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 数日が静かに過ぎていった。


 俺は朝の水汲みを終えると、作業場に籠もるのが習慣になっていた。乾燥させた木材を切り、削り、磨き……リオナに希望を聞きながら、新しい家具を少しずつ形にしていく。


 「部屋の机はあまり使わないと思うから、なくても良いけど……作ってくれるなら小さいものでいいわよ」

 そう言われれば、彼女に合う小ぶりの机と椅子を組み立てた。机のヘリには小さな猫の横顔の模様を彫り込み、彼女の家具であることを示す目印にする。仕上げに胡桃油を布で丹念に塗り込めば、木肌はしっとりとした艶を宿し、淡い光沢が部屋の空気をやわらかに変えていった。


 「……すごい、本当にお店に置いてあるみたい」

 リオナは目を輝かせていたが、その横顔にはわずかに影が差していた。


 「でも……セイジに作ってもらってばかりで、私……」

 視線を落とし、指先で机の取っ手をなぞる。

 「高いブランケットまで借りて、洋服棚まで作ってもらって……これ以上甘えていいのか、って思うの。なんだか、私だけがもらってばかりで」


 俺は少し笑って、軽く首を振った。

 「そんなことはない。俺は毎日、食事を用意してもらってるし、森のことも狩りのことも教えてもらってる。リルトの街だって、案内してくれたのはリオナだろ」

 言葉にするたび、自分でも胸の奥に確かな実感が広がっていく。

 「だから、対等だよ。俺は作れるものを作ってるだけだ。お互いできることをしてる、それで十分だ」


 リオナは驚いたように俺を見つめ、それから小さく笑った。

 「……そう言ってもらえると、少し楽になるわね」

 肩の力がすっと抜け、頬がほんのりと赤らむ。彼女は扉に刻まれた猫の模様を指でなぞりながら、どこか安心した表情を浮かべていた。


 その姿に、俺の胸の奥もじんわりと温かくなる。実際には、俺の暮らしの半分以上を支えてくれているのはリオナのほうだ。食事を整え、森での立ち回りを導いてくれる。俺が一方的に与えているだなんて、考えたこともなかった。


 作業場には、まだ木材が山のように残っている。小さな机と椅子のほかにも、これから使うだろうハンガーや小物入れ、窓辺に置く小さな棚を次々と作った。どれも大げさなものではないが、暮らしを少し便利にし、部屋を整えていく。


 木を削るたびに響く「シャッ、シャッ」という音と、舞い落ちる削り屑の香り。胡桃油の甘い匂いが混じり合い、作業場は日ごとに心地よい居場所へと変わっていった。リオナはときどき椅子に腰かけて作業を眺め、その表情には安らぎと、ほんの少しの誇らしさが浮かんでいた。


 一方で、魔法薬作りも欠かさない。薬草を刻み、煮出し、魔力を流し込んで効果を高める。解熱剤、鎮痛薬、生活に役立つ洗剤草の液体――少しずつ作り溜めた瓶が棚に並び、作業場はますます「薬師の家」らしい佇まいを見せ始めていた。


 その間、リオナは森で狩りを続けていた。身軽な足取りで森を駆け、時にはウサギを数匹、時には鳥を仕留めて帰ってくる。

 「今日は山鳥が手に入ったわよ」

 「こっちは毛並みのいいウサギよ」

 彼女の獲物は新鮮で、肉は柔らかく、食卓を豊かに彩った。


 朝は水汲みのあと、二人並んで湯気の立つ食卓につく。焼き立ての肉と、薬草を刻んだスープ。素朴だが森の空気に包まれると、どれも滋味深い。夕暮れ時にはリオナが仕留めた獲物を料理し、俺が仕込んだ薬草や胡桃油が調理に活かされる。胡桃油で焼いた肉は香ばしく、薬草の風味が添えられ、自然と会話も弾んだ。


 「セイジ、今日も木の削り屑が髪についてる」

 「おっと、またか……」

 「ふふ、作業に夢中になると気づかないのね」

 そんなやり取りを交わしながら、夕餉の灯りの下で笑い合う。


 森の奥の小さな家は、最初はただの住まいにすぎなかった。けれど今は家具が整い、棚には薬草の瓶が並び、台所にはリオナの狩りの成果が並ぶ。朝夕の水汲みと食事をともにし、それぞれの時間を過ごしながらも必ず言葉を交わす。その繰り返しが、不思議と心を温めていった。


 日々の暮らしは劇的ではない。だが、ゆるやかで穏やかに、二人の生活は確かに形を成しつつあった。



**************



森の空気は、午前の冷えをまだわずかに残しながらも澄み切っていた。

俺は薬を詰めたリュックを背負い、槍を杖代わりにして歩を進める。背中に感じる重みは決して軽くはないが、不思議と足取りは軽かった。落ち葉が積もった道は柔らかく、時折枝が足首を払う。高い樹々の隙間からこぼれる陽光がまだら模様を地面に描き、歩くたびそれが揺れては形を変えていく。


先を行くリオナは狩衣をまとい、弓を手にして静かに進んでいた。耳が小さく揺れ、森の音に敏感に反応する姿は、まるでこの土地と一体になっているかのようだ。俺がただ辺りを眺めるだけなのに対し、彼女は常に周囲に意識を張り巡らせ、獣道や風の流れすら読み取っている。


やがてリオナが横目でこちらを見た。

「ねえ、街に着いたら……セイジは何が食べたい?」


「うーん……前に市場で見かけた、大きな肉の串焼きかな。香ばしい匂いがすごかっただろ? あれを腹いっぱい食べてみたい」


「ふふ、やっぱりお肉ね」リオナはくすりと笑い、耳を小さく揺らした。

「私はね……甘い焼き菓子。蜂蜜をかけたやつ。前に行ったとき屋台で売っていたの、覚えてる?」


「ああ、丸い生地にナッツを散らしてあったやつか」

「そう、それ!」


リオナの声が少し弾み、俺まで顔が緩む。


「じゃあ今日は、串焼きと焼き菓子だな。腹ごしらえしながら布団探しに行こう」

「布団のこと、ほんとに楽しみにしてるのね」


「だって、この前作ったベッドに合わせる布団が必要だろ。リオナが寝返り打っても余るくらいのやつを」


その言葉にリオナの足が一瞬止まり、顔を赤らめて小声で言った。

「……そういう言い方するから、変に聞こえるのよ」


俺が慌てて言い訳を探すと、彼女は肩を震わせて小さく笑う。

「冗談よ。でも……楽しみね」


森の葉の隙間から街へと続く道を照らす光が差し込み、二人の笑い声は柔らかな風に乗って森の奥へと消えていった。


――小一時間ほど歩いたころ、リオナの肩がぴくりと動く。俺も息を潜めて視線を追うと、十数メートル先の茂みに草を食む鹿の姿が見えた。まだ若い個体だが、体つきはしっかりしている。


リオナは音を立てず弓を構え、矢を番える。弦を引き絞ると、森のざわめきすら遠のいたように感じた。狙いを澄ませる横顔には一片の迷いもなく、矢が放たれる。――次の瞬間、矢は鹿の急所を正確に射抜いた。


短い呻きをあげ、鹿はやがてその場に崩れ落ちる。


「……仕留めたわ」

低くつぶやいた声には、獲物への敬意が宿っていた。


彼女は矢を抜き取り、ためらいなく血抜きと解体に取りかかる。腰のナイフを抜き、手際よく腹を割く。温かい血の匂いが土に広がり、鳥たちが騒ぐ声が遠くに響いた。俺は初めて間近で見る光景に目を奪われる。命を奪うこと、その肉をいただくこと――頭では分かっていたはずのことが、胸にずしりと迫る。


リオナは淡々と作業を続けながら、低く祈りを口にした。

「恵みに感謝を。森に還るものに安らぎを」


取り出した内臓は捕食者のために木陰へ置き、心臓だけは別にして土を掘り、静かに埋める。その仕草は習慣以上のもの――森と共に生きる者の誓いのように見えた。


やがて鹿の体を布で包み、持ち運びやすく整えると、リオナは小さな笑みを浮かべる。

「姉さんのところへ持っていけるわ。これならきっと喜んでくれる」


その声音には、狩人としての誇りと家族への思いが滲んでいた。


俺は頷き、槍を横に置いて鹿肉の前に立つ。両手を開き、指先から淡い光を解き放った。


胸の奥から魔力を引き上げ、錬金術の構造を重ねる。見えない糸が幾筋も走り、鹿を囲うように編み上がっていく。淡い青白い光が瞬き、空気の揺らぎが膜となって肉を包んだ。


ひと呼吸置き、掌を押し出す。魔力が流れ込むと光の網は収束し、鹿全体を覆う透明な層へと変わる。触れればほんのり冷たく、確かな強度を持つ――時間の流れを鈍らせ、腐敗を遠ざける保存の術。


「これで街まで、新鮮なまま運べるはずだ」


振り返ると、リオナは目を丸くしてこちらを見ていた。

「……そんなことまでできるの? 肉をそのまま保存するなんて……」


驚きと感心が入り混じった声。耳がぴくりと動き、瞳が光を映して揺れる。


俺は苦笑し、肩をすくめる。

「まあ、錬金術の応用ってやつだな。薬草を腐らせない方法を、少し広げただけさ」


リオナは鹿を背負いながら、ふっと笑った。

「やっぱり、ただの薬師じゃないのね」


少し頬を赤らめ、けれどどこか誇らしげに言うその姿に、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。


森の木々は風に揺れ、梢からこぼれる光がリオナの背を照らす。その横顔は凛としていて、強く、それでいて儚さを帯びている。俺は胸の奥に、ただ敬意のような感情を抱かずにはいられなかった。


鹿の重みを分け合いながら再び歩き出すと、森の空気が先ほどより澄んで感じられる。命をいただくということの意味を、少しだけ理解できた気がした。



**************



鹿を背負い直したリオナは、どこか嬉しげに歩調を軽くしていた。普段の彼女は無駄口を叩かない方だが、このときばかりは口元が緩んでいる。


「姉さん、きっと驚くわね。これだけ立派な鹿なら、お客さんにも出せるし……姉さんと義兄さんの食卓も、しばらくは賑やかになるはず」


「そうか……それはいいな」

俺は肩にずしりと伝わる重みにもかかわらず、その言葉で足取りが軽くなるのを感じた。


リオナの姉夫婦は街で小さな食堂を営んでいる。前に訪れたとき、俺もそこで食事をご馳走になったが、あの店は昼時ともなれば常連で賑わい、温かな雰囲気に包まれていた。料理は素朴ながら滋味深く、どれも人の心を和ませるものばかりだった。俺にとっては新鮮な体験で、つい長居してしまったのを覚えている。


だが何より印象に残ったのは、リオナが姉夫婦にどれほど大切にされているかだった。姉は彼女を見る目をやわらかく細め、義兄は娘に接するような調子で笑いかけていた。あのときの光景は、血縁を超えた家族の温もりをそのまま映していた。狩りで獲った獲物を持ち込めば、看板料理としても活かされるだろう。店にとっても、家族にとっても、リオナの存在は大きな支えになっているのだ。


「……きっと、姉さん喜ぶわ」

リオナはそう言って、少し誇らしげに微笑んだ。鹿の重みで背がわずかに沈むが、その笑顔は軽やかで力強い。


俺はその横顔を見ながら、鹿の重み以上に温かなものが胸に広がっていくのを感じていた。


やがてリオナは、少し恥ずかしそうに口を開く。

「小さい頃はね、狩りから戻るたびに姉さんが待っててくれたの。獲物を見せると、すごいねって褒めてくれて……だから今でも、こうして持っていけると嬉しいの」


視線は前に向いたままだったが、耳の先がほんのり赤く染まっているのを俺は見逃さなかった。


「なるほどな……姉さん孝行ってわけだ」

「……ふふ、そういう言い方、ちょっとくすぐったいわ」


短いやり取りのあと、二人の間に心地よい沈黙が流れる。森を抜ける風は涼しく、梢を渡るざわめきが広がっていく。歩みの音と鳥のさえずりが重なり、やがて遠くに人の気配が混じり始めた。


林道の先に、瓦屋根や石造りの建物がちらりと見える。森を出た途端、商人の呼び声や子どもたちのはしゃぐ声が風に乗って流れてきた。湿った土と葉の匂いに、街独特の香辛料や焼き物の匂いが混じり合い、世界が少しずつ変わっていく。


「……着いたな」

俺が呟くと、リオナは小さく頷き、わずかに緊張した面持ちを見せた。


「まずは姉さんのところへ行きましょう。きっと、待ってる」


街へと続く坂道を下りながら、俺はリオナの背にある鹿と、その先に待つ家族との絆を思った。

彼女の暮らしの根っこに触れられることが、俺にはひどくありがたく、そして少し誇らしく感じられた。



**************



城門に近づくと、街の喧騒が耳に届き始めた。商人の呼び声、荷車の軋む音、子どもたちの元気な笑い声――森の静けさとはまるで別世界だ。舗石の道を鹿の重みを背に歩くリオナは、少し背筋を伸ばし、肩に掛かった獲物を気にしながらも、足取りは軽やかだった。


城門前で立ちはだかる衛兵に気づくと、俺は胸元の商業ギルドの会員証をそっと押さえた。金属のピンバッジが光を反射する。リオナも弓のストラップに取り付けた狩人組合の会員証に手を添える。


衛兵は鹿とリュックに目をやり、軽く眉をひそめる。

「荷物の中身を見せてもらうぞ」


俺は鹿の背を軽く押さえ、リュックの中身を整えて見せる。薬草の瓶や道具類がきちんと並び、魔法薬や保存用の薬草と分かるように小さくラベルが貼られている。衛兵は手を伸ばして中身をちらりと確認し、会員証を見た。


「なるほど、商業ギルドの会員か。道具類も適正だな」

リオナも弓の会員証を示す。衛兵は彼女の顔をちらりと見て、弓と鹿を交互に確認する。

「おお、狩人組合の証明つきか。問題なしだ」


ピンバッジを通じて信頼性が伝わると、衛兵は柔らかく笑い、門を開けてくれた。鹿もリュックも、手間を取られることなく検査が済む。森での獲物も、街に持ち込むのに問題がないことが保証されたのだ。


「さあ、これで安心して街に入れるな」

俺はリオナに小さく微笑みかけると、彼女も肩の力を抜き、少し誇らしげに鹿を背負い直した。


城門を抜けると、街の賑わいが視界いっぱいに広がる。商人や町人が行き交い、店の看板が風に揺れ、遠くからは鐘の音がかすかに聞こえる。森の静けさと街の活気が混じる空気を胸いっぱいに吸い込みながら、俺たちは鹿と薬を抱えて舗石の道を進んでいった。


「……街の空気、やっぱり違うね」

リオナが小さくつぶやく。鼻先でかすかに漂う焼き菓子やスパイスの香りに、彼女の表情がほころぶ。前に来たときの賑やかな風景を思い出しつつも、短期間でも街の空気はやはり森とは違うと実感しているようだった。


俺は肩の槍を軽く握り直し、彼女の横で歩く。重さはあるが、錬金術をかけた鹿は柔らかく抱えやすく、思ったよりも負担にならない。街のざわめきや馬車の音が、日常の賑わいとして静かに耳に届く。


「今日は姉さん、驚くかしらね」

リオナの声には期待と少しの照れが混じっている。肩にずっしり掛かる鹿の重さも、気持ちの高揚で軽く感じられるのかもしれない。


「きっと喜ぶだろうな。店に来るのを楽しみにしている顔が目に浮かぶ」

俺も自然と微笑む。街で見た姉夫婦の優しさ、リオナがどれほど大事にされているかを思い出すと、胸の奥がほっと温かくなる。


黒猫亭――リオナの姉夫婦の営む小さな食堂は、路地にひっそりと佇む。木の扉に描かれた黒猫の看板が、優しい風合いで揺れている。今日、鹿を背負ったまま街に入った俺たちは、店の正面扉ではなく、厨房につながる勝手口からそっと中へ足を踏み入れた。


「リオナ……!」

厨房から顔を出した姉マリサが、まるで待ち構えていたかのように手を振る。義兄のベルドも奥から出てきて、娘を迎えるような笑顔を向けた。


「おお、今日は鹿を背負ってきたのか?」

「そうよ、街にくる途中に森で仕留めたの」

リオナの声には少し誇らしげな響きがあった。


勝手口を通ったことで、鹿や荷物の扱いに手間取ることなく、すぐに厨房内へ運び入れることができた。ベルドも「よし、早速準備しよう」と嬉しそうに手を伸ばし、鹿を受け取るのを手伝う。マリサは手際よく包丁を握り、今日の料理の段取りを考え始めた。


姉は目を丸くし、思わず手を伸ばして鹿の重みを確かめる。

「まあ……立派ね! お客さんに出せるし、これで店の料理もずっと賑やかになるわ」

義兄も笑みを浮かべ、リオナに向かって頷いた。

「お前の腕前は変わらんな、リオナ」


リオナは肩を軽く揺らして笑う。鹿を丁寧に床に下ろし、持ってきた布を広げて体を包むと、重みは安定し、運びやすくなる。


「鹿を楽しみにしていたお客さんも、きっと喜ぶわ」

マリサはそう言って目を細める。嬉しさが声にもにじんでいた。


「ありがとうな、リオナ。森の恵みを届けてくれるなんて、本当に助かるよ。さあ、美味いもんを用意するから、食べていけ」

ベルドは嬉しそうにリオナの頭をわしゃわしゃと撫で、にっこり笑った。


俺は少し離れてその様子を眺める。リオナが家族に可愛がられ、信頼されていることが手に取るように分かる。鹿の重み以上に、心が温かく、ほっとした気持ちで満たされていった。


ベルドの声かけに、リオナは小さく頷き、俺の手を軽く引くようにして奥の席へと歩き出した。店内は昼時にしては落ち着いていて、常連客の笑い声や皿の音が柔らかく響く。奥の席にたどり着くと、リオナは椅子を引いて静かに腰を下ろした。その横に座る俺も、自然と背筋を伸ばす。


「さぁ、座って」

リオナの声は柔らかく、でもどこか嬉しそうだった。肩越しにちらりとこちらを見ると、目がきらりと光っている。普段は無口で落ち着いた彼女も、こうして姉の食堂で過ごすと少しだけ表情が緩むようだ。


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