107
野バラ亭の朝は、王都にしては穏やかだった。
通りに面した窓から差し込む光はやわらかく、石畳を行き交う人々の声も、まだ控えめだ。
昨夜の食堂の賑わいが嘘のように、宿の廊下には静けさが満ちている。
セイジは部屋の小さな机に向かい、前日の整理しきれなかった帳面を眺めていた。
数字を追っているはずなのに、意識はどこか上の空だった。
――王城。
――財務局。
――北部。
昨日耳にした言葉の断片が、頭の奥で絡まっている。
そのとき、控えめなノックが廊下から響いた。
「……はい」
扉を開けると、宿の主人ではない。
淡い色合いの衣をまとった若い女官が、背筋を正して立っていた。
「野バラ亭にご滞在の、リオナ様はいらっしゃいますか」
名を呼ばれたのは、ちょうど隣の部屋から出てきたリオナだった。
寝起きの髪を軽くまとめた姿で、少し驚いたように目を瞬かせる。
「はい……私です」
女官は一礼し、丁寧に言葉を選ぶように続けた。
「ロマーヌ公爵夫人より、お伝えするよう仰せつかっております。本日午後、伯爵令嬢メリンダ様のお茶会へのお招きがございます」
その瞬間、リオナの呼吸がわずかに止まった。
「……今日、ですか?」
「はい。身支度とお召し物につきましては、公爵夫人の邸にてすべて整えるように、と」
女官は穏やかに微笑む。
「『細かいことは気にせず、行ってらっしゃいな』と」
言葉は優しい。
けれど、その裏にある意味を、リオナは直感的に理解していた。
――断る、という選択肢は用意されていない。
視線が、思わずセイジの方へ向く。
セイジは何も言わず、ただ静かに頷いた。
「……行っておいで」
それだけで、十分だった。
「ありがとうございます」
リオナは女官に頭を下げる。
そして小さく息を吸い込んで、覚悟を決めたように笑った。
「……行ってきます」
「リオナ、これ」
リルトで今、銘菓と呼ばれ始めているリオネのグミだった。
女官に先導され、階段を下りていくリオナに小さな包みを手渡す。二人で少し視線を合わせる時間だけがあった。その後、足音が、次第に遠ざかっていく。
残された廊下に、再び静けさが戻った。
――その直後だった。
今度は、宿の入口の方から、はっきりとした足音が響く。
革靴。軍務に近い、無駄のない歩き方。
食堂に出ると、そこには紋章入りの外套を羽織った男が立っていた。
「ホヅミ商会のセイジ殿か」
呼びかけに、セイジは背筋を伸ばす。
「王城財務局より参った。至急、お話がある」
周囲の客たちが、さりげなく視線を逸らす。
“至急”という言葉が、この呼び出しの性質を物語っていた。
「……分かりました」
返事をしながら、胸の奥がわずかに重くなる。
昨日の会話が、はっきりと形を持って追いついてきた。
――避けられない。
外へ出ると、朝の光が一段と強く感じられた。
王城の方向を示すように、石畳が続いている。
その背中を、誰かが呼び止めた。
「セイジさん」
振り返ると、クライヴが宿の入口に立っていた。
手には、一通の封書。
「今朝届きました。……北部からです」
封蝋には、見覚えのある紋章が押されている。
「バルドリック・ルンドヴァル伯爵から、正式な招待状」
クライヴは苦笑混じりに言った。
「“お話ししたいことがある”。随分と丁寧な言い回しです」
それが意味するところを、二人とも理解していた。
――商人として。
――選ばれる側として。
「……そっちも来たか」
セイジは短く息を吐いた。
「同じ朝に、三方向からとはね」
クライヴは封書を軽く叩く。
「派手な偶然だ」
「偶然じゃない」
セイジは首を振る。
「全部、繋がってる」
少しの沈黙。
クライヴは肩をすくめ、いつもの商人の顔に戻る。
「じゃあ、行ってきます。北は北で、話を聞かないと」
「ああ」
セイジも頷く。
「無理はしないように」
「それはお互い様ですよ」
二人は、それぞれ別の方向へ歩き出す。
王城へ向かう道。
北部伯爵の待つ屋敷へ向かう馬車。
そして、公爵夫人の邸へ向かったリオナ。
同じ朝。
同じ宿を出た三人が、互いの姿を視界から失っていく。
王都の空は、どこまでも晴れていた。
――けれど、この日を境に、
三人の立つ場所は、確かに変わり始めていた。
◆
朝の光が、ロマーヌ公爵夫人の館の一室に柔らかく満ちていた。
白いカーテン越しの淡い陽射しが、磨き上げられた床に細かな模様を描いている。
リオナは、少し居心地の悪い気持ちで鏡の前に立っていた。
「腕を少し上げてくださいませ」
「はい……」
女官の声に従いながら、言われるがままに身を預ける。
肩から滑るようにかけられた布は、いつもの狩人の服とはまるで違った。厚手でもなく、動きやすさを重視したものでもない。それなのに、ひどく軽く、柔らかい。
袖を通すたび、布が肌に触れる感触に、無意識に指先が強張る。
(……変な感じ)
窮屈というわけではない。
だが、身体の輪郭が、いつもよりはっきりと意識される。
腰の位置。
背筋の伸び具合。
歩いたときの裾の揺れ。
森では考えたこともなかった感覚が、一つひとつ、静かに押し寄せてくる。
子爵家別邸で用意してくれていた服とも違う――
あれは“客や身なりの良い街娘”としての装いで、
今は、場の一部として整えられている気がした。
それが誇らしいのか、少し怖いのか――
まだ、自分でもはっきりとは分からない。
「とてもお似合いですよ」
背後からかけられた言葉に、リオナは少しだけ肩をすくめた。
「……そうでしょうか」
「ええ。猫人族の方は、姿勢が自然に美しいですから」
褒め言葉だと分かっていても、どう返していいのか分からず、曖昧に笑う。
鏡の中には、確かに自分の顔があった。けれど、そこに映る姿は、どこか少しだけ“知らない自分”だった。
髪は丁寧に整えられ、耳元の毛並みもきれいに撫でられている。
簡素だが上質なドレスは、色味を抑えながらも、リオナの肌と瞳に不思議とよく馴染んでいた。
(……私、こんな格好で、お茶会なんて……)
胸の奥が、そわそわと落ち着かない。
違和感と一緒に、わずかな高揚が、否定できずに混じっている。
そこへ、静かな足音が近づいた。
「支度は済んだかしら?」
ロマーヌ公爵夫人が、扉口に立っていた。
いつもと変わらぬ穏やかな微笑み。その視線が、リオナの姿を一度、ゆっくりと確かめる。
「あら……とてもいいわ」
その一言に、胸の奥がふっと軽くなる。
「緊張しているでしょう?」
「……少しだけ」
正直に答えると、公爵夫人はくすりと笑った。
「それでいいのよ。初めての場で、何も感じない方が不自然だわ」
そう言って、そっとリオナの肩に手を置く。
「今日は“きちんと振る舞う”ことより、“楽しむ”ことを覚えてきなさい」
その声音は、指示ではなく、励ましだった。
「メリンダ様も、きっと喜びますよね」
「ええ。あの子、あなたに会えるのを楽しみにしていたわ」
少し間を置いてから、公爵夫人は微笑みを深める。
「行ってらっしゃいな、リオナ」
「あなたはあなたのままで大丈夫よ」
その言葉が、胸に静かに落ちる。
「……はい」
リオナは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
そして、小さく頷く。
馬車に乗り込む頃には、心臓の鼓動はまだ早かったが、不思議と足取りは軽くなっていた。
◇
お茶会の会場となる伯爵家の庭園は、王都の喧騒から切り離されたような静けさに包まれていた。
手入れの行き届いた芝生。花壇に咲く季節の花々。白い天幕の下には、すでに茶器が整えられている。
案内されて歩く途中、リオナは何度か深呼吸をした。
(……大丈夫。公爵夫人も言ってた)
視線を上げた、その先。
「あ……!」
先に気づいたのは、向こうだった。
「リオナさん!」
淡い色のドレスに身を包んだメリンダが、嬉しそうにこちらへ駆け寄ってくる。
その表情を見た瞬間、胸に溜まっていた緊張が、音を立ててほどけた。
「メリンダ様、ご招待いただき、ありがとうございます」
リオナは声をかけてから軽く会釈をする。
「来てくださって、本当に嬉しいです!
けど、様はおやめください。
せっかくお年の近いお友達ができたと思っているのですから。
私のことは、“メリンダさん”で呼んでください。私も、リオナさんとお呼びしたいです」
両手を胸の前で重ね、少し息を弾ませながら言うその様子は、昨日と変わらない。
いや、むしろ、今はさらに明るく見えた。
「……わかりました。メリンダさん」
リオナは思わず、そう口にしていた。
「ありがとうリオナさん、嬉しいわ。でも、そのお洋服とても素敵ね」
メリンダは素直に言う。
「そのお洋服……すごく似合ってます」
褒められると、やはり頬が熱くなる。
「ありがとうございます……メリンダさんも、とても綺麗です」
「本当? 嬉しい! ファンデーションとリップのおかげかも」
二人の間に、さっきまでの緊張が嘘のように、自然な笑顔が交わる。
同じ十六歳。
育った場所も、歩んできた道も、何もかも違うはずなのに。
こうして向かい合うと、不思議と距離を感じなかった。
「さあ、どうぞ。お席はこちらです」
女官に促され、二人は並んで歩き出す。
布の裾が揺れるたび、リオナは少しだけ足取りを意識した。
けれど、隣にいるメリンダの存在が、それを支えてくれる。
(……来てよかった)
まだ始まったばかりのお茶会。
けれどその一歩目は、確かに、リオナ自身の足で踏み出したものだった。
**************
財務局本庁舎の奥、厚い扉の前で足を止めたとき、青司は小さく息を吐いた。
昨日も来たはずの場所だ。だが今日は、空気が違う。
扉の向こうにいる“人数”を、音ではなく気配で感じ取ってしまう。
「……失礼します」
名を告げると、内側から扉が開かれた。
足を踏み入れた瞬間、青司は反射的に背筋を伸ばしていた。
広い室内。中央には重厚な机。
その奥に座るのは、財務局長レオンハルト・ヴァルクス侯爵。
そして――机の手前、腕を組んで立っている大柄な男。
第三騎士団長、オズワルド・シュタインベルク侯爵
昨日、審査会で見た顔。
だが今は、鎧を脱ぎ、軍人としてではなく“圧”そのものとしてそこに立っている。
さらに視線を巡らせて、青司はわずかに目を見開いた。
壁際には、数名の財務局員。
そして、奥の席に――
「……フィオレル子爵」
思わず小さく声が漏れる。
リルト街の領主。
ホヅミ商会の後見人。
フィオレルは小さく頷き、表情を崩さない。
ここでは“味方”でも“庇護者”でもない、政務官の顔だ。
「来たか、セイジ殿」
最初に声をかけたのは、オズワルド侯爵だった。
低く、よく通る声。
命令ではないが、拒否も想定していない調子。
「急な呼び出しですまない」
「いえ……」
青司は一歩進み、促されるまま立ち位置につく。
――座らせないのか。
その事実だけで、ここが“商談”ではないと分かる。
「単刀直入に聞こう」
オズワルドは前置きを切り捨てた。
「先日、我が第三騎士団に納品された装備。
そして、現場で使われた回復薬。
それらは、すべて君の用意したものだな?」
一斉に視線が集まる。
青司は一瞬だけ考え、素直に答えた。
「はい。装備は契約通りですし、薬は……作っていただけです」
レオンハルトの眉が、わずかに動いた。
「なぜ、持ち込んだ?」
「ええ。フィオレル子爵様のところと一緒に作っている分で……
給付扱いになると聞いていましたし。
それに、軍の現場ではいつ何があるか分かりませんので、手土産のつもりで持参しました」
青司は、悪いことを言っている自覚はなかった。
実際、その通りなのだ。
「“給付”か」
レオンハルトは低く繰り返した。
「……制度の外側だな。給付の提案はフィオレル卿、そなただな?」
「はい、私が後見している商会の利益を守るための措置です」
フィオレルは静かに応えた。
「同時に、軍需物資として正式に編入されれば、
商会も、現場も、過度な負担を負うことになります。
その調整を避けるための、現時点での最善策でした」
「結果として、命が助かった」
オズワルドが一歩、前に出る。
「教会の治癒が届く前に、だ」
その言葉に、室内の空気がさらに張り詰める。
「感謝している。あの場にいた騎士も、だ」
そこで、ほんの一拍置いてから続けた。
「だからこそ、話がある」
青司は、無意識に喉を鳴らした。
「第三騎士団として――
今後も、君の協力を仰ぎたい」
それは命令ではなかった。
だが、拒むことを想定していない声だった。
「装備、薬、その他必要な物資。
有事の際、優先的に相談に乗ってほしい」
青司は目を瞬かせる。
――それだけ?
「できることなら、ですけど……」
言いかけた、その瞬間。
「待て」
鋭く遮ったのは、レオンハルトだった。
椅子から立ち上がり、机に手を置く。
「その言い方は誤解を招く、オズワルド卿」
青司は、思わずレオンハルトを見る。
「セイジ殿」
今度は、はっきりと名を呼ばれた。
「君は今、自分が何を求められているか、分かっているか?」
「……困った時に、手を貸す、という話では?」
正直な答えだった。
室内が、一瞬、静まり返る。
レオンハルトは深く息を吸い、吐いた。
「――それが、一番危険なんだ」
青司は、言葉の意味を掴めないまま、ただ立ち尽くしていた。
**************
王都北区、石造りの伯爵邸は、午前の光を受けて静かに佇んでいた。
門をくぐった時点で、クライヴは理解していた。――これは急な呼び出しではない。用意された訪問だ。
名を告げると、応接ではなく、そのまま執務棟へ案内された。
絨毯の厚み、廊下の静けさ、行き交う使用人の足取り。そのどれもが整いすぎている。
(……歓迎が、丁寧すぎる)
商人の勘が、そう告げていた。
重厚な扉の前で、従者が一礼する。
「バルドリック・ルンドヴァル伯爵閣下。ホヅミ商会より、クライヴ様です」
「通しなさい」
低く、落ち着いた声。
扉が開く。
執務室は広かった。だが、誇示するような豪奢さはない。
机の上は整然と書類が積まれ、壁には北部の地図と、王国全図が並べて掛けられている。
伯爵は立ち上がらなかった。
だが、そのまま座っていることで、対等ではないことだけははっきりと示している。
「遠路ご苦労だった、クライヴ殿」
「お招きにあずかり、光栄に存じます」
深く一礼しながら、視線だけで伯爵を観察する。
年齢は壮年。体躯は細身だが、無駄がない。
机に置かれた手は、よく鍛えられている。
(戦場を知っている人間だな)
「まずは、座りなさい」
促され、クライヴは椅子に腰を下ろした。
椅子の高さも、背もたれの角度も、客用としては完璧だ。
「君の働きは、聞いている」
伯爵は前置きもなく言った。
「王都での商い。
そして、我が北部への先行納品。――装備の出来も、良い」
「ありがとうございます。現場で使われるものですから」
「うむ。無駄がない」
それだけ言って、伯爵は一枚の書類を机から引き抜いた。
「まず、確認しておこう。
我々が先に発注した装備一式――二百組。
納期は、当初の約定通りで問題ないな?」
「現時点では、予定通りに」
即答はしない。だが、否定もしない。
伯爵は満足そうに頷いた。
「ならば、追加だ」
淡々と告げる。
「五百組。
可能な限り、早く」
数字が、空気に落ちる。
クライヴは眉一つ動かさなかったが、内心では即座に計算していた。
材料、人手、輸送。――どれも簡単な量ではない。
「……北部の備えを、急がれているのですね」
「そうだ」
伯爵は、北部の地図に視線を向けた。
「国境の向こうが、静かすぎる。
動く前ほど、静かなものはない」
それ以上は語らない。
だが、それで十分だった。
「無論、こちらも誠意は示そう」
伯爵はそう言って、別の書類を差し出す。
「水と氷の魔石だ。
品質は保証する。量も、必要な分を回そう」
クライヴは、内心で息を飲んだ。
(魔石供給……)
金ではない。
だが、装備生産の要となる資源だ。
「条件、というわけではない」
伯爵は静かに言う。
「君たちが動きやすくなるだけだ。
北部に付けば、商会が困ることはない」
“利益”という言葉は、最後まで出てこなかった。
クライヴは、そこでようやく小さく笑った。
「……ありがたいお話です」
だが、すぐに言葉を続ける。
「ただ、即答はできません」
伯爵の目が、わずかに細くなる。
「理由は?」
「商会の決定権は、私にありません」
クライヴは、はっきりと告げた。
「最終的な判断は――商会長が行います」
その瞬間。
伯爵の視線が、ほんの一瞬だけ、鋭さを増した。
「……そうか」
短い沈黙。
やがて、伯爵は椅子に深く背を預けた。
「君は、忠実だな」
「はい」
クライヴは微笑む。
「それが、私の商いです」
伯爵は、それ以上追及しなかった。
代わりに、何気ない調子で言う。
「今日は、王都も慌ただしいようだな」
クライヴの指が、わずかに止まる。
「財務局も、騎士団も――動いていると聞く」
伯爵は、ふと書類から視線を上げた。
「そういえば――」
まるで思い出したような口調だった。
「今日は、娘が友人を連れてきていたな」
クライヴの背筋が、わずかに強張る。
「昨日、王都で知り合ったそうだ。
気取らない娘だが、ああして誰かを連れてくるのは珍しい。しかも昨日の今日だ」
伯爵は、それ以上詳しくは語らない。
名前も、立場も、何も。
ただ、静かに続けた。
「……人の縁とは、不思議なものだ」
その言葉が、会話の終わりを告げていた。
(……同時か――もう、盤上に置かれている)
胸の奥で、歯車が噛み合う音がした。
青司。
王城。
そして、自分。
別々に呼ばれているが、同じ一手の中だ。
「偶然とは――面白いものだ」
伯爵は、笑っていない。
クライヴは、その視線を真正面から受け止めた。
「現時点でできることは、いたします」
静かに言う。
「ですが――確約はできません」
「構わん」
伯爵は即答した。
「選ぶのは、君たちだ」
それは、許可でも、猶予でもなかった。
選別を始めたという宣言だった。
クライヴは、深く一礼する。
「本日は、貴重なお時間をありがとうございました」
扉を出る直前、背後から声がかかる。
「――クライヴ殿」
「はい」
伯爵は、書類に視線を落としたまま言った。
「そういえば……あの娘は、連れて帰らないのか」
一瞬。
クライヴの中で、空気が張り詰める。
「いいえ」
即座に、しかし丁寧に答えた。
「今は、一番安全な場所におりますので。
どうぞ、楽しんでいただければと」
伯爵の手が、わずかに止まった。
「ほう」
「こちらに、正式な客として招かれておりますので」
クライヴは伯爵の目を見て少し微笑んだ。
「……安全かと」
短い沈黙の後、
伯爵は小さく息を吐いた。
「……そういうことか」
廊下に出た瞬間、クライヴは小さく息を吐いた。
(……なるほど)
善意は、確かに危険だ。
だが、丁寧すぎる好意は、それ以上に。
そして今日、三人は別々の場所で、
同じ問いを突きつけられている。
――どこに立つのか。
クライヴは歩きながら、すでに答えの半分を掴んでいた。
選ばれないこと。
選ばせないこと。
それこそが、今の商会にとっての、生き残り方なのだと。




