14
翌朝、水汲みを終えた私は、狩り道具を手に取りながらも、玄関先で足を止めた。昨日は鳥も仕留めてある。今日くらいは休んでもいい。……それよりも気になるのは、青司が何をするのかだった。
居間に戻ると、彼は片隅で胡桃を割り、中の実から油を取り出していた。指先に淡い魔力をまとわせると、実の奥に潜む油分だけがすうっと引き出される。木皿に滴り落ちた油は琥珀色に透き通り、差し込む朝の光を受けてとろりと輝いている。まるで宝石を液体にしたような、美しい色合いだった。
「……また、かわったことをしてるのね」
つい声をかけると、青司は気恥ずかしそうに笑った。
「胡桃の油は乾性油なんだ。普通なら塗ってから数日置かないと固まらないけど、錬金術で酸化を早めたらどうなるか……ちょっと試してみたくてさ」
そう言うと、彼はまず作業場の掃除を始めた。床の隅に溜まった草屑や土埃をほうきで掃き出し、雑巾で丁寧に拭きあげていく。さらに小瓶を取り出し、中の液体を布に垂らした。昨日、錬金術で調合した「洗剤草の薬液」だ。
その布を木肌に滑らせると、こびりついた汚れがじわじわ浮き上がり、布にすい込まれるように消えていった。力を込める必要はなく、磨いた部分はすぐに乾き、本来の木の明るい色合いを取り戻していく。
「ほら、昨日の洗剤草が、ちゃんと役に立ってるだろ」
青司が振り返って見せた床板は、使い込まれて黒ずんでいたのが嘘のように明るくなっていた。
私は思わず尻尾を揺らす。
「あれって……洗剤草って名前なの?」
「いや、勝手につけただけさ。でも薬草のおかげで、掃除にかかる時間が半分以下になる」
彼は再び布を滑らせ、油染みも靴跡も次々と消していく。板目が陽光を反射してやわらかく光り、作業場はみるみる清々しい空気に包まれていった。木の香りに混じって薬草の爽やかな匂いが広がり、思わず深呼吸をしてしまう。
やがて掃除を終えると、胡桃油を布に染み込ませ、床に塗り広げていく。濡れ色を帯びた床にセイジが掌をかざし、魔力を流し込む。するとじんわりと木肌が温かくなり、油が空気を吸い込むように変質していった。数瞬のうちに深い色は透き通るような膜となり、木肌の上に「薄い飴色の層」が浮かび上がる。朝の光を受けて艶やかに輝く床は、まるで新しい命を吹き込まれたかのようだった。
「触ってみるか?」
促されるまま手を伸ばすと、すべすべでほんのり温かい感触が指先を包んだ。
「……すごい。不思議。木なのに、磨かれた石みたい」
驚きと感嘆が入り混じった声が自然と漏れた。
作業場だけで終えるつもりだったらしいが、その仕上がりを見た青司は考え直したらしい。居間の床も、壁も、家具の表面までも、次々と胡桃油の薄膜で覆われていく。木の香りに胡桃の甘い匂いが重なり、家中に優しい芳香が漂い始めた。
見ているだけではいられず、私は掃除用の布を手に取った。窓辺のほこりを払い、家具の角を拭き、少し黒ずんでいた棚も丁寧に磨く。青司が塗った胡桃油の上を軽くなぞると、しっとりとした温かみが伝わり、思わず頬がゆるんだ。
「セイジ、ここも少し手伝おうか?」
声をかけると、彼はにっこり笑って頷いた。
「じゃあ、こっちは任せるよ。床は俺がやるから」
家具や窓枠を拭きながら、私は彼の作業を横目に見守った。布を滑らせる動きは一つひとつ丁寧で、まるで木と会話しているように見える。魔力を流し込みながら胡桃油を硬化させていく姿は、錬金術師というよりも、木に寄り添う職人のようだった。
家全体が次第に清潔さを取り戻し、木肌は柔らかな艶を帯びていく。布越しに感じる木の温もり、漂う胡桃油の甘い香り、静かに響く作業の音。どれも心を和ませ、胸の奥がじんわりと温かくなる。
最後に布を置き、私は手を拭いながら青司の方をちらりと見た。
「……なんだか、家全体が生き返ったみたいね」
青司は満足そうに床を眺め、穏やかに笑った。
「気に入ってもらえたなら、やった甲斐があったよ」
**************
朝の掃除と胡桃油の作業を終え、家の中が新しい息吹を宿したように輝きを取り戻したあと、俺は外に出た。柔らかな陽光が森の隙間から降りそそぎ、家の周りを金色に染めている。ほんのり漂う胡桃油の甘い香りが、まだ鼻の奥に残っていて、妙に心地よかった。
壁際に立てかけてあった大木へと歩み寄り、まずは木肌に手を当てる。昨日までは濃い緑がかった色合いだったそれが、今は落ち着いた明るい木肌に変わっていた。掌を滑らせると、べたつきも湿り気もなく、さらりと乾いている。
「……うん、いい具合だ」
拳で軽く叩くと、コンコンと澄んだ響きが返ってきた。あの生木特有の鈍い音は消え、内部まで乾いている証拠だ。錬金術で水分を引き出した効果は、確かに現れている。思わず口元が緩む。
木が乾いたと分かった瞬間、胸の奥に静かな高揚が広がった。ようやく、この木を形にできる。ベッドに、棚に、暮らしを支える道具に――。この森での生活が一歩ずつ本物になっていく実感があった。
俺は作業台に大鋸を据え、木口に指先を走らせる。墨の代わりに宿した魔力で、淡い光の線を木肌に描く。寸法を示す目印が浮かび上がり、切るべき板の厚みをくっきりと導いてくれる。
深呼吸して、刃を線に沿わせる。体重をかけて鋸を引くと――。
ザクッ、ザクッ。
鋸の音は確かに木を挽くそれなのに、抵抗がほとんどない。錬金術で整えられた木目と、魔力でなぞった光の線が重なって、刃は迷うことなく進んでいく。まるで吸い込まれるように、恐ろしいほど正確に切れ込むのだ。
さらさらと乾いた木屑が舞い上がり、陽光を受けてきらめく砂のように床へ散った。湿った木を切るときの重苦しさも粘りもなく、むしろ軽快で、切り進めるごとに爽快感が広がっていく。
「……怖いくらいによく切れるな」
思わず漏れる独り言。普通なら汗だくになりながら半日かける作業が、今は手応え軽く、しかも正確に仕上がる。錬金術はあくまで薬師の技のはずだが、こうして物作りにも役立つことがある――そう思うと、小さな誇りが胸に芽生えた。
板にしては厚めに、棚用にはやや薄く。節を避け、真っ直ぐな部分を優先的に切り分けていく。額から落ちる汗を拭う暇も惜しんで鋸を引き続ける。木肌に滲んだ汗は乾いた板に吸われ、ほんの小さな染み跡だけを残した。
やがて背後から、トントントンと小気味よい音が聞こえてきた。振り返らずとも分かる。包丁がまな板を叩く音だ。ちらりと視線をやれば、居間でリオナが鳥を捌いているのが見えた。昨日仕留めてきた獲物だろう。羽根を外し、肉を切り分ける手つきは真剣そのもの。時折こちらを一瞥しては、再び黙々と調理に戻る。
……どうやら、俺の作業を見届けながら昼食を用意してくれているらしい。言葉にはしなかったが、胸の奥がじんわりと温かくなった。俺の仕事を「気になる」と思ってくれる人がいる――それだけで不思議と力が湧いてくる。
再び視線を材木に戻し、鋸を引く。俺の作業の音と、彼女が包丁を刻む音が、不思議と一つの調べのように重なり合っていた。家の外と台所――離れた場所でありながら、確かに同じ暮らしのリズムを刻んでいる。
「……いいな」
小さく呟いて、俺は再び鋸を押し込んだ。昼までに板材を切り終える――その目標だけを胸に、木の香りと、遠くで漂い始めた鳥肉の匂いに包まれながら、黙々と作業に没頭していった。
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午前の作業を終えたとき、空はもう真上から光を落としていた。
切り出した板は、厚いものから薄いものまで、用途ごとにきれいに積み重なっている。数日はかかるはずの作業を、錬金術と工夫の力で一気に片づけてしまった。腕も肩も心地よく張り、体は確かに疲れているが、妙な充実感で満たされていた。
居間に戻ると、テーブルの上に湯気を立てる皿が並べられていた。黄金色の衣をまとった鳥のもも肉が、こんがりと揚がっている。香ばしい匂いが鼻をくすぐり、空腹だった胃袋がぐう、と抗議のような音を立てた。
「おかえり、セイジ。……まったく、数日分の仕事を一気にやるなんて。腕は大丈夫?」
リオナが腰に手を当てて呆れ顔を見せる。だがその声の奥には、素直な感嘆も混じっていた。
「大丈夫さ。むしろ調子がよすぎて止まらなかった」
「はぁ……ほんとに人間なの?」
そうぼやきながらも、彼女は揚げたての唐揚げを皿に盛り直してくれる。その手際は実に鮮やかで、料理上手だと分かる。
一つ摘んでかぶりついた瞬間――カリッ、と小気味よい音が口いっぱいに弾けた。
「……うまっ!」
思わず声が漏れる。
胡桃油で揚げた衣は、軽やかなのに香ばしく、ほんのりとしたナッツの香りがふわりと鼻に抜けていく。肉はしっとりと柔らかく、口に含むと旨みの汁がじゅわっと広がる。まろやかな油の甘みが鶏肉の味を引き立てていて、ただの唐揚げとはまるで違った深い風味があった。
「胡桃の油って、揚げても重たくならないんだな。さっぱりしてるのに……肉はこんなにジューシーで」
「でしょう。 セイジからもらっておいた油、いい香りがしてたから試してみたの。正解みたいね」
リオナは嬉しそうに微笑む。普段は真剣で少し硬い表情を見せる彼女だが、今は柔らかく、どこか誇らしげだ。
俺はもう箸を止められなかった。二つ、三つと頬張り、揚げたての香ばしさと旨みに夢中で食べ進める。
「……落ち着いて食べてってば。誰も取らないわよ」
呆れ混じりに笑う声が聞こえるが、手は止まらない。木屑と汗にまみれた午前の労働で腹は底なしのように減っており、唐揚げの一つ一つが体に沁み渡っていくようだった。
「はぁ……やっぱり、頑張った人に食べてもらえるのは嬉しいわね」
リオナがぽつりと呟く。その横顔は、油で揚げた香りと湯気に包まれて、柔らかく輝いていた。
俺は最後の一切れを平らげて、深く息を吐く。
「ごちそうさま。本当に、最高だった」
「ふふ、じゃあ午後はそれを燃料にして、また頑張ってもらおうかしら」
茶化すように言うが、そこには確かに労いの色が宿っていた。
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昼食を終え、ひと息ついてから外に出ると、陽は少し傾きはじめていた。午前中に切り出した板材の山が、静かに出番を待っている。
午後の作業は――いよいよ洋服棚作りだ。
俺はまず、棚を支える側板になる二枚の長板を取り出した。立てたときに高さが揃うように、墨代わりの魔力の光で寸法線を描き、鋸を当てて切りそろえる。乾いた木はザクザクと小気味よく裂け、舞い上がる木屑はさらさらと砂のように散っていった。
次に棚板を差し込むための溝を側板に刻む。のみを当て、木槌で軽く叩くたびに木目が素直に割れ、薄片が気持ちよく剥がれ落ちる。錬金術で刃先をわずかに補助しているため、寸法は驚くほど正確だった。
「……すごい、きれいに並んでる」
背後でリオナが小声で呟く。
「手だけでやると歪むんだけど、魔力の光が目印になってくれるんだ」
答えながら、今度は棚板の端にほぞを作り、溝にぴたりと噛み合わせていく。
試しに差し込むと――カチリ、と心地よい音を立てて収まった。揺すってもびくともしない。
「……いい感じだ」
息をつきながら呟くと、リオナが近寄り、棚板を手で揺すった。
「全然ぐらつかないわ。これなら本を置いても崩れない」
「そのつもりで厚めに作ってある」
続いて衣類を掛けるための横棒を削り出す。丸鉋で角を落とし、表面を滑らかに仕上げていく。棒を指先で転がすと、すべすべと心地よい感触が返った。
「……ここにワンピースを掛けるのね」
リオナが少し頬を染めて言う。
「ああ。長さを測ってあるから、裾が床につかないはずだ」
そう答えると、彼女はほんの少し笑って、棒を指でつついて確かめた。
さらに下部には小さな引き出しを作ることにした。板を組み合わせ、底板をはめ込む。取っ手代わりに木片を削り、つまみやすい形に仕上げる。
「ここには布や小物を入れられるだろう」
「わたしの髪飾りとか……隠しておきたいものも入れられるわね」
「隠す前提かよ」
思わず笑って返すと、リオナも照れくさそうに笑った。
仕上げはやすりで棚全体を磨き、胡桃から絞った油を布に含ませて塗り広げる。しっとりと濡れ色に変わる木肌に掌をかざし、魔力を流す。じんわりと温かくなり、油が早く硬化して艶を帯びていった。
側板の上端には、余った端材で簡単な飾り細工を施す。蔓草のように曲線を描いた模様を刻むと、リオナは目を丸くして見つめた。
「……すごい。ほんとうに買った家具みたい」
「売り物になるほどじゃないさ。でも、せっかくだから目に入るたびに嬉しくなる方がいいだろ」
木の香りに胡桃油の甘い匂いが重なり、作業場は穏やかな芳香で満ちていた。
組み上がった棚は、段違いの棚板に引き出し、上部には衣服を掛けるための横棒が渡され、さらにささやかな飾りが施されている。
「……わたしのために、ここまでしてくれるなんて」
リオナが小さく呟く。
「必要なものを整えてるだけだよ。暮らしやすくしたいからな」
そう答えながらも、胸の奥には確かな達成感が広がっていた。
**************
洋服棚の枠組みが組み上がり、最後に胡桃油を薄く塗って仕上げを済ませると、俺は板の香りを吸い込みながら満足そうに息をついた。
木肌はしっとりとした艶をまとい、削り出した模様が光を受けて柔らかく浮かび上がっている。
「……さて、ちゃんと掛けてみようか」
リオナが小さく声をかける。
彼女は奥の部屋から、マリサが買ってくれたワンピースを持ってきて、そっと横棒に掛けた。柔らかな布地が棚の中に収まると、不思議と空間が「生活の場」として息づいたように見える。
「……ふぅ、いい感じ」
リオナは両手を胸の前で組みながら、少し感慨深そうに呟く。
だが、視線を横に動かすと、まだ何も掛かっていない棒の広さが目立っていた。余裕どころか、がらんと空いている。
「……ねぇ、ちょっと広すぎない?」
リオナが棚の空きを見比べながら呟く。
「うん……服が少ないからな。棚のサイズに対して寂しいくらいだ」
俺は肩をすくめて笑った。「次にリルトに行ったら、服を増やすといい。ワンピースでも上着でも、好きなのを選べばいいさ」
その言葉に、リオナの耳がぴんと立ち、顔にわずかな赤みが差す。
「……わたしが好きなの、選んでいいの?」
「ああ。せっかく棚を作ったんだ。いっぱい掛けて、華やかにしないとな」
リオナは小さくうなずきつつ、視線をちらりとこちらに向ける。
「……でも、セイジは? どんな服が好みとか……あるの?」
「え?」
思わず間の抜けた声を返すと、リオナは尻尾を揺らしてそっぽを向いた。
「べ、別に……ただ聞いただけ。だって、着るのはわたしだけど、見るのはセイジでしょ」
「……なるほど。そういう考え方もあるのか」
「からかわないでよ!」
頬を赤くして睨まれるが、その仕草さえもなんだか可笑しくて、胸の奥があたたかくなった。
「よし、じゃあ次のリルト行きは、服探しも任務だな」
俺が笑いながら言うと、リオナは少し頬を膨らませて、けれど嬉しそうに棚のワンピースを指でつまんだ。
柔らかな日差しが差し込み、洋服棚と、そこに掛けられた一着のワンピースを温かく照らしていた。広すぎるほどの余白は、これからの暮らしに増えていく彩りを予感させていた。




