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 賑やかな笑い声が、しばらく天幕の中に満ちていた。


 グミの包みはいつの間にか中央の小皿へ移され、色とりどりの小さな菓子が、宝石のように並んでいる。

 誰かが取るたびに、軽い驚きと感想が弾み、そのたびに空気が少しずつ和らいでいった。


 やがて――

 話題は、自然と“人”へ移っていく。


「……でも」

 シャルティーが、ふと扇子を閉じた。

「こうして集まると、殿方の話が出てくるのも、仕方ありませんわね」


「出ました」

 マイズが、くすっと笑う。

「お決まりの流れです」


「だって、もうそういう年頃でしょう?」

 シャルティーは悪びれず、けれど少しだけ照れたように言った。

「私、先日、婚約者と肖像画を交換したんです」


「まあ!」

 メリンダが目を丸くする。

「もう?」


「はい。正式には、まだ少し先ですけれど」

 そう言って、シャルティーは胸元に手を当てた。

「毎週、一通ずつ、お手紙もやり取りしていますの」


 声は落ち着いているが、その表情には確かな期待が滲んでいる。


「作柄の話とか?」

 マイズが半分冗談めかして聞く。


「最初は、そうでしたけど……」

 シャルティーは少し頬を染めた。

「最近は、王都の季節の話とか……絵の話とか」


「それ、もう立派に仲良しじゃない」

 メリンダが笑う。


「いいなあ……」

 マイズは、カップをくるりと回しながら肩をすくめた。

「私は、肖像画を見た瞬間に、断ろうかと思いました」


「えっ」

「そんなに、でしたの?」


「悪い人じゃないんでしょうけど」

 マイズは、はっきりと言った。

「……なんというか、

 肖像画では、頭の上が少し寂しそうに見えて」


 率直な言葉に、皆が一瞬黙り、すぐに小さく笑った。


「大事ですわ、それ」

 シャルティーが真面目に頷く。

「一生の話ですもの」


 その流れで、ふっと視線が一方向に集まる。


 ――リオナ。


「……?」

 リオナは、カップを持ったまま瞬きをした。


「リオナさんは?」

 シャルティーが、柔らかく聞く。

「どんな殿方がお好みですの?」


「えっ」


 一拍。

 完全に、不意打ちだった。


「え、ええと……」

 視線が泳ぐ。


「ほら」

 マイズがにやりとする。

「さっきから、“セイジ”さんってお名前、何度も出てきてますし」


「そうですわね」

 メリンダも、どこか楽しそうに頷いた。

「とても大事な方、という感じでした」


「……あ……」

 リオナは、言葉を探すように、膝の上で指を組む。


「だ、大事では……あります」

 正直に答える。

「すごく、助けてもらっていて……」


「まあ」

「まあまあ」


 揃って、意味ありげな声が上がった。


「どういう方なんですの?」

 シャルティーが、興味津々で身を乗り出す。


「……森にいる人、です」

 リオナは、少し考えてから言った。

「静かで……必要なことは、ちゃんと考えてくれて……」


「優しい?」

「……はい」


 その一言で、完全に火がついた。


「それはもう」

「決まりでは?」


「いえっ!」

 リオナは、慌てて首を振る。

「そ、そういう話では……あの人がどう思っているのか……」


 けれど、否定の仕方がどこか弱い。


「お二人でお出かけになられたりとかは?」

 シャルティーが楽しそうに聞いてくる。


「王都の中を少し散歩とか」


「まぁ、それは、お手はつなぎになりましたの?」

 マイズが、皆が聞きたいことを聞いてくる。


「……人が多かったので」


「それは、ねぇ……

 セイジさんも、そういう方ですのよね?」


 メリンダが微笑ましく笑う。


「森にいるときは、どのようにお過ごしなのかしら?」

 マイズは全く想像できない様子で聞いてくる。


「色々私のために作って、散らかして、私に言われて片付けて。

 私は狩に出かけて、食事を作って」


 言ってから、リオナは少しだけ首を傾げた。

 ――あれ?

 改めて口にすると、ずいぶん生活じみている。


「まぁ、それってご一緒に暮らしていらっしゃるってことですわよね」


「え?」

 リオナは目を瞬かせる。


「もう、御結婚されてましたの?」

 二人の視線が、同時にリオナに注がれた。


「けっ、結婚なんてしてません!」


「じゃあ、どういうご関係?」

 冗談めかした声とは裏腹に、二人とも答えを待つ目をしていた。


「……」

 リオナは、言葉に詰まった。


「……大切な人、です」

 小さな声だったが、はっきりしていた。


 一瞬、静まり返り、

 次の瞬間、ぱっと空気が弾ける。


「まぁ……!」

「それはもう……!」


「よろしいじゃないですか」

 そこで、メリンダが柔らかく微笑んだ。

「皆さん、人はそれぞれですもの」


 その様子を穏やかに見渡してから、ふっと視線を空に向ける。


「……私は、どんな方と婚約するのかしら」


 独り言のようなその声に、二人がすぐ反応する。


「王子殿下」

 シャルティーが、さらりと言う。


「中央軍の将軍家、公爵家のご子息」

 マイズが続ける。


「それか……今は少し、難しいかもですけど、

 東部伯爵家の――」


「ちょっと待って」

 メリンダは、思わず苦笑した。

「恐れ多すぎるでしょう」


「でも、可能性はありますわ」

 シャルティーは真顔だ。


「伯爵家ですもの。それに、最近は社交界でも噂にあがってますわ」

 マイズも肩をすくめる。


 メリンダは、困ったように笑いながらも、

 どこか悪い気はしていない様子だった。


「……まあ」

 カップに口をつけてから、ぽつりと言う。

「そういう未来も、あるのかもしれませんわね」


 天幕の下に、また柔らかな笑い声が広がる。


 その輪の中で、リオナはただ、少しだけ落ち着かない気持ちで微笑んでいた。


 森の静けさとは、あまりにも違う世界。

 けれど――


 この場所で、彼女の名前が、

 彼女の“誰かと繋がる可能性”が、

 ごく自然に話題に上るようになっている。


 それが、何を意味するのかを、

 リオナ自身は、まだ知らない。


 お茶会は続く。

 笑い声と、甘い香りとともに。


 静かに、回り始めていた



**************



夜の野バラ亭は、昼とはまるで別の顔をしていた。


 表通りの喧騒が引いたあと、店内には控えめな灯りと、低く抑えた話し声だけが残る。

 壁際のランプが揺らす影が、木の床にゆっくりと流れ、時間そのものが緩んでいるようだった。


 奥の席で向かい合っているのは、青司とクライヴの二人だけだ。


 テーブルの上には、湯気の立つマグが二つ。

 だが、どちらもまだ口をつけていない。


「……まず、無事で何よりです」

 最初に口を開いたのは、クライヴだった。

 声は静かだが、そこに含まれている安堵は隠しきれていない。


「王城の空気は、重かったでしょう」


「すごくね。けど、命をとられるとかそういうんじゃないから」

 青司は短く頷いた。

「正直、こんなに注目されるなんて思ってなかった」


 冗談めかした言い方だったが、クライヴは笑わなかった。


「笑い事ではありません」

「ですが――」


一度、言葉を切る。


「“線は越えていない”」

 そう、確認するように言った。

「少なくとも、今日の時点では」


 青司は、そこで初めてマグに手を伸ばした。

 一口飲み、ゆっくりと息を吐く。


「そう。向こうも、それを分かっていて話していました」


「局長も、騎士団も?」


「はい」


クライヴの眉が、わずかに動く。


「それは……随分と、慎重ですね」


「慎重というより」

 青司は少し考えてから言った。

「試している、という感じだよ」


「……でしょうね」


クライヴは苦く笑った。


「局長は、最初から“回収できない善意”に警戒しています」

「騎士団は、“現場で役に立つ善意”を手放したくない」


どちらも理解できる。

だが、理解できるからこそ、厄介だった。


「それで?」

 クライヴが視線を上げる。

「セイジさんは、どう答えましたか」


 青司は、すぐには答えなかった。


 マグを置き、指先で縁をなぞる。

 それは、考えを整理するときの癖だった。


「……全部は、話していません」

「ただ、“前には出ない”ということと」

「“商会を窓口にする”ということだけは、はっきり伝えました」


 クライヴは、小さく息を吐いた。


「それで、納得しましたか?」


「完全には」

 青司は正直に言った。

「でも、理解はされたと思います」


「それなら、十分です」

 クライヴはそう言い切った。


「制度側が一番嫌うのは、曖昧なまま善意だけが流れることです」

「線を引いた、という事実があれば」

「あとは、こちらの問題です」


 その言い方は、まるで自分の役割を再確認しているようだった。


「……押し付けた形になってしまったよな、すみません」

 青司がぽつりと言う。


「いいえ」

 クライヴは首を振る。

「これは、商会の仕事です」


 そう言ってから、少しだけ声音を落とした。


「それに」

「セイジさんが前に出ないなら」

「私が、前に立つだけです」


 その言葉に、青司は思わず苦笑した。


「大変ですよ?」


「慣れています」


 即答だった。


 そのとき――

 控えめな足音が、二人の会話に重ならないように近づいてきた。


「……お待たせしました」


 振り返ると、そこにリオナが立っていた。


 昼間の庭園とは違い、落ち着いた色合いの外套に身を包み、髪も簡素にまとめている。

 だが、その表情には、どこかまだ昼の余韻が残っていた。


「お茶会は?」


「はい、無事に」

 リオナは小さく頷いた。

「……色々、ありましたけど」


 その「色々」に、二人ともそれ以上突っ込まなかった。


 クライヴが席を立ち、自然な仕草で椅子を引く。


「どうぞ」

「冷えたでしょう」


「ありがとうございます」


 リオナは座り、テーブルの二人を交互に見た。


 空気が、少し違う。

 冗談を言う前の、静かな緊張がある。


「……何か、ありましたか?」


 遠慮がちだが、察しはいい。


「まあ」

 青司が答えた。

「でも、今すぐ困る話ではありません」


 その言い方に、リオナはそれ以上踏み込まず、ただ頷いた。


 しばらく、何気ない話が続く。

 お茶会の雰囲気。

 グミがどれほど盛り上がったか。

 美容品の話題で、どれだけ話が膨らんだか。


 だが、それは前置きだった。


 やがて、クライヴが静かに席を外す。


「少し、厨房の様子を見てきます」

「……お二人で」


 それが配慮だと、二人とも分かっていた。


 足音が遠ざかり、再び静けさが戻る。


「……セイジ」

 リオナが、先に口を開いた。


「王城での話」

「私にも、関係ある?」


 青司は、一瞬だけ目を閉じた。


「ある…な」

 だが、はっきりと言った。

「直接じゃない。でも、無関係でもない」


 リオナは、膝の上で手を重ね、静かに聞いている。


「今日、言われたんだよ」

 青司は、王城でのやり取りを、できるだけ噛み砕いて話した。

「善意は、武器になる」

「一度差し出すと、引っ込められなくなる」


 リオナの指が、わずかに動いた。


「だから、俺は条件を出した」


「条件……?」


「そう」

 青司は、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「森を手放さないこと」

「呼び出される立場にならないこと」

「当然のように、頼られないこと」


 淡々とした説明だった。


「困っている人がいたら、考える」

「でも、それが義務になる場所には、立たない」


 話しながら、青司はふとリオナを見た。


 彼女は、難しい話を理解しようとする顔ではなかった。

 ただ、自分の生活に引き寄せて聞いている顔だった。


「……今の暮らしを、大事にしたい」


 青司は、ゆっくりと言った。

 それは、誰かに向けた言葉というより、自分自身に言い聞かせているようだった。


「それを壊す条件なら」

「どんな話でも、受けないつもりです」


 一拍。


「森での生活は、不便ですし」

 少しだけ、苦笑が混じる。

「危ないこともあるし、何も保証はありません」


 それでも、と言葉を続ける。


「朝起きて、空気を吸って」

「今日やることを、自分で決められる」

「……あれが、俺には合っている」


 リオナは、黙って聞いていた。

 口を挟まず、視線も逸らさず。


「だから」

 青司は、そこで一度言葉を探すように間を置いた。

「何があっても、森には帰るつもりです」


 断言だった。

 だが、その先は言わない。


 誰と、とは。

 どういう形で、とは。


 沈黙が落ちる。


 リオナは、すぐには顔を上げなかった。

 膝の上で指を重ね、小さく息を整える。


「……森に」

 ぽつりと、呟く。


 それから、ほんの少しだけ視線を上げた。


「ちゃんと、帰ってきてくれるなら」


 それ以上は続かなかった。

 “一緒に”とも、“待っている”とも言わない。


 ただ、その言葉には、

 帰ってこない可能性を、静かに拒む響きがあった。


 青司は、その意味を理解して、

 それでも、あえて受け取らないふりをする。


「……ええ」

 短く、そう答える。

「帰れます」


 それだけで、十分だった。


 リオナは小さく頷き、

 それ以上、何も言わなかった。


 二人の間に流れた沈黙は、

 重くもなく、軽くもない。


 名前を呼ばないまま、

 約束をしないまま、

 それでも、同じ方向を向いている――


 そんな沈黙だった。


「難しいことは、よく分からないけど」

「セイジが、帰ってくる場所は森にあるわ」


 青司は、思わず息を吐いた。


「……ありがとう」


 その声は、王城で見せたどんな顔よりも、素直だった。


 少し離れた場所で、クライヴはその様子を見ていた。

口は挟まない。

 だが、その選択が正しかったことだけは、はっきりと理解していた。


 野バラ亭の夜は、静かに更けていく。


 政治も、制度も、権力も――

 この卓の上には、もうない。


 残っているのは、

 森へ帰る道と、

 それを守ろうとする、ささやかな線だけだった。





**************



 レオンハルトの執務室は、夜になると余計な音をすべて吸い込む。


 分厚い書棚。

 重い机。

 壁に掛けられた地図と、簡素な燭台。


 豪奢さよりも、整理と沈黙が支配する空間だった。


 レオンハルトは机の脇に立ったまま、書類を一枚閉じる。

 その動きが終わるまで、オズワルドは何も言わなかった。


「……さて」


 ようやく、レオンハルトが口を開く。

 椅子に腰を下ろすこともなく、窓の外――夜の城下を一瞥した。


「どう思う」


 問いは短い。

 だが、内容が限定されていないのは、互いに分かっている。


 オズワルドは、ゆっくりと息を吐いた。


「面倒な男だ」

 率直だった。

「だが……嫌いじゃない」


 レオンハルトの口元が、わずかに動く。

 笑みとも、皮肉ともつかない。


「お前が、そこまで言うのは珍しい」


「現場を知っているだけだ」

 オズワルドは、壁に寄りかかる。

「欲がない人間ほど、扱いにくい」


「同感だ」


 レオンハルトは、机に指先を置いた。


「彼は、制度を理解している」

「しかも、かなり正確に」


 一枚の書類を指で叩く。


「前例の危険性」

「善意が義務に変わる過程」

「個人が前に出ることの脆さ」


 淡々と並べてから、少し声を落とす。


「……それを理解した上で、あえて制度の外に立つ」


 オズワルドが、低く唸った。


「普通は、どこかで欲が出る」

「地位か、保証か、名声か」


「だが彼は、どれも選ばなかった」

 レオンハルトは、静かに言った。

「選んだのは、“距離”だ」


 沈黙。


 窓の外で、遠く鐘の音がひとつ鳴った。


「森、か」

 オズワルドが呟く。

「逃げ場所としては、最悪だ」


「だからこそだろう」

 レオンハルトは頷く。

「逃げる気がない」


 机に置かれた地図――リルト周辺の森を示す部分に、視線を落とす。


「彼は、中央に寄らない」

「だが、拒絶もしない」


「線を引く、というやつか」

 オズワルドが言う。


「そうだ」

 レオンハルトは肯定した。

「しかも、その線は感情ではなく、生活から引かれている」


 一拍。


「これは、強い」


 オズワルドは、少し意外そうに眉を上げた。


「高く評価しているな」


「警戒している、と言い換えてもいい」

 レオンハルトは、あっさりと言った。

「壊そうとしても、壊れない類だ」


「縛ろうとすれば、消える」

 オズワルドが続ける。


「利用しようとすれば、線を引かれる」

 レオンハルトが受ける。


 二人は、同時に小さく息を吐いた。


「厄介だな」

「実に」


 短い同意。


 しばらくして、オズワルドが口を開く。


「……リオナ、という娘のことは?」


 レオンハルトは、一瞬だけ考えた。


「名前しか知らん」

 正直な答えだ。

「だが――」


 言葉を切る。


「彼の“線”の内側にいる」

「それだけで、十分だろう」


 オズワルドは、ゆっくりと頷いた。


「現場の人間は、そういうものを信じる」

「理由より、置き方だ」


 レオンハルトは、ふっと息を吐いた。


「彼が守ろうとしているのは、善意ではない」

「暮らしだ」


 書類から手を離し、初めて椅子に腰を下ろす。


「国家にとって、最も扱いづらいものだ」


「だが」

 オズワルドは、静かに言った。

「最も、裏切られにくい」


 その言葉に、レオンハルトは否定しなかった。


「第三騎士団としては?」

 問いが投げられる。


「囲い込まない」

 即答だった。

「距離を保つ。

 必要な時に、声が届く程度でいい。

 そのための相談役だ」


「欲張らない、と」

 レオンハルトの頬が緩む。


「欲張った時点で、終わる」

 オズワルドは、少しだけ笑った。

「そういう男だ」


 レオンハルトは、机に肘をつき、指を組む。


「……森にいる、知恵者、か」


「本人が聞いたら、嫌な顔をするだろうな」


「それでも、事実だ」


 二人の間に、静かな納得が落ちた。


「壊さない」

 レオンハルトは、低く言った。

「利用もしない。

 距離を守る。

 ……それが、最善か」


「少なくとも、今はな」


 窓の外、城下の灯りが揺れている。


 レオンハルトは、それを見つめながら、ぽつりと呟いた。


「……森を選ぶ者が、ここまで厄介だとはな」


 オズワルドは、肩をすくめた。


「だから、森を選んだんだろう」


 夜は、まだ深い。


 だがこの静かな執務室で、

 ひとつの判断が、確かに固まりつつあった。


 ――あの男は、近づけすぎてはいけない。

 だが、遠ざけてもいけない。


 それが、

 レオンハルトとオズワルドが共有した、

 唯一にして、十分な結論だった



**************



数日後の後日談


 書類の束に視線を落としながら、ラシェルは羽根ペンを走らせていた。

 いつも通りの午後。

 いつも通りの申請。

 いつも通りの保証審査。


 ――の、はずだった。


「ホヅミ商会の件ですが」


 書記官の声に、ラシェルは顔を上げる。


「保証人が二名、追加されました」


「二名?」


 その時点で、少しだけ眉が動いた。

 商会保証は通常三名。

 慎重な商会では、登録時にさらに数名を申請することもある。

 だが“追加”という言い方は、珍しい。


「はい。……こちらです」


 差し出された書類に、目を落とす。


 一人目の名前を見た瞬間、

 ラシェルのペン先が、紙の上で止まった。


「……は?」


 思わず、声が漏れる。


 肩書き。

 署名。

 印章。


 見間違いではない。


「第三騎士団長、オズワルド・フォン――」


 顔を上げる。


「これは、どういう冗談?」


「冗談ではありません」

 書記官は即答した。

「本人が、こちらに」


「……本人?」


 嫌な予感が、ゆっくりと背中を這い上がる。


「では、二人目は?」


 半ば確認するように聞いて、

 ラシェルは二枚目の書類に視線を落とした。


 そして――


 今度は、完全に沈黙した。


 レオンハルト・ヴァルクス侯爵。

 あの名を、ここで見るとは思っていなかった。


 書類を置き、静かに息を吐く。


「……保証金は?」


「こちらです」


 音。


 金貨が、卓上に置かれる乾いた音。


 一袋。

 そして、もう一袋。


 ラシェルは、無言で数え始める。


 一枚。

 二枚。

 三枚――


 途中で、数を止めた。


「……規定額を、超えているわね」


「はい」

 書記官は、少しだけ声を落とした。

「双方、同額です」


 同額。


 それが、何よりも異常だった。


 保証額を競うつもりもない。

 牽制でもない。

 ただ、揃えてきた。


「理由は?」


 ラシェルの問いに、書記官は一瞬、言葉を選んだ。


「……“商会を前に出すため”と」


 ラシェルは、目を伏せた。


 理解してしまったからだ。


 個人を守るのではない。

 英雄を持ち上げるのでもない。

 前に立たせないために、

 後ろから、制度で囲った。


「……なるほど」


 思わず、小さく笑ってしまう。


「本人は、知っているの?」


「いいえ。おそらく」


 でしょうね、と心の中で答える。


 大人と呼ぶには、まだ早いあの男は、そういう人間だ。


 知らないところで、

 勝手に価値を積まれ、

 勝手に守られることを、

 たぶん、好まない。


 だが――


「受理します」


 ラシェルは、はっきりと言った。


「形式上は、通常の商会保証として処理して」

「特記事項は、私の判断で伏せる」


「よろしいのですか?」


「ええ」


 商業ギルド長としてではなく、

 一人の“制度の管理者”として。


「これは、脅しでも、介入でもない」

「責任の所在を、こちらに置いたというだけ」


 ペンを取り、署名する。


 その手は、もう止まっていなかった。


「……まったく」


 最後に、独り言のように呟く。


「森の薬師が、

 ついに国家中枢二人分の保証を背負うことになったのね」


 だが、その口調に、呆れはなかった。


 むしろ――


「厄介で」

 小さく笑う。

「だからこそ、守りがいがあるわね」


 金貨は、静かに袋に戻された。


 だが、ラシェルには分かっている。


 今日、ここに積まれたのは、

 金ではない。


 線を越えなかった男のために、

 線の内側に立つ者たちが引き受けた“責任”だ。


 それを理解できる者は、

 この部屋にいる人間だけで十分だった。

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