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102

 その朝、ホヅミ商会の裏庭は、まだ静かだった。


 冬に近づいた空気は澄み、陽は低い。

 木箱の間を縫うように、白い息がゆっくりと漂っている。


 その静けさを破ったのは、二つの羽音だった。


「……あ」


 最初に気づいたのはエリンだった。

 帳簿を抱え、裏口に出たところで、ほぼ同時に降り立った二羽の伝書鷹を見つけたのだ。


 一羽は北方帰りの濃い羽色。

 もう一羽は王都方面でよく見かける、軽やかな体つき。


「二羽……?」


 不思議そうに呟いた瞬間、ミレーネが奥から顔を出した。


「来たのね」


 その声は、落ち着いていたが、どこか張り詰めてもいた。


 クレスもすぐに合流し、手際よく鷹から筒を外す。

 封蝋の色を見ただけで、彼は内容を察した。


「……北と、中央だ」


 短くそう言って、二通を机に並べる。


 エリンは喉を鳴らし、小さく息を吸った。



 最初に開かれたのは、王都方面からの報告だった。


 筆跡は青司のものだ。


 簡潔で、要点だけを押さえた文書。

 第三騎士団への装備納入が完了したこと。

 吸湿速乾肌着は冬季訓練で問題なく機能し、

 薬―― 負傷者の処置において、確かな効果が確認されたこと。

 今後、財務局との協議が予定されており、その事前打ち合わせのため帰還すること。


 行間に、余計な感情はない。

 だが、その冷静さが、かえって確かな成果を物語っていた。


「……良かった」


 エリンの声は、ほとんど息だった。


 胸の奥に溜まっていたものが、すっと下りる感覚。

 誰も怪我をしていない、という事実以上に、

 役に立ったという報告が、彼女を安堵させた。


 次に、クレスがもう一通を開く。


 こちらはクライヴからのものだ。


「北部伯爵領、冬営部隊にて装備試験導入決定。

 伯爵の判断による。

 条件は即応。

 ――北が、動いた。」


 クレスは、読み終えた後もしばらく紙から目を離さなかった。


 それから静かに言う。


「……二つとも、通ったな」


「ええ」


 ミレーネが頷く。


「でも、“終わった”じゃないわね」


 その言葉に、エリンも気づいていた。


 報告は成功を告げている。

 けれど、誰一人として、ここに戻ってきてはいない。


 安堵と同時に、次の緊張が始まっている。



 それでも、街は動き始めていた。


 数日後、エリンの手から、結婚式の招待状が配られ始めた。


 紙は上質だが、華美ではない。

 それでも名前を見た瞬間、人々の顔は自然と綻ぶ。


「おめでとうございます」

「ついに、ですか」


 花屋は、紅白と淡い色の花を増やし始めた。

 菓子屋は、祝い用の焼き菓子を試作し、

 織物店は、式用の布を少し多めに棚に並べる。


 誰かが大声で祝ったわけではない。

 だが、確実に――空気が温まっていく。


 ホヅミ商会の周囲だけ、ほんの少し、春が近づいたようだった。


 エリンはその様子を見ながら、胸に手を当てる。


(みんな……待ってる)


 帰ってきてから、改めて祝いたい。

 そう思う気持ちが、日に日に強くなっていった。



 夜。


 商会の執務机に、二通の報告書が整然と並べられていた。


 クレスはそれらを一つにまとめ、封をし直す。


「……よし」


 立ち上がり、外套を羽織った。


「どこへ?」


 ミレーネの問いに、クレスは短く答える。


「領主様へ報告です」

 一拍置いて、付け加えた。

「これからもっと忙しくなりますよ。工房との調整も」


 ミレーネは小さく肩をすくめる。

「ええ。もう毎月、増産の話が更新されてるわ。

どの工房にも声をかけないと回らないもの」


「店舗も工房も、しばらくはフル回転ですね」


 クレスの言葉に、ミレーネは苦笑した。


 フィオレル子爵。


 この成果は、ホヅミ商会だけのものではない。


 内政と交易の積み重ねが、

 北と中央を繋いだ結果なのだ。


 そして今、その成果を――

 正式な“領の実績”として報告する段階に入った。


 扉を開ける前、クレスは一度だけ振り返った。


 机の上には、二通の報告。

 そして、まだ空白の椅子。


「……帰ってくるさ」


 誰に言うでもなく呟いて、彼は夜の街へ踏み出した。


 灯りは点り、街は静かに息づいている。


 成果は出た。

 だが、物語はまだ終わらない。


 帰還を待つ時間が、

 新たな緊張と、確かな希望を抱えて――流れていく。



*******



 その夜、二人が泊まったのは、前回世話になった野バラ亭だった。


 王都の外れ、街道沿いに建つ小さな宿。

 石造りの外壁に、蔦が絡み、入口の灯りは控えめだが温かい。


「……おつかれさま。ようやく戻れたわね」


 リオナがそう言って、玄関を見上げた。


「ほんと、時間はそんなにだったはずだけど、中身が濃すぎだよ。まさかの展開で驚いた」


 青司の言葉に、二人は自然と小さく笑った。


 王都に着いた時は、ただ納品のために来ただけのはずだった。

 軍も、命も、財務局も――

 こんな話になるとは、想像もしていなかった。


 部屋は二階。

 木の床がきしみ、廊下には乾いたハーブの香りが漂っている。

 案内された部屋は、以前と同じ造りだった。


 小さなテーブル。

 二脚の椅子。

 壁際に簡素な棚と、窓際に置かれたランプ。


「……前きた時と同じね」


「変わってない方が、助かる」


 青司は外套を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。

 その動作が、どこか少しだけ重い。


 リオナもマントを外し、向かいに座る。


 しばらく、言葉はなかった。

 張り詰めていたものが、ようやくほどけ始める感覚だけが、静かに残っている。


「……終わったね」


 リオナが、ぽつりと言った。


「一段落、かな。終わったというより……始まった、かもしれない」


 青司は苦笑する。


「正直、ここまで大事になるとは思ってなかった」


「……私もだけど、セイジが何かするといつも大事になってない?」


 リオナはカップにお湯を注ぎ、ハーブティーを淹れながら言った。


「それでも、ちゃんと向き合ってるわよね」


「……うん、自分で蒔いてる種だからな。リオナには迷惑かけてるな」

 短く答えてから、青司は少しだけ視線を落とした。


 リオナの手が、一瞬だけ止まる。


 それから、何事もなかったようにカップを差し出した。


「……そんなことない。驚くことばっかりだけど……楽しいわよ」


 指先が、ほんの少しだけ触れた。

 すぐに離れる。

 けれど、その一瞬が、胸の奥に小さな熱を残す。


 二人は湯気の立つカップを手に、ゆっくりと口をつけた。


「……美味しい」


「リオナが一緒に来てくれて助かったよ」


「……そう?」

 小さく笑って、リオナはカップを胸元に引き寄せた。


「うん」

 その笑顔を見て、青司は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。


 しばらくして、青司が机の上に羊皮紙を広げた。


「クレスさんに、報告書を書こう」


「そうね。心配しているかもしれないものね」


 二人並んで、肩が触れそうな距離で、同じ机に向かう。


 青司が筆を取る。


 第三騎士団への納品が完了したこと。

 装備や薬が現場で役立っていること。

 財務局との正式協議に進むこと。

 帰還後、改めて打ち合わせをする必要があること。


 簡潔に、正確に。

 いつもの青司の文体だ。


 書き終えたあと、リオナが少しだけ覗き込む。


「……少し、硬すぎない?」


「そうかな」


「クレスさんなら、これだけだと心配するかもしれないわよ」


 青司は一瞬考え、筆を取り直した。


 最後に、一文だけ添える。


『こちらは無事だ。思っていた以上に話は大きくなったが、悪い方向ではない』


 それを見て、リオナは小さく頷いた。


「それで、伝わるかな」


 封をし、伝書鷹用の筒に収める。


 次は、リオナが短い書き添えを書く番だった。


『心配はいりません。

 少し忙しくなりそうですが、二人とも元気です』


 その文を見て、青司は思わず微笑んだ。


「……“二人とも”って、いいな」


 リオナは一瞬、きょとんとしたあと、慌てて目を伏せた。


「……あ、深い意味は」


「分かってる」


 分かっている。

 けれど、分かっていても嬉しい。


 伝書鷹を放ったあと、宿の食堂で簡単な夕食をとった。

 温かいスープと、素朴なパン。

 豪華ではないが、今の二人には十分だった。


「……あの応接室、息が詰まりそうだった」


「俺も」


「侯爵様、少し怖いというか厳しいわね」


「優しかった方だと思うよ。基準が軍人だけど……たぶん、リオナがいたから」


 二人で、思わず笑う。


 それだけで、胸の奥の緊張がほどけていく。


 食後、部屋に戻り、ランプを灯す。


 外では風が鳴り、野バラ亭の看板が小さく揺れていた。


「……今日は、よく頑張ったね」


 リオナが言った。


「うん」


 青司は少し間を置いて、続ける。


「リオナも」


「……私、何かできてた?」


「いた」


 即答だった。


 リオナは驚いて顔を上げる。


「……それだけで、助かった」


 一瞬、言葉が途切れる。


 でも、それ以上は踏み込まない。

 今はまだ、ここでいい。


 ランプの灯りの中、二人は静かにお茶を飲み続けた。


 張り詰めていた一日が、ゆっくりと夜に溶けていく。


 野バラ亭の小さな部屋で、

 二人はようやく――人としての時間を取り戻していた。



**************



 狩猟演習が完全に終わり、隊が伯爵邸へと引き上げたあと。

中庭の一角、簡素な控え所にクライヴは呼ばれた。


 華美な応接室ではない。

 長机と椅子が置かれただけの、軍務用の部屋だ。

 外套を脱いだ兵たちが行き交い、鉄と油の匂いがまだ残っている。


 伯爵バルドリックは、椅子に腰を下ろすでもなく、窓辺に立っていた。

 視線は外――雪原と森、その先にある山並みへ向けられている。


「クライヴ殿」

 低く、簡潔な声だった。


「はい」


「今日の演習で、ひとつ確かめたことがある」


 伯爵は振り返らない。


「兵の練度は、訓練で積める。

 だが、冬の北では――装備の差が、そのまま生死の差になる」


 その言葉に、余計な感情は混じっていなかった。

 評価でも、交渉でもない。事実の確認だ。


「フィオレル子爵家の護衛騎士たち。

 あの軽装で、誰一人動きを落とさなかった」


 クライヴは一歩、前に出た。


「汗を溜めない構造でございます。

 寒冷地では、濡れた瞬間が最も危険になりますので」


「聞いた」

 伯爵は短く言った。


「ラグナという騎士からな。

 止まった時に震えない、と」


 その一言で、すべてが伝わった。

 伯爵は“理解した”のだ。


「― 「――試す」


 初めて、伯爵はクライヴの方を見た。


「北部伯爵領の冬営部隊から、一個中隊分。

 肌着と、それに準ずる軽装備一式を回せ」


 クライヴの喉が、わずかに鳴る。


「数量は後で詰める。だが条件はひとつ」


 伯爵は一歩、近づいた。


「この冬だ。次の冬ではない」


 それは、相談ではなかった。


「優先権は伯爵領が持つ。

 正式な軍制装備とするかは――結果を見て決める」


 沈黙。


 クライヴは一度、息を整えてから口を開いた。


「おそれながら申し上げます。

 この数日のうちに、王都では第三騎士団への装備納品が完了する頃かと存じます。

 現在、第三騎士団より、今後の第一・第二騎士団、

 ならびに中央軍との窓口を担うよう話を受けております」


 一拍置き、続けた。


「その関係で、すでに追加の注文が入っている可能性もございます。

 その場合、誠に失礼ながら――

 優先的な供給は、お約束できないかと」


 伯爵は即座に言い切った。


「価格は相応に払う」


 間を置かず、低く続ける。


「だが、これは兵の命に直結する装備だ」


 視線が、外れない。


「出来うる限り、早期の納品を目指す――

 それ以上のことは、お約束できません」


「遊びは許さん」


 短く、重い言葉だった。


 クライヴは、深く頭を下げた。


「必ず、ご期待に沿う結果をお見せいたします」


 伯爵は、一度だけ頷いた。


「それでいい」


 交渉は、それで終わりだった。


ーーーー


 同じ時刻。

 伯爵邸の南棟、陽当たりの良いサロンでは、まったく別の空気が流れていた。


 白磁のカップに、淡い色の茶。

 焼き菓子の甘い香り。


 集っているのは、北部地域の領主夫人たちだった。


「まあ……」


 最初に声を上げたのは、保湿軟膏を使った年嵩の子爵夫人だった。


「軟膏が、すっと肌に染み込むのね。

 指先が……まったく荒れませんわ」


「本当ですのね。

 この時期、何を塗っても追いつかないのに」


 伯爵夫人は、穏やかに微笑んでいた。


「南から来た商会の品ですの。

 この北の冬で乾燥する髪でも、潤いを保つコンディショナーですのよ。

 香りを抑えていて、潤いと艶だけが残りますのよ。

 ……皆さまのお好みにも、合うと思いますわ」


「戦支度の合間に、こんなものが出てくるなんて」


 誰かがくすりと笑う。


「でも――ありがたいわ。

 凍傷まではいかなくても、肌が割れるのはつらいもの」


「ええ。髪の手入れもできるのは嬉しいわね」


「夫だけじゃなくて、家に戻った時の手が違うのよね」


「子どもたちにも使えるそうよ」


「……兵舎でも、ああいう肌着があるといいのだけれど」


 話題は自然と広がっていく。


 肌着の話。

 冷えにくい下着。

 洗っても硬くならない布。


「兵の話ばかりしていましたけれど」


 伯爵夫人が、カップを置いて言った。


「冬を越すのは、兵だけではありませんもの」


 その言葉に、何人かが静かに頷いた。


「……確かに」


「生活が保つなら、領地も保つ」


 結論は出ていない。

 だが、空気はすでに決まっていた。



 夜。


 暖炉の火が、静かに揺れている。


 伯爵は椅子に腰を下ろし、外套を外していた。

 夫人は向かいに座り、編みかけの布を膝に置いている。


「今日の演習はどうでしたの?」


「問題ない」


 短い返事。


 だが、続いた言葉は違った。


「――良い装備だった」


 夫人の手が、止まる。


「兵が、動けていた。

 無理をしていない」


「それは……珍しい評価ですわね」


「珍しいから言っている」


 伯爵は火を見る。


「どうだった、君の方は」


「ええ。好評でしたわ」


 間はなかった。


「贅沢品ではなく、必要なものとして受け取られています」


 しばらく、沈黙。


 やがて伯爵は言った。


「……これは買いだ。だが王都でも買い手が多いようだ。

 この北の地にどれだけ融通されるかは、何とも言えない」


「そうですわね。王都との繋がりも、今後は無視できませんもの。

 カリーナも十五歳――そろそろお相手を考える頃ですし、

 一度王都へ出向いてみてもよろしいのでは」


「カリーナにはまだ早くないか?」


「あの子の事になると北壁も揺らぎますわね」


 夫人の言葉に夫は苦笑いするしかなかった。


 だが、それで十分だった。



翌朝。


クライヴは、短い報告書を羊皮紙に認めていた。


余計な言葉はない。

感情も、評価も、詳細も削ぎ落とす。


ただ、事実だけ。


「北部伯爵領、冬営部隊にて装備試験導入決定。

伯爵の判断による。

条件は即応。

――北が、動いた。」


巻き、封をし、伝書鷹の脚に括りつける。


翼が羽ばたき、灰色の空へ消えていった。


クライヴは一度、深く息を吐く。


(……通った)


雪の向こう。

まだ冷たい風は続く。


だが、その中で――

確かに、商会の進む道は、凍らずに残っていた

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