手で布団の表面を押すと、ざらつきはなく、細かく弾力のあるものが詰まっているのが伝わる。藁の硬さや感触は一切なく、体が優しく包み込まれるようだ。


「なるほど……これか」

小さく呟き、微かに目を細める。小麦亭で泊まったときとの違いが体に伝わる。腰や背中にかかる圧力が均等に分散され、長時間の歩き疲れた体が、すっと解きほぐされる感覚だ。


値段の高さに少し驚いた銅貨85枚の理由も、ふと理解できた。単なる宿泊場所ではなく、寝具一つにも心配りが行き届き、素材や作りが違う。朝食付きで卵料理や果物までつくことも含めれば、納得できる支出だと青司は思った。森や小麦亭での簡素な寝心地も悪くはないが、この布団は確かに“価値”を感じさせる。


窓の外には街灯に照らされた石畳と行き交う人々の影が淡く揺れる。黒猫亭で温かな時間を過ごした記憶と、街のざわめきが混じった夜の空気。腰を預けたベッドの安心感に、青司は自然と深呼吸をひとつする。


体をゆったりと沈めながら、今日一日の出来事を思い返す。森での収穫、リオナの誇らしげな表情、街の活気、黒猫亭の賑やかな食卓、そして今の夜の静けさ。すべてが胸の奥で混ざり合い、静かに温かい充足感となって広がる。


「なるほどな……」

小さく笑みをこぼし、青司はベッドに体を預けたまま、明日の商業ギルド訪問やこれからの街での予定を思い巡らせる。高めの宿代も、今日の出来事や安心感と比べれば、十分に価値のある支出だと納得できた。腰を優しく支える布団は、ただの寝具ではなく、夜の安心と休息の象徴のように青司に感じられた。


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