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 街の門を抜けたところで、石畳は途切れた。


 踏み慣れた土の感触が、靴底を通して戻ってくる。

 それだけで、胸の奥に溜まっていたものが、少しずつほどけていくのが分かった。


 背後では、街の気配がまだ残っている。

 人の声。

 荷車の軋み。

 遠くで鳴る鐘。


 だが一歩、また一歩と進むたび、

 それらは確実に、遠ざかっていった。


「……やっと、ね」


 隣を歩くリオナが、小さく息を吐いた。

 外套の裾を押さえながら、森の方角を見る。


「うん」

 青司は短く答えた。

「思ったより、長かった」


 それは道の距離の話ではない。

 リオナも、それを分かっている。


 森の縁に近づくにつれ、空気が変わる。

 土と葉の匂い。

 湿り気を含んだ冷たさ。

 街ではもう感じられなくなっていた、夜の気配。


「……朝晩、冷えるでしょうね」

 リオナが、ふと思い出したように言う。


「エリンも、同じこと言ってた」

 青司は苦笑した。

「上着、ちゃんとある?」


「あるわ。公爵夫人からのものだから、汚しそうで怖いけど」

 リオナは頷く。

「毛布も、干さないといけないわね」


 その言い方が、あまりにも自然で。

 “帰る場所”という言葉が、いつの間にか、二人の間で違和感なく使われていることに気づく。


 森に入ると、道はさらに静かになった。

 月明かりが枝葉の隙間から落ち、地面に斑を描く。


 足音だけが、二人分。

 それが、心地いい。


「……本当に、休んでいいの?」

 しばらくして、リオナが聞いた。


「何が?」


「色々、あったし」

「街の人も、商会も、騎士団も……」


 青司は、少し考えてから答えた。


「うん。休む」

 はっきりと。

「大仕事は、終わったから」


 リオナは、それ以上聞かなかった。

 理由を求める声でも、引き留める声でもない。


 ただ、隣を歩き続ける。


「休暇、ということにしておこう」

 青司が、半ば冗談めかして言う。


「……長めの?」

 リオナの声に、わずかな笑みが混じる。


「長めの」

 青司も、頷いた。

「森の空気が、身体から抜けなくなるまで」


 木々が深くなり、道は細くなる。

 二人の家が見える場所まで、あと少し。


 ふと、リオナが足を止めた。


「セイジ」


 呼ばれて、青司も立ち止まる。


「……ちゃんと、帰ってきたね」


 言葉は、それだけだった。

 確認でも、感情の吐露でもない。


 事実の提示。


「うん」

 青司は、短く答えた。

「約束は、してないけど」


 リオナは、少しだけ笑った。


「それで、十分よ」


 再び歩き出す。


 家の輪郭が、闇の中に浮かぶ。

 灯りはない。

 だが、確かに“ある”。


 扉を開けると、森の冷えた空気が中に流れ込む。

 同時に、干した薬草の匂いが、ふわりと広がった。


「……ああ」

 青司は、思わず声を漏らした。

「これだ」


 リオナは、静かに頷く。


 街では、守るべき線が引かれた。

 制度の中で、責任が整理された。


 だが、ここには――

 何もない。


 保証も、肩書きも、評価もない。

 あるのは、朝の霧と、冷える夜と、

 今日やることを、自分で決められる時間だけだ。


「しばらくは、何もしない」

 青司が言う。


「……本当に?」

 リオナが、少しだけ首を傾げる。


「何もしない、は無理だな」

 青司は苦笑した。

「でも、急がない」


 リオナは、それで納得したらしい。


「じゃあ」

 そう言って、荷を置く。

「まずは、お茶を淹れるわね」


「いいね」


 火を起こし、湯を沸かす。

 それだけのことが、やけに大事に思えた。


 森の夜は、静かに深まっていく。


 だがこの家の中では、

 ようやく時間が、正しい速さで流れ始めていた。


 大仕事を終えた者に与えられた、

 誰にも管理されない、長い休暇として。



 夜明け前、森はまだ眠っている。


 焚き火の灰に残る微かな熱が、青司の足裏に伝わった。

 外套を羽織り、桶を手に取る。


「行く?」


 声をかけると、リオナはすでに起きていた。

 髪をひとつにまとめ、簡素な上着を羽織っている。


「うん。朝の水は冷たいけど、澄んでるから」


 二人は並んで、森の奥へと歩く。

 獣道はまだ露を含み、踏みしめるたびに草が小さく鳴った。


 泉は、小さな岩場の下にある。

 夜の冷気を抱えたままの水が、静かに湧いている。


 青司が桶を沈めると、指先がじんと痛んだ。


「冷えるな……」


「だから朝は好き」

 リオナが笑う。

「森が、一番正直な時間だから」


 桶が満ちる音を聞きながら、二人はそれ以上話さなかった。

 言葉がなくても、朝は進む。



 戻ると、リオナは弓を手に取った。

 狩に出る支度だ。


「夕方には戻るわね」

「無理はしないで」


「そっちもね。片付け、忘れないで」

 リオナは軽く頷き、森の影に溶ける。


 青司は、家の裏手に回る。

 乾かしていた薬草を確認し、棚を整え、作業台を拭く。


 今日は、基礎的な仕込みの日だった。


 油を温め、香草を刻み、蝋を溶かす。

 肌用の軟膏、美容用のクリーム。

 香りは抑えめに、効能重視。


「……街向けだな」


 独り言が落ちる。

 だが、森で作ると、どうしてもそうなる。


 薬も同じだ。

 傷薬、解熱剤、胃を落ち着かせる粉末。

 派手さはないが、確実に効くもの。


 火を弱め、瓶に詰める。

 作業は淡々としているが、無駄がない。


 昼近く、リオナが戻ってくる。

 小型の獣を一体、肩に担いでいた。


「今日はこれだけ」

「十分だ」


 二人で解体し、干し肉にする分を分け、残りは夕食用に回す。

 手際は、もう説明もいらない。



 そんな日が、数日続いた。


 朝は水汲み。

 昼はそれぞれの仕事。

 夕方は火を囲み、簡単な食事。


 夜は、特別なことはしない。

 道具の手入れをし、必要な話だけをする。


 静かで、満ちている。


 だが――


 青司は、次第に落ち着かなくなっていった。


 手を動かしているのに、

 どこか、余白が残る。


「……何か、足りないな」


 ある夕方、そう呟いた。


 リオナは、暖炉に枝を足しながら言う。


「忙しかったからじゃない?」

「街にいた時」


「それもある」

 青司は頷く。

「でも、それだけじゃない」


 言葉にできない感覚だった。


 休んでいるはずなのに、

 止まっている気がしない。



 翌日、青司は倉の奥から荷を引っ張り出した。


 羊毛と魔石

 北部伯爵家からのものだが、まだ手を付けていなかった。


 そして――

 グリフィンの素材。


 羽毛。

 皮。

 脚鱗。

 爪の一部。


 布の上に広げ、指で触れる。


「……やっぱり、違う」


 羊毛は素直だ。

 撚れば応える。


 だが、グリフィンの羽毛は、

 軽さの中に、反発がある。


「防寒性、断熱、耐風……」

 独り言が増えていく。


 布として使うには難しい。

 だが、混ぜればどうだ。


 リオナが、そっと覗き込む。


「何か作るの?」


「まだ、分からない」

 青司は正直に言った。

「でも……触らないでいる方が、落ち着かない」


 リオナは、少しだけ笑った。


「それ、セイジらしい」


 青司は苦笑する。


「休むの、下手だな」


「ううん」

 リオナは首を振る。

「生きてる、って感じ」


 青司は、素材に視線を戻す。


 森は静かだ。

 争いも、呼び声もない。


 それでも、

 彼の手は、次の形を探し始めていた。


 ――まだ知らないところで、

 世界が動き出していることを、

 彼は、知らないまま。


 だがそれでいい。


 今はただ、

 森で息をし、

 手を動かす時間だった。




**************



 東へ向かう軍列の中で、フィオレルは何度も自分の荷を確かめていた。


 鞍袋。

 革箱。

 内側に仕込んだ、小瓶の数。


「……足りる、はず」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 だが、胸の奥はずっと落ち着かなかった。


 まさか、本当に従軍することになるとは思っていなかった。

 正確には、中央軍への随行――

 それが、自分に与えられた任務だったはずなのだが。

 内政局の政務官であり、外交官である自分が、

 戦場に立つ理由など、本来どこにもないはずだった。


 数日前。

 急報が王都に届いた。


 王国東の隣国エラルドが、これまでとは明らかに異なる規模で、侵攻を開始した。

 東部伯爵領が正面から受け止めているが、戦線が広すぎる。


 中央軍への援軍要請。

 大将として名が挙がったのは、将軍家の嫡男。


 若い。

 だが、実戦経験もあり、何より名門の誇りを背負っている。


 そして――

 その話を聞いた瞬間、フィオレルは理解してしまった。


「……これは、怪我人が出る」


 しかも、軽傷では済まない。


 だから、慌てて青司を探した。


 街。

 商会。

 どこにもいない。


 結局、伝言とともに薬だけを受け取った。

 傷回復薬、解毒薬、止血粉。


 青司は、いつも通りだった。


『使うことになるなら、迷わず使ってください』


 それだけ。


 だが、その言葉の重みを、

 フィオレルは今、嫌というほど噛みしめている。



戦場


 戦闘は、想像よりも早く始まった。


 隣国エラルド軍は、もはや小競り合いではなかった。

 歩兵、騎兵、魔術支援――

 完全な侵攻軍。


「大規模……!」


 土煙が上がり、叫び声が重なる。

 空気が、血と鉄の匂いに変わる。


 フィオレルは後方にいた。

 だが、負傷者は容赦なく運ばれてくる。


「こちらも!」

「止血が追いつかない!」


 叫びながら、手を動かす。

 包帯、粉、回復薬。


 青司の薬は、効いた。

 驚くほど、確実に。


「……なんだ、この回復は」

 誰かが呟く。


 だが、感心している暇はなかった。


 そして――

 戦況が、急変した。


「大将が前に出た!」


 嫌な叫びが聞こえる。


 次の瞬間、轟音。

 魔術の衝撃。


 フィオレルは、嫌な予感に息を呑んだ。



 大将は、敵陣突破を狙われた。


 その瞬間――

 東部伯爵が、馬を躍らせた。


「下がれ!!」


 叫び声。

 刃が交差し、衝撃が弾ける。


 伯爵は、前に出た。

 大将を庇い、致命の一撃を自ら受けた。


「伯爵が――!」


 その一瞬の隙で、大将は救われた。

 だが、完全ではなかった。


 遅れて飛んだ一撃が、

 大将の脇腹を抉った。


 倒れる。

 血が、止まらない。


「こちらへ!」

 フィオレルは叫び、駆け寄った。



 重傷だった。


 顔色が、すでに死に近い。


「……間に合わない?」


 手が、震えた。


 だが――

 迷う暇はなかった。


 瓶を開ける。

 薬を傷に流し込む。

 迷わず、もう一本を口へ流し込む。


 次の瞬間、

 信じられないほど血が止まった。


「……っ!?」


 皮膚が、塞がっていく。

 完全ではない。

 だが、生きる。


「……生きてる」

 誰かが呟いた。


 フィオレルは、膝が崩れそうになるのを必死で堪えた。


「青司……」


 心の中で、名前を呼ぶ。



 戦は、最終的に押し返した。


 犠牲は大きかった。

 だが、守り切った。


 後日。

 仮設の天幕で、大将はフィオレルを呼んだ。


「……命を、救われた」


 静かな声だった。


「差し支えなければ、聞きたい、

 この薬を作った者は、誰だ」


 フィオレルは、正直に答えた。


「森にいる薬師です。

 名は、セイジ」


 大将は、目を閉じた。


「東部伯爵は、我が命の恩人だ。

 そして、あなた方は、その命を繋いだ」


 一拍。


「この恩は、返す」


 大将は、はっきりと言った。


「我が家は、もはや東部伯爵家を切り離しては語れぬ」


「娘は、伯爵子息に

 ――時期は、落ち着いてからで構わん。

 拒むなら、それも受け入れる。

 それが、あの男への弔いだ」


 婚約。

 それは、血と責任の約束だった。


 政治でも、打算でもない。


 命を返すための、決断。


 フィオレルは、深く頭を下げた。


 だが、胸に浮かんだのは、別の思いだった。


 ――森で、何も知らずに暮らしているだろう、あの男。


 戦場を変えたのは、

 彼の剣でも、声でもない。


 ただ、

 誰かを生かすと決めた薬だった。


 そしてその薬は、

 またひとつ、国の運命を繋いでしまった。


 フィオレルは、遠くを見る。


「……本当に、厄介な奴だな」


 そう呟きながら、

 それでも、どこか誇らしかった。



**************



 王の執務室は、夜になると静寂が深まる。

 昼間は儀礼と報告で満ちている空間も、今は暖炉の火と、重厚な机だけがそこにあった。


 王は椅子に腰掛け、書類の束を一つ閉じる。

 その向かいに立つのは、宮内局長――アルフォンス・ヴァルディエ伯爵。


「……そろそろだな」


 王が、何気ない口調で言った。

 だが、アルフォンスはすぐに内容を理解する。


「王子殿下の婚約の件でございますね」


「他に、何がある」


 短い応答。

 それだけで、十分だった。


 アルフォンスは、手にしていた覚書に目を落とす。


「年齢、家格、政治的距離――」

「いずれも条件に合う令嬢は、数名おります」


「聞こう」


 王は、急かさない。

 だが、待たせもしない。


「まず、内政局長伯爵令嬢イザベル様」

「家柄は堅実、本人も聡明。王城の仕組みに慣れております」


「無難だな」


「はい。無難すぎる、とも言えます」


 王は、小さく鼻を鳴らした。


「次は?」


「第一騎士団副団長令嬢、リリィ様」

「軍との結びつきは強く、将来を考えれば有力です」


「軍に寄りすぎるのは、好ましくない」


「同感でございます」


 アルフォンスは、淡々と続ける。


「北部伯爵令嬢、メリンダ様」

「地方有力、だが中央から距離がありすぎない」

「政治色はあるが、前に出すぎない」


 王は、そこで少しだけ考えた。


「……あの家は、静かだな。

 北の大国の防波堤としても、 

 余計な声を上げずに機能している」


「はい」

「動かぬからこそ、危うくも、安心でもあります」


 しばし、沈黙。


「他には」


「中央軍将軍家の孫娘は、東部戦線の際に御子息が命を救われたとのことで、東部伯爵家の新当主と婚約を結ばれております」


「その件は、すでに承諾している。

 ……どちらにしても、惜しいものよ」


「そして、大神殿長の姪が一人。

 血縁としては申し分ありませんが――」


「宗教に寄りすぎる」


「はい」


「却下だ」


 即断だった。


「他に」


「王都商業ギルド長の娘」

「正確には、ロマーヌ公爵夫人の孫にあたります」


 王は、少しだけ眉を上げる。


「……面白い位置だな」


「ええ。ただ」

「王妃としての格式、政治的象徴性を考えると」

「今は、時期ではないかと」


「だろうな」


 王は、深く息を吐いた。


「候補は揃っている」

「だが、決める必要はまだない」


「はい」


「ただし」

 王は、視線を上げる。

「北部伯爵家の名は、覚えておけ」


 アルフォンスは、静かに頭を下げた。


「承知いたしました」


 そのやり取りは、淡々としていた。

 だが確かに、王国の未来に触れていた。



 その頃、北部伯爵家は、いつも通りだった。


 朝は冷え込み、午後には風が強くなる。

 使用人たちは冬支度の相談をし、執事は備蓄の確認に追われている。


 「今年は、雪が早そうね」


「そうだな。薪を多めに用意させよう。

 ……備えは、早いに越したことはない」


 伯爵夫人は、少しだけ視線を庭に向けた。


「東は、荒れているそうね」


「ああ。だからこそ、こちらは動かぬ方がいい」


 それ以上、話は続かなかった。


 王城で名前が挙がったことなど、

 誰も知らない。


 ――知る由も、ない。


 この家は、そういう距離感で、長く北を治めてきた。



 メリンダは、庭の東側で立ち止まっていた。


 咲き終えた花の枝を見つめ、

どこを剪定すべきか、思案している。


 指先が、自然と東向きに伸びる。

 花の跡は多く、枝振りも悪くない。

 それでも、迷いなく鋏を入れた。


 乾いた音。


 落ちた枝を一度だけ見て、視線を戻す。


 次に手が止まったのは、幹に近い中央の枝だった。

 まだ芽は硬く、今年はもう花をつけない。


「……ここは、春まで残してもいいかしら」


 誰に聞くでもなく、独り言。


 東側はすっきりと刈られ、

 中央だけが、静かに残った。


 春まで残す、という言葉だけが、

 なぜか胸に残った。


 頭の中にあるのは、

 舞踏会でも、婚約でもない。


 冬越しの庭。

 春に咲かせる花。

 それから――


「次は、どんなお茶会にしましょう」


 少し、楽しそうに呟く。


 王城の思惑も、知らない。


 ただ、自分の生活の延長にある、

 小さな予定を思い浮かべているだけだった。


 その無自覚さが、

 かえって、王家の目に留まりつつあることなど――


 この時の彼女は、まだ知らない。


 北の風が、庭を抜ける。

 季節は、静かに次へ進んでいく。

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