106
王城の一室。日差しが柔らかく差し込む中、ロマーヌ公爵夫人の私室にリオナは控えめに足を踏み入れた。長い絨毯の上を歩くたび、柔らかな光に包まれる室内には、貴族の香水と花の匂いが漂っている。
「いらっしゃい、リオナ」
公爵夫人は優雅に微笑み、手元の香炉に煙を立たせながら声をかけた。
「ご招待いただき、ありがとうございます」
リオナは少し緊張した面持ちでお辞儀をする。
「さあ、座って。紅茶はローズの香りでよろしいかしら?それともベリーに?」
「ローズでお願いします」
椅子を勧められ、リオナは小さくうなずき席に着く。
公爵夫人の隣には、バルドリック伯爵夫人とその娘のメリンダが座っていた。
伯爵夫人は伯母である公爵夫人に、娘の社交界デビューについて相談を終えたばかりで、その表情はどこか晴れやかだった。
「リオナ、あなたを紹介しておきましょう」
公爵夫人が軽く手を振る。
リオナは一瞬戸惑いながらも、にこやかに一礼した。
「最近、話題のホヅミ商会の子ですのよ。私のお気に入りなの」
公爵夫人が楽しげに付け加えると、メリンダが興味深そうに身を乗り出す。
「こちらは私の姪のニコレット。北部地域を治めるバルドリック伯爵夫人よ」
そう言ってから、そっと視線を娘へ移す。
「そして、ニコレットの娘のメリンダ」
「ホヅミ商会の方は、先日領地までいらしてくださったのよ」
伯爵夫人が頷きながら言った。
「クライヴ……という方だったかしら。美容品や化粧品を持ってきてくださって」
「あら、あの方でしたら、私のところにもいらしたわね」
公爵夫人が微笑む。
「リオナからも化粧品を頂きましたでしょう?嬉しかったですよ」
「喜んでいただけてよかったです」
リオナがぱっと表情を明るくする。
「私もよ」
メリンダが少し身を乗り出した。
「お母様に買ってもらえて、ファンデーションとチーク、それに色付きのリップ」
指折り数えながら、メリンダが弾んだ声で続けた。
「どれもとっても良くて……鏡を見るのが、前よりずっと好きになったの」
その言葉に、伯爵夫人と公爵夫人が顔を見合わせ、静かに笑みを交わした。
室内の空気が、少しだけ和らぐ。
「ねえ……あなたとセイジさんの関係はどうなのかしら?」
ロマーヌ公爵夫人が、軽く眉を上げて尋ねる。その声は柔らかいが、確かな関心が含まれていた。
リオナは少し赤くなり、顔を手で覆いかける。
「え、えっと……その……どうとは、どういうことでしょうか」
聞かれると青司の顔が思い浮かび、身体が熱くなり、どう答えてよいか迷う。
メリンダが肩を揺らし、興味津々に小さな声で囁く。
「ねえ、教えてよ、リオナさん。セイジさんってリオナさんの恋人なの?」
伯爵夫人も微笑んで頷く。
「ふふ、ここは女だけですから殿方に話しが漏れることはありませんわ。ただ、好きな方がいらっしゃるの?」
リオナは少し息を整え、勇気を出して答える。
「えっと……セイジとは、……一緒に街や森で活動したり……その、仕事仲間というか……」
「あら、それだけ?」
公爵夫人が柔らかく笑う。その笑みにリオナの肩の力が少し抜ける。
「まあ、かわいらしいではありませんか」
伯爵夫人が娘に向かって言う。
「メリンダ、こういう子がそばにいるのもいいでしょう?」
メリンダも笑みを浮かべる。
「うん、うちだとみんな年上の方ばかりだもの」
「でも、仕事以外ではどうなの?」
ロマーヌ夫人がじっとリオナの目を見つめる。
リオナは一瞬照れ笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「一緒にいるとホッとできる人なんですけど、恋人とかそういうのじゃなくて、まだ、そういうことは……ちょっとわからないです」
「いいなぁ……リオナさん、恋してるんですね」
メリンダにそう言われたリオナの顔はますます染まってしまう。
「恋してる」という言葉が胸の奥で小さく跳ねた。
それを否定する理由も、肯定する言葉も、まだ見つからない。
「ふふ、今はそれでいいのよ、ね」
公爵夫人は満足そうに微笑む。その横で伯爵夫人も、娘の未来を思い浮かべるように穏やかに微笑んだ。
――そのときだった。
伯爵夫人が、ふと思いついたように娘を見た。
「ねえ、メリンダ。今度のお友達とのお茶会に、リオナさんもお誘いしたらどうかしら」
メリンダは一瞬きょとんとしてから、ぱっと表情を明るくする。
「いいの? リオナさん、来てくれる?」
「え、私が……?」
リオナは思わず目を瞬かせた。
伯爵夫人は穏やかに微笑む。
「ホヅミ商会とつながりのある方でしたら、皆さんきっと嬉しいでしょうし……それに、気取らず話せる方が一人いるのは、初めてのお茶会には心強いものですから」
その言葉に、公爵夫人もくすりと笑う。
「ふふ、確かに。リオナは場の空気を和ませるのが上手ですものね。あなたには安心して私に相談してほしいけれど、年の近い娘との交流も良いものよ。色々な人の話しを聞くことで、セイジさんとのこれからのことも、よく感じてみるといいわ。自然に見えてくるものがあるかもしれないわね。」
「はい」
リオナは小さく頷く。
窓から差し込む午後の光が、四人の表情をやわらかく照らしていた。
公爵夫人と伯爵夫人、メリンダの間で、自然と恋愛や婚約話の話題に花が咲き、リオナは純粋にそれを楽しむ。初めて触れる貴族社会の空気に、戸惑いながらも好奇心を膨らませていた
◆
ロマーヌ公爵夫人の私室を辞し、長い回廊を歩き出すと、窓からの光が石床に淡く伸びていた。
人払いされた静かな通路で、メリンダは母の隣を少しだけ後ろに下がって歩く。
しばらくして、伯爵夫人がふと足を緩めた。
「……どうだった? リオナさんは」
問いかけは柔らかく、探るような響きではない。
メリンダは一瞬考えてから、正直な言葉を選んだ。
「不思議な方でしたわ」
そう前置きして、少しだけ微笑む。
「猫人族で、森で狩りをして生きてきた方だと聞いて……もっと強い方なのかと思っていました。でも」
「でも?」
「とても自然で……一緒にいると、こちらまで肩の力が抜けるような」
自分でも意外に思いながら、言葉を続ける。
「気取らないのに、失礼にはならなくて。ああいう方もいらっしゃるのですね」
伯爵夫人は満足そうに頷いた。
「そう感じたのなら、それが答えよ」
軽く扇子を閉じながら、穏やかに言う。
「社交界には、言葉や作法ばかりを身につけて、中身を忘れてしまう方も多いもの。リオナさんは……生き方そのものが、整っているのでしょう」
「……はい」
メリンダは小さく返事をした。
「お茶会にお誘いしたのも、間違いではなかったわね」
母は歩き出しながら、さりげなく続ける。
「あなたにとっても、良い出会いになると思うわ」
メリンダはそれ以上は答えず、ただ頷いた。
やがて母と別れ、自室へ戻る途中。
一人になった瞬間、胸の奥に残っていた感覚が、ゆっくりと形を持ち始める。
――森で暮らしてきた少女。
――商会の人と肩を並べて歩く少女。
同じ十六歳なのに、まるで違う世界を生きてきたはずなのに、
あの笑顔には、どこか懐かしさがあった。
(私だったら……森では、生きられないわ)
馬車も、暖炉も、侍女もいない場所。
寒さや獣と向き合い、自分の腕で糧を得る日々。
それでも、リオナは笑っていた。
誰かの隣に立つことを、当たり前のように受け入れていた。
(……セイジさんが、あの方を選ぶ理由)
ふと、その言葉が浮かぶ。
恋だとか、身分だとか、まだよく分からない。
けれど、メリンダは確かに思った。
(あんなふうに、人のそばで自然に笑えるようになりたい)
窓辺に差し込む夕方の光が、カーテンを揺らす。
メリンダは胸に残る小さな憧れを、そっと大切にしまい込んだ。
それはまだ名もなく、形もない。
けれど確かに、彼女の中で芽吹き始めていた
◆
王城・財務局執務棟。
審査会が終わった直後だというのに、空気はむしろ張り詰めていた。
分厚い扉が閉まる音が、静まり返った部屋に低く響く。
財務局長レオンハルト・ヴァルクス侯爵は、机の上に広げられた書類から視線を上げた。
その正面に立っているのは、第三騎士団長オズワルド侯爵。背筋を伸ばし、微動だにしない。
「……どういうつもりだ、レオ。
なぜあの場で裁可を下さなかった」
先に口を開いたのは、オズワルドだった。
声は低く、怒鳴り声ではない。だが、底に沈んだ苛立ちは隠しきれていない。
「ルンドヴァル伯が、すでにホヅミ商会と接触し、装備の発注を始めていると審査会で言っていたではないか」
レオンハルトは眉を寄せる。
「小規模な先行発注だ。そう聞いた」
「“小規模”で済む話ではない」
オズワルドは一歩踏み出した。
「北部は王国の壁だ。環境も違えば、装備の消耗も激しい。だが同時に、あそこは――」
「裕福だ」
レオンハルトが言葉を継ぐ。
「水と氷の魔石。独自の流通。軍需に回せる余力もある」
「そうだ」
オズワルドの目が鋭くなる。
「つまり、装備を“継続して”確保できる。中央に先じてな」
沈黙が落ちる。
レオンハルトは指で机を軽く叩き、思案するように視線を伏せた。
「……それが問題だと言いたいのか?」
「問題だ」
即答だった。
「第三騎士団は、すでに実戦であの装備を使っている。成果も出た。
だが、このままでは――」
言葉が一瞬、途切れた。
「――北に取られる」
その一言に、空気が重く沈んだ。
「装備、だけの話ではない」
オズワルドは続ける。
「グリフィン討伐で、我が団に重傷者が出た件は知っているな?」
「報告は受けている」
「……助かったと」
レオンハルトの視線が、わずかに揺れた。
「教会の治癒が間に合って良かった」
「そうではない。あの日、装備の納品に来ていた。手土産にと回復薬を持参してだ」
オズワルドは一歩も引かない。
「現場で命が助かるかどうかを分けた薬だ。
あれを持っていたのが――」
そこで、はっきりと名を口にした。
「セイジだ」
レオンハルトは、はっと息を止めた。
「……待て」
椅子から身を起こす。
「回復薬の件は、正式な報告には上がっていない」
「上げていない」
オズワルドは低く言った。
「現場判断だ。戦闘直後で、命が優先だった」
「それは理解する」
レオンハルトは額に手を当てる。
「だが、装備に加えて回復薬――
しかもそれを民間商会が扱っているとなれば、話は別だ」
「怪しい、と?」
オズワルドの声に、わずかな棘が混じる。
「警戒はする」
レオンハルトは正面から言い切った。
「軍需、医薬、北部との接触。
一つひとつなら問題ない。だが重なりすぎている」
オズワルドは、しばし黙った。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……疑うなとは言わん」
低い声だった。
「だがな、レオ。
現場で血を流した兵の前で、そんな悠長な警戒はできん」
拳が、わずかに震えている。
「第三騎士団は、命を預かっている。
助けられる命があると知っていて、それを手放すわけにはいかん」
レオンハルトは、その震えを見逃さなかった。
「つまり、あの男を北に行かせたくないと?」
「“取られる”のが問題だ」
オズワルドは言い切る。
「彼がどこで商いをしようと構わん。
だが、我々の現場で必要なものが、他所に優先される状況は許容できない」
重い沈黙。
やがてレオンハルトは、深く息を吐いた。
「……だからこそ、統制が必要だ」
書類に視線を落とす。
「装備も、薬も、個人の善意や判断に任せる段階は過ぎている」
オズワルドは、ゆっくりと頷いた。
「だから詰めに来た」
二人の視線が、真正面からぶつかる。
「セイジを、単なる商人として扱うな」
「同時に、無条件に信用するわけにもいかん」
しばしの沈黙の後、レオンハルトが口を開いた。
「……わかった」
「北部への供給、中央軍の配備、回復薬の扱い。
すべて一度、整理する」
オズワルドは、わずかに肩の力を抜いた。
「それでいい」
そして、低く付け加える。
「命が、数字に負けることだけは――避けてくれ」
レオンハルトは答えなかった。
ただ、書類に目を落としたまま、深く考え込んでいた。
その沈黙が、王国の次の一手を静かに孕んでいることを、二人とも理解していた。
◆
野バラ亭の扉を押すと、外の喧騒がふっと遠のいた。
木の床に落ち着いた灯り。香草と煮込みの匂いが混じる、三度目ともなると少しだけ馴染みを覚える空間だ。
「あ、おかえり。無事だった?」
食堂の奥、壁際の卓で、クライヴが手を上げた。
向かいにはセイジが腰掛け、帳簿のようなものに目を落としている。
「ただいま……ええ、大丈夫でした」
リオナは軽く頷き、二人の方へ歩み寄る。
椅子を引く音に、セイジが顔を上げた。
「お疲れさま。長くなった?」
「……少し」
リオナは曖昧に笑い、腰を下ろす。
その様子に、クライヴがわずかに眉を動かした。
「“少し”にしては、顔が赤いですね。公爵夫人とのお話、よほど実りがあったと見えますね」
「えっ」
リオナは思わず頬に手を当てる。
「そ、そんなこと……」
セイジは気にする様子もなく、
「問題なさそうなら良かった。話は……商会のこと?」
その問いに、リオナは一瞬言葉を探す。
けれど、嘘をつくのも違う気がして、小さく首を振った。
「……いえ。どちらかというと、私のこと、でした」
クライヴがにやりと笑う。
「ほう? それは珍しい」
「貴婦人方だけのお話で……色々、聞かれて」
リオナは視線を落とし、指先を組む。
「その……セイジとのこと、とか」
その瞬間、セイジの手がぴたりと止まった。
「俺?」
短く返した声に、本人は気づいていないが、わずかな動揺が滲む。
クライヴは面白そうに肩をすくめた。
「なるほど。社交界名物だな、それは」
「名物とか言わないでください……」
リオナは困ったように笑い、
「ただ、悪い意味じゃなくて……皆さん、すごく優しくて」
セイジは帳簿を閉じ、リオナを見る。
「……何か、変なこと言われた?」
「いえ。むしろ」
リオナは少し考えてから、正直に言った。
「“急がなくていい”って。“色々な人と話して、自分の気持ちを感じてみるといい”って」
クライヴが「おお」と小さく声を上げる。
「随分まともじゃないですか。さすが公爵夫人ですね」
「それから……」
リオナは言葉を選びながら続ける。
「伯爵夫人が、メリンダさんのお茶会に、私も誘ったらどうかって……」
「へえ」
クライヴは、どこか懐かしむように笑った。
「……あの伯爵夫人らしいですね。半分、身内扱いになってますよ」
「そ、そんなことないです!」
リオナは慌てて否定する。
「ただ、ホヅミ商会とつながりがあるからって……それだけです」
そのやり取りを聞きながら、セイジは黙っていた。
――王都の貴婦人。
――お茶会。
――自分の名前が、そういう場で話題に出る。
現実感が薄いはずなのに、不思議と胸の奥がざわつく。
「……大変だったな」
ようやく、そう言った。
リオナは首を振る。
「いえ。怖くはなかったです」
そして、少し照れたように付け加える。
「むしろ……私のことを、ちゃんと見てくれている感じがして」
その言葉に、セイジは小さく息を吐いた。
「……そうか」
クライヴは二人を見比べて、わざとらしく咳払いをする。
「まあ、今日はこの辺にしておきましょう。お腹も減りましたしね」
立ち上がりながら、にやりと笑う。
「料理、運ばせてきます。二人とも、先に頼んでおいてくださいよ」
そう言って、さっさと席を外した。
残されたのは、セイジとリオナだけ。
少し気まずい沈黙の中、セイジがぽつりと口を開く。
「……無理はするなよ」
「うん」
リオナは頷く。
「セイジも……変な噂、立てられたらごめんね」
「気にしなくていいよ」
セイジは苦笑した。
「どうせ、俺は何も分かってない側だ」
その言葉に、リオナは小さく笑った。
――でも。
――それでも。
同じ宿に戻り、同じ卓を囲むこの時間が、
王都のどんな華やかな部屋よりも、リオナには落ち着くのだった。




