101
朝、教会の鐘が鳴る音を聞くたび、エリンは胸の奥がきゅっと縮むのを感じていた。
式の日取りが決まったからだ。
司祭は正式な位階の者が派遣されることになり、しかも領主家の名が動いた影響で、当初の予定より「格のある式」になりつつあった。
「……そんなに立派にしなくても……」
思わず零れた声に、向かいに座るロウルが苦笑する。
「大丈夫だ。俺たちが偉くなるわけじゃない」
「でも……費用も、段取りも……」
不安を言葉にするエリンの肩を、ロウルはそっと叩いた。
「式は一日だ。だが、これから先は一生だろ?」
その一言に、胸のざわめきが少しだけ静まる。
もっとも、両家の親たちはそう簡単には収まらなかった。
⸻
「披露宴の料理と酒は、うちが受け持とう」
そう言ったのは、ワイン商人であるエリンの父だった。
軽い調子だったが、商人としての顔がはっきりと浮かんでいる。
「お父さん、それは……」
「祝いの席だ。ケチるところじゃない」
その横で、ロウルの父――現役衛兵隊員が腕を組む。
「うちは金を出すくらいしか出来ん。だからこそ、うちで出させて欲しい」
一瞬、空気が張り詰めた。
エリンは慌てて口を開く。
「待ってください! そんな、揉めるようなことでは……」
「揉めているわけじゃない」
「責任の話だ」
二人とも真剣で、悪意はない。
それが分かるからこそ、エリンの胃はきりきりと痛んだ。
最終的には、花婿と両家の母が間に入って落ち着いたが、
“結婚式は家と家の行事”なのだと、改めて思い知らされる。
⸻
並行して、招待客リストの作成が始まった。
ロウルの側は明快だ。
リルト衛兵隊長、隊の同僚たち、清掃局長。
一方で、エリンの紙はなかなか埋まらない。
「……ギルド長は、呼ばないわけには……」
元の職場である商業ギルド。
ギルド長ラシェル子爵と、副ギルド長ガラント夫妻。
顔なじみの職員たち。
そして、ホヅミ商会の面々。
さらに、商会の取引先の工房主や、宿や美容室の店主たち。
リルトの服飾ギルド、宿組合、理容組合の長。
——そして。
噂を聞きつけた王都服飾ギルド長ダラス子爵から、
参列したいという書状まで届いてしまった。
名前を書き込むたび、胸が少し重くなる。
祝われているはずなのに、逃げ場がなくなっていくような気がした。
「……こんなに? 街の顔役ばかりじゃないか。王都の貴族まで……」
ロウルが、思わず目を丸くする。
「私が呼びたいというより……呼ばないと失礼になる方が増えていて……」
それはつまり、商会の信用が上がった証でもあった。
⸻
実際、店は毎日が目まぐるしかった。
冬支度の客で通路が埋まり、
肌着、美容品、化粧品、日焼け止めが次々と売れていく。
ミレーネとクレスと机を囲み、帳簿と納品書を処理する手が止まらない。
「……エリンさん、これ」
「ありがとう、次は――」
青司とクライヴが不在の穴を何とかするため、ガラントの図らいで元ギルドの仲間が手伝いに来てくれることも増えていた。
「忙しそうだね」
「でも、いい顔してる」
そう言われるたび、嬉しさと不安が同時に膨らむ。
街では噂も広がっていた。
――ホヅミ商会は領主と繋がったらしい。
――式に衛兵隊長も出るそうだ。
――もう“ただの商会”じゃない。
それを聞くたび、エリンは背筋を正した。
⸻
午後になると、仕立屋ネヴィルへ向かう。
「特急仕立てですよ、毎日補正がありますから仕事が終わってからで構わないので来てくださいね」
「はい……」
仮縫いのたびに布は体に合っていくのに、
その眩さに、エリンの心はまだ追いつかなかった。
「緊張してますね」
「……はい」
「大丈夫、このドレスに見合う女性何ですから、楽しんでください」
ネヴィルの言葉に戸惑いながらも笑みを返していた。
帰り道、ロウルと合流する。
「この肌着、隊でも評判なんだぞ」
「本当?」
「動きやすいし、汗が冷えない。日焼け止めもな、肌が楽だって」
照れたように笑う彼の顔を見ていると、じっと彼も見返してくる。
エリンの髪は艶があり、肌は荒れていない。
毎日使っている商会の商品のおかげだ。
「……エリン」
「なに?」
「エリンは、いい匂いだな」
それだけで、不思議と肩の力が抜けた。
悩みは多い。
心配も尽きない。
けれど、
街の中で、家族の中で、大切な人の隣で、誰かの役に立ちながら生きている。
それが、今の自分なのだと、エリンは静かに息を整えた。
彼と一緒なら、この先も、きっとなんとかなる。
**************
救護室を離れ、再び応接室へ戻ると、空気は先ほどまでとは明らかに違っていた。
血と悲鳴の気配は消え、代わりに重く、張り詰めた静けさが漂っている。
ここはもはや商談の場ではない。
結果を受け、次を決める場所だ。
オズワルド侯爵は席に着くなり、青司とリオナに正面から向き直った。
「まずは、正式に礼を言おう」
そう前置きしてから、わずかに目を細める。
「礼では足りんが……ひとまず感謝を伝えたい」
一拍置き、言葉を選ぶように続けた。
「今回納品された五百組。すべて注文通りの品であったと報告を受けている。
これから本格的に実戦投入する段階だ」
机の上に、納品一覧と着用報告書が並べられる。
「以前、試作として受領していた分は、今回の冬季討伐で前線部隊に回した。
結果は――見ての通りだ」
隣に立つレオンが、静かに一歩前へ出る。
「救護記録を確認しました。
肌着を着用していた兵は、行軍後の低体温症状が軽く、汗冷えも少ない。
装備擦れによる皮膚の裂傷も、明確に減っています」
淡々と、だが誤魔化しのない報告だった。
「自前で購入して使用していた者も含め、現場での評価は高い。
正直に言います」
レオンは一瞬だけ視線を上げ、はっきりと言い切った。
「――あれがなければ、今回の討伐で死傷者は確実に増えていました」
短い沈黙が落ちる。
青司は静かに頭を下げた。
「……現場で役に立っているのであれば、何よりです」
オズワルド侯爵はその様子を見つめ、すぐに話を切り替えた。
「では、装備の話を続けよう」
報告書を指で押さえながら言う。
「今回の五百組は、第一陣に過ぎん。
第一、第二騎士団、さらには中央軍からも要望が上がるだろう」
その一言で、場の空気がさらに引き締まった。
「だが、数量が違う。
継続供給、予算、保管、輸送――これは武具と同じ扱いになる。
財務局を交えた正式な折衝が必要だ」
レオンが頷く。
「途中で止まる供給は困ります。
期待させてから引き上げられる装備ほど、現場を混乱させるものはありません」
青司は一瞬だけ視線を落とし、すぐに顔を上げた。
「……片手間でやるつもりはありません」
短い言葉だったが、迷いはなかった。
「すでに増産体制の準備は進めております。
標準規格は、S・M・L・LL・XLの五段階です」
「規格については、よく考えられている」
侯爵は頷きながら続ける。
「だが、体格差を完全に吸収することはできん。
補正対応はどうする?」
青司は一通の書状を差し出した。
「標準規格で対応できない場合、
王都服飾ギルドが窓口となり、補正対応を行う体制を整えております」
封蝋を見た瞬間、オズワルド侯爵は目を細めた。
「……ダラス子爵か」
「はい。服飾ギルド長からの正式書面です」
読み終えた侯爵は、ゆっくりと息を吐いた。
「大量供給はホヅミ商会、個別補正は王都。
役割分担が明確だ」
レオンが小さく肩をすくめる。
「現場としては助かります」
侯爵は書状を机に置き、青司を見据えた。
「よかろう。
この件は、正式契約の拡大を前提に進める」
それは打診ではなかった。
決定事項としての宣言だった。
「――そして、もう一つ」
オズワルド侯爵は声を落とす。
「先ほどの、傷回復薬の件だ」
応接室の空気が、ぴんと張る。
「あれがなければ、今回の討伐で何人かは確実に死んでいた。
癒し手が間に合うまでの“時間”を稼いだ」
レオンも頷く。
「救護担当からも、強く評価されています。
癒しの代替ではないが、命を繋ぐ“橋”として、極めて有効だと」
侯爵は青司をまっすぐに見た。
「その功に対して、礼をしたい」
一拍置いて、続ける。
「今回討伐したグリフィン。
数体分を、ホヅミ商会に引き渡そう」
青司は一瞬、言葉を失った。
「毛皮、羽毛、脚鱗、爪、骨。
軍で必要な分を差し引いた残りだが、素材としての価値は高い」
「……よろしいのですか?」
「当然だ。
命を救われた礼として、これ以上に相応しいものはない」
ただし、と侯爵は付け加える。
「これは感謝だ。
取引条件とは別だ。混同はせん」
青司は深く頭を下げた。
「過分なお心遣い、感謝いたします」
オズワルド侯爵は立ち上がり、締めくくるように告げた。
「次は、財務局を交えた正式協議だ。
肌着も、薬も――ここからが本番になる。
セイジ殿、商会として財務局との協議に向けた準備を進めてほしい」
応接室に残った重みは、成功の余韻ではなかった。
それは、命を預かる取引が、正式に動き出した証だった。
◆
翌朝。
夜明け前の空気は、前日よりもさらに冷え込んでいた。
白い息が、吐いた瞬間に形を持つ。まるで言葉そのものが凍るかのようだった。
伯爵邸の中庭には、すでに人と馬が集まっている。
狩猟会と称してはいるが、その実態は冬季における即応演習だ。
この北部地域を束ねる伯爵が、地方領主達との連携を確かめるための場でもある
狩猟犬の鳴き声、金具の擦れる音、弓弦を確かめる乾いた響きが、静かな緊張を作り出していた。
クライヴは厚手の外套を着込み、観覧用の一団に加わっていた。
その背後には、フィオレル子爵家の護衛騎士たちが控えている。
例の、北の寒さをぼやいていた騎士――名をラグナといった――も、その中にいた。
だが今の彼は、昨日までの軽口は影を潜め、完全に戦場の顔をしている。
「……空気が澄んでいる。視界は良好だな」
誰にともなく呟き、ラグナは弓を担ぎ直した。
弦は霜を避けるため、胸元で温められている。
伯爵バルドリックが馬上から全体を見渡した。
「本日は西の山裾までを猟場とする。
魔物の気配があれば、そのまま討伐演習に移行。
雪上での隊列維持、負傷者搬送、撤退判断まで含める」
声は低いが、よく通る。
その一言一言に、数十年分の経験が滲んでいた。
「余所者もいるが、構わん。
この地で生きるなら、誰であれ“同じ冬”を越える」
そう言って、ちらりとクライヴの方を見る。
拒絶ではない。試す視線だ。
「……始めよ」
号令と同時に、隊が動いた。
⸻
狩猟は、想像以上に過酷だった。
雪は浅いが、地面は凍り、足を取られる。
樹間を抜ける風は容赦なく体温を奪い、汗をかいた瞬間が最も危険だった。
クライヴは丘の上から、その様子を見ていた。
双眼鏡越しに見える兵たちは、一定の間隔を保ち、互いの動きを確認しながら進んでいく。
(……統率が取れている。さすが北部軍)
だが、その中に――明らかに動きの質が違う一団があった。
フィオレル子爵家の護衛騎士たちだ。
人数は少ない。
装備も、北部の重装騎士ほど分厚くはない。
だが、無駄がない。
外套の下には、ホヅミ商会製の肌着と軽装備。
汗を含んでも重さに変わらず、動きを妨げない仕様だ。
雪面を踏む足取りが軽く、呼吸の乱れが少ない。
特にラグナは、弓を構えたまま走り、止まり、射る。
その一連の動作に、凍えによる硬さも、汗冷えによる鈍りも見られなかった。
薄手でありながら、体温が落ちていない。
それは訓練だけでは補えない差だった。
「……あの軽装であれば、震えて動きが鈍るのではないか?」
声が上がった。
伯爵であったのか、周囲に控えていた騎士の誰かであったのか、判別はつかない。
だが、その疑問はこの場にいる全員が抱いたものだった。
事実、北部の騎士であれば、あの装備では数刻も保たない。
指先が悴み、呼吸が荒れ、動作が一つずつ遅れていく。
しかし、フィオレル子爵家の護衛騎士たちは違った。
肩を竦める者も、無意識に腕を擦る者もいない。
ラグナは射ち終えた弓を下ろし、短く息を整えただけで、次の合図を待っている。
白い吐息は出ているが、それは寒さによるものではなく、純粋な運動の結果だった。
伯爵は黙ってその様子を見ていた。
視線は騎士たちの動きから、装備へ、そして再び動作へと往復している。
(……訓練か。装備か。――いや、その両方だな)
内心の呟きは口には出さなかったが、
その目はすでに、「内政と交易の子爵」という言葉では測れなくなっていた。
――ギャアァァッ!
突如、狩猟犬が吠えた。
次の瞬間、雪を蹴散らして飛び出したのは、角を持つ大型の雪鹿だった。
通常の獣ではない。魔力を帯びた個体だ。
「散開!」
北部騎士の声が飛ぶ。
だが、鹿は速い。
一直線に森を抜け、隊の側面を突こうとする。
その進路に、ラグナが入った。
「――来るぞ!」
叫びと同時に、弓が鳴った。
矢は風を裂き、鹿の肩口に深く刺さる。
だが止まらない。突進。
次の瞬間、ラグナの背後から、もう一本の矢が放たれた。
別の護衛騎士だ。連携射撃。
鹿は体勢を崩し、雪に転がった。
そこへ北部騎士が一斉に押さえ込む。
「……見事だ」
誰かが呟いた。
クライヴの背後で、低い声がした。
「フィオレル子爵の騎士か」
振り向くと、伯爵バルドリックが立っていた。
双眼鏡を下ろし、じっと戦場を見ている。
「内政と交易の家と聞いていたが……」
目を細める。
「――鍛えているな」
その一言は、賞賛だった。
⸻
狩猟が終盤に差し掛かった頃、事態はさらに動いた。
山裾から、異様な羽音が響いたのだ。
「……グリフィンだ!」
見張りの叫び。
成獣ではないが、十分に危険な個体。
冬の狩りに出たのだろう。
「演習続行! 討伐対象に変更!」
伯爵の命令が飛ぶ。
隊が即座に再編される。
空を警戒し、盾を構え、弓兵が前に出る。
グリフィンが急降下した。
その瞬間――
「今だ!」
ラグナが叫び、地面を蹴った。
雪上とは思えぬ踏み込み。
狙いは翼の付け根。
矢が命中し、グリフィンが大きく体勢を崩す。
そこへ北部騎士の槍が突き刺さった。
数分後。
雪の上に、グリフィンは倒れていた。
静寂。
そして、歓声は上がらない。
それがこの土地の流儀だった。
「……よくやった」
伯爵はそう言って、ラグナに近づいた。
「名は?」
「フィオレル子爵家護衛騎士、ラグナと申します」
「子爵の名に恥じぬ腕だ。
この寒さで、これだけ動ける騎士はそう多くない」
ラグナは膝をつき、深く頭を下げた。
「光栄にございます。主人に与えられた装備のお陰でございます」
「……装備、だと?」
伯爵は一歩、ラグナに近づいた。
鎧の継ぎ目、外套の内側、首元へと視線が走る。
「どんな装備だ。見たところ、厚手ではない」
「はい」
ラグナは顔を上げ、簡潔に答えた。
「汗をかいても、すぐに吸い上げてくれます。
濡れたまま肌に残らず、動いている間に乾きますので――身体が冷えません」
「……汗冷えを防ぐ、ということか」
「はい。走った後でも、止まった時に震えません」
伯爵は、何も言わずにラグナを見つめた。
その沈黙は、疑念ではなく、理解に近いものだった。
伯爵は頷き、視線をクライヴへ向ける。
「クライヴ殿」
「はっ」
「良い後ろ盾を持っているな。
商人とは、品だけでなく“人”も売るものだ」
それは、明確な評価だった。
クライヴは胸の内で、静かに息を整えた。
(……通ったな)
この瞬間、
ホヅミ商会は「珍しい品を持つ商人」から、
信用できる相手へと格が上がったのだ。
冬の陽は低く、雪面に長い影を落としていた。
だが、その影の中で、確かに道は一本、太く伸びていた。
北壁伯爵領との、本当の取引が――ここから始まる。




