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  王城の一室。日差しが柔らかく差し込む中、ロマーヌ公爵夫人の私室にリオナは控えめに足を踏み入れた。長い絨毯の上を歩くたび、柔らかな光に包まれる室内には、貴族の香水と花の匂いが漂っている。


「いらっしゃい、リオナ」

公爵夫人は優雅に微笑み、手元の香炉に煙を立たせながら声をかけた。


「ご招待いただき、ありがとうございます」

 リオナは少し緊張した面持ちでお辞儀をする。


「さあ、座って。紅茶はローズの香りでよろしいかしら?それともベリーに?」


「ローズでお願いします」

 椅子を勧められ、リオナは小さくうなずき席に着く。


 公爵夫人の隣には、バルドリック伯爵夫人とその娘のメリンダが座っていた。

伯爵夫人は伯母である公爵夫人に、娘の社交界デビューについて相談を終えたばかりで、その表情はどこか晴れやかだった。


「リオナ、あなたを紹介しておきましょう」


 公爵夫人が軽く手を振る。

 リオナは一瞬戸惑いながらも、にこやかに一礼した。


「最近、話題のホヅミ商会の子ですのよ。私のお気に入りなの」

 公爵夫人が楽しげに付け加えると、メリンダが興味深そうに身を乗り出す。


「こちらは私の姪のニコレット。北部地域を治めるバルドリック伯爵夫人よ」

 そう言ってから、そっと視線を娘へ移す。

「そして、ニコレットの娘のメリンダ」


「ホヅミ商会の方は、先日領地までいらしてくださったのよ」

 伯爵夫人が頷きながら言った。

「クライヴ……という方だったかしら。美容品や化粧品を持ってきてくださって」


「あら、あの方でしたら、私のところにもいらしたわね」

 公爵夫人が微笑む。

「リオナからも化粧品を頂きましたでしょう?嬉しかったですよ」


「喜んでいただけてよかったです」

 リオナがぱっと表情を明るくする。


「私もよ」

 メリンダが少し身を乗り出した。

「お母様に買ってもらえて、ファンデーションとチーク、それに色付きのリップ」

 指折り数えながら、メリンダが弾んだ声で続けた。

「どれもとっても良くて……鏡を見るのが、前よりずっと好きになったの」


 その言葉に、伯爵夫人と公爵夫人が顔を見合わせ、静かに笑みを交わした。

 室内の空気が、少しだけ和らぐ。


「ねえ……あなたとセイジさんの関係はどうなのかしら?」

 ロマーヌ公爵夫人が、軽く眉を上げて尋ねる。その声は柔らかいが、確かな関心が含まれていた。


 リオナは少し赤くなり、顔を手で覆いかける。

「え、えっと……その……どうとは、どういうことでしょうか」

 聞かれると青司の顔が思い浮かび、身体が熱くなり、どう答えてよいか迷う。


 メリンダが肩を揺らし、興味津々に小さな声で囁く。

「ねえ、教えてよ、リオナさん。セイジさんってリオナさんの恋人なの?」


 伯爵夫人も微笑んで頷く。

「ふふ、ここは女だけですから殿方に話しが漏れることはありませんわ。ただ、好きな方がいらっしゃるの?」


 リオナは少し息を整え、勇気を出して答える。

「えっと……セイジとは、……一緒に街や森で活動したり……その、仕事仲間というか……」


「あら、それだけ?」

 公爵夫人が柔らかく笑う。その笑みにリオナの肩の力が少し抜ける。


「まあ、かわいらしいではありませんか」

 伯爵夫人が娘に向かって言う。

「メリンダ、こういう子がそばにいるのもいいでしょう?」


 メリンダも笑みを浮かべる。

「うん、うちだとみんな年上の方ばかりだもの」


「でも、仕事以外ではどうなの?」

 ロマーヌ夫人がじっとリオナの目を見つめる。


 リオナは一瞬照れ笑いを浮かべ、肩をすくめた。

「一緒にいるとホッとできる人なんですけど、恋人とかそういうのじゃなくて、まだ、そういうことは……ちょっとわからないです」


「いいなぁ……リオナさん、恋してるんですね」

 メリンダにそう言われたリオナの顔はますます染まってしまう。


「恋してる」という言葉が胸の奥で小さく跳ねた。

 それを否定する理由も、肯定する言葉も、まだ見つからない。


「ふふ、今はそれでいいのよ、ね」

 公爵夫人は満足そうに微笑む。その横で伯爵夫人も、娘の未来を思い浮かべるように穏やかに微笑んだ。


 ――そのときだった。


 伯爵夫人が、ふと思いついたように娘を見た。


「ねえ、メリンダ。今度のお友達とのお茶会に、リオナさんもお誘いしたらどうかしら」


 メリンダは一瞬きょとんとしてから、ぱっと表情を明るくする。

「いいの? リオナさん、来てくれる?」


「え、私が……?」

 リオナは思わず目を瞬かせた。


 伯爵夫人は穏やかに微笑む。

「ホヅミ商会とつながりのある方でしたら、皆さんきっと嬉しいでしょうし……それに、気取らず話せる方が一人いるのは、初めてのお茶会には心強いものですから」


その言葉に、公爵夫人もくすりと笑う。

「ふふ、確かに。リオナは場の空気を和ませるのが上手ですものね。あなたには安心して私に相談してほしいけれど、年の近い娘との交流も良いものよ。色々な人の話しを聞くことで、セイジさんとのこれからのことも、よく感じてみるといいわ。自然に見えてくるものがあるかもしれないわね。」


「はい」

 リオナは小さく頷く。


 窓から差し込む午後の光が、四人の表情をやわらかく照らしていた。

 公爵夫人と伯爵夫人、メリンダの間で、自然と恋愛や婚約話の話題に花が咲き、リオナは純粋にそれを楽しむ。初めて触れる貴族社会の空気に、戸惑いながらも好奇心を膨らませていた




 ロマーヌ公爵夫人の私室を辞し、長い回廊を歩き出すと、窓からの光が石床に淡く伸びていた。

 人払いされた静かな通路で、メリンダは母の隣を少しだけ後ろに下がって歩く。


 しばらくして、伯爵夫人がふと足を緩めた。


「……どうだった? リオナさんは」


 問いかけは柔らかく、探るような響きではない。

 メリンダは一瞬考えてから、正直な言葉を選んだ。


「不思議な方でしたわ」

 そう前置きして、少しだけ微笑む。

「猫人族で、森で狩りをして生きてきた方だと聞いて……もっと強い方なのかと思っていました。でも」


「でも?」


「とても自然で……一緒にいると、こちらまで肩の力が抜けるような」

 自分でも意外に思いながら、言葉を続ける。

「気取らないのに、失礼にはならなくて。ああいう方もいらっしゃるのですね」


 伯爵夫人は満足そうに頷いた。


「そう感じたのなら、それが答えよ」

 軽く扇子を閉じながら、穏やかに言う。

「社交界には、言葉や作法ばかりを身につけて、中身を忘れてしまう方も多いもの。リオナさんは……生き方そのものが、整っているのでしょう」


「……はい」

 メリンダは小さく返事をした。


「お茶会にお誘いしたのも、間違いではなかったわね」

 母は歩き出しながら、さりげなく続ける。

「あなたにとっても、良い出会いになると思うわ」


 メリンダはそれ以上は答えず、ただ頷いた。


 やがて母と別れ、自室へ戻る途中。

 一人になった瞬間、胸の奥に残っていた感覚が、ゆっくりと形を持ち始める。


 ――森で暮らしてきた少女。

 ――商会の人と肩を並べて歩く少女。


 同じ十六歳なのに、まるで違う世界を生きてきたはずなのに、

 あの笑顔には、どこか懐かしさがあった。


(私だったら……森では、生きられないわ)


 馬車も、暖炉も、侍女もいない場所。

 寒さや獣と向き合い、自分の腕で糧を得る日々。


 それでも、リオナは笑っていた。

 誰かの隣に立つことを、当たり前のように受け入れていた。


(……セイジさんが、あの方を選ぶ理由)


 ふと、その言葉が浮かぶ。


 恋だとか、身分だとか、まだよく分からない。

 けれど、メリンダは確かに思った。


(あんなふうに、人のそばで自然に笑えるようになりたい)


 窓辺に差し込む夕方の光が、カーテンを揺らす。

 メリンダは胸に残る小さな憧れを、そっと大切にしまい込んだ。


 それはまだ名もなく、形もない。

 けれど確かに、彼女の中で芽吹き始めていた





 王城・財務局執務棟。

 審査会が終わった直後だというのに、空気はむしろ張り詰めていた。


 分厚い扉が閉まる音が、静まり返った部屋に低く響く。


 財務局長レオンハルト・ヴァルクス侯爵は、机の上に広げられた書類から視線を上げた。

 その正面に立っているのは、第三騎士団長オズワルド侯爵。背筋を伸ばし、微動だにしない。


「……どういうつもりだ、レオ。

 なぜあの場で裁可を下さなかった」


 先に口を開いたのは、オズワルドだった。

 声は低く、怒鳴り声ではない。だが、底に沈んだ苛立ちは隠しきれていない。


「ルンドヴァル伯が、すでにホヅミ商会と接触し、装備の発注を始めていると審査会で言っていたではないか」


 レオンハルトは眉を寄せる。

「小規模な先行発注だ。そう聞いた」


「“小規模”で済む話ではない」

 オズワルドは一歩踏み出した。

「北部は王国の壁だ。環境も違えば、装備の消耗も激しい。だが同時に、あそこは――」


「裕福だ」

 レオンハルトが言葉を継ぐ。

「水と氷の魔石。独自の流通。軍需に回せる余力もある」


「そうだ」

 オズワルドの目が鋭くなる。

「つまり、装備を“継続して”確保できる。中央に先じてな」


 沈黙が落ちる。


 レオンハルトは指で机を軽く叩き、思案するように視線を伏せた。

「……それが問題だと言いたいのか?」


「問題だ」

 即答だった。

「第三騎士団は、すでに実戦であの装備を使っている。成果も出た。

 だが、このままでは――」


 言葉が一瞬、途切れた。


「――北に取られる」


 その一言に、空気が重く沈んだ。


「装備、だけの話ではない」

 オズワルドは続ける。

「グリフィン討伐で、我が団に重傷者が出た件は知っているな?」


「報告は受けている」

「……助かったと」


 レオンハルトの視線が、わずかに揺れた。

「教会の治癒が間に合って良かった」


「そうではない。あの日、装備の納品に来ていた。手土産にと回復薬を持参してだ」

 オズワルドは一歩も引かない。

「現場で命が助かるかどうかを分けた薬だ。

 あれを持っていたのが――」


 そこで、はっきりと名を口にした。


「セイジだ」


 レオンハルトは、はっと息を止めた。


「……待て」

 椅子から身を起こす。

「回復薬の件は、正式な報告には上がっていない」


「上げていない」

 オズワルドは低く言った。

「現場判断だ。戦闘直後で、命が優先だった」


「それは理解する」

 レオンハルトは額に手を当てる。

「だが、装備に加えて回復薬――

 しかもそれを民間商会が扱っているとなれば、話は別だ」


「怪しい、と?」

 オズワルドの声に、わずかな棘が混じる。


「警戒はする」

 レオンハルトは正面から言い切った。

「軍需、医薬、北部との接触。

 一つひとつなら問題ない。だが重なりすぎている」


 オズワルドは、しばし黙った。


 やがて、ゆっくりと口を開く。


「……疑うなとは言わん」

 低い声だった。

「だがな、レオ。

 現場で血を流した兵の前で、そんな悠長な警戒はできん」


 拳が、わずかに震えている。


「第三騎士団は、命を預かっている。

 助けられる命があると知っていて、それを手放すわけにはいかん」


 レオンハルトは、その震えを見逃さなかった。


「つまり、あの男を北に行かせたくないと?」


「“取られる”のが問題だ」

 オズワルドは言い切る。

「彼がどこで商いをしようと構わん。

 だが、我々の現場で必要なものが、他所に優先される状況は許容できない」


 重い沈黙。


 やがてレオンハルトは、深く息を吐いた。

「……だからこそ、統制が必要だ」


 書類に視線を落とす。

「装備も、薬も、個人の善意や判断に任せる段階は過ぎている」


 オズワルドは、ゆっくりと頷いた。

「だから詰めに来た」


 二人の視線が、真正面からぶつかる。


「セイジを、単なる商人として扱うな」

「同時に、無条件に信用するわけにもいかん」


 しばしの沈黙の後、レオンハルトが口を開いた。


「……わかった」

「北部への供給、中央軍の配備、回復薬の扱い。

 すべて一度、整理する」


 オズワルドは、わずかに肩の力を抜いた。


「それでいい」

 そして、低く付け加える。

「命が、数字に負けることだけは――避けてくれ」


 レオンハルトは答えなかった。

 ただ、書類に目を落としたまま、深く考え込んでいた。


 その沈黙が、王国の次の一手を静かに孕んでいることを、二人とも理解していた。




 野バラ亭の扉を押すと、外の喧騒がふっと遠のいた。

 木の床に落ち着いた灯り。香草と煮込みの匂いが混じる、三度目ともなると少しだけ馴染みを覚える空間だ。


「あ、おかえり。無事だった?」


 食堂の奥、壁際の卓で、クライヴが手を上げた。

 向かいにはセイジが腰掛け、帳簿のようなものに目を落としている。


「ただいま……ええ、大丈夫でした」

 リオナは軽く頷き、二人の方へ歩み寄る。


 椅子を引く音に、セイジが顔を上げた。

「お疲れさま。長くなった?」


「……少し」

 リオナは曖昧に笑い、腰を下ろす。


 その様子に、クライヴがわずかに眉を動かした。

「“少し”にしては、顔が赤いですね。公爵夫人とのお話、よほど実りがあったと見えますね」


「えっ」

 リオナは思わず頬に手を当てる。

「そ、そんなこと……」


 セイジは気にする様子もなく、

「問題なさそうなら良かった。話は……商会のこと?」


 その問いに、リオナは一瞬言葉を探す。

 けれど、嘘をつくのも違う気がして、小さく首を振った。


「……いえ。どちらかというと、私のこと、でした」


 クライヴがにやりと笑う。

「ほう? それは珍しい」


「貴婦人方だけのお話で……色々、聞かれて」

 リオナは視線を落とし、指先を組む。

「その……セイジとのこと、とか」


 その瞬間、セイジの手がぴたりと止まった。


「俺?」


 短く返した声に、本人は気づいていないが、わずかな動揺が滲む。

 クライヴは面白そうに肩をすくめた。


「なるほど。社交界名物だな、それは」


「名物とか言わないでください……」

 リオナは困ったように笑い、

「ただ、悪い意味じゃなくて……皆さん、すごく優しくて」


 セイジは帳簿を閉じ、リオナを見る。

「……何か、変なこと言われた?」


「いえ。むしろ」

 リオナは少し考えてから、正直に言った。

「“急がなくていい”って。“色々な人と話して、自分の気持ちを感じてみるといい”って」


 クライヴが「おお」と小さく声を上げる。

「随分まともじゃないですか。さすが公爵夫人ですね」


「それから……」

 リオナは言葉を選びながら続ける。

「伯爵夫人が、メリンダさんのお茶会に、私も誘ったらどうかって……」


「へえ」

 クライヴは、どこか懐かしむように笑った。

「……あの伯爵夫人らしいですね。半分、身内扱いになってますよ」


「そ、そんなことないです!」

 リオナは慌てて否定する。

「ただ、ホヅミ商会とつながりがあるからって……それだけです」


 そのやり取りを聞きながら、セイジは黙っていた。


 ――王都の貴婦人。

 ――お茶会。

 ――自分の名前が、そういう場で話題に出る。


 現実感が薄いはずなのに、不思議と胸の奥がざわつく。


「……大変だったな」

 ようやく、そう言った。


 リオナは首を振る。

「いえ。怖くはなかったです」

 そして、少し照れたように付け加える。

「むしろ……私のことを、ちゃんと見てくれている感じがして」


 その言葉に、セイジは小さく息を吐いた。

「……そうか」


 クライヴは二人を見比べて、わざとらしく咳払いをする。

「まあ、今日はこの辺にしておきましょう。お腹も減りましたしね」

 立ち上がりながら、にやりと笑う。

「料理、運ばせてきます。二人とも、先に頼んでおいてくださいよ」


 そう言って、さっさと席を外した。


 残されたのは、セイジとリオナだけ。


 少し気まずい沈黙の中、セイジがぽつりと口を開く。

「……無理はするなよ」


「うん」

 リオナは頷く。

「セイジも……変な噂、立てられたらごめんね」


「気にしなくていいよ」

 セイジは苦笑した。

「どうせ、俺は何も分かってない側だ」


 その言葉に、リオナは小さく笑った。


 ――でも。

 ――それでも。


 同じ宿に戻り、同じ卓を囲むこの時間が、

 王都のどんな華やかな部屋よりも、リオナには落ち着くのだった。


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