13
朝の光が木漏れ日となって森の中に差し込む。小鳥たちのさえずりが静かな小径に響き、リスやウサギが枝の間を跳ねていく。森の空気はまだひんやりとしていたが、日の光で少しずつ温かさを増していた。
青司はリオナと並んで湖へ向かう道すがら、足元に生える草花へと目を配る。葉の形や茎の色を見比べ、薬草を見つけるたびにしゃがみ込んでは、丁寧に根を傷めないように採取していく。
「……それも薬草なの?」
先を歩いていたリオナが振り返り、問いかける。耳をぴくりと動かしながらも、その声音は穏やかだった。
「前に作った洗剤になるやつ。洗剤で服と床の汚れがきれいになったの覚えてるだろ?」
青司は袋に薬草を収め、立ち上がりながら答える。
リオナは「ぅん」と小さくうなずき、歩みを緩めて彼を待った。
「……そういうの、ちゃんと覚えてるのってすごいと思う。私じゃ気づかずに踏んで通り過ぎてたかも」
「まぁ、森の中じゃ資源の宝庫だからな。気づくかどうかで、生活のしやすさがだいぶ違ってくるんじゃないかな」
青司は少し照れくさそうに笑う。
リオナは前を向き、軽やかに道を進みながら言葉を続けた。
「……そういうのセイジが考えてくれるから、私も狩りに集中できそうね。ありがたいわ」
青司は一瞬きょとんとしたあと、口元をほころばせた。
「……そう言ってもらえると、やりがいがあるな」
そんなやり取りを交わしているうちに、木々の隙間から湖の光がちらりと見え始めた。朝日に照らされた水面は風に揺れ、きらめいている。
リオナは耳をぴんと立て、湖の方へと視線を向けた。
「……見て、鹿の足跡がある。セイジに水汲み任せていい?私は周りを見てくる」
「分かった。何か見つけたら声をかけるよ」
青司は袋を肩にかけ直し、湖畔へと歩を進めた。
リオナは短く頷き、軽やかに森の影へと消えていった。耳と尾は獲物を追うために研ぎ澄まされていたが、その歩みには、彼の仕事を信頼して任せる気配がにじんでいた。
湖に着くと、青司は水面を覗き込み、澄んだ水が太陽の光を反射して揺れるのを確認する。水甕を両手で抱え、丁寧に水を汲み上げる。その後、傍らの草むらで薬草を摘む。葉の色や香りを確かめながら、どれが良質かを見極めていく。
「これだけあれば、十分だな」
青司は摘んだ薬草を布袋に詰め込みながら、頭の片隅で今日の作業を考える。家に戻れば、昨日切り倒した大木を乾燥させる工程が待っている。
水甕を家に戻すと、切り出した大木を家の近くの空き地まで転がし、青司は息を整えた。周囲は森の奥とはいえ、木立が途切れた小さな空間で、陽光と風がよく通る。木材を乾かすには申し分ない場所だ。
まずは基本通りに、斧で枝の払い残しを切り落とす。鋭い音を立てて枝が飛び、青司の足元に積み上がっていく。葉はすぐに枯れ始め、幹だけがむき出しになった。次に、小さなノミとハンマーを取り出し、幹の表面を薄く削ぐ。硬い樹皮を一部剥がすことで、内部にこもった湿気が逃げやすくなる。これは木工の心得として知っていた、素朴だが大切な作業だった。
「これで風と日光はよく通る……けど、数ヶ月も待つわけにはいかないな」
木を見上げながら、青司は苦笑する。自然乾燥だけなら数ヶ月から一年はかかる。それでは森での暮らしを整えるのに時間がかかりすぎる。
青司は幹の上に掌を置き、ゆっくりと魔力を流し込んだ。淡い温かさが掌から大木に染み込み、樹木全体へと広がっていく。魔力は目には見えないが、木の中を巡る水分が細かく震え、蒸気へと変わってゆく気配が伝わってきた。
――じわり、と木肌から微かな白い靄が立ちのぼる。
それは煙ではなく、余分な水分が魔力の力で外へ追い出され、風に乗って消えていく蒸気だった。
青司は木の繊維に意識を集中させる。魔力の流れを太すぎれば木が割れる。細すぎれば乾燥が進まない。ちょうどいい流量で魔力を通すのは、呼吸を合わせるような繊細な作業だった。
「……よし、いいぞ。このままゆっくり出ていけ」
まるで木が生き物のように応える。幹の芯から水分がじわじわと表面に押し出され、乾いた音を響かせながら繊維が締まっていく。削いだ樹皮の部分からは特に湯気が濃く立ち上り、森の空気に混じって青木の香りが強く漂った。
やがて、幹の色が少しずつ変わっていく。生木特有の濃い色合いから、落ち着いた淡い木肌へ。触れれば、確かに表面が乾いているのが分かる。
青司は手を離し、肩で大きく息をついた。魔力を一定時間流し続けるのは骨の折れる作業だったが、その成果ははっきりしていた。自然乾燥なら数か月かかる工程が、一気に進んでいる。
幹の表面はさらりと乾き、軽く叩くと中まで湿りが抜けているのが分かった。これを明日まで日陰でさらに寝かせておけば、家具作りに耐えうる材木になるだろう。
「ふぅ……これはかなりの優遇みたいだな」
苦笑しながら木を眺めるうち、ふと気づいた。今の乾燥の手際――あれは薬草の処理と似ていた。薬師として授かった錬金術の技は、本来は薬草や鉱石といった素材の性質を見極め、効能を引き出すためのものだ。だが、その感覚を木材に応用することで、余分な水分を抜き、扱いやすくすることができた。
――錬金術は薬を作る技術が本筋。けれど素材を整える、性質を少し変えるといった点では、他の分野でも効果を発揮する。
青司は改めて手のひらを見下ろし、小さく息を吐いた。
「本業は薬師、だけど……こういう応用が利くなら、生活の助けにもなるな」
森での暮らしを思い返す。薬草を調合するだけではなく、家具を作り、道具を整え、時には木を乾かすことまでできる。副次的な効果に過ぎないかもしれないが、それだけで生活の質は大きく変わる。
乾いた木の香りが風に乗り、森に広がっていくのを嗅ぎながら、青司はこれから作る棚やベッドを思い描き、自然と口元に笑みを浮かべた。
「さて……次は薬作りか。リオナが戻るまでに終わらせるか」
**************
木の乾燥を終えた青司は、まずは袋を広げて湖畔で摘んだ薬草を取り出した。葉を指でちぎると、柑橘にも似たすっきりとした香りがふわりと立ちのぼる。
「よし……これは洗剤用だな」
小鍋に水を張り、薬草を入れて温める。湯気とともに爽やかな香りが漂い始め、青司は掌をかざす。魔力を通すと、水面に淡い光が走り、薬草から泡立つように成分が浮かび出た。それらは細かな粒となって液体の中に均一に溶け込み、透明なはずの水はわずかに青みを帯びた。
――きらり、と水面に光の帯が走る。
それはまるで石鹸水のようにきめ細かく泡立ち、布を浸せば汚れを吸い出す力を宿しているのがはっきりと伝わってきた。青司は小瓶に注ぎ入れ、栓をする。
「洗剤はこれで十分。……さて、次は本番だな」
家の周りに広がる草むらに目をやると、見慣れた薬草がいくつも茂っている。青司は手際よく数種類を摘み取り、作業台に並べた。
「解熱剤からいくか」
淡緑の葉を乳鉢に入れ、杵で潰す。みずみずしい香りが立つ中、魔力を注ぎ込むと、冷ややかな光が染み出すように葉から抜け出し、小瓶に吸い込まれていった。瓶の中の液体は淡い水色を帯び、ひと目で清涼感を感じさせる。
次は鎮痛剤。乾いた樹皮を削り、熱湯に落とす。苦味を含んだ香りが立ち上り、青司の魔力が加わると液面に金色の粒子が浮かぶ。それらがゆっくりと沈み込み、瓶の中に琥珀色の薬液として収まった。
傷薬は、茎から樹液を集めて調合する。魔力の渦で液体が緑と透明を繰り返し、やがてひとつに溶け合う。瓶の中で淡緑の光が脈打つたび、傷口に触れれば癒す力があるのだと伝わってきた。
最後に残った火傷用の薬草。厚みのある葉を刻み、油脂の入った鍋へ落とす。じゅっと泡立つ音とともに香ばしい香りが立ち上り、青司は掌から魔力を注ぎ込む。油脂の中に光の粒が拡散し、全体が柔らかく混ざり合っていく。
やがて火を止めると、鍋の中にはなめらかな軟膏が残った。指先ですくえば艶やかに光り、肌にすっと馴染みそうな柔らかさを帯びていた。
青司は一連の薬と洗剤を机に並べ、ふぅと息をついた。
「洗剤、解熱剤、鎮痛剤、傷薬、火傷の軟膏……うん、いい出来だ」
窓の外からは森の風が吹き込み、薬草の香りと混じって部屋を満たす。整然と並んだ小瓶の数々は、森の中での暮らしを確かに支える証のように輝いていた。
**************
夕方の陽が森の枝葉の隙間から斜めに差し込み、木漏れ日が地面に淡く揺れている。空気は昼の熱をほんのり帯びながらも、夕暮れの涼風が混ざり、肌に心地よく触れる。森の奥は静かで、鳥たちのさえずりも夕餉の前のひとときのように控えめだ。
青司は家のそばの小さな空き地に腰を下ろし、手の届く位置にある熟した胡桃を一つずつ枝から外して籠に入れていた。カリッと割れそうな硬さの殻を確かめながら、慎重に枝を揺らす。気づけば籠はすでに三杯分にも膨らんでいた。
ふと足音が近づく。葉がざわめき、リオナのシルエットが木漏れ日の中に浮かぶ。手には狩りの成果――小さな鳥とウサギを抱えていた。
「セイジ、なにしてるの?」
リオナの声に、青司は少し驚きながらも微笑んだ。肩越しに視線を送る。
「ん……まぁ、ちょっとな」
口ごもる青司の声には、計画の全貌を見せるにはまだ自信がない気配があった。籠に入った胡桃を見つめながら、少し照れくさそうに笑う。
リオナはその表情にくすりと笑い、手に持った鳥とウサギを軽く揺らした。
「ちょっとって……胡桃だけで山盛り三杯分もあるじゃない」
「うん、まぁ……うまくいくか分からないから、あんまり大々的に言えなくて」
青司は肩をすくめ、木漏れ日を受けた髪の毛に触れながら答える。その姿は、森の中に自然と溶け込んでいて、夕陽にほんのり赤みを帯びた影が揺れている。
リオナは籠を地面に置き、足元に倒れ葉を踏みしめながら近づいた。
「ふふ……でも、セイジが考えたことなら、たいていうまくいくんでしょ?」
「そうだといいんだけど……」
青司は胡桃の枝を軽く叩き、落ちてきたものを籠に入れる。籠の中でカラカラと胡桃が転がる音が、夕方の森に柔らかく響いた。
二人の間に静かな時間が流れる。枝の隙間を抜ける風が葉を揺らし、森の香りが鼻腔をくすぐる。遠くで小さな動物が跳ね、木の幹を走る。
リオナは立ち止まり、木々の合間から差す斜光に顔を照らされながら、胡桃を収める青司をじっと見つめる。その目には、夕方の森に染まる光と同じ柔らかな色が宿っていた。
青司は籠の重みを確かめ、ふと視線を上げる。リオナの耳が少しピクピク動いているのに気づき、にやりと笑う。
「……それにしても、狩りの成果もすごいな」
そう言うと、リオナは少し得意げに胸を張った。
「リオナがいると、森での生活が豊かになるな」
青司の言葉に、リオナは小さく鼻を鳴らして照れた。耳が少し赤く染まり、尾をゆらゆら揺らす。
森の奥に夕暮れが深く差し込み、影が長くなる。青司とリオナはそれぞれの籠を抱えながら、静かに森の小径を歩き、家へと帰っていった。
**************
竈に小さな炎を灯し、ぱちぱちと薪のはぜる音が響く。鉄鍋に油を落とすと、じゅっと熱が走り、立ちのぼる香ばしい香りに思わず耳がぴくりと動いた。切り分けたウサギ肉を放り込み、香草と一緒に炒めると、肉汁が油と混ざって濃い匂いを立てる。私は木べらを動かしながら、台所に満ちていくその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
ちらりと居間に目をやる。そこではセイジが低い机に胡桃の山を広げ、真剣な顔つきで作業に没頭していた。分厚く硬い殻に手をかけると、彼は指先に淡い光のような魔力をまとわせる。力任せに叩き割るのではなく、殻のつなぎ目に沿ってするりと魔力を流し込む。すると、ぱきん、と軽快な音を立てて殻が裂け、中からふっくらとした胡桃の実が無傷のまま現れる。
普通なら石で叩いて粉々にしたり、殻ごと火にかけたりしてようやく取り出せるものなのに――。私はつい感心して声をかけた。
「ねえ、それ……すごいじゃない。胡桃って、すごい硬いのに」
セイジは少し手を止め、照れくさそうに笑った。
「魔力を少しだけ流すと、殻と実の間に隙間ができるんだ。実を傷つけずに取り出せるから、案外楽なんだよ」
「ふぅん……ずいぶん便利なのね」
わざと素っ気なく返したけれど、本当は舌を巻いていた。薬作りだけでなく、こんな細工までこなしてしまうなんて。
木べらで鍋を混ぜながら、ふと思いつく。炒めている肉の香りに、あの胡桃の香ばしさを加えたらきっと旨味が広がるはずだ。私は顔を上げて声をかけた。
「ねえ、セイジ。その胡桃、少し使わせてもらっていい? せっかくだし、このソースに混ぜたら美味しくなると思うの」
セイジは目を丸くしたあと、にこっと笑って頷いた。
「もちろん。いくらでもあるぞ。むしろ食べてもらえる方が嬉しい」
そう言って、割ったばかりの実を木皿に載せ、こちらまで持ってきてくれる。その手にはすでに十数粒の胡桃がきれいに並んでいた。
私は受け取りながら、小さく笑ってみせた。
「ありがと。これなら殻のかけらが混ざる心配もないし、安心して使えるわ」
胡桃を細かく砕いて鍋に加えると、じわりと香ばしい匂いが広がり、炒めた肉と香草の香りと混ざり合った。鼻先をくすぐる芳ばしさに、思わず尻尾の先が揺れる。
その間も居間からはぱきん、ぱきんと軽やかな音が響き続け、セイジの指先が次々と実を取り出していく。夕暮れの森から忍び込んだ薄橙の光が、居間の机の上に置かれた胡桃の山と、台所の鍋の湯気をやわらかく照らしていた。
こうして、森の奥の家は今日もまた温かな夕餉の準備に満たされていった。




